犬と首輪@
暗闇の中で、小さな子供が泣いている。
いや、違う。泣いてなんていない。我慢するように、必死で堪えてるんだ。俺は話しかけたいのに、無声テレビみたいに、パクパクと口を動かすだけで、声は響かなかった。それから、その子供がどんどん遠くに行ってしまうので、縋るように追いかける。待って、行かないで。
どうして、追いかけるんだろう。わからない、けれど、このままじゃ駄目な気がして、必死で足を動かした。しかし、進めども進めども前に行かない。何かに足を掴まれて、ずぶずぶと沈んでいく。待て、待ってくれ。伸ばした手が宙を掴む。けれど、結局彼が待つことはなかった。
……彼? 俺は、どうしてその子供が彼だって思ったんだろう。
「う……」
……――水の落ちる音がする。
一定のリズムで落ちてくる水滴の音。ピチャン、ピチャン、と継続して響くその音を聞いていると、安心すると同時に奇妙な不安が襲ってくる。このままここにいてはいけない、早く逃げなければ。そんな不安が脳内をよぎった。びくりと体を動かすと、肌に触れる部分は、妙に冷たい。……寒い。あの部屋、空調だけはしっかりしていたのに、なんでこんなに寒いんだろう。
外気に晒されている体を縮込める様にして丸くなると、俺はゆっくり目を開いた。
「う……」
……何処だ、ここ。
確かなのは、あの部屋ではないということ。あの部屋は、少ないながらも家具があったし、何より床が畳だった。けれど、ここは冷たいコンクリートで、見慣れない器具がいくつも置いてある。窓の様なものはなく、体がズキズキと痛む。錆びたような臭いがして、なんだか気味が悪かった。
身を捩って腹あたりを見たら、肌蹴た浴衣から覗く腹の皮膚が、赤く腫れている。ていうか、なんで俺、こんな風に縛られてるんだ。腕は後ろ手で鎖の様なもので拘束されており、足もまた同様だった。がちゃがちゃと無機質な音を立てながら、なんとかコンクリートの上を這いずる。
……俺、どうしたんだっけ? 確か、見たことない女と少年が入ってきて、それから……。
「おはようございます」
「ひっ」
唐突に背後から声をかけられて、反射的に声が裏返った。体を転がして振り返ると、学ラン姿の少年が立っていた。文庫本で口元を隠しながら、転がされた俺を見下してくる。その目にはあいつらと同じ色が宿っていて、俺は年下であるにも関わらず、彼に恐怖を覚えた。
「き、君は……」
「多分、もう目覚めない方が幸せやったと思います」
「え……」
そう言うと少年は俺から目線を外し、近くにあった椅子の上に腰掛けた。どうでも良さそうな視線を一瞬だけ俺に寄越したが、すぐにまた目線を外し、持っていた文庫本を開いた。
「……僕、こういうの面倒やし、興味もないので、奏姉さんが来るまで監視という名目で居てます、渦見雨と申します。けど、よろしくする気は特にないので、あまり喋らないでくださいね」
至極どうでも良さそうに少年、雨くんはそう言うと、持っていた本のページを捲った。渦見、と雨くんは名乗った。やはり、彼もこの家の人間なのだろう。なんとなくそんな気はしていたけれど、わからないことが多すぎる。冷めた目をしている雨くんに向かって、俺は口を開いた。
「あ、あのさ、雨くん」
「……やめてもらえますか、それ」
「えっ」
じろりと睨まれて、俺はたじろいだ。何か悪いことを言っただろうか。
「僕、贄に名前で呼ばれたくないんですよね」
と思ったら、予想以上に厳しい言葉が飛んできた。しかし、にえと言われても、俺には何のことかわからない。
「にえ、って」
「ああ……、えーっと、カサハラ? さんは自分の置かれている立場がわかっていないんでしたっけ。なら、ええです。それで。もう面倒なんで」
「…………」
さっきから、何を言っているのかよくわからないけど、とりあえず彼が俺に対してあまり興味がないと言うことはわかった。しかし、俺はそれで「はいそうですか、わかりました黙ります」で終われるほど、諦めは良くない。諦めてるなら、とっくにここから出ることを諦めていただろう。
まずここは何処で、俺はどうしてここに居て、これからどうなるのか、それだけでも知っておきたい。ずりずりと不自由な体で地面を這い、雨くんの下まで近寄っていく。雨くんは俺の方に目線は移さず、ただ文庫本に目を通していた。何を読んでいるんだろう。ブックカバーがかかっていて、よくわからない。それ以前に、こんな薄暗い中で読んだりしたら、目を悪くしそうだ。
「……あのさ」
「…………」
「俺、これからどうなんの?」
「…………」
「ていうか、なんでここに連れてこられたかも未だにわかってなくて、よくわかんない内に監禁されて、その……よかったら、教えてほしいんだけど……」
「…………」
無視だ。
まるで俺なんか存在しないかのごとく、完全無視。視線すらこっちに寄越さない。白装束みたいに喋ったらいけない決まりでもあるのか? いや、でもさっきめちゃめちゃ喋ってたし、あの部屋でも喋っていた様な……、そもそも彼は、俺の味方なんだろうか、敵なんだろうか。さっき監視っていってたから、多分味方ではないんだろう。そういえば、あの二人の女の子はなんだったんだろう。
「……なあ、あの女の子達は? 長い髪の子とボブっぽい感じの……」
「後で来ますよ。来るのは奏姉さんだけやと思いますけど」
「奏? あ、えっとあの髪の長い方の子?」
「そうですね。というか京花姉さんを奏姉さんはこの部屋に入れたないと思いますんで」
「な、なんで?」
「…………」
その問いには答えず、雨くんは再びページを捲る。くそ、またシカトだよ。答えたくない質問には、答える気がないのか、それとも単純に俺と話すのが面倒なだけなのか。多分、後者だろうなと予想する。けど、興味のある話題だったら話してくれるのかもしれない。不自由な手足を使って、ようやく身を起こすと、俺は懲りずに話しかけた。
「えっと……、何読んでんの?」
「僕の本よりも、自分のこと心配した方がええと思いますけど」
「いや、心配するにも現状が全然わかんなくて……、この手足の拘束、外してくれる? すげえ動きづらくて……」
「そりゃ、動けないようにつけたんやから、動き回れたら困るでしょう」
「……なんで困るんですかね」
拘束する理由なんて、聞きたくもないけど、動き回られたら困るようなことをされるんだろうか。なにされるんだよ。冷たい汗が背中を流れるが、雨くんは答えてくれなかった。俺は急に怖くなり、がちゃがちゃと繋がれた手足を外そうと音を立てる。
「……は、外せよ、これ!」
「それは無理です。僕見張りなんで」
「見張り、って」
「カサハラさんが、逃げへんための、ですね。白子連中は手違いがあって、今信用されてへんので、わざわざ僕らがやってはります」
わざわざ、と言われても、そもそも俺は彼の名前が渦見雨で、渦見の人間だと言うことしか知らない。シロコってなんだ。白装束のことか? わからない部分が多すぎる。疑問符を浮かべ、混乱している様な顔をしている俺を見て、面倒そうにため息を吐くと、雨くんは本を閉じた。
「……カサハラさんは、これから酷い目に遭います」
「……は?」
ピチャン、ピチャンと水の音がする。この音はどこから漏れているんだろう。その水の音以外は何の音もしない、静かな空間。雨くんの声は、予想以上に部屋の中に響いた。まだ変声期が終わっていない、幼い声。それなのに、俺を恐怖で支配するには十分だった。
「前の人は、口の中にナイフを入れられて、それを固定されて、舌が切れるまで物も食べさせてもらえませんでした」
「え、え」
「その前の人は確か、何週間も土の中に埋められて、食べ物と水はあっても、すぐに狂ってしまいました」
「あの、何」
「その前は……なんやったかな。目をスプーンで抉られて食べさせられたかと思います」
「えぐ……え?」
「次は、カサハラさんの番です。まあ、アンタの場合、ちょっと特殊やとは思いますけど」
「……ちょ、ちょっと待てよ! だから、何の話!?」
「カサハラさんは馬鹿ですか? 僕は今アンタの番やって言ったはずですけど」
「な、なんで俺がそんな目に遭わなきゃいけないんだよ……!」
堪えきれず叫ぶと、その声は室内に反響した。
なんなんだよ、それじゃまるで拷問じゃねえか。……ここに来てから、理不尽なことばかりだ。
理不尽に捕まって、理不尽に閉じこめられて、理不尽に犯されて、そして今度は理不尽に拷問にあうってのか? 俺が何をしたってんだ、何もしてないだろ!? こんな夏休みになるなんて、思ってなかった。俺はこのままここで殺されるのか? そんなの、嫌だ。俺はまだ生きたい。
ただ、渦見に会いに来ただけなのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。体全体に鳥肌が立っている。震える体を何とか諫めたいけど、両手足が縛られていて、それすらできない。
その場に座り込むと、頭が痛くなってくるのを感じた。もう、嫌だ。やっぱり、あの白装束の男についていけばよかったのか、そうすれば出られたのか。じわりと涙が滲んで俯くと、上からため息が聞こえてきた
「そんなん、僕に言われても困りますよ。僕だって引くなあって思ってはりますし」
「…………」
「でもまー、何も知らずにただ壊されるのは、流石にアレなんで、奏姉さんが戻ってくるまでにそのくらいはお話しますよ。多分、許される思いますから」
そう言って、雨くんは口を開いた。その目には優しさや慈悲みたいなものは、これっぽっちも浮かんでいなかったけど、何の理由もわからず殺されるよりかはマシだ。
「……嘘とかじゃないよな?」
「僕、嘘って嫌いなんですよね。嘘つきは死ねばええ思ってます」
「……わかった」
その言葉が本当かどうかはわからないが、そもそも俺にはそれが本当かと判断する材料すらないんだ。なら、大人しく聞いていよう。
「そもそも、カサハラさんが僕らに贄と呼ばれてはるのはですね……」
そして、雨くんは語り出す。渦見と、渦見の家と、その呪いのことを。
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