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授業も終わり、帰る時刻になった。
結局あれから他の人と関わることはなかったし、教科書に悪戯されるのは困るので、自分の席でただ黙ってじっとしていた、周りは当たり前の様に僕へ無関心だった。自分が空気か透明人間にでもなったような感じで、かと思えば、時たま嘲笑めいた笑いと見世物を見るような眼差しを向けられる。
大丈夫、何もされてないんだからマシな方だ。と自分に言い聞かせて気にしないようにした。
休み時間は、ほとんど寝たふりで過ごした。
前までは休み時間になれば化野が話しかけてくれるから、暇と感じたことはなかったけど、一人だとこんな感じなんだって、今更ながら思い出す。ようやく授業が終わり、道具を鞄に詰めて教室を出たところで、誰かに肩を掴まれた。
「よ〜、狐くん一人で帰んの?」
「一緒にゲーセン行かね?」
「…………!」
顔をあげると、クラスメイトの……確か、今井がそこに立っていた。前の方から先生が歩いてきたけど、肩に手を回されて今井はにこにこと親しげに笑った。近くには山口や鈴木もいて、これから遊びに行こう、なんて話をされれば、傍から見たら仲が良さそうに見えるのかもしれない。けど、僕は彼らと仲良しなんかじゃない。
むしろ、山口には前に化野が風邪で休んだとき、殴られた事がある。早鐘を打つ心臓を抑えながら、何かされるのではないかと、僕の足はまごついた。
「ちゃんと歩けよ」
ぼそりと耳元で囁かれ、僕はおぼつかないながらも歩を進める。周りの生徒は、誰も僕のことなんて見ていない。
やがて、僕は今井に引っ張られるように、人目のつかない、校舎裏にある用具倉庫へと連れてこられた。
中は埃っぽくて、人の行き来もない。それどころか、不良のたまり場になっていると聞いたことがある場所だった。逃げられないように、背後を陣取られ、がくがくと足が震える。
そんな僕を見て、今井がにやついた笑みを見せた。こ、怖い。逃げたい。拒否反応にも似た思いが胸に溢れる。
でも、どうやって? 今から走って逃げようか? 出来るかな。僕はそんなに足が速いわけでもないし、三人も居たら掴まってしまうかもしれない。
でも、このままこの倉庫に入るのは……。
「おらっ、突っ立ってねえで早く入れっつーの!」
「っ!」
そんなことを考えている間に、背中を強く押されて、僕は使われていない用具倉庫へと押し込まれ、躓いて床に転がった。埃と、黴と、僅かにヤニの臭いがする。よく見たら、煙草の吸い殻が床に落ちていた。
ドアが閉まると、灯りは窓からの光だけになり、結構暗い。今井に続いて、あとから山口と鈴木が入ってきた。ニヤニヤしながら、床に這いつくばる僕を見下ろしている。
「なー、マジでいいん? こんなことして」
「あいつがいいっつったんだからいいんじゃね?」
「ウケる、何したのこいつ」
「…………」
三人が話している内容はわからないけど、僕の本能が警鐘を鳴らしていた。いや、こんなの、誰でも逃げたいと思う。
ここに居たらヤバイ、というのは、誰にだってわかることだ。けれど、立ち上がったところで、今井の足が僕の腹にめり込んだ。
「…………っ!」
「あーーー、ストレス発散」
「……っ……けほっ……っ」
「ずっと欲しかったんだわ、サンドバッグ」
ゲラゲラと笑いながら、何の脈絡もなく飛んできた暴力に、僕は腹を押さえて蹲る。めり込んだ皮膚の先にある内臓がずきずきと痛む。額へ脂汗が滲み、腹を押さえた。胃からせり上がってくる吐き気に耐えながら、その場に転がっていると、再び蹴りが飛んでくる。今度は背中だ。
「はい二発目〜」
「あ゛っ……! ぐっ…………っ」
「お、声初めてきーた」
「へー、喋るんだこいつ」
「……っ! ……っ」
無様に転がる僕をにやにやと笑いながら、山口は僕の髪の毛を掴み目線を合わせてきた。お面越しに、目が合うと、山口は笑う。
「小波くんさー、痛い?」
「…………」
僕は小さく頷いた。痛い。今だって、蹴られたところが熱を持ったようにじくじくと痛むし、何より怖かった。突然やってくる理不尽な暴力に怯えて、小さいながらも、何度も頷く。痛い、といえばやめてくれるんだろうか。
けれど、そんなことはないって、僕自身でわかっていた。
「オーレもっ」
「い、げほっ、っあ、……っ」
背後から鈴木に殴られて、丸くなる。せ、背中を殴られた方がまだマシかも……と耐えていると、今井は笑いながら止めに入った。
「おいおい、俺が今喋ってんだろ。なー? 酷いよなあこいつ、痛いって言ってんのに」
「…………」
「やめてほしい?」
今井の問いに、僕はまた頷いた。そんなのやめて欲しいに決まっている。すると、今井は僕に手のひらを指しだした。
「んじゃさ、金」
「…………」
「一緒にゲーセン行くだろ? 軍資金確認しとかなきゃ」
「…………っ」
その目は、僕のことをただの食い物としか思っていない、いや、同じ人間だなんて思ってないように思える目で、小さく震えた。
僕は、行くなんて一言も言っていないし、そもそも、お金なんて持っていない。バイトはしていないし、お小遣いだって、そう多いものじゃない。財布を見れば、わかるはずだ。
大人しく、鞄に入っていた財布を差し出した。
「おっ、話わかるじゃん……、ってうわ、中身しょっぱ!」
「いくら?」
「五百円」
「嘘だろオイ」
「今時小学生でももっと持ってんだろー」
呆れ顔で睨まれ、縮こまる。そんなこと言われても、普段寄り道なんてしないで家に帰るし、定期があるから、お金もそんなに使わないし……。あまりの少額に苛ついたのか、強く髪の毛を掴まれた。
山口が顔を凄めて僕の髪の毛を強く引っ張ると、頭皮も引っ張られて痛みが走った。
「……っ!」
「おいおい、っざけんなよマジ! 明日までに三万な」
「…………っ!」
僕は大きく首を横に振った。三万って、無理だ。そんなお金はどこにもない。仮に用意しても、きっと際限なく毟られる。そんなことは、わかっていた。
山口は、僕が首を振った事が不服だったらしく、鳩尾に膝を放ってきた。
「オラッ!」
「…………っうぇっ……げほっ……! いっ……」
「いや、お前に断る権利とかねーから」
「金がねえならさ、適当に高額なもん盗んでこいよ。したら俺らがそれ売ってやっから」
「あ、でもお前の名前でアカウント作るけど」
「なんかあったときよろ〜」
「…………っ! ……っ!」
そんなの出来ない。盗みなんて犯罪だし、それを売りさばくのだって犯罪だ。力なく首を横に振ると、舌打ちと共に再び蹴りが飛んできた。
「あ゛〜〜、んだよこいつ。言うこと聞けっつの。つか面邪魔だな、顔殴ってもこれしてんならバレねえし取ってもよくね?」
「それは禁止だからだめだろ」
「でもバレなきゃ大丈夫ッショ、顔がマシなら別の稼ぎ口だってあるんじゃん?」
へらへら笑いながら、山口の手が僕のお面へと伸びてきた。それに、今井も同意する。
「ま、変態のおっさんとかもいるしな。最悪、動画で稼ぐ手もあるし……」
「…………っ!」
僕は渾身の力を振り絞って近くに居た鈴木の体に体当たりした。まさか反抗されるとは思っていなかったのか、掴んでいた手の力が緩まった。……逃げなきゃ!
今日逃げても、また明日同じ目に遭うかもしれない。明日は逃げ切れても、明後日掴まるかもしれない。不安はつきないけれど、で今はとにかく逃げないと。痛む体に鞭打って、僕はドアへと走った。
早く、早く、あとちょっと!
けれど、すぐに後ろから襟首を掴まれ、体が張り倒される。
「っ!」
「待てやコラ!」
「何逃げてんだよ!」
体を強かに床に強打して、手がドアに届かぬまま、再び奥へと引きずり込まれ、再び床へと転がされる。
額に血管を浮かせながら、山口が僕の肩を踏み潰して、ぐりぐりと押しつけてきた。痛みに、表情が歪む。
「っあ、い゛っ……!」
「っあー、マジでキレたわ。クソ雑魚のくせに、おい、こいつの服脱がせ。これからフルチン土下座させっから」
「うっわ山口くん鬼畜〜」
「動画撮ってアップする?」
「炎上すんだろ、そういうのはさあ、違うところに売るんだって」
「……っ、……!」
頭を地べたに押さえつけられ、腕と足を掴まれて無理矢理シャツを剥がされた。ズボンのボタンを外され、下着ごと刷り下げられる。僕は必死で四肢をばたつかせ抵抗する。いやだ、こんなの、嫌だ!
カシャ、という音が上から響いた。笑いと共に、薄暗い部屋の中でフラッシュが降り注ぐ。目頭がツンと熱くなり、息が苦しくなる。呼吸を繰り返しながら、地面に爪を立てた。怖い。助けて。
でも、誰も助けてなんてくれない。だって、ここには誰も居ないし、居たとしても、誰も僕を見ない。
僕は震える声で抵抗した。
「…………や、やめ……っい、やだ、ごめんなさ……!」
「るせーよ! いつもみたいに黙ってろ!」
「なー、マジでこのお面邪魔なんだけど、つーかこいつの顔見てみてえし、取っちゃわね?」
「すんげー不細工だったらお面付けたまま撮影会にしようぜ」
「笑える。あり得そうだよな。だってアレが気に入ってるくらいだし」
「なあ、紐かなんかない? コイツ暴れてウザいんだけど」
「……やだ、い、いやだ……っ」
「うるせーって」
脱がされたシャツで、腕を一つにくくられ、いつの間にか、下着もズボンも無くなっている。靴下以外ほとんどむかれてしまった貧相な体を見られて、羞恥に体が熱くなる。
なんで、こんなことされないといけないんだろう。裸にされた僕を見て、誰かが嘲笑を溢した。
「うーわっ、何この痕」
「え、意外と遊んでる系? こいつ未だに謎だからなー」
「ってかちっちゃくね?」
「ギャハハハ!」
「どうでもいいけど、ほら、フルチン土下座動画待ってるから」
「土下座してたらちんこ見えなくね?」
ゲラゲラと笑いながら、抑えられた状態で、カメラのレンズが僕の方へと向けられる。ぴこん、と撮影を開始する音が聞こえた。
「はーい、現役DKの生全裸で〜す」
「やっぱ顔見得ねえと雰囲気でねえな」
「ほら、足開けって、変態へのご褒美だろ」
「……っ!」
「何力入れてんの? 俺らだって別にお前のちんぽとか興味ねえから」
「てかそれより顔だろ、顔!」
僕はレンズから顔を背けて、拘束された腕の中から抜けだそうと身を捩る。こんなの、撮られたくないし、ネットに流されたりなんかしたら終わりだ。家族に見られたりしたら、考えるだけで死にたくなる。
僕は首を全力で横に振って、出来る限り声を大きくして叫んだ。
「いやだっ、やめてください! お、おっおね、お願いしますっ!」
「お、声いいじゃん」
「でもでかすぎるとバレっからもうちょい静かめにな」
「ん゛っ……!」
口の中に布を詰め込まれた。僕が身につけていた衣服の一つかもしれない。なんで、こんな目に。お面の奥で涙が溢れた。
「……っ……ひっ……う……」
「あ、なんか泣いてる」
「マジ? ウケる〜」
「っぱ雑魚じゃん、泣き顔撮ろうぜ。はい、ご開帳〜」
言いながら、お面に手がかけられたところで、倉庫のドアがノックされた。
一瞬、僕以外の全員が硬直する。お面がずれて、口元だけが空気に晒された。息苦しさが少しだけ和らぎ、そのノックに少しだけ希望を見いだした。
もしも、もしもドアの向こうに居るのが先生とかなら、この状況から助けて貰えるかもしれない。そう思ったんだ。けれど、僕の当ては外れた。
「おい、入るぞ」
ドアの向こうに居たのは、教師ではなかったらしい。教員というには若い声が聞こえたと思えば、ドアが開き、見知った顔が覗いた。
入ってきたのは、佐々木だった。佐々木は、僕の姿を見ると、軽蔑したように、少しだけ顔を顰め、無視して今井の方まで歩いてきた。
入ってきたのが教師では無かったことに安堵したのか、それとも別のものを恐れていたのか、来訪者が佐々木だと知ると、今井達はあからさまに表情を崩す。
「……んっだよ、佐々木かよ」
「焦ったわ−、マジ」
「何してんのお前ら? 輪姦?」
「あ? ざけんな、男相手にすっかよ。ただ、ちょーっと小遣い稼ぎに動画撮るだけ。別によくね?」
「……いいけど、もうすぐ見回りくるから、やべえと思うよ」
「うわ、あ? 今日見回りの日か」
「うぜーー、あいつら定期的に見に来んよな」
「教えにきてくれたん? サンキュー」
「……あー、あとさあお前ら」
佐々木はダルそうに、歩きながら僕の腕を押さえて、お面に手をかけていたいた山口の手を蹴った。
「人の話聞いとけやボケカス。めんどくせえんだよ」
「ってえな! 何すんだよ」
「お面外すなって言われてんだろが、聞けやカス、殺すぞ」
その言葉に、三人の表情が揺らぎたじろいだ。
まるで、悪いことを咎められたような表情だった。確かに今していることは言うまでもなく悪事だと思うけど、僕のお面を外すことよりも、今この場で取り沙汰されていることの方が、よっぽど止めて欲しいのに、まるで佐々木はそこが最優先とでも言うように、三人を睨みつけた。
前に西園と揉めた時のように、一触即発のような空気になるかと思いきや、今井がへらへらと笑いながら、僕から離れていった。
「や、まあ、ちょっとした冗談だって! 別に逆らったりしねえし、なあ?」
「あ、ああ……全然! この動画も消しとくって」
「んじゃ、俺らいくから……い、言うなよ」
そう言い残すと、全員そそくさと佐々木の横を通り過ぎて、あっという間に三人は居なくなった。
後に残された僕は、ぽかんとしながら佐々木を見つめる。……助けてくれた? すると、僕の気持ちでも汲み取ったように、佐々木が渋面で僕を睨みつけてきた。
「別にお前を助けたわけじゃねえから、勘違いしてんじゃねーぞクソ狐」
「…………」
近くに落ちていた僕の服を、足で掬い上げて、手も触れず僕へと放ってくる。僕は慌てて自分の服に袖を通していく。
「あ、ありがと……」
「だから助けてねえから、っつーか普通に喋んのかよボケ! 今までの無口キャラなんだったんだよ!」
「…………」
何に怒っているのかはわからないけど、佐々木の思惑はどうあれ、結果的に助けて貰ったことには変わりが無いので、僕は小さく頭を下げた。
「ぼ、僕喋るの苦手で……、その、なんかノリで、こういうキャラに……」
「お、お前結構根性あんな……。ってそうじゃねえよ! つーか別にお前のことなんてどうだっていんだよ俺は」
イライラしながら、佐々木が僕の前に屈みこむ。元々つり目がちな瞳を更につり上げ、ピアスの唇を尖らせて、じろりと僕を見つめる。なんだろう……。あ、助けてくれたお礼かな……。
「…………お、お金なら五百円しか……」
「カツアゲじゃねえから、っつかもっと持ってろよ小学生かよ死ね!」
「……ごめんなさい……」
「……あー……お前さぁ、何があったのか知らねえけど、さっさと大志に謝れよ」
「…………?」
「土下座でもなんでもいいから、謝って許してもらえって。な?」
諭すような言い方に、僕は首を縦には振らなかった。許して貰うも何も、僕は許されないようなことをしたつもりはないし、許して貰ってどうするんだろう。化野は、ただ僕に関わらなくなっただけなのに。
黙り込んでしまった僕に、佐々木は舌打ちしながら続ける。
「別に俺はお前のことなんてどうでもいいの。お前がいじめられようが服むかれて動画撮られて拡散されようが不登校になろうが、売春やらされようがマジどうっっでもいんだよ。関係ねえし。でもなあ、グループ内の空気が悪くなるのは嫌なワケ。にっしーも大志も……。あ〜〜〜、楽しくねえし、空気最悪だし、死ぬほど居心地悪いし、だからお前が謝って元に戻るならそれでいいからとりあえず謝れ」
「………………」
「……もう大志がお前のこと構ってても何も言わねえから」
「…………」
佐々木はきっと、冗談とかじゃ無く、本心で言っているんだろう。いつものように、へらへらと巫山戯た笑い方はせず、真面目な顔で僕を見つめてくる。
……でも、謝るって、何を。
やっぱり化野のことが好きだよとでもいえばいいんだろうか。佐々木は何か勘違いしている。きっと、僕と化野が喧嘩したと思っているんだ。でも、それとは少し違う。これは、僕が提案して、化野が選んだ答えで、そこに謝るとか、謝らないとかっていう話はない。
何に謝るかわからないまま謝られても、化野だって困るだろうし、それに、今更答えを変えるなんて、虫が良すぎるとも思う。
佐々木はがしがしと頭をかいて、僕に指を突きつけた。
「とにかく、忠告したから、じゃあな変態」
「へん……」
最後に不名誉な渾名を付けられた……。別に僕の意思で脱いでいた訳でもないのに。佐々木が出て行くと、さっきまで騒々しかった小屋の中は、一気に静かになった。
よろつきながら、僕は立ち上がる。……とりあえず、今日は家に帰ろう。朝から色々あって疲れたけど、少し蹴られただけだ。
大丈夫、と自分に言い聞かせて、足を進めた。けれど、思いのほか体は萎縮していたらしく、思うように足が動かなかった。
今更、震えが全身を襲ってくる。
「あ、あれ……」
ガタガタとお震える体を、抑えようと頑張ったけど、震えは止まらなかった。なんで、大丈夫だよ。全然大丈夫だって。そう自分に言い聞かせても変わらない。
本当は、怖かったからだ。どんなに自分を落ち着けようとも、怖かったのだと、体が訴えてくる。
押さえつけられて、裸にされて、動画を撮られて。理不尽な暴力も、降りかかってくる嘲笑も、罵倒も、全部怖かった。消すって言ってたけど、本当に消してくれたんだろうか。
これからも、あんなことがあるのかな。
考えるだけで、怖かった。さっきまで引っ込んでいたはずの涙が、唐突に溢れてくる。
「あ、う……」
止めなきゃ、と思っても止まらない。
僕は、つけていたお面を外して、ぽろぽろと涙をこぼした。
「うっ……」
怖い。
怖い。
怖い。
もう嫌だ、学校になんて来たくない。
あんなこと、もう二度とされたくないよ。
そんな思いが胸に溢れて、止めどなく溢れてくる涙を腕で拭う。先生が見回りに来ると佐々木は言っていたけど、どうやらあれは嘘だったらしく、誰も来なかった。
僕は一人倉庫で泣き崩れた。いつの間にか日が落ちかけて、倉庫の小窓からは西日が差し込んでいる。
蹴られた腹が痛む。殴られた背中が痛む。掴まれた頭が痛む。でも、一番痛いのは。
「……やだな……っ」
心が一番痛かった。やだな、これから、またあんな日々が続くのは。すごく、いやだな。
「……っう〜〜〜……」
涙をこぼしながら、明日は学校を休みたいと思ってしまった。
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小学生の頃、いじめられた事がある。
昔から、すぐ赤くなりやすい体質で、それをクラスメイトにからかわれたのがきっかけだった。
最初は、タコとか、真っ赤になるからそれにもじったからかいばかり受けていた。けれど、やがてからかいは暴言へと変化して、それがいじめに変わるのに、さほど時間はかからなかった。
今思えば、反抗の一つでもすればよかったのかもしれない。
でも、僕は恐ろしかった。報復もだけど、誰も味方になってくれないことや、僕の話を信じて貰えないことが、怖かった。だって、あの時クラスの全員が、そのいじめっ子の味方だったから。もしも、誰かに話して、それをチクられたらどうしよう。
お母さんにいじめられていることがバレたら恥ずかしい。そんな思いが積もって、結局誰にも何も言えないまま、日々は続いた。もしかしたら、勇気は気づいていたのかもしれない、よく泣いている所を見られたから。心配かけたくなくて、結局勇気にも言わなかったけど。
けれど、そんな僕を助けてくれた人が、一人居た。
友達だと思っていたし、向こうも僕を友達だって言ってくれた。正義感に溢れた彼は、いじめっ子から僕を守ってくれた。嬉しかったし、大好きだった。でも、それが、気にくわなかったんだろう。
僕へのいじめが徐々に薄くなり、ある日インフルエンザに罹って、学校へ行くと、彼の席は無くなっていた。
思えば、彼も僕には言わなかったのかもしれない。優しかったから、正義感が強かったから、僕に心配をかけないよう、黙ってくれていたのかもしれない。
でも、僕が長く休んだのをきっかけに、変わってしまった。
『お前のせいだ! お前なんてかばうんじゃなかった! もう出てけよ!』
学校に来なくなってしまった彼の家にお見舞いに行くと、その言葉を最後に、彼は転校していった。
あの後、すぐに学年が変わり、クラスも変わったから、いじめはなくなったけれど、今でもあの時の事を思い出す。小学生のいじめといえど、物を隠されたり、水をかけられたり。……流石に今日みたいな事はされなかったけど、女子の前でパンツを下げられたりと、思い出すだけで息が詰まりそうになる。
でも、それよりもあの時の言葉が胸に刺さって抜けなかった。
優しさに甘えると、友達まで巻き込んでしまう。だから、巻き込まないようにしないと。
「お帰りー、正義、ご飯出来てるわよ」
「うん、ただいま……。勇気は?」
「勉強合宿でしばらくいないって」
「そっか……」
「正義、なんかあった?」
「え?」
「なんか元気ないわよ?」
「……え、そうかな。そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
言えない。
お母さんには言えない。お父さんは仕事でほとんど帰ってこないし、ましてや勇気にも話せない。
……大丈夫。小学校の時だって、なんとかなったし。学年が変われば、きっとなくなる。それまで、我慢すればいいだけだ。
僕は笑顔を取り繕って、明日の学校のことを考えた。
大丈夫、大丈夫。
そう、 自分に言い聞かせた。
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