A







「ねえねえ、何で喋らへんの〜?」
「…………」
「いつもみたいにワンワン鳴いて、お腹見せて服従しなよ。だらしなく舌出して泣けばええやん。そっちのが似合うとるし、謝り倒して命乞いでもなんでもしたらええのに〜〜なっ!」
「ぎっ……」

 奏が、俺の頬を優しく撫で綺麗な笑みを浮かべたかと思えば、突然思い切り髪をひっつかんで首を上げさせた。首が嫌な音を鳴らし、俺の顔は思い切りひきつった。奏での口元に添えられている指。その指についたかわいくデコレーションされたネイルのキャラクターが、俺をあざ笑っている様に思えた。
 口調は笑っているけれど、目が全く笑っていない。大きな瞳の中に、苦しそうな俺の顔が映っている。それでも、俺は口をこうとはしなかった。特に条件は提示しなかった灯が、唯一言ってきた言葉がそれだったから。

『君、あの女に責められたら余計なこと喋りそうやから、口開いたらあかんで、僕が行くまで静かにな』

 口元に指を当てて、灯言った。そして、その瞬間扉が開いて、俺は白装束に連れて行かれた。
 幸いなことに、奏はすぐにやってくることはなく、俺が部屋に連れ戻されてから一日が過ぎた。俺にはもちろん見張りがついていたし、拘束もされたけど、少しだけ体を休めることができた。それだけが、不幸中の幸いだ。けれど、僅かに与えられた猶予の間、自分の選択が間違っていたんじゃないかと、気が気じゃなかった。雨くんは、俺を見ると、馬鹿にしたような目で一瞥した後、どこかへ行ってしまった。結局、俺はまた元の場所に戻ってきてしまったのだ。

 本当に、あいつは助けにきてくれるんだろうか。あいつは、嘘ばかりつくし、実は、自分が助かるために俺を白装束に売り渡しただけなんじゃないだろうか。そんな疑問が何度も頭をよぎるが、それでも、俺は最後の可能性に賭けてみた。
 というか、もうそれに賭けることでしか、希望が見いだせない。今更あの時みたいに逃げることなんてできないんだから。それに、あいつが、白装束を呼んだ段階で、俺が逃げたとしても多分あいつの言うとおり、捕まっていただろう。それなら、まだ言うとおりにして、助けがくる可能性に賭けた方がいい。
 そう考えて耐えていたけれど、そろそろ限界だ。今までこいつにされた拷問に、体が震え、吐き気がこみ上げてくる。唐突に、頭にばしゃりと水をかけられた。

「げほっ……!」
「は〜、なんや臭いなあ思ったら、お前昨日からお風呂入ってないん? この部屋もイカ臭くていややわ〜、乙女の入るところやないやんか〜」
「ぐっ……うっ……!」

 鼻をつまみながら、奏が継続的に俺に水をかけてくる。どこから水道がつながっているのか、ホースでつながった水道水を俺の顔にぶちまけると、奏はケラケラと笑った。……そういや、最初にここにきたときも、水が落ちる音がしていたっけ。しかし、顔を固定されたまま水をかけられるのは、思っていたよりもきつい。体全身に水をかけられ、衣服が体にぴったりとくっついた。

「汚れた贄を洗ってあげるウチってほんま優しない? な〜、なんとか言えや、コラ」
「う、うぶっ、ぐ」

 また、顔に水をかけられる。口の中に、目に、鼻に、水道水が入り込んでくる。器官の中まで進入してきて、目や鼻が痛い。苦しい、い、息が、出来ない、助けて。

「う、ぁっ」
「あんま、調子に乗ってはると、あかんよ〜。冗談やと思ってはる? カッターで手なんて切れないとか思ってはる? あんなあ、別に、ウチはお前が生きていれば別にええんやからな。命さえあれば、供物程度にはなるし。手足もいで達磨にでもされたいん? そうすれば壊れて一石二鳥やなあ〜? きゃはははは!」
「あ゛っ、……ぅあ!」

 せき込んでいる最中、口の中に直接ホースを突っ込まれた。胃の中に無理矢理流れ込んでくる水を吐き出そうと、必死に抵抗したが、体は強く白装束に固定されている。外にいるのに、溺れそうだ。奏はゲラゲラと笑っていて、止めてくれない。

「あ゛……めっ……!」
「ひゃーん! 何なに? もう一回言うて!? ってうちのせいかー、かんにんなあ! きゃははははは!」
「ぅっ……ごほっ……げほっ……あ゛……っ」

 ぎりぎりのところで、ホースが口から引き抜かれた。ばしゃばしゃと、水が地面に広がる音が聞こえる。なんだか、感覚がなくなってきた。水の音が、聞こえる。奏の声と混じり合って、よくわからなくなってきた。頭が急激に冷えていって、絵何度も咳込んでいると、上から静かな声が降ってくる。

「なあ、君何考えてはるん? 黙りこくって、ほんま、腹立つわ〜」
「…………ぅ……」

 明らかにイライラしている奏を見ると、体が震える。逆らったらいけないと体に刻み込まれているから。俺は。残った力を降りぼって、体に力を込めたが、やはり動くことは叶わなかった。奏が一つため息を吐いて、白装束を呼びつけた。

「はー、鉈か斧、持ってきて。忠告しても、わからんみたいやし。ウチの優しさ、わかってもらえへんなんて辛いわ〜」
「……っ」

 指示を受けた白装束は、そのまま部屋を出ていった。
 ……もう、駄目なのか。やっぱり、俺はここから逃げられなくて、この家で死ぬことになるのか。体だけ生かされていても、心は殺されるのか。腕とか足とか、もがれるのか。そんなの、嫌だ。死にたくない。痛い思い何て、もうしたくない。ぼろぼろと涙が溢れてくる。
 びしょ濡れになった服が、水分を含んで重くなっている。でも、体が冷たくなって動かないのは、それだけが原因じゃないんだろう。助けて、そう叫びたいけど、声がでない。助けて、助けて。
 もうやめてくれ、逃げたいのに、逃げられない。がたががと震える体を押さえつけるように拳を握ると、その瞬間、後ろの扉が軋んだ音を立てて開いた。

「……っ!」
「ん〜〜?」

 白装束が戻ってきたのか? こんなに早く? けれど、そこに立っていたのは白装束じゃなかった。

「あ、……」

 雨くん、と言おうとした口を、慌てて閉じる。余計なことを、言ったらいけないんだった。現れた弟に対し、奏はあからさまに不機嫌な顔をして、雨くんの方へ顔を向けた。眉間に皺を寄せて、俺の頭を踏みつける。

「なんやの雨くん〜、お姉ちゃん今、出来の悪い畜生に見ての通りお仕置き中やねんけど〜」

 雨くんは何も言わず、無表情で俺のことを見下ろしてきた。相変わらず何を考えているのかわからない目。せっかく逃げる機会を与えてもらったのに、結局逃げ出せなかった駄目な奴とでも思われているのかもしれない。しかし目が合ったのは一瞬のことで、すぐに雨くんは目線をはずし、部屋の中へ入ってきた。
 俺を押さえつけていた白装束が、萎縮したように後ろへと下がる。雨くんが怖いのかもしれない。……こいつら白装束って、なんなんだろう。しかし、今はそんなことを考えている場合じゃない。

「奏姉さんに、お客さんきてはる」
「はあ? 誰? 塩でも巻いといて」
「あらら、そんな言い方されると情報提供したなくなりますわー」
「…………はぁ?」
「っ、とも」

 入ってきた人物を見た瞬間、俺はそいつの名前を呼ぼうと口を開いた。けれど、そいつが、灯が俺の方を向いて、まるで喋るなとでも言わんばかりの視線を向けてきたので、俺は慌てて口を噤む。灯は飄々とした表情で、部屋の中へと入ってきた。奏はゆっくりと立ち上がり、灯へと向き直る。

「あ〜、……あんた、誰かと思ったら分家のレプリカくんやん、何しにきたん? 捕まってたはずやけど」
「いろいろあって出してもろたんですわー、ほら、そこの贄、逃げだそうとしたのくい止めたの僕やから、まあお咎め免除ってことで。お初……やないですけど、お久しぶりです。奏さん」

 恭しく頭を下げると、灯はにこやかな笑みを奏へ向けた。俺は口を開かない様にして、ことの成り行きを見守る。正直、聞きたいことは山ほどあるけど、灯の目が口を開くなと物語っている。張りつめた空気の中、奏はどうでも良さそうに鼻を鳴らすと、それで? と口を開いた。

「ウチ、今この駄目ペット躾てる最中なんやけど、なんか用?」
「ああ〜、そら邪魔して申し訳ないです。けど、伝えておいた方がええかな、いう話があるんで」
「……何? ハッキリ言えや、めんどくさい男やね、そんなんやから分家当主の息子の癖に使えへんのや、呪い子にも負けてはるし、生きてて恥ずかしないん? ウチ負け犬って嫌いやねん。あのクソ眼鏡の弟って時点で死んでほしいわ」
「ははは、手厳しいですね。いや、仰る通りです」

 暗い声色になった奏に向かって、灯はあくまでも笑顔だった。けれど、その笑みを消すと、袖口から赤いヘアピンを取り出して奏の目の前へと掲げた。

「それよりこれ、見覚えないです?」

 どこにでもありそうなデザインの、赤いヘアピンだった。ワンポイントに小さな花の飾りがついている。俺には特に何の変哲もないヘアピンに見えるけど、奏はそうは思わなかったようだ。目を大きく見開いて口を震わせた。張りつめた空気の中、震える声が響いた。

「……それ、京花ちゃんの……」
「風の噂で聞いたんですけど、お姉さん、出張中、行方不明にならはったらしいやないですか? 僕心配で心配で、何か手がかりになるんやないかな〜、思って」

 再びにこやかな笑みを作って、灯はヘアピンを袖の中へとしまった。
 ……京花って確か、この女が変質的に愛してる姉のことだよな。行方不明ってなんだ? そういえば、雨くんも、今ごたついているとか言っていた。もしかしてこのことだったんだろうか。ちらりと雨くんに視線を送るが、向こうは俺の視線に気づいていない様だった。
 奏はわなわなと震えて、灯を睨みつける。

「……せやから……、せやからウチも京花ちゃんについてくって言うたのに……お父様のボケンダラ……!」
「!? がっ……!」

 瞬間、奏が俺の腹を蹴った。単なる八つ当たりだったんだろうが、俺は突然のことに受け身がとれず、俺はそのまま無様に床の上を転がった。そのまま何度も踏みつけられる。ハイヒールが肌に刺さって、痛い。

「ウチがこんなんに構ってたせいで京花ちゃんが! こいつ調教すんの、お父様から引き受けるんやなかったわ! 京花ちゃんがいてへんなんて何の意味もない! 一緒についていった奴らは何してはるねん! ああ〜もう腹たつ〜〜! つーか、お前がやったんやないやろな!?」

 髪をぐしゃぐしゃにかき乱して、奏が灯へ食ってかかった。襟元を掴み、小柄な体で、灯を引き寄せる。

「はぁ? 何の話しかようわからんですわ〜、僕、ずっとあん中閉じこめられてはったんで、変な言いがかりはやめてください」
「じゃあなんで京花ちゃんのヘアピン持ってんだよ! そのヘアピンは私が京花ちゃんにあげたんだから、京花ちゃんが手放すはずないんや! お前が無理矢理奪ったんちゃうんか!」
「まあまあ、落ち着いて。ぎゃんぎゃん叫んでみっともないですし、ははは」
「うるせえな白々しいんだよ殺すぞクソホモ! 贋作の分際で鬱陶しいわ! 京花ちゃんになんかあったら生かしてへんで!」
「あらら、そない化け物みたいに怖い顔されて、可愛い顔が台無しですよ」
「はあ!? 気持ち悪ぃこと言ってるんやないで! こんな贄一つ壊せへんで、分家の役立たず!」
「……はあ〜〜、メンヘラビッチはこれやから面倒くさいわ〜」
「あぁ!?」
「いいええ〜」

 嘲けるような笑みを浮かべて、灯は掴まれていた胸ぐらの手を振り払った。口を三日月みたいに細めて、懐から小さなメモ紙を取り出し、奏の前に掲げた。

「ここに、本家の跡取り娘の居場所が書いた紙があるんですけど、欲しないですか?」

 その言葉に、奏の顔色が赤くなった。怒っているというのが、一目でわかる。白装束たちが、そっと部屋を出ていった。巻き込まれたくないのか、あるいは、こういう時は出て行けと指示されているのか。雨面倒そうに顔を覆っているのが見える。……灯、お前、すごい地雷を踏みまくってるんじゃ……。

「は、ふ、うふ、うふふふふふふ……やっぱり……アンタが京花ちゃんを隠したの〜?」

 ぎらりと暗い色の目を、髪の間から覗かせて、奏でが笑う。

「可愛い私の京花ちゃんに、てめぇみてえなクサレホモが関わるだけでも死んでほしいのに、京花ちゃんを隠すなんて許さないし許されるわけがないんだよね〜〜〜、ああ〜〜、……殺すー。もう五体バラバラじゃ済まさない、肉をヤスリで一枚一枚ゆっくり削いでいって、地獄の苦しみを味合わせて殺す」
「あっひゃ、せやからあ、僕はなんも知らへん言うてはるやないですか。でも、奏さんが欲しい言わはるなら、これ差しあげますよ?」

 けれど、剣呑な雰囲気を纏っている奏のことを無視して、灯はひらひらと手を振った。手の中で、メモ紙が小さく揺らめいている。奏では舌打ちをしながら、灯を睨みつけた。

「無理矢理吐かせるって手もあるんやで」
「そんなんして、何か得あります? 僕、これ差し上げる言うてはるやないですか。第一身内同士の諍いは厳禁やし、渦見の規則破ったらお姉さん悲しむんちゃいますぅ?」
「……条件は?」
「はは、なんですか、条件って。僕はただお姉さんのこと心配してはるんやないかな思って、親切心で居場所教えたろ思っただけですけど」

 奏は、考え込むような仕草で、灯をみた。何かを推し量るみたいに、灯を上から下まで眺める。対する灯は、あくまで笑みを崩さなかった。何を考えているのかわからない。ややあってから、奏は、吐き捨てるように口を開いた。

「……クソ寒い冗談はやめてくれはる? アンタ、そんな綺麗な奴やないって、ウチ知ってはるし。こんクソ野郎が」
「あらら、手厳しいですわあ」
「はよ言えや。アンタは何が望みなん」

 ふふ、と口を閉じて、灯が俺を指さした。

「ほんなら、そこでボロ雑巾みたいになってはる彼、僕に下さい。別にあんたら、それ自体に興味ないんやろ」
「…………ふーん」
「あっ、ぐ!」

 腹をけ飛ばされて、再び床に転がった。ここに閉じこめられてから、もう何日経った? 覚えてない。けど、もう体力なんてほぼなくなってるくらい、俺の体は疲弊しきっている。無造作に踏まれて、声があがった。

「あんた、これが欲しかったんや? 何、これ好きなん?」
「いやあ、僕、終夜のこと嫌いなんですわ。せやから、終夜からそれとったら、気分ええやないですか」
「ふぅ〜〜ん。これが、ねー。」
「いっ、ぎ……!」

 無表情で、奏が何度も俺の腹を踏みつけてくる。

「あげへん、言うたら?」
「別に、どうもせえへんと思いますよ。あげへん、言われても、僕はこれあんたにあげますし」

 手の内のメモをひらひらと揺らす灯に対し、奏は苛立たしげに舌打ちをした。それから俺を見下して、髪をひっつかんでくる。頭皮が引っ張られて、顔が引きつった。

「うふふ〜、アンタも変なんばっかりに好かれて、かーわいそー」
「っ……?」
「……まあ、ええわ。別に、ウチはもともとこの家にも呪い子にもなんの興味もないし。飽きたし。……ただ、あんた」
「なん?」
「あんま調子こいてんじゃねーぞ、コラ。京花ちゃんが無事やなかったら覚えとけよ」
「ははっ、せやからなんの話かわかりませんわ〜。それより、はよ行かんとあかんのと違います?」
「…………」

 奏は無言のまま灯の手からメモを奪い取ると、そのまま部屋を出ていった。後には、俺と、灯と、雨くんだけが残される。静かな部屋の中、灯が、ゆっくりと俺の方へと近づいてきた。

「あーあ、昨日の今日でまたボロボロやん。まー昨日もボロボロやったけど」
「……灯……」
「服、、びしょびしょやなあ。なんや扇状的で興奮するわ」
「お前……」
「嘘やて。良介くんの服、持ってきたから着替えて。はよ行かんとあかんことになるし」

 俺に服を投げつけて、灯が言った。それは久々にみる、俺の服だった。高級な和服じゃない、渦模様も入っていない。スーパーで買った安い綿の服だけど、こんなにありがたく思えてくるのは初めてだ。俺は濡れそぼった浴衣を脱ぐと、さっさと服に袖を通す。少し濡れるけど、こんくらい、すぐ乾くだろう。
 雨くんが、そんな俺たちを見て、呆れたような声を上げる。

「……アホですね、あんたら」
「いやあ、どうも雨さん、お世話になりました」
「奏姉さん、敵に回したら怖いのに」

 灯の言葉を無視して、ため息混じりな声に顔を上げると、雨くんは俺のすぐ近くまできていたらしい。びしょびしょになった俺の髪をかきわけて、じっと見下してくる。

「どうせ、逃げられへんのに。あの人怒らせると、怖いんですよ」
「知ってはりますわ、そんなん」

 答えたのは、俺でなく灯だ。俺と雨くんの間に、灯が笑顔で横から入ってきた。

「知らへんから、ああいう挑発的な真似しよったんちゃいます? 京花姉さんに何かあったら、死ぬまで追いかけられますよ。身内殺しは厳禁やから、あんたやなくて、笠原さんが」
「え……」

 マジかよ。
 想像しただけで膝が震える。しかし、灯は雨くんに向かってケラケラと笑いながら言った。

「せやから、僕はほんまに何もしてへんし」
「は?」
「だってあれ、嘘やもん。ヘアピンも、メモも、ぜーんぶ嘘」
「な」

 雨くんが、ぽかんとした顔をして、灯を見た。
 俺も口をあけて間の抜けた表情で灯を見る。う、嘘って、でも実際、京花は行方不明なんだろう? だから、奏が焦っていたんじゃないんだろうか。混乱する俺を余所に、灯は嘲笑しながら、雨くんに言った。

「ヘアピンなんて、似た様なもんどこでも買えるやん」
「……ほな、なんで京花姉さんと、連絡取れないんです?」
「さあ? そんなん、僕知らんわ。携帯が壊れてるんとちゃう? あるいは熱烈な信者の白子に連れ去られたかな? あっひゃ、よーわからんけど、厄介者が戻ってくる前にさっさと逃げんで、良介くん」
「あ、お、おう」
「…………」

 まだ何か言いたげな雨くんをおいて、灯が俺の手を引っ張った。すでに服は着替え終えている。
 残り少ない力を振り絞り、灯の後に続いた。部屋を出る瞬間、雨くんを振り返る。そういえば、彼は最後まで、俺に痛いことや酷いことはしなかった。ここに来てから酷い目にしかあってなかったけれど、彼が居なかったらと思うと、少しぞっとする。ただ傍観してはいたけど、逃がすチャンスをくれた。あれがなかったら、俺は、未だにここに繋がれていたのかもしれない。諦めてしまっていたかもしれない。
 灯に手を引かれながら、雨くんに声をかけた。

「雨くん!」
「…………なんですか」
「いろいろ、ありがと。雨くんも頑張れよ、諦めんなよ」
「はぁ…………あほくさ」

 面倒そうに呟くと、雨くんはそっぽを向いてしまった。そして、それっきり、こっちを向こうとはしなかった。
 あの子がいたから、俺はここから出る機会を得た。あとは、逃げ出せれば、あの諦めきっている子に、希望とか、与えられるかもしれない。まあ、ほぼ絶望に染まっている俺が他人に何かを与えることなんて、できそうにもないけど。まず、誰よりも自分自身を救わなきゃいけないんだから。

「行くで、良介くん」
「ああ……」

 ぎゅ、と手を握って、ようやく俺はこの部屋から逃げ出した。


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