その日、やっと秋風が吹くようになった週の土曜日。午前の講義を終えた綺礼は、大学を出て図書館に来ていた。来月末までに書き上げなくてはならないレポートに関する資料が、大学内の図書室に見当たらず、市立の図書館へ足を運んだのだ。
 いつぶりだろうか、本のみに囲まれた建物へ入るのは、と綺礼は幼き日父親がよく連れて行ってくれた思い出を呼び起こす。行きたいとねだったわけではないが、嫌だったこともない。新しい知識が増えていくのは良いことだと、父親は言って毎月そこへ通っていたものだ。小学校低学年の頃には、高学年の子が読むような分厚く小さな文字の本も手にとっていた。

 敷地内には噴水があり、芝生が綺麗な平面となっている中にベンチが置いてある。建物自体はそう新しくはないだろう、と外見を見ながら綺礼は石畳の上、足を進める。玄関に立ちガラスの押戸を押しやると、涼しい風が足元を過ぎ通っていく。とはいえ季節は秋、少し肌寒い気もした。かつんかつん、と足音が館内に響き渡れば、人気がないというのにいっそう静けさが増した。
 まさか誰もいないということはないだろう。図書館ではお静かに、と掲示板に貼られた手書きのポスターを通り過ぎて綺礼は首を傾げる。
 建物は二階建てになっており、一階は子供向けの絵本や小説、二階には専門書等が置かれているようだ。勿論一階に用はない。木製の手すり、コンクリートで出来た階段を上がっていけば、一番に雑誌コーナーが目に入る。その後ろを通って奥へと進んだ。
 コラム本が並ぶコーナーを過ぎると、エッセイや流行に乗った本の数々が目に入り、目的である本の姿は見当たらない。かつん、と再び奥へ進んだその先だった。
 ガラス張りの大きな窓から差す光を背に、椅子に座り、まるで置物のようにじっと俯いている人間がいた。何もしていないわけではなく、木製のこげ茶色をしたテーブルの上には大きな書物が置かれていた。
 右手の甲に頬をついて、背を少しも丸めずに視線を落とす姿勢は一つの銅像のようにも見える。顎鬚をはやしていたものの中年と呼ぶには早い、すっと通った鼻先や余計な皺のない整った顔。
「すみません」
 司書でないのは確かだ、首からその証拠を下げていない。だが他に人の気配もなく、何故かこの相手に聞いたほうが早いと直感が動いた。
 男は本から顔を上げると、声をかけられた理由を待つようにじっと綺礼を見つめる。青い、異国の色をした瞳だった。
「この本を探しているのですが、どの棚にあるか教えていただけないでしょうか」
 教授に聞いて専門書の名を綴ったメモ用紙を差し出すと、本の間に栞替わりの紐をはさみ、男はふんふんと頷きながらそれを受け取って本を閉じる。そうして何故かポケットから小さなメモ帳と鉛筆を取り出して、かりかりと書き始めた。場所を表す地図でも書いているのかと思いきや、その紙をすっと綺礼へ差し出し、紙にはこう書かれていた。
『珍しい文書だから奥のほうかもしれない ついておいで』
 そうして椅子を立ち上がり、閉じた本を小脇に抱えて歩く後ろ姿に綺礼はついていく。何故このメモを渡したのか、図書館では静かに、というあの表記を守っているつもりだろうか。手のひらにある紙をくしゃりとズボンのポケットへしまいこむ。
 広く、随分と奥へ入り込んだ場所にまで本棚が続いていた。それでも埃は被っておらず、丁寧に扱われていることがよくわかる。ぽつりぽつりと人影はあったが、綺礼が子供の頃に見た図書館ほど少ないよう見えるのは、時間帯のせいか、日曜ではないからなのか。

 とんとん、と肩を叩かれ振り返れば、メモにあった中の数冊がずいと差し出された。このあたりだと言ってくれれば自分で探したのだが、と思いつつも綺礼は軽く頭を下げその本を受け取った。自分とは対象的なすらりと伸びた指先が、視界に入る。
「有難うございます」
 彼は礼へ返す言葉を何も言わなかった。
 窓ガラスから入る光を背に、ほんの僅かに目を細める、柔らかな笑み。その動作だけで返事をしているように見えた。それが「言えなかった」のだと知るのは、それから綺礼が図書館に通い続けてから一週間後のこと。





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