37-3

「朝は温かい緑茶でいい?」
「よか…」
「はい」
「あいがと…」

(…鯉登君、方言、出てる出てる)という言葉は口には出さずに喉の奥に飲み込んで、ダイニングテーブルに頬杖をついてぼんやりしている鯉登君の正面に腰掛けた。

今朝は、何だかずっとこんな感じで何かを考えこんでいて、少しだけ上の空なのだ。

朝、2人してベッドの中でくっついたまま目が覚めて、思わず目を合わせて照れ笑いしたあの時は、なんだかとてもいい感じの時間が流れていたような気がしたのに、なんとも不思議だ。

「…朝ごはん、食べようか?」
「ああ…」

私が朝食に用意したのは、夕食と同じく和洋折衷のごく普通のメニューだ。
ご飯に豆腐とわかめのお味噌汁、ハムエッグにちょっとした生野菜を添えたもの。それに相変わらず作り置きの青菜のおひたしを添えて、10分で完成の簡単な朝食だ。

それでも、一応二人で手を合わせて、「いただきます」。
そうしてから、まずお茶の湯呑を手に取って一口飲みかけた私に、お箸を手に取ったままでこちらを真っ直ぐ見た鯉登君が、突然、口を開いた。


「なあ……同棲しよう」


ブッとお茶を吹きかけて、すんでのところで堪えた私は、テーブルにドンと置いた湯呑を手で握ったまま慌てて鯉登君に向きなおった。

「あの!?ど、ど、どういうこと!?なんでいきなりそんなところに話が飛躍するの!?」
「飛躍なんてしてないが」
「してるでしょ!私たち付き合ってまだ一か月そこらだよね…?」
「そうだな…もう一か月か、結構長いよな?」
「いやいやいや…あのっ、世間一般では一緒に住むには短いほうなんじゃないかな…?それに同棲って結構…あの…」

慌てて思考を巡らせて、なんとかやんわり断ろうとする私を、面白くなさそうに小さく睨んだ鯉登君は、唇を尖らせて「…お前は嫌なのか」と呟いて、シュンと下を向く。

(うっ…一丁前に傷ついている…。こんな一方的な同棲宣言を断られたくらいで…)

そもそも提案自体が突飛なものだったことは置いておいて、とりあえず目の前のご機嫌斜めの恋人に向き合って、事態の把握に努めることに。

「…あの、なんか急だったから驚いちゃって…。な、なんでそう思ったのかまず聞きたいな、なんて…」

とりあえず、全否定せずに話が急だった、という方向にずらしていこうとする私を再びチラリと眺めた鯉登君は、今度はなんだか照れたようにボソボソと呟き始めたのだった。

「…お前を一人にさせておくのが心配なんだ。最近物騒なことだって多いし、もし夜中に強盗とかが入ってきたら…」
「…うちに盗るものなんて無いけどなあ」
「と、盗るものがなくても!…襲われたりとかするかもしれない!…この部屋、警備会社と直通のセンサーとかあるよな?」
「…あるわけないでしょ。こんな普通の部屋に…」

無いのか!?みたいな顔で青ざめて固まる鯉登君に、「マンションのエントランスにはセキュリティあるから大丈夫でしょ」と答えながら、冷静な私はお味噌汁を口にする。

「ホラ、冷めちゃうから食べよう」

渋々、自分もお茶碗を手に取って朝食を食べ始めた鯉登君は、まだ諦められないみたいにジットリこちらを見つめて、不満げだ。

「…でもマンションの中に不審者がいたらどうするんだ。昨日の男も心配だ。あいつお前に気があると思うんだが…」
「牛山さん?ナイナイ。大丈夫だって。ただの隣人」
「な!なんで分かるんだ!…だってドア開けてわざわざ話しかけてきただろ…」
「開いてたドアの隙間から、でしょ。それに鯉登君が落とした『このお豆腐』拾ってくれたんだよ」

このお豆腐、なんてわざと意地悪な目線でお味噌汁の中のお豆腐を示してあげると、「キエッ…」とたじろいだ鯉登君は、ほとんど飲み込むみたいにゴクゴクとお味噌汁の器を空にして、ホラ、消してやった、みたいな顔でこちらをキッと睨みつける。

「…やけに慣れ慣れしい感じだったぞ、あいつ」
「そんなことないけど?というか、牛山さんね、最近この近所に出た空き巣を撃退してくれたんだよ。だから、どっちかって言ったらご近所さんにもすごく頼りにされてるっていうか…」
「もうよか!お前ん口から他の男の名前は聞きごたなか!!」
「…う」

鯉登君てイライラするとバリバリの薩摩弁が出るのね…新発見。

それにしても、隠さないこの子供じみた嫉妬心には、なかなか困らされるけれど、なんだか悪くない気分にもなったり。こんなに独占されるなんて、ちょっとだけ、嬉しいかも。

「…そんなに心配しなくても、私は鯉登君のものだから大丈夫だよ」

…って一言くらい、サービスしてもいいけどね。

「…本当か」
「本当。だからどっしり構えていてよね」
「…分かった」

少しだけ安心したように頬を赤くする鯉登君は、手のひらを返したように今度はバクバクと朝ごはんを食べ始めて、そんな鯉登君を私もチラリとひと眺め。

そうそう。その調子。
鯉登君は気づいてないし、私もそんなに大っぴらに言わないだけで、私だって鯉登君に随分夢中になっているんだから、そんな風に余裕でいて欲しいんだ。なんてね。





朝食の片づけを終えた私たちは、出かける支度をして、玄関のドアをガチャリと開けた。
2人して外廊下に出ると、そこには、ちょうど同じタイミングでドアを開けた隣人の牛山さんがいたのだった。

「お」
「あ、どうも、おはようございます」

後ろで黙ったままの鯉登君の気配を感じて、嫌な予感がして、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
変なことを言いませんように…と、私の心の中はそれでいっぱいだ。

ところが、先ほどの朝食時の会話で妙な自信を付けてしまった鯉登君は、引き攣った愛想笑いを浮かべながら一歩前に進み出て、意外にも冷静な声で牛山さんに挨拶をしたのだった。

「どうも初めまして。鯉登だ」
「…は?…あ、う、牛山だ。どうも初めまして…」

なぜ、ほぼ初対面の牛山さんに突然の自己紹介をしたのかは分からないけれど、この状況がさっぱり分からない牛山さんも、親切に鯉登君の握手を受け入れてくれている。

「…ハハ…どうも。俺は名前の、こ、恋人の鯉登だ…」

…と、牛山さんの手を握ったままでもう一度自己紹介する鯉登君を見て、ハア…とため息をひとつ。
…俺がこいつの恋人だから手を出すな、ってアピールしたいわけね…。

「……なるほど。どうも。…俺はただの隣人の牛山だ」

タラリと冷や汗を垂らして私をチラリと一瞥する牛山さんは、すっかり事態を把握したようで、(大変だなぁ…)という目線を送ってくる。
私も、(ウチのバカがすみません…)と無言で頭を下げてから、眉間に手を当てた。
この自己紹介は、いったいいつ終わりを迎えるの?

「ハハハ…そうか!俺は名前の恋人の鯉登だ!」
「…俺はなんてことないただの隣人の牛山だ」
「ハハ!俺は名前の…」

「…もういいですか」といつまでも自己紹介する鯉登君にしびれを切らして間に割って入ると、ちょうどその時、牛山さんの家のドアがキイ、と音を立てて開いた。

「もぉ、牛山さんコーヒーメーカーの電源入れっぱなしでしたよ〜」

パンプスの踵を直しながら出てきたその女性は、ふと顔を上げてから、牛山さんと、その手をガッシリ握る鯉登君と、私を順番に見回して、怪訝そうな顔で会釈をした。

「ホラ、鯉登君もう手離して…。すみません、朝から騒がしくて…」

鯉登君の背中を突っついて窘める私に彼女が笑顔で会釈をして、私もそれに笑顔で返事する。
牛山さんの部屋によく来ている彼女は私も顔見知りで、会えば挨拶や雑談をする仲だ。

それでもポカンとしている鯉登君に、「…こちらは牛山さんの恋人の方だよ。ホラ、挨拶して」と意地悪な目線を送ってあげると、(恋人いたのか!?…っていうかこの女性が…!?)と口をあんぐり開けている。
まあ、鯉登君には言ってなかったけど、意外なことにこんなに綺麗な恋人がいる牛山さんが、私になんて興味あるわけないじゃない…。

「あ、どうも、はじめまして」と笑顔でペコリと頭を下げる彼女をホッとしたような目で眺めた鯉登君も、ペコっと頭を下げ返している。

「…え〜名前さんいつの間にこんなハンサムな恋人が…」と悪戯っぽい顔で笑う彼女に、私も照れ笑いを返して頬を掻いてみる。

すると、その様子を思案顔で見ていた牛山さんが「…まあこいつは俺の恋人というかな…」と後ろから彼女の手をひょいっと持ち上げたので、全員でその手に注目してしまった。

「恋人っていうか、こういうことだ」
「えっ?!キャ!牛山さんっ!待って…」

…という彼女の言葉は聞き入れられず、掴まれた左手は私たちの目の前に、見せつけるように晒される。

……彼女のその左手の薬指には、キラリと輝くシンプルなシルバーのリングが付いていて、思わず私も両頬に手を当てて赤くなってしまった。
うそ!牛山さん!ついに…!!

「ま、待って、あの、これはまだ…」と顔を赤くして慌てる彼女を面白そうに見つめる牛山さんの表情は、彼女が愛しくてたまらない、といった雰囲気だ。
パニック状態の彼女の背中をそっと押した牛山さんが、「じゃあ、失礼」と歩き出しながら、そっと彼女の肩を抱き寄せるのを見て、思わずほぉ…と感嘆のため息をついてしまった。

…すごい。大人って感じ…。
っていうかプロポーズしたんだ〜牛山さん…!!あれはきっとそういうことなんだよね?

他人事ながらも、幸せいっぱいの甘酸っぱい光景に、思わず私もニヤニヤしながら、「や〜…ハア…すごい…あてられちゃったね…鯉登君…」と振り返った瞬間、至近距離で真顔になっている鯉登君がいてビクッと身体を跳ねさせた。

「わあっ!近い近い!!何!?」
「…俺もプロポーズしたい」
「何!?なんなの急に、ていうかプロポーズって、俺も、とかそういうノリでするもんじゃないから!」
「おいも指輪を贈ろごたっ!!」
「贈ろごた、ってなに!?」

幸せな2人にあてられて、急激に「俺も俺も」モードに入っている鯉登君は、すっかりアクセル全開だ。

「俺だってプロポーズできる」
「いや、できるできないの問題じゃないから。あの2人はずっと長く付き合ってたんだよ…」
「おいだってプロポーズしきっ!!!」
「しき、ってナニ!?」
「〇△×$%&#!!!」
「なんて言ってるの!?」

…せっかく同棲の話題を切り抜けたと思ったら、今度はそれすら飛び越えて、すっかりプロポーズの話題に緊急着陸だ。
恨みますよ…牛山さん…と、もう誰もいない廊下に目をやって、私は小さくため息をついたのだった。


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