18-3

会社に忘れ物をしてしまった私は、買い物がてら休日のオフィスに出てきていた。
自宅も会社からほど近いので、ほんのついでに。

デスクに置きっぱなしになっていたICカードを鞄に入れて、ふとフロアを見回す。
休日とはいえ、なんかオフィスの空気が淀んでいるなぁ…。
寒くなるのは分かっていたが、オフィスの窓を少しだけ開けて風を通して換気する。

実は、しばらく前からわが社では風邪が猛威を振るっており、バタバタとドミノ倒しのように社員に感染していっていたのだ。

しばらく換気したあと、う、さむい、と呟いてすぐに窓を閉めた。
ナントカは風邪引かない。なんて言うが、私もそうなのか、ここ数年熱が出ることなんて経験したことはない。
だが、今年のこの流行っぷりを見ていると、何か自分もそうなるような不思議な予感がして、少しだけ警戒しているのだ。

だって、あの尾形さんでさえ、ついにダウンだもんな…と腕を組む。
尾形さんは、同じフロアの別の部の先輩。
あれだけみんなに、お前ら俺に近づくなよ、風邪うつるから、なんてシッシッと人を追い払っておいて、2日後にはあっさり感染。
あれだけ気を付けていて一体誰からうつされたのか、本当に疑問なのだ…。



さて、帰るか、と鞄を肩にかけると、ピーン、とフロアに止まるエレベーターの音。
誰か休日出勤かしら?なんて思っていると、降りてきたのは大きな荷物を下げた月島さんだった。

「……お」
「…あ、月島さん…出張帰りですか」
 
で、でーたー…鬼軍曹…。と、心の中でふざけて呟く。

月島さんは、同じ部署の別の係の係長。
鬼軍曹なんて恐れられているが、決して激昂するタイプではない。むしろ寡黙なんだけど、仕事にストイックで、屈強というかタフで隙がないような気がして、それについて行かされる部下は敬愛を込めて勝手に鬼軍曹なんて呼んでいるのだ。
私とは何だかんだで仕事で関わることも多く、まあ良好な先輩後輩というか、憧れの先輩というか……好きな先輩……というか。

「…ああ。荷物置きにちょっと寄ろうとな。なんだ、お前…そんな恰好で休日出勤か?」と私を下から上まで見て怪訝な顔の月島さん。
そうか、今日はいつもと違ってカジュアルなワンピースだから…。

「…いえ、少し忘れ物しちゃって。ついでに換気を」と、窓を指差す。
「…換気?」と怪訝な顔の月島さん。
あ、そうか。月島さんしばらく出張していたから知らないんだ。
無言でフロアの壁に貼ってある社員の所在表のホワイトボードを示してあげると、そこには赤字で書かれた「病休!」の文字が並ぶ。   

「…なんなのだ、これは」
「風邪なのです。流行ってしまったんです。月島さん」と口調をマネして答えると、珍しく緩む頬。
「……てことで、私もう行きますね、ここで感染する前に」と、立ちっぱなしの月島さんを気にして軽く切り出すと、
「ちょっと待て」と止められる。
「…え?」

しばらく何やら考えこんだ月島さんは、
「…饅頭食うか?」と、ためらいがちに言う。
ま、饅頭?!
「…え…急にどうしました?」と返すと、
「出張先で土産で買ったから…」と紙袋を突き出してみせる。
賞味期限今日までのもの買ってきちゃったとか…?と疑問に思いつつ、
「じゃ、じゃあ、いただきます…」と返すと、ホッとしたように打ち合わせテーブルにそれを置いて包み紙を開いた。

何だか不思議な光景が面白くなってきてしまう。
「…じゃあお茶でも入れますか」と給湯室にたまたまあったお茶を2人分入れて湯のみに注ぎ、殺伐としたオフィスは即席の茶屋状態。

箱に並んだ茶色いお饅頭は、黒糖味なのかな?
1つ取って早速口に運ぶと、控え目な甘さとしっとりした感触。
「…あ、しっとりして美味しいと思ったら温泉饅頭なんですね」と目を丸くすると、お茶をすする月島さんが、
「ああ、出張先、温泉地だったからな。ついでに温泉も入って来たからそこで買った。…美味いのならよかった」と口角を上げる。

「月島さん温泉好きなんですか?」と聞くと、
「温泉ていうか風呂が好きだな」との答え。
「つい長風呂しちゃうんだよな。温かいのが気持ちよくて」と笑う。

その笑顔をまじまじと見つめながら、
「…なんか、月島さんとこんな話できるの意外です…。いつも、寡黙というか…」と切り出した。
「……そうか?…いや、そうかもな」と俯く月島さんの顔が真顔に戻ってしまったので心がズキンと痛む。
慌てて時間を持たせるために、次の話題を。

「…他には何が好きなんですか?」
「…そうだな。他には柔道とか昔からやってて好きだ。あとは……」
と、考え込む月島さんと視線がぶつかって、そのまま見つめ合う。

「あとは、な…」と、真っ直ぐ私を見つめる視線に胸がドキドキと高鳴ってくる。
あ…れ?なんか、心臓がヘン…。

と、目を逸らした月島さんが再び俯いて目線は私のパンプスへ。
「……お前、今日このあとデートなのか?」と、急に切り出してくる。
「…えっ?!いや、全然!違います!」となぜか慌てて言い訳。
「……珍しくそんな小綺麗な恰好してるから、男と会うのかと思ったが、そうじゃないなら……嬉しい」と、こちらを見るその視線が突き刺さる。

ああ、何だか胸も頭も沸騰しそうに熱い。
目の前がぼやけて、頬も上気して、クラクラする…。

「あ、月島さ…わたし…帰ります。なんか、暑くて、風邪ひいたかも、です…」と、思い切り立ち上がった瞬間にふらつく私の腰を、同じく慌てて立ち上がった月島さんがすぐに抱き止める。
そして、「…風邪じゃないだろ」と、呟き、歯をギュッと食いしばった。

「風邪なんかじゃないって言ってくれ」と、ほんの少しだけ私を引き寄せる。
…そうまでして抱きしめない月島さんは、やっぱり良心的で優しい鬼軍曹なのだ。
そう、彼の優先するのはいつだって自分じゃない誰か。この気持ちが何でどうしたいのか、最後は私の判断だ。

「……温泉と、柔道と、あとは、何か教えてください…」と掠れた声で囁く私の瞳は潤んでいるだろう。
切なげに眉を歪めて、
「………あとは、お前のことが好きだ」と言う月島さんの言葉が熱い温度となって胸に伝わってくる。
それを閉じこめるように目を閉じた私は、月島さんの胸に顔を寄せて、背中に腕をまわす。
「私も風邪なんかじゃありません…月島さんのことが好きです…」と囁く私を月島さんが強く抱きしめた。
「……今度温泉行くか?」と無骨にいきなり切り出す月島さんに思わず笑いが小さく飛び出る。
やっぱり、お風呂なんだ。 

抱きしめられた身体が熱い。頭だってまだクラクラする。
数年ぶりの高熱の予感はこういうことだったのね、と心の中で呟いて、頬に寄せられた手に応えて上を向いて、少しだけ背伸びをしたのだった。


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