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「え……」

 消え入りそうな声に、なんて声をかければいいのか、一瞬判断に迷った。どうしたら好きになってくれたの、って……今更、どうしてそんなことを聞くんだろう。
 それとも、僕の聞き間違い? 困り果てたような呟きに、僕の方が困ってしまう。そんなことを聞いて、化野はどうしたいんだろう。
 そんな風に言われると、今までしてきたことが、まるで好きになって貰う為に行ったことのように聞こえる。目の前で黙り込んでしまった化野を前に、口を開きかけたその瞬間、教室のドアが大きく叩かれた。

「おい! 正義! ここに居るのか? 声聞こえたぞ!」
「…………っ」

 その声を聞いて、ハッと我に返ったように化野が顔を上げた。まるで、失言だったとでも言うように、口元を手のひらで覆う。
 僕も化野から視線を外して、ドアを見た。誠の声だ。さっき僕が叫んでいたから、声が届いたのかも知れない。助けに、来てくれたのかな。そう考えると、また胸の奥が熱くなる。
 僕は無意識のうちに足を踏み出し、ドアの方へと近づいていた。

「まこ……っ」
「…………っ!」

 けれど、駆け寄ろうとする前に、化野に後ろから腕を掴まれ、己の方へと引き寄せられた。僕は足を止め、そのまま引きずられるように強く引っ張られて、背後から抱き込められた。
 苛んだ化野の声が、耳元で響く。

「は、離しっ」
「やだ」
「なんなんだよ、離っ」

 暴れようとした時、耳元で小さな舌打ちが響いた。

「なんで、っ……」
「えっ……?」
「なんで、セイなんだよ……っ! だって俺の方が、先だったろ! 俺が一番最初だったのに! 俺の方が……っ、俺の方が正義ちゃんのこと好きだし……っ」

 喉の奥から絞り出すような言葉に、僕は一瞬暴れる手を止めた。掴まれた手が、強く握られると同時に、ドアを叩く音が大きくなっていく。

「化野……」
「なんで、そっちばっか見んだよ……」

 化野の呟きをかき消すかのように、ドアの奥でバキ、と何かを壊す音がした。

「…………っ!」

 青ざめる。もしかして誠は、ドアを壊そうとしているんじゃないだろうか? そんなのが見つかったらまた謹慎、いや今度は停学、下手すれば退学になるかもしれない。
 僕は精一杯力を込めて、化野の体を突き飛ばした。反動を利用するように、離れると、その拍子に、再びお面の紐が外れた。呆然とした表情の化野と対峙すると、僕は屈み込み、化野の懐に入っていた鍵と携帯を奪う。止められるかと思ったけど、化野は何もしなかった。
 僕はすぐにドアの方へと駆けつけ、鍵を開けた。

「……っ正義無事か……!」

 ガチャリ、とドアが開いた瞬間、血相を変えた誠が飛び込んできた。顔色を蒼白にして、肩で息をしながら入ってきた誠は、汗だくだった。

「誠、ドア壊れる……っ」
「んなことよりお前……っ、おい、おま、その格好……」
「あ……」

 そういえば、胸元は開けたままだった。乱れた格好と、中の様子を見て、誠は何かに感づいたらしい。僕の背後に立っている化野の方へと視線を向け、額に青筋を立てながら、ずかずかと近づいていく。
 誠が怒りに震えているのは、傍から見ても明らかだった。瞳が、憎悪に揺らめいている。

「大志、お前……っ」
「誠、いいよ」

 けど、僕はそんな誠の歩みを止めた。もちろん、誠は反論してきたけれど、僕はそれを説き伏せる。

「は? いいって、いいわけねえだろ! だってお前こいつに……っ」
「……いいんだ。誠、大丈夫だから」
「お前はいつも大丈夫って」
「誠!」
「…………っ」
「いいんだ」

 もう、いい。
 だって、きっとこれが最後だから。最後にするから。
 誠の腕を掴んで止めて、僕は化野を振り返る。化野は、床に座り込んだまま、何も言わない。少し虚ろな瞳で、僕と誠をじっと見つめてくる。元々暗い瞳には、淀んだ物が垣間見える気がした。
 化野は、これから僕が何を言うのか、もう検討がついているのかもしれない。でも、もうこれ以上は限界だと思うから。きっともう、続けることは出来ないと思う。
 さっき、僕の気持ちは伝えた。化野だって、本当はわかっているはずだ。
 どうすれば好きになったか、なんて、聞かれてもきっと化野の望む答えは出て来ないよ。
 だって、僕は化野の事が好きだったんだ。これは、本当だよ。

「化野」
「…………なに」
「僕だけじゃないよ」
「何が」
「人の気持ちなんて簡単に操れない。そんなの、きっと僕だけじゃないよ……」

 でも、僕は化野の人形になりたくない。化野の手の中で、大事にされて、最後は箱に仕舞われるようなものにはなりたくないんだ。だって僕は人間だから、ちゃんと自分の意思も足もある。水槽の中の金魚じゃない。
 その気になれば、きっと、どこにだって行けるんだ。
 でも、化野と僕は、きっと考え方が違う。だから。

「…………」
「ごめんね。もう別れる」
「…………っそ……」
「……………………ばいばい」

 そのまま誠の腕を引っ張って教室を出ると、早足で遠ざかる。誠は僕と化野を見て、化野に何か言おうとしていたみたいだけど、足早に去ろうとする僕に従い、黙って僕についてきてくれた。
 離れてから、じわじわと胃の奥が波打つように痙攣する。
 腹の中が気持ち悪い。飲み込んだ精液が気持ち悪い。う、と口を押さえ、僕はその場にしゃがみ込んだ。一度は押し込めたと思っていた物が、再び押し上げ、逆流してくる。

「おい、正義……」
「う、ごめ、ト、トイレ……」

 近くにあったトイレへ駆け込み、便器を掴むと、胃の中の内容物を全て吐き出した。

「う、えっ……げほっ……おぇっ……!」

 精液と一緒に、消化しかけの食物も全て吐き出した。喉の奥が酸っぱいような、苦いような、そんな味が口の中へと広がる。
 どろどろと口の中から溢れてくる吐瀉物を全て吐き出すと、同時に涙も溢れてきた。生理的な物かもしれないけど、きっとそれだけじゃない。
 嗚咽と同時に咳き込むと、トイレの個室の前で待っていた誠が入ってきて、心配そうに背中を摩ってくる。

「大丈夫か……? 今、水持ってくる」
「……っう……え……っ、あ゛…………っ、げほっ……う」
「……っ! お、俺が、やっぱ、離れなければよかったんだ。あんなん無視しとけばよかったのに、ごめん……」
「ちが、う、そうじゃなくて……っ」

 そうじゃなくて。
 誠が悪いんじゃない。あの告白してきた女の子が悪い訳でもない。
 そうじゃなくて、どうして、こんなことになっちゃったんだろう。どうして、普通の友達になれなかったんだろう。
 さよならは告げた。もう別れた。だったら嬉しいはずなのに、今、全然嬉しくない。吐いてるからとか、そういうことでもなく、胸の奥がズキズキと痛む。拭っても拭っても、目から溢れてくる涙が止まらなかった。
 苦しくて、悲しくて、たまらなかった。
 友達でもない。恋人でも無い。じゃあ、今の僕達はなんなんだろう。他人というには、関わりがありすぎた。
 化野大志という人間を忘れるには、一緒に居すぎたんだ。

 当たり前の様に友達として笑ってた日に、戻りたかった。

****

 それから、トイレから出て、近くの廊下でぐったりしていた僕の身なりを、誠が整えてくれた。その辺に放置していた荷物やお面を持ってきて、ついでに自販機で買ったペットボトルの水もくれた。

「……ありがとう」
「…………ゆっくり飲めよ」
「うん……」

 受け取った水を喉の奥に流し込むと、散々失った水分が、体に戻っていく気がして、すこしだけ気分が軽くなる。

「もうちょっと休んでくか?」
「ううん……、もう、帰る」

 ふらつく足取りで、立ち上がると、誠が僕の体を支えてくれた。化野は、もうあの教室には居なくなってたらしい。帰ったのかも知れない。というか、残る意味もないから、帰ったんだろうな。

 帰り道は、無言だった。
 ちなみに、取り返した誠のスマホは、誠に返した。申し訳なさそうにしていたけれど、取られたものは仕方ない。
 重要なことは会って話すようにはしているけど、普段話さない奴とのラインとかも入っていたから、もしかしたら何か感づいてはいるかもしれない、と言われた。
 でも、もう別れたのだから、必要ないのかな……。
 あの教室で起きたことは、誠には話したし、僕が別れると言った言葉も聞いているけど、誠としては、まだ心配らしく、普段誠が降りる駅で降りようとせず、僕の隣に立ったままだった。

「家まで送ってく」
「大丈夫だよ」
「俺が、送りたいから」
「…………ありがとう」

 本当は、一人で居たく無かったから、嬉しかった。
 こうして黙っていると、さっき起きた出来事が、何度も頭の中を蘇る。もうちょっと、うまく伝えられたんじゃないかとか、そもそも、まだ言うのは早かったんじゃないかとか、どうして、化野はあんなことを聞いてきたんだろうとか……。
 色々思うところはあったけど、もう別れたのだから、今更何を考えても無駄かもしれない。

「これからさ」
「うん」
「もう、離れないように、すっから……」
「大丈夫だと思うよ」
「…………」

 引き続き、情報収集はしていくと思う。
 だって、まだ公開されて困るような情報は化野の手の内にある。対して僕達は、交換条件に差し出せるようなものもない。化野が何かしてくるかどうかはわからないけど、何かあったときの為に、情報は必要だと思うから。でも、あの様子だと、もう何もしてこないんじゃないかな。
 駅を降りて、帰路に着く途中ぼんやりと考えていると、突然、誠が足を止めた。

「……? どうしたの?」
「…………ごめん」
「? 何が?」
「俺、お前のこと守ってやりたかったのに、全然守れてねぇし、結局足引っ張ってる……っ」
「なんで? そんなことないよ。誠が居てよかったよ」
「だって、俺が携帯あいつに盗られてなきゃ、お前、逃げられたかもしんねえのに……! ほんっと、馬鹿みてぇ……っ」

 ああ、それか。
 でも、結局携帯が無くても、化野なら別の手を考えたんじゃないかなって思う。それこそ、人伝にどこかで見てないか聞いたり出来るだろうし、ああいう、僕の知らない化野の入れる場所があるなら、遅かれ早かれ、捕まっていたような気がする。第一、化野がしたことを、誠が悔いるのはおかしいと思う。
 誠の携帯が無かったとしても、化野には、僕を従わせる手立てなんて山ほどあるだろうし。それに。

「僕は女の子じゃないから、守って貰わなくても平気だよ」
「…………っ」

 これは、女の子に対する偏見かもしれない。
 守って貰わなくても大丈夫な女の子だって居るだろうし、守って貰いたい男の子だって居るだろう。誠は、僕の言葉に、悔しそうに拳を握った。ごめんね、誠の気持ちはありがたいけど、でも、僕は、誠に守って貰いたいわけじゃ無くて。

「ただ、一緒に居て貰えるだけで、嬉しいから」

 それだけでいいんだ。
 散々色んなことをさせられたし、してきた。
 体自体は、痛くもないし、むしろ気持ちいいとすら思ってしまうような、惨めで浅ましいものになってしまった。守って貰うような価値はないと思う。ただ、心はすり減っていく気がしていたから、一緒に居てくれるというだけで、嬉しい。誠と居ると、なんだか心がぽかぽかしてくるんだ。
 あんなことをしているってわかっても、軽蔑しないでいてくれた。優しくしてくれた。好きだって、言ってくれた。
 それだけで、満足しているし、僕にとっては十分だ。
 だけど、誠は違う、と言葉を溢した。

「…………?」
「違う、お前が守って欲しくないとか、大丈夫とかじゃなくて……! 俺が! 俺が、お前を守りたいんだよ!」
「…………」
「お前が好きだから!」

 顔を赤くして、叫ぶ誠に僕は瞠目し、薄く口を開いた。
 けど、なんて言っていいのかわからず、僕自身も、顔を赤くしながら、誠の前に立つ。誠は、耳まで朱に染めながら、ぼそぼそと言葉を溢した。

「好きだから………………俺が、お前に、笑っててほしいんだよ。さっきみたいに、泣いてほしくねえだけ……、お前の言葉無視してわりいけど、俺のわがまま……」

 呟かれた言葉に、僕は手を伸ばした。

「…………て」
「あ?」
「手が、ね。実は、さっきから、ふ、震えてて……」

 僕は自らの手を誠の前に差し出して、制服のシャツを掴む。
 体は、大丈夫だ。大丈夫だと思えば、なんとかなる。体はふらつくけど、歩けないほどじゃなくなった。
 でも、さっきから手だけが、どうしても震える。強く拳を握れば少し止まるけど、それでも、やっぱり開くと小刻みに震える。唐突の出来事に、体が対応出来ていないようだった。僕が意識しなくても、手の震えは止まらない。
 心配をかけたくないからばれないようにしていた。
 でも、帰りの通学路で、人もまばらの時間帯。今この付近には、誰も居ない。僕は、誠を見つめた。

「……握って、も、いいかな」
「………………」

 誠は、何も言わずに僕の手を握る。指を絡め、力強く、ぎゅうっと握られた。
 僕よりも少し大きな手のひらは、僕よりもずっと熱かった。


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