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下着にシャツを一枚羽織っただけの姿で、棚からナイフを取り出した。

こっくりと赤く、まるでコーティングされたかのように艶やかに光る林檎を手に取り、光にかざして眺める。
きれいな林檎、と独りごとを漏らしたら、その皮を、ナイフでするすると剥いていく。半分に割ったら、さらにもう何回かナイフを入れ、8等分に。

フォークと一緒に小皿に乗せて、寝室に運んだ。
ベッドの側に置かれたサイドテーブルにコトリ、とその皿を乗せた音と、甘酸っぱく漂う林檎の香りに刺激されたのか、シーツが揺れてその中の身体が身じろぎする。

シーツから出た顔に、「…おはようございます。鶴見さん」と微笑んだ。
「……君は本当に林檎が好きだな」と笑う鶴見さんに、フォークに刺した林檎を差し出す。
寝ころんだままで行儀悪く林檎を一口しゃくっと噛む鶴見さんのあとに、自分も一口。
自分で口にしておいて、「…酸っぱい」と漏らした。

鶴見さんも、ふっと笑いながら、「まだ青い林檎だったかな」と指で唇を拭う。
私のほうを見て、「…こっちにおいで」と差し出す両腕に、遠慮なく飛び込み身体を預けた。

「今日は寝坊助ですね、鶴見さん」と甘えて身体をくっつけると、「…さすがに20代や30代のころみたいには起きられないなあ。…あれだけシたあとは」と色っぽく私を流し見て、私のおでこに口付けを一つ。



私と鶴見さんは一回り以上年が離れている。
大学で講師として働く鶴見さんと、大学図書館で働く私は、出会いも大学の図書館。文献を探す鶴見さんの手伝いをするうちに、お互い共通で好きな作家がいることも分かり、いつしかお茶や食事をしたりするようになったのだ。

鶴見さんについてだんだんと知るにつれて、いろいろな事が分かった。明治時代の歴史を研究していること、お酒も甘いモノも好きなこと。
そして、気になっていた、額に少し斜めに残る小さな傷跡は、若いときに交通事故でついたものだと。
……そして、その事故で鶴見さんは最愛の奥様を亡くしていた。

そのことを知ったのと、鶴見さんのことを好きになるのとどちらが先だったのだろうか。もちろん躊躇いが無かったといえば嘘になる。一回り以上離れており、しかも配偶者との死別の経験がある男性との恋愛なんて、周りの適齢期の女性なら、選ばないだろう。

だけど、そんなことは見えないくらいに心を奪われていた私は、逆に死別の事実すら、自分に都合の良い想像をするための一つの素材としてしまっていたのだ。

“妻を亡くす辛い過去を持つ男性がついに出会う、運命の女性”
“辛い過去を忘れさせてくれる女性”
そんな安っぽい映画のコピーのような言葉を思い浮かべては、それが私ならと甘美な想像に浸る。

鶴見さんは結婚指輪をはめていないし、死別してすぐに外したと言っていたことを思い出しては、だから不倫とかじゃないから、もう鶴見さんの結婚自体は終わってることだから、と、止まらない恋心に自分で言い聞かせる。
妻子がいる男性と付き合っている友達の愚痴を、話半分に聞きながら、なんで、他の女のことも想っている人を好きになれるかなあ。と渋い顔をしたりして、自分の恋心と比較などもしていた。

とにかく私は、鶴見さんに猛烈な恋をしていたのだ。



私たちの仲が深まったのは、大学の職員の忘年会。
二次会を二人で抜けた私たちは、ショットバーへ。
私は二人きりで座るはじめてのバーのカウンターに頬を上気させていた。

大人な雰囲気の店内に緊張してきょろきょろする私に、鶴見さんが「…そんなに緊張しないで好きなものを飲みなさい」と優しく微笑む。
このバーは常連なのか、そんな鶴見さんを見て、マスターも笑顔で立ち位置から少し身体をずらし、並んだ酒瓶がよく見えるようにしてくれる。

ずらっと並んだ酒瓶から私が目を惹かれたのは、りんごのマークが小さくついたお酒。
「あの、このりんごのものは…」と言うと、鶴見さんは少し意外そうに目を丸くした。
含みのある笑顔で鶴見さんを見たマスターが、「これはアップルシードルという林檎のお酒ですよ。どちらかというとシードルは庶民的なお酒なんですが、これはイギリス産のフルボディで上質なワインのようです。いかがですか?」と、解説してくれる。

「では、それを」と注いでもらって一口飲むと、心地よい酸味とちょっぴり感じる大人の渋み。
「…美味しい」と目を輝かせる私を、頬杖をついてにこにこと眺める鶴見さんの視線に気づき、赤くなり顔を伏せる。

と、私の膝に鶴見さんの手がそっと置かれた。
「君がそんなに林檎が好きなら、あとでもっといいものを教えてあげよう」と微笑む。
…実は林檎が特に好きなわけではなかったけれども、じわっと心に広がる熱に、こくりと頷いた。

私たちはしばらく、カウンターで最近読んだ本などの話をして盛り上がった。2杯目のグラスが半分空いたくらいのタイミングですでにほろ酔いになっていた私を見て、鶴見さんが手を挙げて合図し、チェックを済ませる。

椅子を降りる時に少しふらついた私の手を、鶴見さんがさりげなく取って、自分の腕に回してくれる。
エスコートされながらエレベーターの中にたどり着くと、そっと繋がれる手。
「……さっき言っていた、もっといいものを知りたいかい?」と囁く。
お酒でぽおっとした頭で頷くと、「私の家にあるんだが、良ければ来るかい?」と、真剣な顔で言う。
断る理由などそこには無く、私も強くその指先を握りしめたのだった。  


鶴見さんの家に入ると、書斎に通された。
書見テーブルや本棚、そこらに詰まれた文献や何かの標本。大学の先生らしいその部屋は、大学の図書館員である私にも興味をそそられるものばかりで、ついキョロキョロと見回してしまう。

「そこに座って待っていてくれるかい?」と、窓際に置かれたソファセットを指した鶴見さんは、書斎の奥の小さな書庫のような部屋へ。
大人しくソファに座り待っていた私のところに、お酒の瓶を持った鶴見さんが戻ってくる。ワインのような瓶だが、少し小ぶりだ。

私の隣に座りながら、机にグラスを2つ置き、瓶のラベルをいたずらっぽい顔で見せてくれる。
「あっ…」
そこにあったのは、りんごのマーク。
「…カルバドスって知ってるかい?さっき君が飲んだシードルを蒸留させたものだよ」と、言いながらその瓶を開栓する。
「え、そうなんですか?」と驚く私にグラスを持たせて、「私が一番好きなお酒なんだ。香り高く、奥深い」と、少しお酒を注ぐ。

「君がシードルを選んだ時は、思わず驚いてしまったよ。お酒の趣味が合うな、なんて」と自分のグラスにもお酒を注いで、カチンとグラスを合わせて2度目の乾杯。

「少し手でグラスを温めてから、飲んでごらん」という言葉に素直に従うと、ふわっと漂う甘酸っぱい香り。
ゆっくりグラスを口に付けて一口飲むと……
「……う……」
と、その香りとは裏腹に、動きが止まってしまうくらい濃厚。

思わず笑う鶴見さんが、「ハハハ、すまない。意外と度数高いんだ、これ」と私の背中をさすってくれる。
一呼吸置いてから、「……実はこのお酒は君にプレゼントしようと思って、さっきのバーから譲ってもらったものなんだよ」と目を少し伏せて言う。
「えっ?!」と驚くと、はにかんだように、「極上の産地で作られた、爽やかで少し甘酸っぱいカルバドス。年数が経つほどに深みも増す。君にぴったりだと思ったのだよ」と、自分もグラスに口を付けて一口。

鶴見さんは足を組んで、グラスをテーブルに置いて、私の手を、握る。
「……カルバドスは食後酒として、夜に楽しまれるものだ」
……その手の熱さと視線に、私の心臓が鼓動を早める。
「……それは、後味の余韻が他のお酒よりも長く続くからなのだよ。なぜ、余韻が長いと夜にぴったりなのか、意味は分かるかね?」
そう言って、私の頬をそっと撫でる。

「……寝室に来るかい?」

と、囁くその声に、すでに溶けてしまっていたのは、私のほう。
熱に浮かされたように潤む私の瞳を、イエスの意味と捉えた鶴見さんは、口角を上げて私を寝室にエスコート。

その夜から、私たちは、大人の関係になったのだった。



二つ目の林檎のかけらを咥えながら、シャツを着てネクタイを締める鶴見さん。
私はまだ起き抜けの格好で、ベッドに座りながら、林檎をかじってそれを眺める。

着替えと支度を済ませた鶴見さんが、ベッドの縁に腰掛けて、私に軽くキスをする。
私の首のネックレスをシャラリと一撫でして、「行ってくるよ。今日は特別授業があるから。…冷えちゃうから早く服着なさい」と頭を撫でる。
「はーい」と返事して見送ったあと、ネックレスを自分でもそっと握った。

これは、自分で買ったものなのだが、モチーフとなっているのは林檎。珍しいそのネックレスのトップにも惹かれたし、何より私と鶴見さんを繋ぐモチーフは、やっぱり林檎だと思ったからだ。そんな馴れ初めからの幸運のモチーフを信じて、ずっと身に付けている。

あれから、一年半が経っていたが、私たちの関係は変わらず甘く、穏やかで、私は幸せの絶頂にいた。
年上の恋人と付き合ううちに、自分も大人びたようで、何でも分かった気になっていた。

この日までは。



自分も着替えて鏡の前に立ち、帰宅する支度をするが、胸元に光る林檎のネックレスを見て、暖かい感情が滲んでしまう。…と同時に、初めてこの家に来たときのことを思い出して顔が緩む。
あの日にもらったカルバドスの瓶、見たいなぁ。と思い立ち、書斎を通り抜けて書庫に向かった。

あれから、大切な記念日にだけ書庫から出してもらい、二人で少しずつ飲んでいたカルバドスの瓶。書庫に入ると、すぐ右手の棚の、一番目立つところにそれは置いてあった。
手にとって、ぐるぐる回して観察。うん、少しだけ色が濃い色になって、育ったかな、なんて。その色合いはそのまま私たちが歩んだ時間を表すようで、幸せな笑みが思わずこぼれる。

瓶を戻して書庫を出ようとすると、ふと、書庫の奥の棚に目が行った。キラッと奥の棚の隙間が光ったような気がして。

あんな奥まで見に行ったことはないので、何だろう、と近寄って、半分ほど開いていた扉を開けてみる。
…すると、そこにあったものに、心臓がズキンと激しく音を立てた。

………それは、もう一つのカルバドスの瓶だった。
銘柄は違うが、私のカルバドスよりも断然濃い、蜂蜜のような色。瓶の中身は半分ほど減っている。
そして、その瓶の横に立て掛けられていたのは、若いときの鶴見さんと、奥様が二人で写る写真。
写真立ての前には、結婚指輪が2つ、重なるようにして置いてある。

書庫の奥の棚の、扉付きのそこに大切に設置されたその一角は、明らかに、特別なスペースだった。

……なんで?どうして?
私だけにくれたお酒だったんじゃないの?鶴見さんは奥様を今でも想っているの?
私は……奥様の代わりなの?

震える手で瓶を手に取り、ラベルを読む。
年代を見ると、ちょうど結婚の年に合うくらいだ。
これは、確かに二人の育てた宝物。鶴見さんと、奥様の。

林檎は私だけのモチーフではなかったのだ。

悔しさなのか、悲しさなのか分からないが、鼻の奥がツンとし、気付けばポロポロと涙を流していた。
決壊した涙腺は止まらない。
色々な感情がごちゃ混ぜになって嗚咽まで出てくる。

その時、「…そこにいるのか?うっかりしていたが、今日は授業の日ではなかったよ」と嬉しそうな鶴見さんの声がして、書庫の扉がガチャンと開いた。

涙で目を真っ赤にしている私を見て、ギョッとした次の瞬間、私が手に持つ瓶に目をやる。

「名前、どうしたんだ」とこちらに近寄る鶴見さんにビクッとした私が瓶を思わず手放しそうになると、「あ、」と声を上げた鶴見さんが険しい顔で駆け寄って、瓶を奪い取る。

「…落とすかと思ったよ。大丈夫かい?」と私の背中に手を当てるその声に、感情が高ぶっていく。

……落としちゃまずかったですか?

と、そんなことを考えた自分に、心がヒヤッと冷えるが、暴走する嫉妬心を押さえきれない。

「…どうして、隠してたんですか?」と、涙目で鶴見さんを睨む。
「…そのお酒のことなら、別に隠してなどいないよ」と、穏やかな鶴見さん。余裕綽々の大人の態度に、また黒い感情が渦巻いてしまう。

「私は…亡くなった奥さんの代わりですか?奥さんと同じことして、同じもの贈って口説いたんですか?!」と、詰め寄る。
「そんなわけないよ。君は君だ」と呆れたようにため息をつくと、「少し落ち着いて話をしよう」と宥めてくる。

その手を振り払って、「子供扱いしないでください。私は…私のことだけ好きでいてくれると思ったのに…まだ奥様のこと忘れていないんですか?…ひどいです…」と涙を拭う。

そんなことないよ。君だけだよ。
そんな言葉で、機嫌をとってくれるのを期待していた。

書棚にもたれ掛かって腕組みをした鶴見さんは、
「……では君を一人の大人として言う」
と、いつになく真剣な目で私を真っ直ぐ見て、言った。

「死んだ妻のことを忘れたことはないよ」

「…だが…」
と聞こえたその次の瞬間、走り出して部屋を飛び出していた。鞄をひっ掴み、パンプスを突っかけて玄関を飛び出す。
泣きながら歩きつづけて、気付くと、自宅に戻っていた。



ベッドに横たわり、どれくらい泣いたか分からないまま起きあがると、夕方になっていた。
ふらふら立ち上がって、冷凍庫から保冷剤を出してハンカチでくるんで目に当ててまたパタンとベッドに倒れ込む。

…きっとひどい顔してる。と、憂鬱な気分で目を閉じるが、その冷たさに心も冷静になってくる。

「…だが…」という台詞のあとに鶴見さんが何を言おうとしたかは大体分かっていた。
だが、君のことはちゃんと愛してるよ。と。
その言葉はきっと本当だけど、でもどうしても、あの一瞬、一番になれないことが、たったひとりになれないことが悔しかったのだ。

携帯を開いてメッセージをチェックしても、鶴見さんからは何も来ていなかった。

仮に、と、考える。
もし、恋人が死んでしまったとして、私は忘れることができるのか?
……否。

では、その恋人の思い出を胸に、思い出の品を側に、誰かと恋愛できるのか?
……できる。
と、しないと同じような状況の自分に都合が悪いのは、分かっていた。でも、やっぱり誰かを忘れずにいながら誰かを愛すなんて、自分には無理なような気がしたのが本音。

「…まあでも、私は実際に体験したわけじゃないからさ」と呟いて、やっぱり鶴見さんと話し合う必要があると思い当たる。
正直な気持ちを、お互い知っておかなくては。……そして、謝らなくてはいけない。

私は鞄を再び掴んで、家を飛び出た。



合い鍵で鍵を開けて中に入ると、部屋は暖かく、人がいる気配。そっと居間のソファに鞄を置いて、書斎に向かった。
ギイ、と扉を開けて入ると、灯りはついているが中には鶴見さんはいない。

ふと、予感がして、書庫の中に入ると、真っ暗な書庫の奥に、鶴見さんがいた。棚の扉を開けて、酒瓶と写真を眺めている。

「鶴見さん…」とおずおずと声を掛けると、気付いて寂しそうな笑顔で振り返った。

「名前」と優しく私の名前を呼び、手招きする。
怒っていないことがわかりホッとした私が戸惑いがちに奥まで進むと、途中から引き寄せられて、肩を抱かれて、二人で並んで、小さなランプで照らされた瓶を眺める。

「…人は死ぬとどうなるか分かるかね?」と、ぽつりと鶴見さんが語り出した。
「………」
「人は死ぬと有機体から、まあ言ってみれば無機体になる。有機体である限り、人は毎日細胞レベルで成長し、変化しているだろう?例えば、髪や爪は伸び、傷は癒える」
そう言って、私の髪を撫でる。

「無機体になるということは、そういったことは起こり得ない。永遠、不変を得るというのが死なのだよ」と、写真立てを手に取る。

「私が見たかったのはこの先永遠に変わらない彼女の遺骨ではない。年を取り、皺が増え、変化していく彼女だったんだよ。それはもう、叶えられないが」

………静かに涙が溢れてくる。
この人が直面した辛い現実と、変えられない現実に。私なんかが分かったつもりになんて到底なれない感情に。
その気持ちに、たった一人でこの暗い書庫で、向き合ってきたかと思うと。

「…この瓶をたまに取り出して眺めると、少しだけ色が変化しているんだ。薄かった色が濃くなり、味も深さと香ばしさが増している。……たかが酒だが生きてるみたいに変化するそれを、彼女の失われた人生に重ねて、弔う想いを馳せてしまうのは、やはり理解できないかね?」と、私に、問う。

私は涙をこぼしながら首をフルフルと横に振って否定する。

「…理解できます。大切な人を失ったことはないけど、もし自分だったらと考えると…。…でも、本当に分かったのは鶴見さんの話を聞いた今です」と、正直に告げる。

「今朝はすみません。……ただただ、嫉妬してたんです。奥様に…。簡単に忘れられるわけなんてないのに…」と、涙を拭うと、鶴見さんは、
「君は聡明だから分かってくれると思っていたよ。いや…むしろ普段の君は年齢以上に冷静だから、そんなこと気にしているなんて思ってもみなかった。普段冷静な君のあれだけの激情が見られるなんて、なかなか興味深かったよ」と、いたずらっぽく笑う。

そして、腕を回して私をきつく抱き締めて、「亡くなった妻と君とは全く違う。私が今、君の事を愛しているのは事実なんだよ」と、囁いてくれた。

「鶴見さん…すみません、私…本当にバカなことを…本当に子供で、恥ずかしいです」と、涙が止まらない私の背中を、笑いながら宥めるように撫でる。
「正直な気持ちを伝えにきてくれて嬉しいよ。どうやって仲直りしようか、私も知恵を絞ったんだよ」とウインクをひとつ。
そしてふと、思い出したように、「一つ言うと、亡くなった妻はお酒も林檎も嫌いで一口も飲まなかったんだよ。あのお酒はただの私の趣味だ」と笑う。

泣き笑いで見上げる私に、続ける。
「…まあ、君は確かに本当に若くて青い。蒸留から2年といったところかな。だが、まだまだ先は長いんだよ」と、私のどす黒い感情なんてまるで無かったことにしてくれるかのように受け止めて、冗談を言う鶴見さんに、また暖かな涙が零れる。

しばらくの沈黙のあと、私の身体を左手で引き寄せたまま、鶴見さんの右手が私の手を取る。
顔の前まで持ってくると、その指に優しく口付けた。
「……だがそんな若くて青い君を、このまま放っておいて、どこの馬の骨か分からん男に飲み散らかされるとしたら、それは勘弁、というところでだな…」

そう言って、ポケットをまさぐった鶴見さんは、
「…そうなるくらいなら、君の熟成はこれからは私に任せて貰えれば幸せなのだが」と、私の薬指に、飴色に光るゴールドのリングを、ゆっくりと嵌めた。

思わず一歩後ずさりして、自分の左手の薬指にはめられたリングを口をポカンと開けて見つめてしまう。
「……驚いているようだが、この年齢で、しかも一度結婚経験のある男が、一回り以上も年下の女性を口説くというのは、最初からそういうことなのだよ。今日、タイミングが巡ってきただけで」と、私を苦笑しながら見つめる鶴見さん。

じわじわと、指先から暖かくなってくる。その熱は私の心臓を通ってから、やっと脳へ。そしてようやくこれが意味するところに思い当たった。
脳で処理された熱はそのまま瞳から温められた雫となってこぼれてくる。

「…その指にはめる指輪は永遠の愛を誓うものなのだよ。それでも、付けてくれるかい?」と、少し強張った顔で言う鶴見さんに飛びついて、「はい……付けます。…誓います」と涙を溢れさせながら答えた。

誓いの言葉はまだ早くないか?と、笑いながら言う鶴見さんが、嬉しそうに私の左手を持ち上げて、今度はリングの上から口付けた。
「…まあ、これは永遠の愛を誓うほかに、この世で最も普及しているマーキングの一種とも言えるのだがね」と小さく呟いている。

自分だって青臭いこと言っちゃって、と泣き笑いする私の顎が親指と人差し指で持ち上げられて、今度は唇に口付けが落ちてくる。優しく押し当てられたそれが離れると、二人で顔を見合わせて笑った。

私は自分のカルバドスの瓶を持ち上げて、「…乾杯しますか?」と涙目で微笑む。
「そうしようか。これからも育てて行くんだから、少しずつだぞ」と、ほほえみ返す鶴見さんが、グラスを二つ、器用に片手で取って、空いているほうの手を私に差し出した。
私は笑顔でその手を取り、二人手を繋いでテーブルのある書斎へ進む。

このお酒は、これからどんな色に変わるのだろう?

パタンと閉じた書斎の扉の取っ手が、月の光を反射して、キラリと飴色に光っていた。

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