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「今日はここまで」という会議終了の一声を聞いて、会議室の中の人たちが一斉に立ち上がる。

ちょうどお昼休憩に差し掛かるこの時間、我先にとエレベーターホールに向かう人の波を見送って、ゆっくりと席を立った。あんなに混み合うエレベーターに乗り込んだって、いいことなんてあるわけない。

部屋に残る人もまばらになってきたのを見回して、テーブルの上の資料とファイルを抱え上げた。ペーパーレス化とやらも進んでいるものの、こういった大きい会議では未だに資料のボリュームは膨大だ。
重たい会議がまた一つ終わり、肩の荷が降りたらしい上司も「お先に〜」と横を急いで通り過ぎていく。その風圧で、しっかり胸元で抱えたはずの資料が一枚、ひらりと舞っていくのを目の端で捉えた私は、「あ」と思わず口を開いた。

「お…っと」
「あ、」
「はい。ナイスキャッチ」
「あ、ありがとうございます」

ニコリと微笑んで、空中で捉えた資料をペラリと私に渡してくるのは、別の部署の先輩だ。
屈んだ反動で揺れた社員証を中指でそっと押さえて、ついでにネクタイをさりげなく直すその仕草は、なんていうか、「オトコマエ」。

「これからランチ?」
「そうです…って言っても、ちょっとやりたいことがあるので、デスクでサンドイッチですが」
「こら、まともな物食べろよな?」
「アハハ…」

エレベーターまで並んで歩きながらする雑談は、他愛のないものだ。
こんな感じで、ずっとこんな会話だけしていられればいいものの。

「じゃあさ、今度ランチ行こうよ」
「え?」

エレベーターがフロアに到着した合図である、ピーン、という呑気な音が、その言葉への返しの機会を遮ったのは、幸か不幸か。

音もなく開いた扉に反応して、ニッコリ笑ってエレベーター内を手で示して、レディファーストよろしく私をカゴ内に誘導するその仕草だって、誰が見たってハンサムだ。

「お洒落なイタリアンでも、フツーの定食屋でも、お好きなほうを」
「えーと、どうしようかな…」
「誘ったからにはご馳走するし。どう?」


…口説かれている。

というのは私の考えすぎではない。
割とずっとこんな感じの応戦が続いていて、そのたびに何故か何となく食事の約束が流れては消え、流れては消え、といった感じなのだ。

いい人だ。ハンサムだし。性格だっていい。
誘い方に嫌味もないし、しつこいなんてこともない。だからこそ、こういった大人の誠実なモーションには反応に困るのだ。どうして困るかというと……

「悪い、俺も乗る」

バン、と響いた音に驚いて、ひたすらエレベーターの床を見つめていた私がふと顔を上げると、閉まりそうな扉にファイルを突っ込んで、こじ開けるみたいにしてカゴ内に乗ってきたのは、先輩の尾形さんだった。

「お疲れ様です」
「…おつかれさまです」
「…おう」

カゴ内の私と先輩をチラリと眺めた尾形さんは、スタスタ歩いて二人の間に割り込んで、ど真ん中に鎮座した。

まるで内緒のオフィスラブをしているみたいに(さっきの話はあとで)なんて目線で言ってくる彼に苦笑いを返して、すぐ横の尾形さんに目をやった。

オールバックに流した髪をさらにかき上げて、撫でつけるみたいに整える。そのままその手は首元に持っていって、疲れたような深いため息とともにネクタイをぐいっと引っ張って緩めると、意外に白い首筋がチラリと見えて、ドキッとしてしまった。


「…誤字・脱字」


…という低い声が聞こえて、ハッとして顔を上げたのは、やましいことを考えていたからか。

「…へ?」
「お前が作った今日の資料」
「あ…」
「お前って、資料作るの早いけど、落ちも結構あるから気をつけろよ」
「す、み、ません」

カッと熱くなる頬に気づいて、冷やすみたいにして自分の頬に手を当てる。その反動でずるりと滑る腕の中のファイルを代わりに押さえて、そのまま抱え上げたのは、今度は尾形さんだった。

「…持ってやる」
「あ…」

急に手ぶらになってしまうと、なんだか身の置き所がないようで、この空気にさえ動揺してしまうみたいだった。

6階です、と響いた機械音声と共に、「降りるぞ」と呟いた尾形さんが、振り返りもせずに歩きだす。慌てて後を追う私も、振り返りなんかしなかった。




ランチタイムのフロアは静かだ。
ただでさえ外に出ている人が多いのに加えて、周りに飲食店も多いオフィス街、社員はほとんど外に出てしまっている。

ずんずん廊下を進んで、奥まった給湯室近くの自販機コーナーで立ち止まった尾形さんは、ポケットから小銭を出して、缶コーヒーのボタンを押す。ガコンと音を立てて落ちてきた缶を拾い上げて、振り返った尾形さんの表情は、妙に楽しそうだ。

「…なぁ、お前あいつの顔見たか?」
「…は?」
「俺がお前に説教したとき、引きつった顔で固まってたぞ。面白れえ」
「…尾形さんて、」

プシュッと音を立ててプルタブを引いて、ゴクリとコーヒーを一口飲む尾形さんが、(…て、なんだよ)と言いたげな目線をこちらに送ってくるのを感じて、ハア…とため息をついた。

「…尾形さんて性格悪い」
「…今分かったのかよ」
「いいえ。もっと前から」

ニヤリと笑う尾形さんが、トスンと壁に寄りかかって、ひと呼吸置いてから口を開く。

「いまどき、ランチ行こうなんて口説き方するヤツいるか?ガキじゃねえんだから」
「…別に口説かれてない。しかも、別にランチだっていいですもん。…しかも!尾形さん盗み聞きしてたんだ!」
「あんな寒い口説き方するヤツいたら、つい聞いちゃうだろ」
「寒いって…」

…まあ、そうかもね。…なんて思っている私の内心に、尾形さんが完璧に気付いている様子なのも、なんだかとても悔しくて。

だってそうなんだ。別にあの人から口説かれたって、なんとも思わない。

再び、ゴクリとコーヒーを啜る尾形さんの喉元が動くのを見る。
緩んだネクタイと、ひと房おでこに落ちて揺れている前髪と、たまに右手で触る顎鬚と……何度も盗み見たいつもの横顔を。



「…じゃあ。じゃあ、尾形さんは、どうやって気に入った女を口説くんですか」



思わず出た言葉は、自分でもびっくりするくらいに上ずっていて、震える音は同じく跳ね上がって揺れる心臓に共鳴しているみたいだった。

一瞬キョトンとした後、私の顔をまじまじ眺めた尾形さんは、真顔のままゆっくり口を開いた。


「知りたいか?」


ゴクリと唾を飲み込んで、「…知りたい」と返すと、面白そうにははッと笑った尾形さんが、飲み干したコーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れて、一歩こちらに近づいてきた。


「口説き方っていうのかどうかは知らんが…」
「…どうするんですか?」
「…そいつに言い寄ってる他の男を蹴散らす、とかな」


ポン、と頭の上に大きな手が乗せられて、そのまま髪の上を滑らされて降りてきた手が、そっと私の頬に沿わされる。熱い。冷たい。すなわち、私の頬がきっとどうしようもなく赤いのだ。


「…それか、ランチに誘うとか。行くか?」


……いく、と小さい声でやっと返事した声に反応して、尾形さんが満足げに口角を上げる。


…口説かれている。
ずっとずっと、密かに見つめ続けていたこの先輩に。


「……ランチに誘うのは寒いって言ったすぐそばから」
「知らねえよ。実を取れればいいんだよ、俺は」
「尾形さんて、やっぱ性格わるい」
「そこが好きなんだろう」

自分で言います?という言葉は胸の中に飲み込んでおく。
きっと、私の心なんてすべてお見通しなのだろうから。

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