扉の向こうに広がるのは、見慣れている二人の自室。

雪男は、部屋に入るなりコートを脱いで、自分のベッドへほうり投げ、足早に自分の机に向かった。

勢いよく開けられた、机の引き出しから洗濯バサミの様なものが1つ付いた小さい機械、緑色したゴム製のシート、病院でよく目にする銀色のトレイ、医療用手袋を取り出した。

「その仔置いてくれる?」

燐に視線を向けることなく、雪男は指示を出す。
机に置かれたゴム製の緑色のシートに悪魔の仔を乗せると、燐は雪男の顔を覗き見る。

燐の視線に気づいた雪男は、視線を合わせないまま、作業を続けていた。
洗濯バサミの様なものを、悪魔の仔の手に挟み、表れた数字を確認すると燐に指示を出した。

「兄さん、普通の水でいいから200ml持ってきて」

「わかった」

なぜ、水が必要なのか、燐にはどう考えてもわからないことだけれど、雪男がお願い通り助けてくれようとしてるのは、雪男の真剣な様子からわかる。

勢いよく部屋を出て廊下にある水道へと走ったが、いつも口を濯ぐのに使っているコップでは、指示された量を運べないと気づき、勢い弱めないまま、食堂へと走った。


雪男は、机の棚の一番上に置かれた小さめの紙の箱を取り出した。
中から容量250mlぐらいの透明な筒状の容器と、細いチューブ、そして小さい袋が数枚を出し、その中の一枚を破いて、容器の中に中身を入れた。
中身は何やら洗濯洗剤のようなパウダーというよりも荒目の粒状の粉だ。
容器の蓋の部分には小さな穴があり、そこに付属の細いチューブを差し込む。


次に取り掛かったのは傷の手当。
アルコールを浸した脱脂綿で出血をしている箇所を丁寧に拭く。
思っている以上に汚れがついており、悪魔にアルコールかぶれがあるとは思えなかったが、これほど汚れているのであれば、生理食塩水で洗い流してからするべきだったかと、眉間に皺を寄せた。
銀色のトレイパソコンは、汚れと血を拭う脱脂綿で溢れ返った。

流石、悪魔と言うべきか、失血でショック状態を起こしているというのに、傷の程度に比べて、出血量が圧倒的に少なくなっていた。
これなら、下手に傷を縫い合わせる必要はないだろう。
ガーゼを当てて、包帯を巻く。
余計な薬は必要ないと判断した。


後方からパタパタと勢いよい足音がする。
勢い緩まず開けられた扉の音を聞き、燐が戻ったのだと確認する。

手渡された水は、零れないようにしっかりとペットボトルに入れられていた。
それは二日前に雪男が飲み干して、台所に洗って置いてあった、お気に入りの飲料水のものだった。
そこに計量カップを使って指示通りの水を入れて走ってきた。

燐から受け取ったペットボトルを開けて、用意してあった容器に勢いよく注ぐと、一瞬水道水が白っぽく濁り、そのあと炭酸水の様に小さな気泡を作りだした。

チューブをつけておいた蓋をきっちりと締めて、その先端を悪魔の仔の鼻先に置いた。


「雪男、それっ何?」

「家庭でも手軽に酸素吸入できる装置。1リットルしか出ないし、医療用とはとても言えないけど、ここにはコレしかないから」


加えて、中に入れた粒と水が化学変化を起こして、酸素を作り出すので、仮に兄さんの炎が出たとしても引火する可能性がない。
酸素っていうのは、許可書がいるので、個人で使うと何かと面倒なのだと言った。

顔以外真黒な毛に覆われた悪魔からは、外観から目血行が良くなりだしたのか分かりにくいけれど、手に付けた装置の数値が変わったのを燐でも確認できた。
数値が95を超えた所で、雪男は再びコートを着はじめた。

「その悪魔、どうして助けたいなんて思ったの?」

「悪魔の殺し方を教えてくれって頭下げてたんだ」

「それだけで、助けたいって思ったの?何か企んでるかもしれないじゃない」

「こんな低級悪魔が祓魔師が多く要るまでか?ありえねぇだろ」

「低級だからこそ、浅はかな知恵で人間を陥れようとするものだよ。兄さんだって経験あるだろう」

兄がそれを経験した最初の出来事は、あの祓魔屋の娘しえみが低級悪魔に憑依され、二人で祓ったこと。

あれはしえみが、悪魔を妖精だと思い込んだのがそもそもいけなかったのだが、本来人の心に隙入るのが得意なのは、むしろ低級悪魔の方だ。
そんな事例は授業でもたくさん学んでいるはずだし、任務でも経験しているはずなのに、と落胆がため息となって出た。

「だって、泣いてたんだぜ。その悪魔」

「え?」

「それに、助けたい人間がいるって。俺たち祓魔師じゃダメみたいで…」

泣くという表情を見せていたという悪魔を、雪男は再び見た。
見た目は小さい子猫の様で、そう思うと真黒な毛並みの半分を覆う包帯姿がなんとも痛々しい。

そういえば、祓魔師に傷つけられた傷と言えなかった。
同胞同士の争いでもあったのだろうか…それならば、合点がいく。
敵対する悪魔へ敵討のため祓魔師を頼ったのか?
思いあぐねるが、結局のところ悪魔が目を覚まさない限り、話は進まない。

それに、任務外とはいえ悪魔を連れ帰り助けたとなれば、日本支部長のフェレス卿に報告の義務もあるだろう。
色々面倒を持ち返ってきたなと、燐に声をかけようとした時、燐の方が先に口を開いた。

「俺だって色々考えたんだよ。でも、なんか…ちょっと前の俺を見てるみたいで」


それは青焔魔の仔とバレれた時のことだ。
燐は、何の罪もないのにヴァチカン本部で裁判を受けさせられ、一時的ではあったが塾生からも疎外されていた。

何事にも前向きな性格の燐だけれど、あの時期ばかりは情緒不安定気味で、夜に雪男が任務から帰ると眠っているはずの燐のベッドから鼻をすする音がしたり、朝食を取った直ぐにトイレに駆けこんだりしていた。

「俺は、傍にお前がいてくれてたけど、こいつにはそんなヤツがいないのかなって思ったら…助けたくって」

布団に包まり、溢れてくる涙を必死で抑えていると、そっと布団の中に入ってきて、何も言わずに後ろから抱きしめてくれた。
朝食を全部戻してしまった後、食堂に戻ると、時々雪男が服用している胃薬が、コップ一杯の水と共に置かれていた。
他にも、たくさんあるけれど、雪男はずっと燐の傍にいて支えてくれた。

ヴァチカンで約束させられた『称号』を取ることが出来なかった時も、体を張ってくれた。
雪男からすれば、自分はお荷物でしかないだろうにと思って、はじめて気が付いた。

実際がどうであれ、今の燐は人権を剥奪されたただの悪魔で、雪男の所有物だ。
燐の行動の責任は必ず所有者の雪男へと行く。
ただの使い魔が、所有者に強請って悪魔を連れ帰るなんて愚行でしかない。

「俺また勝手に突っ走った…また迷惑かけて、ごめん」

「クス…自分からちゃんと気づいて謝れたね。お仕置きを考えてたのに、残念。」

『お仕置き』と聞いて過去にされた来たお仕置きの数々を思い出し、「しない」と言ったのにもかかわらず、顔を青くしている燐の顔を、またクスリと笑い頬をひと撫でした。

「これからフェレス卿の所へ行ってくるよ。任務の報告もしなきゃいけないし、その仔のこともある」

魔法の鍵を使えば、部屋の入り口は玄関にもなる。
雪男が部屋を出て行く時は、かならず『玄関先』まで行って、いってらっしゃいの口付けをする。

そういえば、コレも燐が雪男の所有物になってからの習慣になったことだ。
雪男に求められない限り、挨拶に触れる程度の軽いキスしかしないけれど、今回は謝罪と感謝の気持ちが無意識に加わって、つい力んでしまった。
力の入ったキスを自分からしてしまうと、恐ろしい目に合うと経験しているというのに。

以前にイタズラ心で、自分の中では熱烈なイメージしてキスをしたことがあった。
その後、帰宅した雪男にお返しと言わんばかりに、声も涙も枯れてしまうほど愛を注ぎ込まれてしまった。

恐る恐る雪男の顔から離れ、ゆっくりと雪男の表情を確認した途端、燐の下腹部辺りがギュッと一瞬熱くなった。

し、しまった・・・・。

「主人を色々動かすんだ、この借りは後々に取っておくから覚えといてね、燐」

不敵に笑った主人が部屋を出た後も、燐は暫くドアの前で立ち尽くしていた。






雪男があのインチキ臭い日本支部の支部長と共に戻ったのは、出て行ってから約30分後のことだった。

拾った悪魔の仔も意識を取り戻しており、軽く自己紹介を済ませた直後だった。

悪魔の仔は『夜』と名乗った。
なんでも、助けたい人間の子供が名づけてくれたらしい。

二人が加わってから、祓魔師の前に現れた経緯や、祓魔術を学びたいと思った動機を詳しく聞きだすことになった。
全てを聞いた後、雪男が一言だけ夜に確認した。

「祓魔師は、当然『悪魔』を忌み嫌っている者が多い。君がいくら同胞に情がないと言っても、君をただの悪魔にしか見ない者もいるだろう。何か手を出されても、君が反撃すればそれだけで祓魔対象にも成りえる。それでも、君はこちら側にいたるかい?」

悪魔を祓う集団の中では、どれだけ志し高く一団に忠誠を示しても、『悪魔』は常に不利な立場に置かされる。
日本支部の門番として皆に愛されてたクロですら、主人である獅郎が死んだと聞き、悲しみのあまり少し暴れただけで、祓魔対象になってしまった程だ。

悪魔の身で無理にこちら側に居なくても、祓魔師が動けば夜の願いは叶えられる。
長年燐を守り、クロの騒動を側で関わった雪男だから、出てきた言葉だった。
こちら側の勝手で、不憫な悪魔は見たくないのだ。

けれど、夜の意志は固かった。

何としてでも自分の手で、恩人を救い、恩人に蔓延る元ボスを祓いたいと口にした。

「いいでしょう。それだけの意思がおありなら、試してみるのもまた一興」

夜の強い決意に、問いかけた雪男が黙ってしまうと、間を埋めるかのように、メフィストが口を開いた。
その口元は何かを目論んでいるのか、実に楽しそうに左右に広がりを見せている。

「本来、悪魔がこちら側で動くには、誰かの駒として悪魔の姿のまま使い魔として使われるか、憑依体に憑依して動くしかありません。ところが、貴方は、そのどちらも無理でしょう。使い魔では、貴方の意思で悪魔を祓うことは出来ませんし、貴方の力では、誰かに憑依するというのも難しいでしょう。ですから・・・人間に『変化』して下さい」

「『変化』?!そんなこと出来る悪魔なんて・・・」

「えぇ、妖狐、竹伐狸、化け猫ぐらいしか出来ませんね。ですか彼はキマイラです。可能性はあります。というか、それしかありません。できなければ、自分で祓うことを諦めて、誰かに仕えるしかありませんね」

「え、こいつってクロと一緒で猫又じゃねぇの?!」

「悪魔学で勉強したはずでしょう?猫又は尻尾が二つあるのが特徴です。まだ幼くてあまりキマイラの特徴は目立っては出ていませんが、翼があった形跡がある。キマイラならば能力によっては、我々にとってよい人材になるでしょう」

メフィストに言われ、確かに包帯を巻くときに肩甲骨部分の毛が少ない気がしたことを、雪男は思い出した。
肩甲骨部分にも、怪我があるのかと思ったけれど、そういった形跡はなく、腹部の怪我に気を取られてそのまま包帯を巻いたが、そういうことだったのか。

悪魔の仔に触っていもいないのに、それを見抜くメフィストは、やっぱり喰えないヒトだと思った。


キマイラとは、世間一般で言う『キメラ』というもので、その容姿にある一定の定義はあるものの、個体によって能力が違うが特徴だ。
その能力の幅は、正十字騎士団が確認できていないものも多くあるという。
メフィストの言う通り、人間に変化することも可能性としてないわけではないということだ。

「とにかく、今は静養が必要です。傷が癒えたら、まずは人間に変化できるかどうか試してください。人と形をしてれば、どんな姿であっても構いません。頑張って下さいね」


そう言い残して踵を返し、部屋の外へと消えた。

こうして、悪魔の仔・夜が自分の理想通りに事を運ぶには、人間に変化することが必須となった。
流石悪魔と言うべきか、翌日には怪我は完治しており、変化の訓練が行われた。
雪男と燐が学校や塾、任務などの外出の際には、クロが見張りも兼ねて、夜の訓練に付き添った。

といっても、『見張り』は表向きで言い方であって、夜は世話を焼いてくれている奥村兄弟とクロに従順で、逃亡や反逆の心配など全くなかった。

また、『優しさ』『人の温もり』に不慣れな一面を見せる夜を、どこか昔の燐を思わせる部分があり、奥村兄弟も慈しみを持って接する様になっていた。


そうして一ヶ月の月日が流れたある日の二人が各々学校の課題を進めている時、クロが嬉しそうに飛び込んできた。

『りん、ゆきお。よるがにんげんになったよ!』

振り返ると、そこには気恥ずかしいそうに、視線を二人から外して、ドアに立つ背の高い赤い目の燐が立っていた。








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