迎えにきたよ@



 何気ない日常を送っていると、たまにふと、あれは夢だったんじゃないかと思うことがある。

 「渦見終夜」という男とは元々知り合ってなんていなくて、話したことも、怒ったことも、笑ったことも、助けられたことも、一緒に部屋で飯を食ったり、過ごした事なんて、なかったんじゃないかって。最初から、知らない人間だったんじゃないかって。

 そうだったらいいのにと思う。

 そうだったら、俺は何に怯えることもなく、平和に暮らせると思えたのに。

 けれど、そう思い込むには、あの時の記憶があまりにも強烈すぎて、今も脳裏に焼き付いている。
 夏だった。
 だけど、夏らしいイメージが一つもない。窓一つない部屋と、閉じた世界。
 今でも思い出すことは容易だ。
 閉じこめられた部屋と、あいつが居た、あの場所のこと。壊れた様な奴しか居なかった。滴り落ちる水の音。精液の生臭い匂い。
 鉄臭い血の匂いと、お札が貼られた鉄格子の中で笑っていた。暗闇と呼ぶにふさわしい場所で一人、狂ったみたいに微笑んだあいつが、今も俺から離れない。

「笠原先生、今日、飲みに行きませんか?」
「あー、すみません、今日はちょっと……まだやり残した仕事がありまして」
「資料室に運ぶだけじゃないですか〜」
「はは、また今度」

 チャイムが鳴り終わると、向かいに座っていた同僚が飲みに誘ってきた。ざわざわと騒がしい職員室で、皆各帰り支度を始めていたり、まだパソコンに向かって仕事をしている教師もいた。
 俺はそれを丁重に断って、職員室を後にする。元々、酒に強い方ではない、最近はあまり飲まない。
 廊下に出ると、クラブ活動を終えた生徒達が、帰る時刻だった。俺のクラスの生徒達が、丁度前を横切る。

「あ、かさはらせんせー! さよーなら!」
「さよーならー!」
「はい、さよーなら。廊下は走ったら駄目だよ」
「はーい!」

 にこりと笑って手を振ると、くすくす笑いながら、生徒達が駆けていく。走ったら駄目だって言ってるのに。
 平和なその光景に少しだけ笑みが零れた。

「…………」

 五年だ。
 あれから、あの夏からもう五年の歳月が過ぎた。
 時が過ぎるのは早いもので、季節が巡る度に、段々と思い出が色褪せていく。だというのに、完全に忘れることはできないのだ。忘れようとしても、忘れられない。
 多分俺は、一生あの記憶と寄り添って生きていくんだと思う。
 大学を卒業して、教員の道へと進んだ。
 念願の公務員に就職できたけど、生徒やその親とのつきあいに、仕事もこなしてと、かなり忙しい。ただ、小学生の生徒は、生意気だけれど可愛いところもあって、それなりに充実している。やっていて楽しい。

 このまま、こんな平和が続けばいいと思って生きてきた。いや、きっと続く。五年も経ったんだ。もうきっと、何も起こらないさ。自分を納得させて、忘れようとしていた。忘れられないのに、忘れようとする。なかったことにしてしまいたいのかもしれない。
 資料を運ぶ途中で、ポケットに入っていた携帯がバイブ音をたてた。
 五年も同じ携帯を使っていれば、機会音痴の俺だって、流石に操作方法だって身に付く。すぐにメールを確認すると、発信元は灯だった。

 from:灯
 title:お仕事お疲れ様

 今日もお仕事お疲れさま
 僕、今日は仕事で遅くなるから、先に寝とってええよ。
 ご飯、作ってあるからチンして食べてください。
 今日は良介君の好きなカツ丼やで〜

 最後に笑顔の絵文字がついていた。にこにこマークの絵文字は、明るい笑みを浮かべている。その顔文字が、灯に似ていた。
 ふ、と一瞬漏れそうになった笑みを押さえ、お礼だけ打ってポケットへと携帯を戻した。

 結局、俺は今も灯と暮らしている。

 あの夏以降、うやむやのうちに始まった同居生活は、いずれ終わると思っていたのに、ずるずると今も続いている。
 さすがに現在はそれなりに俺の収入も増えたので、もうあのぼろアパートでは暮らしていないけど、それでも、一緒に暮らしている事実に変わりはない。自分でもおかしいと思う。
 自分を強姦したような相手と暮らすなんて、気が触れているとしか思えない。実際、そうなのかもしれない。
 あの夏以降、俺は自分の気が触れてしまったんじゃないかと思うことが、何度かあった。ふとした時に襲ってくる日常と剥離した感覚。
 病院にも行ったことがある。けれど、結局それはどうしようもなく、病院に行ったところで、された事実が消えるわけでもない。それに、離れようかと思う度に、灯に頭を下げられた。何度も謝られた。
 あいつが俺を迎えにくるかもしれないから。危ないから。それも理由だったけど、一緒にいたいから、というのが、一番の理由だった。
 好きだと告白されたのは、多分、一緒に暮らし初めて一年くらい、経った頃だったと思う。
 最初は嘘だと思っていたけれど、何度も言われて、尽くされて、そうされているうちに、ストンと、気持ちが落ち着いた。忘れた訳じゃないけれど、助けられた事も事実なのだ。あいつがあそこに連れてこなければ、と思うところもあるが、あの家の奴らの性格を考える限り、いずれあそこに連れて行かれたかもしれない。
 なら、なるべくしてなったのか? そんな事を考えても意味はない。人生は一度しかないんだから。

 自分に言い訳ばかりして一緒に暮らしていたけれど、結局俺は、灯との生活がそんなに苦ではなくなってしまった。それどころか、暮らしていくうちに、少し楽しくなってしまった。面倒くて嫉妬深い奴だけど、いいところもある。
 友達ではないけれど、恋人と言い切ってしまうには納得できない。そんな関係を保ったまま、今に至る。

 俺は教員の道へと進んだけれど、灯は今も俺のよくわからない仕事を続けていた。
 飯を作るのが好きだし、美味いから、一度は、料理の道に進もうかと思ったこともあったみたいだけれど、実入りがいいという理由で、あの胡散臭い仕事を続けているらしい。
 ……そんなの、もうやめてしまえばいいのに。と、俺が言うことはできない。あんな家のこと、忘れろなんて言えば、俺と灯を繋ぐものは、切れてしまうだろうから。
 そうなったら、灯はどうするんだろう。俺に、縋るのだろうか。あの時みたいに。

「あ、笠原先生!」
「? はい」

 資料を運ぶため、資料室へと向かっている途中、ジャージ姿の先輩教師に話しかけられた。女性で、さばさばしたタイプの、言ってしまえばきつめの女性だ。その彼女が、やけに興奮した様子で、頬を赤らめながら、俺へと駆け寄ってきた。
 俺は苦笑して声をかける。

「走っちゃ駄目じゃないですか」
「いいの! 誰も見てないから!」
「うわー、悪い大人ですね」
「ふふ、っていうかそれより笠原先生、笠原先生宛にお客様きてますよ」
「お客様?」
「めっ……ちゃイケメン! 芸能人みたいな! 格好良い男性の方でした」

 俺より年上だし、結婚もしているはずなのに、まるで乙女みたいにはしゃぎながらそう言われた。その言葉に、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。
 最初、真っ先に思い浮かんだのは灯だ。昔から綺麗な顔をしていた灯は、五年経った今でもその容姿は衰えることを知らない。近所ではちょっとした有名人にすらなっている。
 けれど、灯はさっきメールで遅くなるとあったし、ここにきたこともあるので、顔が知られている。
 ……じゃあ、誰だ? イヤな予感が、胸を過ぎる。
 俺の人生で、そこまではしゃぎながらイケメンと呼ばれるような奴、周りにそう沢山はいない。
 ごくり、と生唾を飲みこんで、彼女に尋ねた。

「あの、それ、どういう奴でした?」
「え? 黒髪でスーツの……、笠原先生のお知り合いかと思ってましたけど」
「…………」

 記憶の中の「あいつ」は、そんな格好、間違ってもするような奴じゃなかった。でも……。
 無視して帰るべきだろうか。でも、本当に俺の知り合いだったら? 悩んでいると、彼女は俺が仕事が終わっていないことを考えていると捉えたらしい。

「それ、資料室に持っていく資料でしょ? 私今日鍵締め当番ですし、いいですよ、変わります」
「え、でも」
「その代わり、今度飲みに行きましょう! あ、入り口で待ってますって言ってましたよ」

 俺が了承や拒否を示す前に、彼女は手の中にあった資料を浚うと、手を振って去ってしまった。
 ぽつんと残された俺は、再び職員室へと向かう。

「お疲れさまでーす」
「お疲れさまです」

 鞄に荷物を詰め込んで、ぼんやりと考える。もう一人、思い浮かんだ人もいる。
 黒髪といえば、あの人も印象深い。けれど、彼は顔立ちは整っていたが、灯やあいつみたいに、目を引くような華々しい顔立ちではなかった。少なくとも、彼女がはしゃぐような顔立ちではない。穏やかではあったけど、底知れぬ不気味さもあった。
 行くべきか、行くまいか。考えていても、足は進む。どのみち、入り口に行かないと帰れないし、そもそもあいつではない可能性もあるのだ。

「…………」

 けれど、その可能性は、すぐに覆されてしまった。

「やっほ〜、久しぶり、笠原」

 記憶の中の出で立ちとは少し異なる姿で笑ったその顔は、昔の記憶と変わらず、とても無邪気で、そして、やはり少し不気味だった。

「…………渦見……」

 ぎゅ、と掴んだ鞄の持ち手を握りしめ、口から出た声は、思ったよりも震えていた。



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