その後の話@



「今後一緒に暮らすに当たって、決めておくことがある」
「……はあ」
 笠原の暮らす部屋にて、灯は畳の上で、笠原と向かい合わせになって正座していた。笠原は大学ノートの一部を破いて、テーブルの上に乗せると、筆箱からボールペンを取り出した。それから上の方に「破ってはいけない禁則事項」と記載し、すぐ下に@と記入を続けた。渦見の家から元の生活に戻ってきて、結局一緒に暮らすことになったはいいが、元々の価値観が違い過ぎるのだ。
「いいか、俺は、お前が俺にしたこと、許してないからな」
「まあ、せやろね、僕も許してもらえるとは思ってへんし」
「でも、一緒に暮らすんだから、最初にやったら駄目なこと決めておく。……破るなよ」
 その言葉に、灯は素直に頷いた。
 元々、灯は一緒に暮らしてもらえるとは思っていなかった。彼にしたことを考えれば、当然といえば当然だ。あの家を飛び出した後、殴られ罵られるのが当然だとも思っていたし、その覚悟もあった。それ故に、自分の言葉を信じて一緒に暮らしてくれることに、灯は少なからず驚いていた。
 確かに、今後のことを考えると危険だし、また本家の人間が来るかもしれない。何か身に危険が及ぶかもしれない。そう考えると一緒にいた方がいいこともあるけれど、近くに、それこそ隣にでも部屋を借りればいい話なのに、笠原はそれが思い浮かばなかった様だ。
 あえて言うつもりはないが、条件をつけるとはいえ、一緒に暮らしてくれる笠原は、やはりすこし頭が悪いなと灯は考える。だから、すぐ騙されるのだ。
 しかし、灯の思惑には気づかず、笠原は真剣な表情でボールペンを滑らせる。
 【@家賃、光熱費は折半】
 一番上にそう書き記した。

「折半?」
「そ、お前も大変なのはわかるけど、俺だって一人暮らしでいっぱいいっぱいだから、ちゃんと家賃とか食費とか光熱費は払えよ」
「いや、逆になんで僕が良介くんに払ってもらわなあかんねん。そんくらい僕が出したるわ」
「いい。お前に借り作ると後が怖いから、半分出せばそれでいい」
 眉を寄せ、頑なに首を振って、笠原は続ける。
 笠原は、貧乏学生だ。なぜそこまで貧乏なのか、坊ちゃん育ちである灯にはわからないが、奢るという単語に滅法弱い。なので、奢るくらいなら易々と受け入れるが、生活費全ては見返りになにを求められるか怖いらしい。そしてその判断は概ね正しい。内心舌打ちをしながら、灯は是を唱えた。
「わかった、ほな折半な。月初めに渡せばええの?」
「おう、そうする」
 灯は、あの家を出た後、大学を辞めた。
 元々渦見の家に言われて入った大学で、家にいた頃からすでに色々な依頼は受けていたので、辞めても全く未練はなかった。
 そもそも、大学を出た所で就く仕事はどうせ同じなのだから。成金相手の商売と、暮らしてきた環境のせいだろうか、灯の金に対する感覚と、笠原の金に対する感覚は、著しくズレがある。その事を知ってから笠原は日々頭を悩ませていた。どうすればこのブルジョワ育ちに、水も電気も食材も何もかも無限に湧いて出てくることはないと知ってもらえるのか。言えば直してくれるところが、せめてもの救いだろうか。
「なあ、これ、破ったらどうなるん?」
「破んなっつってんだろ」
「もしもの話しや」
「……あー、じゃあ、なんかペナルティを課す」
「例えば?」
 その問いに、笠原は頭を捻らせた。
 すぐに浮かんだのが「この部屋から出ていってもらう」だが、それでは本末転倒だし、自分が破った場合、自分が出て行かなくてはならなくなってしまう。自分がされて嫌なことは罰金だが、それは灯に対してあまり効果がない様に思えた。これといったペナルティが思い浮かばず筆を止めると、灯が提案してきた。
「ほな、その時、相手が決めることにしたらええやん」
「ん?」
「僕が破ったら良介君がその時してもらいたいことを言う。良介君が破ったらその逆、そんなら、平等やん」
「あー……なるほど」
 それならば、今溜まっている仕事を言えばいい。さしずめ、現在溜まっている家事をやってもらうとかだろうか。それはとても合理的に思えた。その答えに納得したのか、笠原は下の方にすらすらと書き加える。
【破ったときのペナルティ:破ったら、相手の言うことをする】
「こういうことか」
「まあ、大雑把に言うとそうやね」
「じゃあ、次な」
「まだあるん?」
「一個しか書いてねえだろ」
 そう言って、再び紙の上にペンを走らせる。黒いボールペンで、達筆とは言えない字を連ねていった。
 【A家事当番はちゃんとやる】
「当番制にするから、さぼったりしないようにな」
「家事なら別に、僕が全部やってもええよ?」
「お前、昼とか夜、不定期でなんか仕事してんだろ、全部やらせたら不公平だからちゃんと作る」
「はー、真面目やねえ」
 部屋を提供してくれているんだから、そのくらいは甘えてくれてもいいのに、と灯は思うが、頼るのが嫌なのかもしれない。
 笠原も一度決めたことは曲げない性分らしい。もう一枚大学ノートを破いて、役割分担表を作っている。掃除、洗濯、皿洗い、料理、ゴミ捨て……。新婚さんみたいや、と暢気なことを灯は考えていた。料理の項目欄でペンを止めると、笠原が顔を上げた。
「あ、でも飯はお前のが美味いから、飯は作って。洗い物とかは俺がやるから」
「別にええよ、僕も良介くんが美味しそうに食べてくれはる方が気分ええし」
「じゃあ決まり、次の禁止事項」
 B、とノートに記入する。それを見て、灯が面倒そうに声をあげた。
「決めたがりやねえ、今度はなんなん?」
「これは絶対守れよ」
 【B俺へのセクハラ禁止】
「…………なんやこれ?」
 不明確な記載に、灯が眉を顰めたが、笠原は口をへの字に結んで、灯に指を突きつける。
「そのまんまだよ、一緒に暮らすにあたっての前提条件だ。最重要だよ、あそこでやった様なこと、二度と俺にすんなよ」
 以前の事を思い出したのか、不愉快そうに声を上げると、灯は複雑な表情で笠原をみた。
「無理やりはもうせんよ」
「そりゃな、犯罪だからな」
「行為自体がもう駄目なん?」
「当たり前だろ、なんでまだやろうとしてんだよ。びびるわ。……つーかお前さ、ホモなの? そこんとこはっきりさせとけ」
 灯は、同性の笠原から見ても綺麗な顔立ちをしている、相手が男であれ、女であれ困りそうにもないのに、どうして自分なのか。眉を下げながら、笠原が灯に尋ねると、灯は飄々とした表情で答えた。
「別に女の子も抱けるで、良介くん僕のことすぐホモ扱いすんなあ」
「あんなことしといてホモじゃないとはいわせねえよ」
「そらそうやね」
「つーわけで、今後は女の子を抱いてろ」
「ここで?」
「ここ以外! ここでやんなよお前!? つーか俺はな、別にホモじゃないんだよ、普通に女が好きだし、……あれのせいで勃たなくなったらどうしてくれんだ」
 暗い表情で呟く笠原に、灯は口を尖らせた。しかし灯は晴れやかな笑みを作り、両手を広げた。
「そん時は責任取ったるよ」
「もういい、とにかく禁止だ」
 ぐしゃぐしゃと怒った顔のマークを書いて、ぐるりと丸を付ける。灯はその用紙を眺めると、笠原の言葉に笑みを返した。
「でも僕、良介くんとエッチしたいわ、良介くんが喘いではるとこ見ると興奮すんねん」
「追い出すぞ」
「無理やりやなかったらええの?」
 その言葉に対し、胡散臭そうな視線を送ると、灯はにこりと柔らかい笑みを浮かべた。笠原は顔を顰め、要項の横に更に文字を書き加えた。
 【B俺へのセクハラ禁止、触るのも禁止】
「ちょい、これは厳しすぎやろ、触るのは別にええやん」
「駄目だ」
「ほなキスならええ?」
「なんで要求があがってんだよ! 駄目だっつーの!」
「釣れへんわ〜……、はー……その内我慢できひんくなったらかんにんな」
 不穏な言葉に、笠原は灯を見た。
 頬杖をついて、不満げに眉を寄せている。我慢? 我慢できなくなったら、どうなるんだろう、と嫌な想像をして、笠原はあの時の事を思い浮かべ、消え入りそうな声を上げた。
「…………。キ、…………キスまでなら……」
「ええの? よかったわー」
「…………」
 言外に脅す癖をどうにかしろと笠原は思ったが、その我慢できなくなった状態を想像すると、キスくらいという気分になってくるから不思議だ。
 勢いで承諾してしまったが、やはり否定すべきだろうか、と笠原が考えあぐねている間に、灯は笑顔で触るの禁止事項に斜線を引き、隣にキスは許可と書き込んでいる。
(早まった……)
 笠原は思ったが、今更やっぱり駄目と言ってもまた堂々巡りな気がする。とりあえず、キスだけなら以前みたいに痛い思いをすることもない、渦見の家で散々されたので慣れている。これで大人しくしてくれるなら、と笠原は自分を無理矢理納得させた。
「……間違っても外ですんなよ」
「わかった。ちなみにこれ、僕からするのは禁止でも、良介君からするのはオッケーなん?」
「俺はしねえから安心しろ」
「ふーん」
 何かを考え込む様に文字を見つめるが、笠原は話を逸らすようにC項目目を書き込んだ。
「まだあるんかい」
「これも重要」
 【Cプライバシーに踏み込まない】
「プライバシー?」
「そう。お前も俺も、別々に生活してるし、なんでもかんでも詮索すんなよ」
 それはつまり、誰とどこで会ったとか、一緒にいたやつは誰かとか、聞いてくるなという意味なのだろうか。灯は眉をハの字に下げて、深いため息を吐いた。
「……なんや僕、良介くんの彼女にでもなった気分やわ」
「俺はお前みたいな彼女イヤだ。次が最後な」
「まだあるん〜?」
 だらりとテーブルの上に手を投げ出すと、厳しい視線が灯を射抜いた。その目線に姿勢を正すと、笠原は頷いて文字を連ねる。
 【D嘘は極力つかないこと】
 とてもシンプルな約束事だが、判断がとても難しい。灯が思わず笠原を見ると、笠原は当たり前の様に答えた。
「お前、嘘つきだからな、嘘か本当かわかんねえとめんどくさいだろ」
「でもこれ、良介くんにも適応されるんやろ?」
「俺はお前みたいに息吐く様に嘘つかねーもん」
「僕ってそんなイメージなん? 最近はそんなでもないで」
 不満げに口を尖らせるが、散々騙されて嘘を吐かれた身としては、そんなことを言われても納得できるはずがない。下に「破らない事!」と付け加えて、笠原は立ち上がった。
「とにかく、くだらない嘘はあんまつくなよ。終わり!」
 そのまま冷蔵庫まで歩いていくと、磁石で貼りつけ、解りやすく周りの添付物を避けた。
「そんじゃま、よろしく」
 それだけ言って、笠原は家事分担表を作り始めてしまった。灯の納得がいかないままほとんどの禁止事項が決められてしまったが、そもそも文句が言える立場でもない。家賃生活費は折半といえど、今の灯の立ち位置はあくまで「居候」の様なものなのだ。仕方なく立ち上がり、台所まで歩いていく。分担表は、彼の好きにさせ、お茶でも入れてあげよう。そう思って立ち上がったのだが、襟口から覗くうなじから背中にかけて、うっすらと火傷の跡が目に飛び込んできた。
 病院に入院している間に大分薄くはなったけれど、まだ少しだけ残っている。傷跡が残ることはないだろうが、あそこでされた事を考えると、灯だって心は痛む。しかしそれが果たして嫉妬心からくる痛みなのか、良心故の痛みなのかまでは判断がつかなかった。
 すっと項に手を伸ばし、襟に指を引っかけた。
「ひっ」
 びくりと肩を揺らして、笠原が灯を振り返る。
「な、なんだよ」
「傷、まだあんなあ思って」
「……ああ、お前の家の奴らって本当頭おかしかったよ、お前含めて」
「手厳しいわ。まあでも否定もできひんね」
 それくらい灯だってわかっている。けれど、ある種仕方のないことでもある。渦見の家は、実に閉鎖的で、一つの閉じた世界であり、それだけで形成されている節がある。その中で何年間も育てられれば、価値観も歪むし、内面だって歪む。あの中で正常を保てるのは、物珍しい変わり種くらいだが、それだっていずれは渦見に馴染んでしまう。あそこは、そういう場所なのだ。
 あの家を出ることができたのは、灯にとって奇跡に近かった。
「……良介くん」
「なんだよ」
「キスしてもええ?」
「………………」
 背中から手を回して、腹当たりを抱きしめる。
 灯は、あの家にあった物は全て捨ててきた。欲しかっった物も、欲しかった言葉も、すべて諦めた。
 腹違いの兄に奪われたものは、今更もう欲しいとは思わないが、唯一自分の世界をくれた笠原だけは、諦めることができなかった。閉じこめた部屋の中で、少しずつ惹かれていって、気づいたときにはもう手遅れだった。
 笠原しばしの沈黙の後、灯の手をはずして振り向いた。
「……それ以上はすんなよ」
「うん」
「わかった。いいぞ」
 いいながら、不遜な顔で目を閉じる。これは、灯にとっては不思議で仕方ない。あんな事をしでかしたにも関わらず、結局笠原は受け入れるのだ。仕方がないと諦めているのか、それとも別の理由があるのか。その事が、理解できない。しかし、理解できなくとも、体は動く。人間の体の中で一番柔らかい皮膚の上に、唇を重ねる。暖かい血が流れていると感じる部分。笠原の頭を引き寄せて、貪るようにキスをした。
「ん、ぅ」
 間から漏れた息が灯にかかり、笠原の手が縋るように灯の腕を掴んだ。ゆっくりと差し込まれた舌が咥内をかき回すと、腕に回されていた手が胸を押した。
「んっ、ん!」
「ふはっ……」
「……っ舌入れんなよ」
「えー」
 口元を拭いながら笠原は灯を睨みつける。口の端から垂れそうになる唾液を強引に擦ると、灯は不満げに口を尖らせた。そんな灯を見て、笠原は後ろに手をやり、その手に体重を預けるように状態を後ろへ倒した。
「……お前さ、俺のこと好きなの?」
「ん?」
「別に、俺じゃなくてもいいだろ」
「…………」
 その問いかけに、灯は動きを止める。笠原の疑問に対して、答えることなく黙り込む。そもそも、灯は人を好きになるというのがよくわからない。幼い頃、閉じこめられていた彼女に対して感じたのが愛情だったのか、憧れだったのか、それすらも曖昧で、それを伝える術もわからない。
 好きになったところでどうすればよいのかわからないのだ。家の人間は、欲しい物は何をしてでも手に入れろとは言っていたけれど、壊す以外の方法を知らない。壊す方法は沢山知っていても、愛する仕方を知らない。父親はそうしていた。母親も、そう。
 だから、それ以外の方法がわからない。他人の心がわからない。笑顔で好きと言われても、腹の中では何を考えているか、ということを考えると、どうしようもなくなるのだ。灯自身、自分がそうだからこそ、他人が信用できない。素直に好きと言っても、散々嘘を吐き続けてきた今では、それが本当かも信じられなくなってしまう。言い淀んでいる灯に対して、笠原は小さく嘆息した。
「俺は、お前の性処理道具じゃねーぞ」
「……そんなつもりは、ないんよ」
「ふーん」
 呆れた視線を送ると、笠原は再び前を向いて分担表を作り始めてしまった。この話は終わりということらしい。
灯は、俯いて製図する笠原をじっと見つめた。黒い瞳は分担表の方に向いている。睫は、意外にも結構長い。顔自体はそれほど目立った所はないけれど、灯は、今はその顔が好きだった。じろじろ見つめていると、笠原が手を止め顔を上げる。
「なんだよ」
「いや、……お茶飲む?」
「んー、……飲む」
「わかった。ほな、煎れるわ」
 立ち上がり、今度こそ台所へ向かった。
 灯にとって笠原は、絶対に手放したくない物の一つだ。というより、今はもう笠原しかない。今の灯には、何もない。誰にも渡したくないし、側にいて、認めてもらいたい。存在を認識して欲しいと思っている。けれど、それを話したところで、どうなるというのだろう。灯はヤカンに水を入れると、火にかけた。テーブルの上では、相変わらず笠原がペンを走らせている。その姿を見ると、僅かな幸せを感じる。一緒にいたいと思う人と、しがらみなく同じ空間で暮らせる。それは今まで味わったことのない時間だった。この生活がずっと続けばいいとすら思うけれど、それがいつか終わってしまうであろうことは、何となく灯自身わかっていた。
 部屋の天井の片隅に、蜘蛛が居座っている。笠原は気づいていない。けれど、その蜘蛛は灯をじっと見つめていた。



- 28 -
PREV | BACK | NEXT



×
「#甘々」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -