37-1

「この部屋か?」
「シーッ静かに。夜遅いんだから…」
「早く入りたい…」
「静かにしてたらね」

ガサガサと音を立てるスーパーの袋を持って声を上ずらせる彼を見て、私はため息をついた。
ソワソワと嬉しそうな顔の彼は、恋人の鯉登くん。1か月ほど前から交際を始めたものの、なんせ、今日初めて私のマンションに来ることになったのだから、気持ちは分からないでもないのだけれど。 

それにしてもはしゃいでいる。
ボンボンの鯉登君にとって、こんな庶民の自宅でデートなんて想像もしていなかったのだろう。最近はいつも上等なレストランかバーでのデートが通常で、何より私たちの初めてのデート自体が、3つ星のグランメゾンだったのだから。




今日だって、私の仕事が終わるのを会社の前で待ち構えていて、何やら高級そうなレストランに連れていかれそうになるのを何とか振り切って、デート先を私の家に変更したのだ。

鯉登君は、デートで高級なお店にばかり行こうとするけど、その考えは大体読めている。
女性とまともに恋愛して、男女交際するのが初めてな元童貞の鯉登くんにとっては、慣れ親しんだ自分の行きつけの高級店のほうが私にリードをとれるというわけだ。

だけどね…と冷めた目線でチラリと見上げて、数秒だけ意地悪に思案顔。

…ずっと自分のホームばかりで勝負するのは男としてズルイんじゃないのかしら?鯉登クン?
私としては、鯉登君のカッコイイところを見たいというよりは、そのままの鯉登君を見たいんだけどな。
もう少し、距離を縮めたがっているのは私だって同じなのだから。

…ということで、手を引っ張って黒塗りの車に私を押し込もうとする彼を、逆に引っ張り返した私は口を開く。

「…今日はレストランじゃないところにしない?」
「……だがな、」
「別にレストランでもいいんだけど……実は、鯉登くんに手料理、食べさせたいな、なんてさ」
「……」

しばしの逡巡のあと、考え込んだりニヤけたり、あっちにそっちに揺れる表情で分かる迷いのほどを1分は見守ったあと、やっと口を開いた鯉登君の言葉は。

「…なら、ご馳走になろうかな…ハハ…」

…ということで、じっくり天秤にかけた結果、どうやら私の手料理はカッコつけたい鯉登君のちっぽけなプライドに勝利したようなのだ。

「何を作ろうかな。一緒にスーパー寄る?」
「そ!そうだな!」

身振りだけでハイヤーを帰した鯉登君は、パアァと頬を染めて、私の手を取って、「早く行くぞ。スーパーとやらに」と、今度はまるでこの案を最初から計画していたみたいにウキウキだ。

「…ねえ、一応聞くけどスーパーって行ったことある?」
「よくわからないが…果物店でお見舞いの果物などは選んだことがあるが…」
「……そうですか」

ダメだこりゃ…とため息をついて肩を落とした私は、タラリと冷や汗をひとつ。
…諸々のレベルをそっちに合わせるなんて無理に決まってるから、何が何でもこっちに合わせてもらいますからね!

結局、最寄駅の近くの、ごく普通のスーパーに寄って食材を買い込んだのだけれど、オーガニックでもなんでもないただの野菜やフルーツを手に取って、物珍しそうにキョロキョロ回りを見回す鯉登君は、まるで遠足前の小学生だ。

最初は興味津々に色々なコーナーを見ていたのだけれど、店内にいるカップルや夫婦をじっと観察したあと、「…なあ、男がこれを持つんだろう。俺も持ちたい」なんて言って買い物かごを私から取り上げて抱えてご満悦。

「何か買いたいものがあったら後ろにいるからな!カゴに入れるんだぞ?」
「…ハイ」

まったく、私は初めてのお使いの引率じゃないんだから…と呆れつつも、カゴを持ってひたすら嬉しそうに私に着いてくる鯉登君がどうにも可愛くて、つい甘やかしたい気分にもなってしまったり。

そんなこんなで簡単に買い物を済ませた私たちは、無事に私のマンションのフロアまでたどり着いて、冒頭に至るというわけだ。




「鍵開けたよ…入って」
「ここ玄関か?」
「そうだよ。スーパーの袋そこに一旦置いていいよ」
「狭いな!」
「悪かったわね!!庶民の家なんてこんなもんよ!」

荷物を抱えて、鯉登君いわく狭めの玄関に入りながらワイワイ騒いでる私たちに、半分開いたままの玄関のドアの隙間から、「失礼」と男の声が飛び込んでくる。

「…どうも、こんばんは。ドアの前に豆腐のパック落ちてたぞ」

ひょいっとドアの隙間から顔を出したのは、私のお隣さんの男性だった。

「あ!こんばんは…すみませんうるさくて…」
「いや、ドアの隙間からすまないな。じゃあ」

慌てて落とし物の豆腐パックを受け取って、頭を下げてからドアを閉めて振り返ると、そこにはものすごい表情で玄関のほうを睨みつける鯉登君がいた。

「…誰だ今の男。犯罪者じゃないだろうな」
「はぁ?!牛山さんのこと?お隣りさんだよ!すごくいい人だよ!」
「あんな凶悪そうな顔した隣人いるか?随分大男だし…口髭も怪しい…」
「…鯉登君よりよっぽど紳士な男性だけど」
「キエ…」

ビクッと慌てる鯉登君のお尻を叩いて中に入るように促すと、まだ疑っているみたいな目線で何度も玄関のカギを確認した鯉登君は、渋々中に歩みを進めたのだった。

それでも、中に入っていくと、あちらこちらに私の物が置いてあるのを見て、なんだか照れくさそうな嬉しそうな表情で、キョロキョロと目線を泳がせて、「ここがお前の家なんだな」なんてボソリと呟いている。

リビングを見回して、本棚をのぞいたり、ソファに置かれたクッションをモフモフ弄っている鯉登君に「もういい時間になっちゃったから、とりあえずご飯作ろ」と声を掛けて、キッチンへ。

ダイニングの椅子に引っ掛けてあったエプロンを取って、頭から被ったあとは裾を引っ張って、背中のほうで紐を縛って完成だ。最後に髪の毛を適当にまとめて上のほうでしばっていると、いつの間にかキッチンに入り込んできた鯉登君がデレデレした目で纏わりついてくる。

「…可愛いな。奥さんみたいだ」
「そう?」
「…ずっと後ろ姿を見ていたい」
「…それでもいいけど、旦那様なら手伝って欲しいんだけど」

…呆れたように横目でチラリと目線を遣るのは、きっとただの照れ隠し。なんてことないシンプルなエプロン姿を、こんなハンサムな男性に褒められるのは、大人の女には多少刺激が強いのだから。

「旦那様…」とオウム返ししながらパアァと顔を輝かせて、私の冗談にさえもデレデレして、あっちの世界に行きそうな鯉登君の手を引っ張ってシンクの前へ。
まあ、料理なんて経験無くたって、お米なら研げるでしょ。

「お米研いだことある?」
「米って研ぐのか?刀を研ぐところなら見たことあるが…」
「……今日はお米ね」

心許ない発言に冷や汗を垂らしながらも、フライパンを出した私は、ギクシャクした鯉登君の手つきを横目で見守りながら、下準備に取り掛かったのだった。




テーブルに並んだのは、ご飯、わかめと油揚げの味噌汁、薄味で照り焼きしたチキンソテーにアボカドディップと付け合わせの野菜を添えたもの。それに作り置きしていたひじきの煮物を申し訳程度に添えて、和洋折衷の、なんとも普通の家ご飯の完成だ。

向かい合って手を合わせて、いただきます…ともっともらしく2人で呟いてみてから、お箸を取る鯉登君を見て、ゴクリと生唾を飲み込んでしまった。

実を言うと、手料理を恋人に食べさせるなんて久しぶりで、しかも相手は一流の味を知り尽くしたボンボンだ。私が顔には出さずとも緊張していたのは不可抗力で、スーパーで食材を調達するときから、こんなメニューでいいのかな、と若干不安に思っていたのだった。

それに、この男の、この性格とこの態度だったら、悪気もなく「これが料理か?」くらいのことは言いそうで。

鯉登君がお椀を手に取ってお味噌汁を一口飲んで、切り分けられたソテーを食べてから、お箸が止まるのを見て、ウッ…と気まずくその表情を伺ってしまった。
…やっぱり、口に合わなかったかな?

ところが、ニコニコ微笑んだ鯉登君は、頬をほんのり紅く染めて、口を開いたのだった。

「…美味しいな!」
「本当に?」
「美味いぞ。お前が作ってくれたからかな」
「…一緒に作ったから…」

(それもそうだな)なんていう風に、少しだけ微笑んで私を見るその表情は珍しく大人っぽくて、なんだか、ズルイ。
言葉だけは子供みたいにこんなふうに素直に吐き出してくれるのに、私に向けるその表情は大人の男のもので。

その一言に胸の奥が擽られて、キュンと甘酸っぱい感情があふれ出てきて…こんなに年上の女のことを振り回しているなんて、きっと本人は自覚はないんだろうけど。

だけど、こんなふうに、2人きりの落ち着いて穏やかな時間が過ごせることが私だって嬉しくて、思わず頬が緩んでしまうのを、鯉登君も照れくさそうに見ていて。

やっぱり、庶民には庶民の幸せな時間の過ごし方だってあるんだからね、なんて、思いながら夕食は進んだのだった。





すっかり夕食も終わって、片づけも済むと、立ち尽くす鯉登君が突然気まずそうに口を開いた。

「…家でのデートって他に何するんだ?」
「ん?別に、自由にのんびりしてればいいじゃん」
「のんびり…」

そう、ここは普通のOLが住む一般のマンション。サービス係もいなければエスコートするバーもない。鯉登君が手持ち無沙汰になってしまうのも分かるくらいに普通の家なのだ。

私は、突っ立ったままの鯉登君の手を引いて、リビングのソファに座らせると、ワインのボトルを掲げてニヤリと微笑んだ。

「例えば…家だとね、こんなふうにワインを開けて、ソファに身体を預けて、のんびりテレビを見たりとか…」

少しだけワインを注いだグラスをソファに座った鯉登君に手渡して、お返しに私のグラスにワインを注ごうとする手をペシっと跳ねのけて、私は鯉登君の膝に頭を預けてごろりとソファに寝転がる。

「キエ…」
「ほらね、家のデートだとこんな風にできる…」
「…お、お前っ、甘えてるのかっ?!」
「…ダメ?」

戸惑う鯉登君の手をとって、私のほっぺたに持ってきて頬を寄せると、ピクリと反応して力が籠る手はダメじゃない、と言っているけれど、やっぱり少しだけ緊張しているようだ。

「…何か映画でも見る?」
「映画…でもいいが、2時間位はかかるだろう?…遅くなってしまうと、お前にも悪い…」

何故か申し訳なさそうに顔を伏せる鯉登君を目を丸くして見た私は、びっくりして口を開いた。

「え?今日泊まっていかないの?」
「泊ま…」

と、言ったっきり、カーッと赤くなる鯉登君の頬は緊張と、その逆の期待感で歪んでいる。

まぁ、それもそうか。前回夜を共に過ごしたのは「卒業」のあの日。それ以来、私たちは身体を重ねたことは無いのだから。

…私としてはそんなところも期待して家に誘ったというのに、この男は…。
押せ押せで強引なところばっかりなのに、いざとなると急に紳士になっちゃうんだから、可愛いといえば可愛いんだけれど。

「…泊まっていくのかと思ってた…ケド、鯉登君がダメならいいよ」
「ダメじゃない!…本当にいいのか?」
「…うん。ベッド、狭いけど」
「……ッ」

…別に「そんなこと」を想像して言ったセリフではないのだけれど、口を半開きにして照れる鯉登君につられて赤くなるのは私の頬。
そんなよこしまな想像を振り切るように頭を振って、「…だから時間気にしなくていいよ。映画でも見ようか」と立ち上がったその時、思い切り腰から抱き寄せられた身体が揺れて、それが沈むのは、鯉登君の膝の上。

後ろから抱きしめられた形で首筋にキスが落ちてきて、慌てて振り返ろうとすると今度はそっと顎が掴まれる。

「…だったら、別のことがシたい…」

…そんな風に、耳元で囁かれたら、たまらない気持ちになっているのは、私のほうで。
ゆっくり振り返って、そっと見上げたそこには、真剣な表情の男。

「…シャワー浴びる?」と囁く私の声は、欲情で少しだけ掠れている。
その言葉に眉を下げて、思い切り頷いた鯉登君が、そのまま私の頭を引き寄せて、口付けしたらもうお互い火はついてしまっていた。

キスの合間に息継ぎするタイミングを見計らって、舌を入れてきて絡ませて、その隙に私の背中を撫でる鯉登君の温度に、図らずも快感で鳥肌が立ってしまう。
キス、こんなに、上手だったかな?なんて頭の中に巡る思考もユラユラ揺れて、とっくに頭は茹っている。

ああ、でももうそんなのどうでもいい。
早く、私のまだ知らない鯉登君を見せて欲しいだけなのだから…。

つづく





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