神様が転んだ日 | ナノ




夢を見ていた。
でもそれはどっぷりと浸かって浮かんでこられないような重苦しいものではなくて、例えて言うならそう、瞼の裏で見るような、浅い浅い夢だった。
あざやかな光がひらめいた気がする。日向で目を閉じた時のようにぼんやりとしか分からなかったけれど、それは確かに俺を幸福にした。すると喉の奧がふつふつと熱くなって、その熱はそこからじわじわと広まっていき、俺は小指の先まで幸福に満たされた。少し苦しいくらいの幸福だった。俺はその感覚を一生忘れまいと思った。驚くほど冷静な思考で、たとえこれが夢だとしても、決して忘れたくないと思った。


「それで?」
三郎のうすい唇が、小さく動いた。さも続きがあるかのように促されて、俺は目線をそっと手元のマグカップに落とす。人魚が描かれているずんぐりとした白いマグカップ。中身はいつものとおり、ホワイトチョコレートモカ。甘過ぎるそれは最初の一口でいつも俺をうんざりさせるけれど、何故だか毎回反射的に頼んでしまう。多分注文する時のあの居心地悪さが原因だ。ゆっくりメニューを見ていられない店は、焦ってしまってなんだか損をした気分になる。
「終わり」
「終わり?」
「そう」
ふうん。
三郎は興味をなくした風につぶやくと、シナモンクッキーをくしゃりと噛んだ。
灰色の雲の合間から所々薄日がさす、水曜日の午後三時。
俺たちが座っているのは二階の窓際に面したカウンター席で、駅から出てくる人達の様子がよく見える。
あと一時間もすれば、このあたりは近くにある高校の生徒で埋めつくされるんだろう。下手をすると、後輩に会うかもしれない。三郎といる時に、何となくそれは避けたかった。
「寝不足なわけ」
三郎の長くて細い人差し指が、俺の目じりをそろりと撫でた。俺は三郎の骨張った手の甲も、さらさらと乾いた手の平も好きだったけど、一番気に入っているのはその指だった。縦長のうつくしい爪と、強く握ったら折れてしまいそうなくらい細い指。ただ、左手の中指にはめた指輪がなかったらもっといいのに、と常日頃思っている。
三郎の色素のうすい目が、俺をうつしてゆらりと光った。
「いや、これは違う」
「でも腫れてる」
「起きたら泣いてた。一時間ぐらい止まらなくて」
「…ふうん」
頬杖をついて少し考えるような仕草をした後、三郎はなぜだか短くため息をついた。それは俺に呆れたというよりも、彼自身が何かを切り替えようとしたもののように見えた。
緩くパーマのかかった明るい茶髪と、袖の長い深緑のカーディガンと、ブルガリの甘いにおい。時々、三郎は女みたいだと思うことがある。それはべつに外見的なことに限った話ではない。 必要以上に化粧品に詳しかったり、よく分からない多くのこだわりを持っていたり、ものを食べるのが異様に遅かったりと、とにかく男の俺の感覚からしたら理解出来ない要素を彼は多く持っていた。まあ、理解出来ないと言うのなら、鉢屋三郎という人間自体が俺にとってはまずもってそうなのだけれど。
三郎とは高校からの付き合いで、俺は彼の数少ない友人の一人だった。友人と言っても三年間同じクラスになったことは一度もなく、しかしどうして言葉を交わすようになったのかも、もうはっきりとは覚えていない。
それでも俺は三郎の友人だったし、もっと言えば俺は三年間ずっと三郎のことが好きだった。更に言うなら三郎は俺の気持ちに気付いていて、そして三年間見事に気付かないふりを通した。
俺は、頑なに友人としてのスタンスを崩さない彼を強引に責め立てるような気概を持ち合わせてはいなかったし、三郎もそうなるのを望んではいなかった。結果、俺と三郎は別々の大学に入学した今でも「気のおけない友人」という関係を続けている。どうしても三郎との繋がりを手放したくなかった俺には、これで妥協するより他になかったから。
それでも、大学に入った今も三郎の「来る者拒んで去るものシカト」の姿勢は変わらないらしく、そのせいか彼が友人と呼べるような人間は、現状俺を含め三人ほどしかいない。必然、三郎の中の俺の優先順位は高いままなわけで、実際のところ、俺はそれで結構満足していた。
今日だって三限が休講になって暇を持て余していた俺が断られるの前提で唐突に呼び出しても、三郎は今こうして俺の隣でカフェラテをすすっている。恋人なんて響きじゃなくても、俺にとって三郎は特別だし、三郎にとってもそれは同じだろう。その事実が揺らがない限り、俺は幸せでいられる。
カップの三分の一くらいまで残っていたカフェラテを一気に口に含み、グラスにつがれたミネラルウォーターで流し込むと、三郎はスツールからすとんと立ち上がった。
「兵助、この後まだ時間あるか?」
「今日はバイト無いから、ぶっちゃけ明日の朝まで暇」
「じゃあちょっと付き合えよ」
「何か買い物でもあるのか?」
「ああ、本屋に行きたいんだ」
三郎はマフラーをぐるぐると手早く首に巻きつけてジャケットを羽織ると、俺を置いてさっさと一階へ続く階段を下りて行った。


※※※※※※


小説なんてものは滅多に読まない三郎のことだから、本屋と言ってもどうせ雑誌を少し冷やかす程度だと思ったのに、通りに面した大型の本屋に入るなり彼はひょいとエスカレーターに乗り込んだ。(雑誌がまとめて置いてあるのは一階だ。)
黙って後ろをついて行くと、三郎は四階でエスカレーターを降りた。
「何が欲しいんだよ」
ずんずんと足を進める三郎の横に小走りになって並びながら思わず尋ねる。大学の専攻分野の資料が揃っている六階なら何度か世話になったこともあるが、四階なんて一体どんな種類の本があるのかさえ俺は知らない。けれど三郎はどこ吹く風で俺の問いかけをすっぱり無視し、フロアの更に奥へと歩いていく。背の高い本棚と本棚の間を迷うことなくするする通り抜けていく様からすると、彼は何度もこのフロアに来たことがあるようだった。
どこまでも進んで行きそうだった三郎は、しかし俺の予想を裏切り突然一つの本棚の前で立ち止まった。三郎のすぐ後ろにくっついて歩いていた俺は、スピードを落とし切れずにその肩にぶつかって軽く後ずさる。
「悪い」
反射的に俺は謝ったが、三郎はそんなことは気にも留めずに目の前の本棚のラックへと手を伸ばした。ラックの中央には、「写真・絵画」というプレートがかかげられている。
三郎がラックから抜き出したのは大判のうすい本だった。つるつるとした真っ白な表紙には、アルファベットらしき文字で、タイトルのようなものが端の方に小さく書かれているのがちらりと見えた。しかしそれ以外の装飾は全く無く、装丁からはどんな内容のものなのか見当もつかない。
三郎はしばらくの間白い表紙をじっと眺めていたが、ふっと短く息を吸うと、おもむろにページを開いた。
そのうすくて大きな本は、写真集だった。
ページいっぱいに印刷された色とりどりの写真が、否応なく俺の視界へ飛び込んでくる。
「うわ…」
俺は無意識の内に声を上げていた。それを咎めるかのように、三郎が一瞬ちらりとこちらに視線を寄越す。しかしそれでも俺が三郎の手元の写真から目を離さないままでいると、彼は何故だかまた小さくため息を吐いた。
三郎の長い指が、一枚一枚の写真を俺に見せつけるみたいに、ゆっくりとページをめくっていく。被写体は花や木といった植物と、蝶などの虫、そして猫や犬や鳥といった動物がほとんどだった。他にはたまに真っ青な空の写真があるくらいで、人間は一枚も写っていなかった。
それらは不思議なあたたかみに満ちた写真たちだった。被写体となっているものは誰もが知っていて見たことも触れたこともあって全然珍しくも何ともないのに、どうしてか心が強く惹きつけられる。初めて目にしたような新鮮さの中に、何とも表現しにくい懐かしさがない交ぜになって、胸がやわやわと切なくなるような、この感じは一体なんだろう。縁側で丸くなって日向ぼっこする猫や、風に揺れる綿毛のたんぽぽなんて、ありふれた日常の一部でしかない筈なのに。そこに広がっているのは、まるで別世界だった。
最後のページまでくると、三郎はする、とカバーの折り込みに添えられた作者紹介の文字を人差し指の腹でなぞった。
「こいつには、世界がこんな風に見えてるんだ」
呟かれた三郎の声で、俺はようやく現実に立ち戻った気がした。
「この写真集の作者、知り合いなのか」
こいつ、という随分気安い呼び方をとらえて言うと、三郎はいいや、と小さく首を横に振った。
「微妙だな。知らないって言ったら嘘になるけど、知ってると言っても語弊がある」
俺がどういう意味だ、と尋ねる前に三郎はくるりと踵を返すと、写真集を持ったまま来た時と同じようにすたすたと歩いて行ってしまった。わけが分からず、でも三郎の言葉が気になって、俺はラックからもう一冊同じものを取り出し作者紹介を読んでみた。
「随分古風な名前だな…」

竹谷八左ヱ門。

古風な字面に反して、彼は俺や三郎と同い年だった。

神様が転んだ日

100225

……………………

続きます。



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