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「りょーすけくん、ぼくなあ、雨降ってたから、迎えにきたんよ」

 大学を出た先で、チビ灯が、雨合羽を着て、傘を持ったまま立っていた。通りすがりの女の子が、チビ灯にちらちらと目線を送っては隣の友達と笑いあっている。かわいい、という声が少しだけ聞こえてきたので、馬鹿にしているわけではないんだろう。
 俺の隣に立っていた飯倉が、おかしそうに笑った。

「何、笠原、隠し子?」
「ちげーよ、……親戚の子。灯くん、どうやってここに? つか、よく俺のとこ来れたな」

 買った覚えのない雨合羽も気になるけど、まず、俺は自分の大学の場所を彼に教えた覚えもない。傘はなかったので、正直助かったけど、こんな子供がどうやってここまできたのか不思議で仕方がない。

「机の上にな、りょーすけくんの宿題あったやんか」
「ああ、課題……」
「そこに、ここの場所書いてはったんよ」

 確かに、大学で使っているファイルをそのまま起きっぱなしにしていたので、あそこには電話番号と住所は書いてあったかもしれない。でも、漢字で書いてあったはずだ。確か、五歳位だろ? 読めるのか?

「……あれ、読めた?」
「ううん、僕なあ、大っていう字と学っていう字は読めたんやけど、その前の字が読めへんかったんよ。せやから、近くにいる人に聞いたんや」
「…………。その雨合羽は?」
「教えてくれた人が、偉いなあってくれた」

 少しだけ誇らしげに、チビ灯は笑った。俺は少しだけため息を吐いて、しゃがみ込み、目線を合わせた。

「おうちで待っててって、言っただろ」
「……りょーすけくん、怒ってはる? ごめんなさい……」
「え、あっ、いや、怒ってはいないんだけどな、ほら、車とか誘拐とか、いろいろ危ないから!」
「笠原、ちっちゃい子泣かせるなよ〜」
「ぼ、僕、泣いてなんかおらんもん!」
「おー」

 けらけらと笑う飯倉に、チビ灯が俺の後ろに隠れながら声を上げた。どうやら、俺が思っている以上にチビ灯は人見知りらしい。
 しかし、子供、それもこんな幼子では、睨まれても怖いどころか、微笑ましいと思う人間が大半だろう。案の定飯倉も笑いながら「ごめんなー」と言って手を振っている。チビ灯は悔しそうに俺の服をぎゅっと掴んだ。

「つか、その子笠原が預かってんの? なんで?」
「まあ色々あって。あー、悪い飯倉、俺、この子と帰るわ、また今度な」
「いいよいいよ、気にすんな。じゃなー」

 雨が止むまでどっか行くか、と話していたけど、置いて帰ることはできない。飯倉はチビ灯の顔をじっと見つめた後、一拍置いて、足早に去っていった。いや、そこまでさっさと行かなくても、と思うくらい早く。何か用事でもあったのか?
 残された俺は、雨合羽を着たチビ灯の手を、離れない様に握った。

「言い忘れてた。傘ありがとな。どうしようかなって思ってたんだ」
「……僕えらいん?」
「一人出かけるのは危ないからもうしたら駄目だけどな。傘を無事ここまで届けられたのはえらい」

 言いながら笑いかけると、チビ灯は嬉しそうに口元を綻ばせた。
 こうやって見ると、普通のいい子に見えるんだけどなあ、なんでああなっちゃうかね。ぱしゃぱしゃと、貯まった水たまりを避けながら、自宅へと戻る。
 今日は雨が降っているので、バスで帰るか。チビ灯がよろめきながら持ってきた大きめの傘をさして、雨を凌ぐ。灯の仕事がなければ車で迎えに来てもらえるけど、そのために連絡するのもな、こいつら仲悪いし。

「りょーすけくん、僕なあ、雨嫌いやねん」
「ん?」

 バス停に向かって、二人並んで歩いていると、チビ灯が小さく呟いた。

「なんで?」
「雨の日って、やなことばっかりあるんよ……」

 雨、雨なあ、そういえば、渦見も雨が苦手だったな。と、思い出したくもないことを思い出してしまい、俺は頭を振った。

「でも、今はりょーすけくんと一緒に手ぇつないで歩けるから、ちょっと好きや」
「……お、おお」

 にこりと笑った顔は本当に可愛い物だったので、俺は言葉に詰まった。
 こ、このまま、成長してくれればこいつは聖人君子並にいいやつになってくれるのでは? そんな思いが頭を過ぎるが、そんなことはあり得ないので、俺は雨の日の歌を歌いながら、チビ灯と帰路へついた。
 家に帰ったら、お風呂を洗って、飯を作ろう。灯はまだ帰ってきてないだろうから、チビ灯と二人か、夏休みが始まる前までは、ずっと一人暮らしだったから、なんか変な感じがする。雨じゃなければ、外でキャッチボールとかできたのに、残念だな。
 将来結婚して、子供ができたら、すげえ可愛がっちゃうかも、俺。

 なんて、暢気な想像をしてみるのだ。

「灯くん、今日のご飯なに食いたい?」
「りょーすけくんの作るご飯なら、なんでもええよ!」
「じゃー、肉じゃがにでもするか」
「肉じゃが僕好きや!」

 いつか、終わるものなのに。



***



 嫌な夢を見ることがある。
 それは、主にあの夏休み中に起こった出来事で、思い出したくないものだった。夢の中で、俺は蜘蛛の糸に絡め取られている。
 黒く、大きな蜘蛛で、その蜘蛛が俺を食おうと狙っているのだ。身動きの取れない暗闇の中、奏が俺の背中を焼いた。閉じられた視界の中、知らない男の手が伸びてきて、体をべたべたと触られ、犯され、陵辱され、死ぬかもしれないと思った悪夢を、再び夢の中で味わうのだ。苦しんで、もがいて、手を伸ばした先で、渦見が笑う。
 鉄格子の向こう側で笑う。いつもの笑い声が、耳の中に木霊して、追い縋った先に掴んだ手が脆く崩れ落ちていったところで、目が覚めた。

「……っ!」

 起きると汗がひどくて、水でも飲むか、と起こさない様に布団を捲ると、隣から小さな声が聞こえてきた。

「りょーすけ君、怖いゆめ見たん?」
「……あ、起こしちゃったか」

 チビ灯が、怯えた様な目で、俺のことを見ていた。
 多分、夜の二時くらいだろうに、魘されてでもいたんだろうか、その声で起こしてしまったのかもしれない。俺のことはいいので、眠れ、と言おうとしたところで、チビ灯は俺のことを不安げに見つめていることに気がついた。

「? 大丈夫だよ、ごめんな、起こしちゃって」
「怖い夢、見たんや?」
「……どうした?」
「僕と一緒におったから、りょーすけ君、怖いゆめ見たんや、ごめんなさい……」

 泣きそうな顔をしていたので、俺は慌ててしまった。急になにを言い出すんだ。確かに嫌な夢を見たことは事実だけど、今だけじゃない。たまに、見ることがあるのだ。別に、チビ灯のせいではない。
 弁解して宥めようと頭を撫でると、チビ灯が俺の服の裾を掴んだ。

「おかあさん、僕と一緒に寝たら嫌な夢見るって、寝てくれへんかった、おとうさんも」
「え……」
「旭にいも、夕ねえも、一緒に寝てくれへんかった……。一緒にいて、くれへんかった。白子も、僕と話すと、嫌なことがあるんや。僕、悪い子やから、りょーすけくんに嫌われたくなくて、ずっと秘密にしとったんよ……ごめんなさい……」
「…………」

 それは、渦見が持っていた力だと聞いた。
 周囲に影響を及ぼす力。けれど灯はその力が弱く、それ故にあの家で渦見の偽物として扱われていたと、後から聞いた。チビ灯も、渦見程ではないにせよ、似たような力は持っている。だから、ずっと一人ぼっちだった。
 俺がなんて言葉をかけようか考えあぐねていると、服を掴んだ手が震えている。絞り出した声が、暗い部屋の中で、小さく響いた。

「お願いやから……僕んこと、嫌いにならんといて……ひとりは寂しい……」

 それは、幼い灯の、心の叫びだったのかもしれない。
 ずっと、言いたかった言葉なのかもしれない。
 望まれない能力が中途半端にあるくらいなら、最初からいらなかったのに。
 涙ぐみ、こぼれそうな瞳にそっと手を伸ばそうとすると、後ろからその手を捕まれ、阻まれた。

「お前アホやな、そんなん無理に決まってるやん」
「と、……!」

 いつから起きていたのか、俺の隣の布団で寝ていたはずの灯が、俺の背後で呆れた様に鼻を鳴らした。

「うわっ」
 背中の襟裏を捕まれて、体が後ろへと傾くと、その体を灯が抱き止めた。

「だーれも助けてなんてくれへんし、一人でなんとかするしかないねんて、はよ気付けや、ほんまアホやね」
「っ……! うるさい! アホはお前や! りょーすけくんに触んな!」
「は? お前はもともとここにおったらあかんねん。いつかいなくなるんやから、助けを求めても無駄やで」
「と、灯、やめろ!」

 案の定、チビ灯は言われたくないことだったのか、涙を浮かべて震えている。

「りょーすけ君、僕、帰りたくない……、僕と一緒にいて」

 伸ばした手を、俺はすぐさま握ることができなかった。それは、灯が俺の体を掴んでいたというのも理由の一つだけど、それだけじゃなくて。
 そこまで強い力で掴んでいた訳ではないのだから、振り払えばその手は掴めただろう。
 でも、俺が一瞬ためらったのは、それが嘘になってしまうかもしれないと思ったからだ。
 だって、チビ灯は突然現れた。どんなファンタジー現象が起こってそうなったのかはわからないけど、チビ灯は、この時代にいるべき人間ではない。いつかは帰らなくてはいけなくなる、かもしれない。不確定だけど、その要素は高いだろう。俺がここで手を取ったとしても、ずっと一緒にいることはできない。嘘をつくのは、多分チビ灯の為にならないんだ
 俺がためらっていると、チビ灯はくしゃりと顔を歪ませた。

「……駄目なん? やっぱり、僕のことが嫌いになったんや……」
「ち、違う、そうじゃなくて、灯くんのことは、好きだよ」
「ほな……」
「でも、ずっと一緒に居ることはできないんだ。……ごめんな」
「……っどうしたら、一緒にいてくれるん? 僕、ぼく、なんでもするから」
「…………」

 こんな時に限って、灯は何も言わなかった。俺は俺よりも小さな手を握ると、優しく頭を撫でた。不憫だ。と思ってしまうのは、酷なことなのかもしれない。
 だって、後ろに灯がいるんだから。灯は、子供の頃、こういう大人が周りにいなかった。だから、見たくないんだろう。
 でも、これは、可哀想と思わずにはいられない。助けてあげたいと思う。けれど俺にそんなことはできない。ならばせめて、もっと視野を広げてほしいと思った。

「一緒にはいられないけど、俺は灯くんのこと、好きだよ。他にも、好きになってくれる人はいる」
「好きなのに、一緒におったらあかんの? なんで?」
「灯くんには、帰る家があるだろ」
「いやや、帰らない。帰りたくない」

 頭を振って、チビ灯が俺に抱きついた。涙がじわりと服に染みを作っていく。手をそっと添えると、後ろから灯が声を上げた。

「お前、一緒におってまだ良介君に嫌な夢見せるん?」
「……!」

 その言葉に、チビ灯が顔を上げる。皮肉っぽく言われた言葉に、チビ灯がわなわなと震えだした。

「良介くん、かーわいそ」
「ちが……、ちゃうもん! 僕、そんなことないように、ちゃんと……するし……」
「どうやって? あったらやってるやろ。そんな方法も知らんくせに」
「……っ……」

 子供相手に、と口を挟もうかと思ったけど、これはかつて、灯自身が悩んだことなのかもしれない。そう思うと、何も言えなかった。
 しばらく黙り込んだあと、チビ灯が口を開いた。子供体温ってやつかな、まるで熱源を膝の上に置いているみたいだ。冬のはずなのに、少し暑い。

「……りょーすけくん」
「ん?」
「僕が、ちゃんとして、大きくなったら、迎えにくるよ。せやから、それまで待ってて」
「え……」
「だから僕……」

 その瞬間、チビ灯の姿が消えた。
 瞬きをした、ほんの一瞬だったのに。

「……あれ!?」

 振り返ると、灯も驚いたのか、目を見開いていた。

「お……俺の妄想とかじゃないよな?」
「……良介くんは、子供の頃の僕と遊びたいって妄想でも抱いてはったん?」
「……だよな」

 つまり、今までの光景は幻覚でもなんでもなく、実際にあったことなのだ。
 現れたのも突然だったし、消えるのも突然だったな。ふう、と息を吐くと、部屋の片隅に置いてあったもう使うことのない子供服が、折り畳まれて鎮座していた。やはり、現実のことなのだと感じさせる。
 静かになってしまった部屋の中、俺は小さく問いかけた。

「……お前も、子供の頃、ひとりぼっちで寂しかった?」

 さっきのチビ灯の言葉を思い出して、灯を振り返る。灯は少しだけ肩を竦めると、顔を近づけてきた。

「……うん」
「……そうか」
「あいつに取られるんやないかって、さっきまでも寂しかった」
「……あれはお前だろ」
「ちゃうよ、あんな甘ったれ、僕やない」

 言いながら、ぎゅうと抱きついてきた。十分、甘ったれだと思うけどな。
 チビ灯は、どこに消えたんだろう。どこから来て、どこに消えたのか、そもそもどうしてここに来たのか、結局、最後までわからないままだった。
 嘆息しながら、布団に潜り込むと、隣に灯が潜り込んできた。

「なんだよ」
「あいつがずっと隣占領してうざかったから、せいせいしたわ〜」
「お前な……」
「でもなあ、良介くん」
「ん?」
「一緒にいてほしいってのは、嘘やないよ」

 ごろん、と寝ころんで、灯が抱きしめてきた。それは子供体温とは違って、少し冷たい手だったけれど、俺はそっと握りしめた。目の前で灯が口を開く。

「……夢」
「ん?」
「いやな夢、たまに見るやろ。あれ、僕のせい、言うたら、良介くんどうする?」
「……別にどうも。どっちみち、忘れられないし、お前がいなくても夢に見るだろ」
「…………良介君」
「なんだよ」
「ごめんな」
「……ん」



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