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ベッドのサイドテーブルに置かれたコンパクトの蓋裏の鏡の中には、付けたばかりのシルバーのイヤリングが揺れている。オフィスでもつけられるようにシンプルなバータイプのものだけど、動くとキラキラ光を反射して揺れるところがカジュアルでお気に入り。
片方の耳に付いたので、今度は、反対側。
片手で耳たぶを押さえたまま、もう片方の手で、同じくサイドテーブルに置かれたアクセサリーピローに手を伸ばした。

所謂ラブホテルという場所にもピンからキリまであって、ここみたいに少しだけいいラブホテルには、結構しっかりしたアクセサリーピローなんかがあるのだ。ベルベットの手触りのそれは、ここがどんな場所かを主張するみたいにあざとくハート型。

それに、ピローの置いてあった場所も笑ってしまう。ベッドサイドの真四角の小箱、避妊具の真横に鎮座していたのだから。
ベッドにもつれ込んだ2人にとって、逸る気持ちで「付けたり」「外したり」するのにそこが便利な場所なのは間違いないのだけれど。

「……もう帰り支度ですか」

低い声に反応して目線を上げると、腰にバスタオルだけ巻いた宇佐美くんがいつの間にか私を見下ろしていた。お風呂上がりの人から発せられる特有のもわっとした湿気と、クリーンなソープの香り。
清楚な香りのそれは、普段の宇佐美くんのイメージとは全く違うので、思わず笑いが込み上げてしまった。

「……何笑ってるんですか。ていうか、支度するの早くないですか?まだ時間はありますけど」
「ん……でも、明日早いから今日は早く帰りたい」
「…なんか、面白くないです」

ハァーッとこれ見よがしに大きくため息をついた宇佐美くんは、鏡とピローをペチンとデコピンして回転させて私の支度をさり気なく邪魔したら、ドカっと私の横に腰を降ろした。

「…僕達って、付き合ってるんですか?」
「…は?」


「ちょっと、いい歳して何言ってるのよ。そんなのわざわざ聞く?」
「聞きます。聞きたいです」
「…さあね」

呆れた風にため息をついた宇佐美くんは、私の身体をクルリと回転させて、真正面に向き合った途端に眉を上げて不機嫌そうな表情だ。スっと伸ばした手が私の顔の方に来るのでビクッと身体を強ばらせたら、それは私の耳たぶにそっと触れたのだった。

「…イヤリング、ズレてます」
「へ?あ、ありがとう」

いえ、どういたしまして。うん、ありがとう。

練習のキャッチボールみたいなやり取りを交わした後、お互い真顔で見つめあってから、最初に目を逸らしたのは宇佐美くんだった。所在なさげにアクセサリーピローを手で弄びながら、次の言葉を探っているようだ。

そういえば、宇佐美くんはこういうところに来ると、私のアクセサリーを最初に必ず外してくれる。そしてそれを丁寧にピローの上に置くのだった。情事の途中なんかにじゃなくて、必ず最初に。薄紙のラッピングや、プレゼントのレースのリボンを解くみたいに、ゆっくり丁寧に。そしてその時の宇佐美くんの表情は、いつもと違ってちょっとだけ柔らかい。今みたいな不安気な表情ではなくて。

黙り込んだまま、なかなか次の言葉が出てこない宇佐美くんに痺れを切らした私は、「ふぁーあ…」とわざとらしくウソの欠伸なんかしながら、宇佐美くんの素肌の胸の中にコテンと倒れ込んでみる。眠くてたまらないみたいな感じでゆっくり目を閉じると、ふわりと背中に腕が回る感触がして、頬が緩んでしまった。

「…そんなに気になるなら自分で確かめれば?」と呟いて、意地悪な目線で見上げてみると、「確かめてきましたけど…」と意外にも歪む表情。

「こうやって……抱きしめても拒否しないし、キスだって、」ほら、という言葉を聞きながら、唇に当たる温かな温度に目を閉じる。

「こうして今日みたいにセックスしたり、たまには一晩一緒にいることだってあるでしょう。ちゃんと段階ごとに確かめてきたつもりです。でも、確信が持てないんです」

不安気な表情は、お喋りを続けるうちに焦燥感と少々の苛立ちに変わってきたのが分かる。無意識だろうけれど、トントントンと早いBPMで、宇佐美くんの指が私の背中をタップしているからだ。

「ねぇ、宇佐美くんて、計算の途中式しっかり書くタイプだったでしょ」
「貴方の例えはいつもよく分かりませんが、そうですね。ていうか、そうしないと答えなんて出ないでしょう」
「そりゃお子様ならね…」

「ーッ…」
「うわッ」

そのつもりで言ったんだけれど、案の定「お子様」の一言にムッとした彼は今度は実力行使といくらしい。あっという間にベッドの上に押し倒されて、手錠みたいに私の手首を拘束する力は「お子様」のものではない。一応抵抗してみせる私の身動ぎに合わせて、汗で宇佐美くんの首元に張り付いていたドックタグのネックレスがバンジージャンプするみたいに私の鼻の先スレスレに落ちてきた。

「なによ」
「…僕のことを子供扱いするのはやめた方がいいんじゃないですか。自分の年齢を実感するだけなんじゃ?」
「ひどいなぁ。3つしか違わないのに」
「…酷いのは貴方です」

酷くなんかないもん、とむくれる私を真正面から見据えるそのお顔はだいぶご立腹状態だ。細い弓なりの眉が片方だけつり上がって、パッチリした目は瞳孔が開ききっているようで余計に大きく見える。それでもそこに濃く滲むのは、怒りというより悲しみだ。

「僕達は付き合ってるのか、聞いてるんです。僕はそう思ってますけど、貴方はどうなんですか?」
「…そういうの、興味無い」
「…ッ、貴方って、」
「付き合ってるかとか付き合ってないかとか、宇佐美くんが気にするとは意外だよ。そういうの、関係ある?」

一瞬息を止めたあと、宇佐美くんの私の手首を掴む力が弱まって、ズルズルと崩れ落ちるように私の上に倒れ込んでくる。すっかり脱力した宇佐美くんが私の耳元で細く長いため息をフーッと吐くので、擽ったくてビクリと身体が震えてしまった。

電池切れみたいにピクリとも動かなくなった宇佐美くんの背中を、なんとなく撫でてみる。寝かしつけるみたいにゆっくり往復させたあと、その手を坊主頭に持って行ってナデナデとこねくり回してあげると、やっとガバッと顔を上げてくれたのだった。

「…僕って、セックスフレンドですか?」
「いえ」
「僕のこと何とも思ってないなら、ハッキリ言ってくれていいですけど」
「なんとも思ってなくなく…ないよ、あれ?これどっちの意味だ?」
「ッ、この際だから言いますけど、僕は貴方のこと愛してます。でも貴方が僕のことを好きじゃないのなら、こういう関係は不毛だと思うんです」
「私も宇佐美くんのこと愛してるよ」

(は…?)っていう巨大なはてなマークが目の前に見える気がする。歪んでいた表情はさらに歪んでいって、斜め上に揺らぐ視線を見れば、宇佐美くんが今の私の言葉を高速でリフレインさせていることはお見通しだ。


フリーズしてしまった宇佐美くんの耳にそっと触れてみる。
彼の耳にはピアスの穴がいくつも開いている。今日も目立たないシンプルなものが、左右に合計4つは付いているようだ。手を伸ばしてそれを撫でても反応が無いので、未だに私の言葉を反芻させて考え込んでいるらしい。まあ、それで良い。

私の耳にはピアスの穴は開いていない。いつも付けているのはイヤリング。そうそう、この話を宇佐美くんと話したのも、忘れもしない、私たちが初めて身体を重ねた夜なのだ。

それは、今から約半年前、初めて宇佐美くんを自分の中に受け入れて、身体の芯から滲むような熱と快感の海を泳いでいる時だった。宇佐美くんに揺らされているその反動で、付けっぱなしだったイヤリングが取れて、枕の上にポトリと落下したのだ。

「…、これ、イヤリングだったんですか」という言葉が身体の上から落ちてきたので閉じていた目を開くと、こちらを見下ろす宇佐美くんとバッチリ目が合ったのだ。

「ん、わたし、ピアスの穴開いてないか、らッ」
「なんでですか、ピアスのほうが貴方に似合いそうなデザイン多そうです」
「……それ、いま話すこと?」

色々なことが佳境に入ったこのタイミングでこんな日常会話をしているのがなんだか可笑しかった。それに、ひょんなことから流されるようにして身体の関係を持つことになった男の子と、こんな風に自然体で話しているのも。
繋がったままで動きだけ止めた宇佐美くんが、上に覆いかぶさってきて、私の髪をひとすくいする。確かめるみたいにそれを鼻に近づけて髪の香りを吸い上げる表情は情事の最中なのに穏やかだ。


「…なんだか気になって。ピアスの穴開けたらどうですか」
「嫌。怖いもん」

「どうしてですか、大したことないですよ、こんなもの」と、自分のピアスを撫でて言う宇佐美くんをしかめっ面で見上げて、「怖いの。だって自分の身体に針で穴開けて、そこに異物が入ってくるって想像すると…」と口篭る。

「…なるほど」

神妙に返事をしておきながら、そのままユラりと繋がったままの腰を押し付けて揺らして悪戯っぽく微笑む宇佐美くん。

「この状況でよくそんな可愛いことが言えますね。コレだって同じようなもんですけど」という言葉に妙に納得した私は笑いが止まらなくなってしまったりして。
そのまま馬鹿みたいにクスクスと笑い続ける私に、宇佐美くんは呆れ顔でため息をついて、「……僕が悪かったですけど、まさかこのままお喋りして笑って終わりなんて言いませんよね?」とブツブツ文句を言っていた。それもまた可笑しくて。

思えば、最初のセックスからそんな雰囲気だったのは珍しい。妙にカジュアルだったというか、自然体だったというか。だからといって刹那的なものってわけでもなくて、不思議と宇佐美くんとのセックスは心地よかった。快感的な意味だけではなくて。いや、というよりも、宇佐美くんと一緒に過ごすのが。
そしてその感情がどんなものなのかは、自分自身でも最初から分かっていたのだ。


「…あの、あの、今『愛してる』って、言いました…?」

気付いたら、ボーっと過去を思い返していた私の頬を、宇佐美くんがペチペチと叩いていた。いつの間にかフリーズしていたのは私のほうになっていたらしい。

「ゴメン、ボーっとしてた。言ったよ。ちゃんと聞いてた?」
「き、聞いてました!いや、聞いてない。…ちがう、っていうか…っ、今までそんなこと聞いたことないって意味です!」
「だって聞かれなかったし」
「ハァ?!」
「ちょ…顔怖いよ、顔!」

眉をあげて一瞬だけしかめっ面して固まった宇佐美くんは、すぐにこっちの世界に戻ってくる。

「……本当なんですか。貴方が、僕を、ってことでいいんですか」
「本当です。私が宇佐美くんをってことです」
「だ、な、ならどうして付き合ってるかどうか興味なんてないって言ったんですか」
「はー、もう面倒くさ…」

ゴロンとベッドの上で寝返りして宇佐美くんの腕の中から抜け出して、追求から逃げ出そうとしても、絶対逃がさないみたいに這いつくばって追いかけて追いかけてくる宇佐美くんが、ちょっと面白い。

「面倒くさくないです!聞きたいです」
「だって私には最初から分かってたもん」
「何が…ですか」
「結構、最初から、宇佐美くんのこと愛してるんだなっていう自分の気持ちは分かってた。それって、何にも勝る最強の答えでしょ?」
「……」
「大人になると、計算の過程なんかなくたって答えが出ちゃうんだな」

見上げる宇佐美くんの表情は、歓喜と興奮と少しの怒りと…色々入り交じって…とにかく、恐ろしい表情だ。そんな男がガッシと私を追いかけて抱き締めて離さないのだから、並の神経では宇佐美の女なんてやってられないんでしょうね、と思ったりして。

「宇佐美くんこそさそんなイッちゃってる性格して、手繋ぐのもハグするのも、キスもセックスも、真面目に段階踏んでくるから、ちょっと面白かったよ」
「イッちゃってるってなんですか。僕は貴方以外におかしくなれないです」
「…だから、そういうところ。そんなところ遠回しに確認してないで、最初から『愛してる』って今度から言ってね」
「…言います。何度でも」

だからその顔怖いって、と笑う私につられて、やっと宇佐美くんが微笑んだのだった。そうやって笑うと本当に穏やかで子供っぽいのに、興奮しすぎるのが玉に瑕なのよね。

「私もピアス開けようかなぁ」
「いいですね。僕が開けてあげますよ。愛の印ですね」
「何それ怖っ…やっぱりやめよ」

ゴロゴロ寝転がりながらするお喋りが尽きないのが不思議だ。女友達とだって、そうそう長くは喋ってられないのに。だからこの関係にどんな名前が付いていようが私には関係ない。名前を付けなくたって恋人同士にはなれるのだから。

この日は結局宿泊に切り替えてしまった。少しだけ夜更かししながらお喋りをして、ゆっくりお風呂に入って眠りについて、朝も一緒に目覚めて。
翌日は2人とも「体調不良」で会社を休んだんだけど、本当の理由はずっと内緒にしておくのだ。


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