Traum
「おや…どうしたんです姫、ご機嫌麗しくなさそうですが。」
ランフォードは微かに石鹸の香りをさせながら近づいてきた。訓練が終わりシャワーでも浴びてきたのか、心なしかほかほかしている。
「…そういうあなたはご機嫌麗しそうね。」
シャルロッテはとろんとした目でランフォードを見上げた。
彼女のお気に入りの椅子は背もたれがおおきく、クッション部分はこれでもかというほどの弾力性。一見すると椅子に包まれている、埋まっているという表現の方が適切かもしれない。
「今日正式に団長補佐に就任されました。まあ…放浪癖のある俺を任命したところで補佐不在は確定なんですが。」
そう言ってランフォードはにやりと笑う。
「無茶苦茶じゃないの…聞いてるわ。あなた結構強いんでしょう。敵さんが攻めてきたときあなたがいなかったら結構大変なんじゃない?」
シャルロッテは苦笑して座り直した。
ふわりと甘い香りが広がる。
「敵さんって……まあ、ラ・ファイエット閣下が俺を任命したってことは大丈夫なんじゃないですか。それか、」
そしてランフォードは苦々しげにそっぽを向いた。
「あなたなんかいなくとも自分だけで大丈夫と思っているか、ね。」
対するシャルロッテは楽しそうにくすくすと笑った。
「…まあそんなことはどうでもいいんです。姫、今日は俺が当ててみせましょう。貴女の元気がない理由。」
そう言って、ランフォードは優しく笑った。
「姫は…神を信じますか。」
「来たわね神様の問題。そうね……ランフォードは、わたしが神様を信じているように思う?」
「貴女は信じているふりをしている。だから俺の質問にもイエスと答えるはずだが…実際は信じる信じないの問題ではないと思っている。違いますか。」
ランフォードの灰色の瞳が、視線が、シャルロッテの蒼い瞳とぶつかった。
「そうね。不合格、かしら。」
「…理由を聞いても?」
「わたしは神様という存在を否定はしない。けれど、すがる気もない。」
「一緒じゃないですか。つまり貴女は信じているという事実を他者に知らしめたいだけなんだ。」
「いいえ。信じることとすがることは違うわ。」
「…詭弁でしょう。」
「そうかもしれない。そうね、じゃあランフォード。あなたは妖精を信じる?」
「…信じているとお思いですか。」
ランフォードは心外だと顔をしかめる。
「でしょうね。それじゃあ、例えばわたしが疫病に侵されたとしましょう。そのためにはどんな病も治すと言われる妖精に祈らなければならない。そうしないとわたしは助からない。どうする?」
シャルロッテは実に意地の悪い娘だと、ランフォードは感心した。
彼女は選ばせているわけではない。はじめから選択肢などない。ここで妖精に祈ることをしなければ姫は死ぬ。これはすなわち彼女と交わした指輪の約束、忠誠を誓ったという事実の崩壊を示す。ランフォードがそう答えれば、彼女は彼の補佐就任という事実を取り消すというかもしれない。もちろん憶測だ。けれど一応目的をもって現在の立場に落ち着いているランフォードからすれば危険なことはしないというのが得策。ならばもう一つの方かと言えば、そうでもない。彼が妖精に祈ると言ってしまえば最後。全てはシャルロッテの思惑通りとなってしまう。
どうする。
ランフォードは、ゆっくりと息を吐いた。
「姫、貴女は賢い方だ。けれどこれで鬼の首をとった気になられても困りますよ。」
「…あら、どういう意味よ。」
「俺は貴女の看病で忙しい。だからレティシアにその妖精の事実を伝えましょう。あとはただ、貴女の回復のために看病を続けるだけだ。」
そう言って、ランフォードはじっとシャルロッテを見つめる。
シャルロッテは一瞬きょとんとしたが、すぐに大声で笑いだした。
「なるほどあなたも賢くなったのね!確かに妖精うんぬんの話をしただけでは信じていることにはならないわ。そしてそういう存在を信じているであろうレティシアにその事実を伝えることで、レティシアが祈ってくれさえすればわたしは助かる。あなたは妖精の存在などあろうがなかろうが関係ない。よく逃げ切ったわね。」
シャルロッテはにっこりと笑う。ランフォードも笑い返した。
が。
「ざぁんねん!あなたの負けよ!」
シャルロッテの顔は歪み、彼女はけらけらと笑いだす。
「っどうしてですか!俺は今回はちゃんと逃げ切りましたよ!」
ランフォードは慌てる。
「そうね、確かにあなたは上手に逃げようとした。でも所詮あなたの中の世界でしか解決していない。わたしの世界では違うわ。」
「…どういう意味です。」
「あなたの仮定が間違ってるのよ。」
シャルロッテは、静かにその瞳でランフォードを射る。
「今後のために、いいこと教えてあげるわ。」
ランフォードは、そしてようやくすべての意味を理解する。
「わたしに仕える者達の中に、非現実的であるとわたしが判断した存在を信じる者はいない。例えわたしが死の淵にあろうとも、信じることをわたしは決して許さない。」
凛とした彼女の声は透き通っていた。硝子のように無機質で、どこかはかなく美しい。ランフォードは、彼女の瞳からすべてを読みとっていた。
「…なるほど俺の負けです。そして貴女は今日、その事実を思い出したんですね?」
静かに語る彼は、優しくシャルロッテを見つめる。
「…なん…で、そう思うのよ。」
「あなたはその存在を非現実的だと判断した。だからあなたの世界で、“彼”を信じる者は誰もいない。貴女はその事実に気づき、絶望していたんですね。」
ランフォードの目の前にいる少女は、弱々しく笑った。
「自業自得。だからこそ迷う。」
曇った表情は、硬い。
「いいじゃないですか。」
ランフォードの低音は、シャルロッテの心を溶かす。
「貴女だけが信じていれば。“あなたに仕える者”の中に“あなた”は含まれない。」
ランフォードは優しくシャルロッテの頭を撫でる。
彼女の瞳には、数日前の兄の姿が、うつっていた。
end