負けて悔しい花一匁@



 開けなければよかった。
 多分、油断していたんだ。最近、あまりにも平和で、静かで、怖いことや、妙な事が全く起こらなかったから、それが当たり前だと思いこんでいた。もう、何も起こらないと錯覚していたんだ。
 俺は、忘れちゃいけなかったのに。
 あの時、あいつにされたことも、あそこで起こった事も、あの忌まわしい夏の記憶を忘れちゃいけなかった。窓一つない、閉鎖された空間。畳のお香の匂い。自分が自分じゃなくなるような、徐々に壊れていく感覚。夏だと言うのにあの部屋はいつも寒くて、蝉の声すら聞こえなかった。朝か夜かもわからない、隔離された場所。忘れられるはずがない。忘れようと思っても、ずっと頭から離れない。
 だけど、心のどこかでもう忘れたいと思っていた。
 ずっとずっと、記憶から消したかった。今はそれなりに平和だし、結構楽しいし、あの時のことなんて忘れて、日常に戻ろうって。それは、俺があそこに閉じこめられていたときずっと思っていたことだったから。
 だから、警戒心なく部屋のドアを開けてしまったんだ。また、非日常が襲ってくるはずないって、思いこんでいた。
 それが、平和な日常を壊すきっかけになるとも知らずに。


 その日、渦見は珍しく一人で買い物に出かけていた。
 というか、俺が飯を作っている最中で手が放せなかったから、お使いを頼んだのだ。スーパーの方が安いからとか、そんな理由でちょっと遠目のスーパーまで買いに出てもらっていた。渦見はやだとか言ってたけど、なんだかんだ言って、頼めばちゃんとやってくれる、最近、あいつのことがまた少しわかってきた気がする。
 チャイムが鳴ったとき、宅急便か何かだと思った。
 親父が、近い内荷物を送るとか言ってたから。だから、特に覗き穴を見ることもせず、ドアを開いたのだ。

「はーい」
「久しぶりやね、良介くん」
「あ」

 ドアをあけると、灯がいた。
 一瞬、時が止まる。
 あの時と同じ笑顔で、目の前に立っていた。俺の、目の前に。

「……っ!!」

 考える前に、体が動いていた。

「おっと」
「くそっ!」

 慌ててドアを閉めたけど、もう遅かった。
 閉じられないように、足を挟まれ、隙間ができる。その隙間に手と体を滑り込ませ、勝手に部屋へ入ってきたのだ。閉じようと力を込めたけど、向こうの力の方が強かったらしい。無理矢理ドアを開けられ、玄関先で尻餅をつく。

「っ……!」

 ……なんで。なんでなんでなんで! なんでこいつが来るんだよ!?
 自分で止めようと思っても、全く止まらないくらい、体が震える。思うように手が動かせない。目眩を覚える。心臓が早鐘を打っていて、体中の血液が下がっていく感覚を覚えた。

「ひっ」

 部屋のドアが閉まると、灯の手が、俺の手を掴んできた。

「そんな怖がらんくてもええやん。ああでも、こんな警戒心なくドアを開けるんは危ないなあ。世の中物騒やし、君、ただでさえ騙されやすいんやから、何かあってからじゃ遅いんやで?」
「はなっ、離せ! 助けっ」
「しぃー、近所迷惑やろ」
「ぅあ゛っ……!」

 口を片手で押さえられて、思い切り腕を捻られた。
 肩が嫌な音を立てて、激痛が走る。頬に押しつけられた床の温度が、ひどく冷たい。

「う、ううぅうっ……!」

 肩、外された? 左肩が、すごく熱い、気がする。やばい、やばい。このままここにいたら、やばい。渦見は? 出かけてる。俺が出かけさせた。だめだ、早く逃げなくちゃ、大声で誰か助けを呼ばなくちゃ。逃げなくちゃ。助けて。早く。逃げろ!! 頭の中で、そのワードばかりが頭を巡る。灯がにっこりと笑いながら、俺の頬を撫でてきた。
 赤ん坊でも撫でるみたいに、優しく、優しく。その優しさが、無性に恐ろしかった。

「そう怯えんでもええやろ、ちょーっと話しにきただけなんやから」

 当たり前の様な顔をして、さらりと嘘をつく。こういう所、ぜんぜん変わっていない。話にきただけなら、肩を外す必要なんてないはずだし、今更話す事なんてない。
 痛む肩を押さえながら、俺は体を捩った。廊下に爪を立てて、体を動かす。逃げなくちゃ。ドアは、灯の後ろ側だけど、思い切り走ればいけるだろうか? いや、大声を上げた方がいいか? 誰かが来てくれるかもしれない。でも、誰も来なかったら? そもそもこいつ、本当に一人できてるんだろうか。
 疑問ばかりが、湧いてくる。渦見、そうだ渦見。あいつなら、なんとかしてくれるかもしれない。頭の中で渦見の名前を呼ぶ。けれど、あいつはまだ帰ってこない。買い物になんて、行かせるんじゃなかった。あいつは、あいつなりに、気にしていたのに。
 声を震わせながら、固く拳を握った。

「……な、何しにきたんだよ」
「良介くんとお話しに」
「俺はもう、お前と話したくない。あの家でされたこと、絶対許さないし、俺はお前の望むものになれないよ」
「釣れへんわ〜」

 大げさにため息を吐いて、灯が肩を落とす。
 まったく残念そうに思ってる風には見えないけど、灯が何を考えているかわからなくて、ただひたすら警戒した。なんで、今更、とか。何をしにきたのか、とか。色々疑問は尽きないけれど、それがいい事じゃないってのは確かだった。
 わななく唇を噛み締め、無理矢理声を張って、睨みつけた。

「か、帰れよ! 俺は、もうお前やあの家と関わりたくないんだよ!」
「はは、おもろいなあそれ」

 くつくつと愉快そうに喉を鳴らすと、一瞬の内に、灯が俺の足を引っ張り、床に押さえつけた。

「いっ、……っ!」
「冗談抜かすなや」

 背中を打ち付け、身悶えていると、灯が、俺の腹の上に座ってきた。いつかの光景を思い出して、体が震える。最近、ようやく、忘れてたのに。忘れられるように、なってきたのに。手が、俺の首に延びてきた。振り払うことも出来ず、硬直する。あの時の姿とダブって、視界が揺れる。やだ。いやだ。

「関わりたくない? そんなん、無理に決まっとるやん。やって良介くん、まだ終夜と一緒におるんやろ」
「ひ……」

 灯の目は、憎悪でぎらついていて、俺は蛇に睨まれた蛙みたいに、硬直して動けなくなっていた。怖い。怖い。怖い。頭の中でそのワードが何度も行き交う。
 今まで遭遇した心霊現象なんて、目じゃない。だって、心霊現象は今までなんだかんだ言って、渦見がなんとかしてくれた。けど、今は?
 渦見はいない。幽霊みたいに、灯は、俺に触れられないわけでもない。さっきから、警鐘が頭の中で鳴りっぱなしだ。震える俺に、灯は微笑みかけると、長い指で、俺のシャツを捲りあげた。

「っ」

 露わになった肌を見て、そのまま胸から下にかけて指が這う。

「あー、痕ついとんなあ。あいつも、人並みに独占欲はあるんやね」
「や、やめっ、いっ!」

 まだ、昨晩行った渦見との情事の痕が残っていた。灯は不快そうに顔を顰めると、と腹付近に爪を立てる。鋭い痛みが走り、反射的に目を瞑る。苛んだ声には、僅かな軽蔑が混じっていた。

「結局、つき合うてはるん?」
「……っ、お前には、関係ないだろ」

 そう言うと、まるで笑いでも堪えているかのように、灯は、失笑した。

「関係ない? ははっ、あるに決まっとるやん。僕かて渦見の人間やで。あんな、家の中心にいてる奴と一緒におって、関わらずにいられるはずないやん。君、ほんまアホやね」
 まくし立てる様につらつらと言葉を紡ぐと、そのまま乳首を抓ってきた。
「いっ、て」

 親指と人差し指で摘まむと、ぐいぐいと上に引っ張られる。

「やめろっ」
「ここ、毎晩あいつに弄らせとるん? ちょっと立ってるで。ああでも、良介くん最初から素質あったもんなあ? 今はどやろね」
「っ、灯……」
「何?」
「……お前、何しにきたんだよ」

 嫌な予感がする。
 というより、こいつが家に来た瞬間から、嫌な予感しかしなかった。問いには答えず、灯はそのまま俺の上に覆い被さってきた。視界が翳り、灯の顔が近づく。

「っ!」

 やばいと思ったときには、もう遅かった。唇に、暖かいものが触れる。

「んっ、んんー!」

 ばたつかせた足を押さえられた。そのまま無理矢理唇をこじ開け、咥内を嬲られる。ぐちゃぐちゃと、嫌な音が耳に響いた。口の端から垂れた涎が、首筋まで伝ってきた。ようやく離れると、灯は満足げに唇を舐める。

「なんやと思う?」
「……っ!」

 目が合った瞬間、鳥肌が立った。
 とりあえず、目的が、よくないことだけは、確かだろう。慌てて下から抜け出そうともがくが、思ったように動かない。恐怖で、体がうまく制御できていないんだ。頭では、わかっているのに。震える体を、無理矢理動かす。畜生、動け! 逃げろよ!

「ここで騒いだら、近所迷惑やんなあ」
「や、やめろっ、離せ! 誰か助けて、渦見っ……!」
 ばちっ、と腹に衝撃が走った。目の前がちかちかする。
「う……っ」

 呻いていると、再び電気みたいなのを押し当てられた。スタンガン? 考えることすら間に合わず、俺の意識は暗闇へと沈んでいった。



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