「明日からしばらくは、来れそうにないんだ」
「そうなのか?」
「その・・・ちょっと二日連続家を開けちゃったから」
「おとうさんに、怒られちゃうのか?」
「医師さんなら、まだいいんだけど・・・ちょっと、厄介な人がいてね」
「おかあさん?」
「ウチには『お母さん』はいないよ」
首を横に振って雪男はそう言った。
燐は、混乱する頭の中を一生懸命に整理しようと、頭をフル回転させたけれど、「しばらく来れない」という雪男の言葉が重く圧し掛かり、何も考えなくなっていた。
「燐!」
金造に名前を呼ばれてはっとする。
雪男はすでに履き物を履いていていた。
「くすくす・・・じゃぁ、しばらくは来れないけど、また来るからね。それじゃ」
「あ・・・・」
玄関を出て、消えようとする雪男に、頭で考えるより先に行動に出ていた。
燐は履き物も履かず、裸足のまま駆け出した。
「待ってっ」
そこは、玄関の戸口。遊女と男娼が出れるギリギリの場所。
雪男の腕を抱きしめて、いけないと思いながらも咄嗟に出た行為。
「・・・嫌だ。置いていかな・・・っ」
言いかけた言葉がおかしいのは分かっていたけれど、雪男の腕を離すことが出来なかった。
それは、まるで幼子が親の手を離したくないと、必死にせがんでいる様だった。
自分でもわからない、強い強い恐怖が体を強張らせて、雪男の腕を放させなかった。
燐が震える手で、自分を掴む。
何かにすごく怯えている様だとしても、どうしてここまで他人に心が掻き乱れているのだろうか。
異国人の血が入っている者同士だから?
いや、自分はそんな同情的な人間ではないと自負している。
彼の境遇が、そうさせているとも思えない。
けれど、この手を振り払うことなんて、どうしても出来なかった。
掴まれている腕はそのままに、燐を抱きしめた。
「燐、手紙を出すよ。必ず書くから、だから泣かないで?」
燐は雪男の胸に顔を埋めたまま、こくんと頷いた。
「絶対だぞ、忘れるなよ」
「うん、絶対」
自分の胸から聞こえる声の主に誓いを立てると、ようやく燐が顔を上げた。
流した涙を雪男に見られたくないかの様に、ごしごしと袖で拭いて、ニカっと笑った。
「忙しいのに、引き止めてごめん。いってらっしゃい・・・」
顔の表情とは裏腹に、名残惜しそうに雪男の手を最後まで握って、
「うん、行って来るよ」
・・・そして、離した。
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