ジンジンジンと音がする。
暑い、夏。午後の日差しはより増してきついものがある。蒸した空気とじりじりと容赦無く照りつける太陽がシャツを背中にピッタリとくっ付ける。早く脱ぎ捨てて背中を拭いてしまいたい。欲を言うならば冷たい水の中に入ってしまいたい。汗で濡れた髪も、ベタつく肌も、全て、全てリセットしてしまいたい。張り付く背中のシャツさえも。全て捨ててしまいたい。誰も居ない、深い底の世界へ行ってみたい。私だけの、世界。嫌なことなんて全部無い、キラキラ光る泡と太陽の光の幻想的な世界。


「おい!名前!」
「…あ、ハルくん」


声のした方に顔を向ければ、ひょいといつもの明るい笑顔をしたハルくんが現れた。何故だ。ここは水谷さん家のはずじゃ…


「名前も夏期講習か?」
「え、あ、うん。」
「雫も行ってる!」


うん、知ってるよ。水谷さんは凄いよ、本当。なんであんなに頭が良いんだろう。私なんて、全然点数も上がらないし、今日も散々だった。もう夏なのに、去年の夏は楽しい事で溢れていたのに、こんなはずじゃ、なかったのに。がんばってもがんばっても先が見えない苦しみが、嫌になる。


「どーした名前、夏バテか」
「ごめん、ぼーっとしてた」


ハルくんがホースの水を水谷さん家の庭に撒きながらこっちに顔を向けた。汗なのか、それとも跳ねた水なのか、髪の毛についた水滴が太陽の光に反射してキラキラしている。綺麗で、ハルくんの笑顔によく似合う。そんな事をふと、思った。


「ハルくんは、なんで水谷さん家に居るの」
「留守番だ」
「え」
「前に塾の前で待っていたら怒られたからな。」
「だから留守番?」
「ああ!家に帰ってきた雫を一番に迎える!」
「そっか」


そう言ってハルくんはご機嫌そうにホースを振り回して庭に水を撒く。いいなあ、水谷さん。こんなに、こんなに想ってくれる人が近くに居るなんて。流れる汗を手で雑に拭った。こんなことを思うなんて、少し疲れているのかもしれない。頭がなんだかくらくらする。目の前が少し白くチカチカしてきた。貧血?このまま倒れてしまったらどうなるのだろう。焦りも葛藤もいらだちも絶望も憎しみも嫉妬も全部全部、無い世界に行けるのだろうか。私の醜い心を全て全て、棄ててしまいたい。何もない、世界に行けたらいい。


「名前?」
「っ、あ、ごめん、なんでもない、」
「またボーッとしてたぞ。ほんとに大丈夫か?」
「いや、ほんとに大丈夫だよ」
「熱か!?」
「いや違う」


「何してるの、ハル」


ハルくんが身を乗り出して私のおでこを触ろうとしてそれを阻止していたら、隣から水谷さんの声が聞こえた。あ、やばい、何か勘違いとか、


「ホースの水!もったいない!蛇口閉めて!」
「あ、すまん」


水谷さんが指を差した先には、ハルくんが落としたホースの先。チョロチョロと水が出たままで、その水は私の立つアスファルトも濡らしていった。黒くなった地面は変な模様が描かれている。


「雫、大変だ。名前が変だ」
「ハル、その言い方はどうかと。…大丈夫?」


水谷さんが私の顔をそっと覗きこんできた。真っ直ぐな瞳に心がグッとなる気がした。大丈夫だよ、なんでもない。そう発した言葉が少し震えた。


「顔色もよくないみたいだけれど…」
「いやいや、大丈夫!ごめん、もう帰るから、家も近いし、ちょっと疲れたみたい」


きっと水谷さんの方が疲れてるに決まってる。弟くんの世話をして、家事をして、勉強もして。なんで水谷さんと私はこんなに違うんだろう。なんでこんなにも私は弱いんだろう。


「名前、ゆっくり休めよ」
「うん、ありがとう、じゃあ私はこれで」


お邪魔しました、と言いかけた時に、水谷さんがちょっと待って、と声をかけてきた。なんだろうと思って、帰路に向けた体を水谷さんとハルくんに向け直した。


「いや、余計なお節介かもしれないのだけど…」


水谷さんがバッグを持ち直して、私を見た。


「あまり、自分を追い込めないようにね」


水谷さんの言葉に思わず息がつまった。


「あなたは、凄く頑張っている。成績でいつも上位に名前あるし、この前ほんの少し覗かしてもらったノートがわかりやすくて、えっと、その、」


水谷さんは視線を泳がせた後、もう一度私をしっかり見据えた。


「もし迷惑でなかったら、今度ぜひ私と一度勉強をしてほしいのだけど」


真っ直ぐな目から届けられた言葉が私の中に入り込むのに、少し、時間がかかった。この私が、水谷さんと勉強…?あれ、私、水谷さんに同じレベルだと見てもらえてる?こんなにダメダメな私が水谷さんに認めてもらえてる?私なんか、私なんか、


「?あの、」
「名前?」
「ごめ、っ」


目頭が熱くなって、一気にいろいろなものが込み上げてきた。こんな私を、水谷さんは見ていてくれた。誰かが見ていてくれた。それだけで私の中の黒い、重い何かが無くなった気がした。全部吐き出したかのように、涙が止まらない。私はきっと、誰かに見てほしかった。自分はここに居る、私はここに居る。誰かに認めてほしかった。

一頻り泣いた後、水谷さんとハルくんを見れば困ったようにこっちを見ていた。いきなり迷惑をかけてしまった。ごめんね、と言いかけたら水谷さんにハンカチを差し出された。


「泣きたい時は、泣けばいい」


よくある言葉かもしれない。でも横を向いた水谷さんの気遣いとかハルくんのちょっと微笑んだ顔とか、全てが心に染みて、しばらく涙は止まらないと思った。ありがとう、なんてうまく言えなくて。蒸し返すような暑さの中、水谷さん家の風鈴の音が、なんだか心地よかった。




高三の夏、もう少しだけ、ほんの少しだけ、歩いてみようと思った。



あきらめるには、まだはやい。

120609
title by チョコフォン