22

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 学校が始まる。

 しばらく風邪を言い訳に休んでいたけれど、もう風邪なんてとっくに治っているし、お母さん達にも心配をかけてしまう。なにより、誠と仲直りも出来たんだから、ずっと行かない訳にもいかない。誠は化野と喧嘩しているし、学校で一人になってしまうかもしれない。
 勇気は、行きたくないなら行かなければいいのに、と言ってくれたけど、その言葉に甘えるわけにはいかなかった。勇気は、きっと僕のことを考えて言ってくれたんだと思う。すごくありがたいけど、ずっとこのまま家に引きこもってもいられないし、誠を学校で一人にもしたくなかった。
 ただ一つ、化野から連絡が来ないことが少し不安だった。
 誠に聞くと、「俺もボコられたけどこっちも大分ボコった」って言っていたから、もしかしたら、化野も怪我をして、学校に来ていないのかもしれない。
 そういえば、喧嘩したって言ってたけど、結局その理由も聞いてないな……。

「おい、正義、大丈夫か」
「! ……っ」

 隣で、誠に問いかけられ僕ははっとして、勢いよく頷いた。
 今、僕たちは教室のドアの近くまで来ている。開けっぱなしの教室のドアからは、いつも通りの光景が見えた。
 僕は未だに、この狐面は手放せない。
 というより、化野と付き合っているので、化野の言いつけに背いて勝手にお面を外せない。本当は、外した方がいいんじゃないかと思うこともあるけど、今はまだ、その時期じゃない気がする。ちゃんと、化野と向き合って、納得して、別れてからじゃないと。
 よし、と意を決して、クラスに足を踏み込むと、誰も僕を見ようともしなかった。無視、というよりは、腫れ物に触れる感じで、僕が近づくとそそくさと逃げていく。

「…………」

 机は汚れていない。机の中も異常はなかった。念のため教室後ろにあるロッカーも見てみたけど何もされていない。とりあえず、前みたいなことにはなっていないらしい。
 誠の机も同様に、特別弄られてはいないようだった。
 そのことに、少し安心する。頭の中では覚悟したつもりでも、実際目の当たりにすると、やっぱり衝撃は受けるだろうから。僕は、誠が僕と同じようにいじめられているところなんて、見たくない。
 落ち着いた気持ちで席に着くと、明るい声が教室に響いた。

「おはよ〜」
「あ、大志、おはよう〜」
「おはよー、あれ? 今日アレつけてねーじゃん」
「アハハ、飽きちったー」

 化野だ。
 耳に馴染んだ声に、ぎくり、と体が強ばる。
 誠と相談した結果、僕は、化野の前では今まで通り振る舞うということにした。誠は反対したけれど、情報を集めるまでに時間が欲しいし、今バレたら、僕だけじゃ無い、今話している人たちにまで、迷惑がかかってしまう。
 あれから、井上に教えて貰った人たちに、密かにコンタクトをとっている。勿論、歓迎してくれない人や、協力してくれない人もいる。
 そこから、化野に情報がいってしまうかもしれないから、僕たちはなるべくそうならないように頼んだ。頼んだと言うよりは、脅した……。いけないことだとは思うけど、せめて化野には言わないで傍観してもらうよう言って置いた。
 でも、情報なんて、どこから漏れるかもわからない。漏れた時、化野がどういう行動に出るかはわからない。
 それなら、なるべくいつも通り振る舞った方がいいと思う。

「正義ちゃん、オハヨー」
「………………」

 化野の声に、僕は振り返り、小さく頭を下げた。
 誠とも、クラスで極力喋らない方向で決めた。
 というより、僕はクラスでは喋らないから、誠から話しかけることもないはずだ。誠は心配して反対したけど、まだ化野に対抗できるだけの武器が僕達にはない。それなのに、衝突なんてできるはずない。だってそれじゃあ、前と同じだ。
 振り返った先にいた化野は、いつかの誠みたく、顔にガーゼやら絆創膏やらを貼っていた。傷や痣がちらほらついている。じっと見つめていると、僕の目線に気がついたように自分の顔を指さした。

「あ、これ? どっかの馬鹿に殴られたの」
「…………」

 近くで、誠の舌打ちが聞こえる。
 ヒリついた空気が、教室内を包んだ。

「お、おはよ〜、大志……」
「ん、おはよー佐々木」
「……しばらく休んでたから心配した」
「いやー、暇だったわぁ、佐々木くんラインありがとぉん、優しいのねぇん」

 と、からかうような声で化野は笑い、その笑い声に他の人たちも倣ったけれど、クラスの雰囲気は、和気藹々としているように見えて、最悪だった。
 化野はもちろんだけど、誠だって、クラスではそれなりに発言力もあったし、地味に人気があったことを知っている。誠はクラスの王様、なんてタイプじゃないけど、密かに慕いたくなるタイプだと思う。
 だからこそ、その二人の仲が険悪なら、その空気に耐えられなくなるかも知れない。佐々木は、誠の方を気にするようにちらちらと見ていたけど、井上が登校してきたことによって、佐々木の視線は井上へと向かった。

「おはよー」
「あ、あー井上おはよ!」
「おー、はよ」

 スマホを弄りながら、井上は僕に目もくれない。
 その方がいいと思っている。僕たちは、あの日話なんてしなかった、そういうことにしておいた方が、都合がいい。
 教室全体を包む、どこかピリピリとした空気に、押し黙って席に座っていると、化野が後からぽんと肩を叩いてきた。びくりと肩を竦める。

「いやー、これすっげー痛くてさぁー、学校も休んじゃったんだけど、正義ちゃんから心配って連絡も全然こねーし、俺傷ついちゃった」

 振り向くと、笑顔でそんなことを言われて、僕は身を竦めた。そんなの、どうしろと……。僕だって学校を休んでいたから、化野が休んでいたことを知らなかった。
 いやそもそも、あんなことしておいて、どうして僕が心配するって思うんだろう。
 化野が僕にしていることなんて、ほとんどレイプと変わらないのに、僕たちが"付き合っている"から? 化野の中で、あれは愛を確かめるような行為に変換されているのかも知れない。化野はどこか壊れてる。
 怖い、と思ったけれど、謝らないと。だって、今化野に何か悟られる訳にはいかない。
 僕が小さく頭を下げると、化野はにこにこ笑いながら、僕の耳元に唇を寄せた。

「あとで科学準備室」
「…………っ」

 僕の返事を待たずに、化野は僕から離れる。それから、すぐに別のクラスメイトの輪に入っていった。
 そういえば、今日はなんのお面もつけておらず、素顔を出しっぱなしにしている。どうしたんだろう、と思ったけど、深く考える前に、誠が立ち上がった。

「――正義、ちょっといいか」
「…………!」

 え、呼ぶの? 教室では、なるべく関わらないようにするって話してたはずなのに。なんですぐ破っちゃったんだろう。
 しんとなってしまった教室で、誠に手を引かれた。けれど、その前に化野の手が僕の肩を掴んだ。

「もうすぐ授業始まるじゃん」
「………………すぐ済む」
「ここで言えばぁ?」
「お前に関係ねーだろ、大志」

 両者の間で、一瞬火花が散ったように見えた。すると、すぐに化野が僕に目線を送ってきた。

「正義ちゃんは、行きたい?」
「…………っ」

 僕は、迷った末に、首を横に振る。
 だって、まだバレてはいけないはずだ。誠がどういう話をしたかったのかはわからないけど、ラインでもなんでも、話す方法はある。今、目立つ行動はしない方がいい。
 そう思っただけなのに、誠が少しだけショックを受けた顔をしていたことに、胸が痛んだ。
 ごめん……。

「だって、セイとは行きたくねーってさ!」
「…………あっそ」
「に、にっしー、チャイム鳴ったよ?」
「…………」

 佐々木の声に、誠は顔を上げて佐々木を見た。

「佐々木、ちょっと席変わって」
「えっ」
「いいだろ」
「…………いいけどぉ」

 ちら、と化野の顔を見つめながら、佐々木は自分の席を立って、誠が僕の隣に座った。すると、僕の後の席の化野がクスクスと笑う。

「セイはすーぐそうやって人の席取る」
「あ?」
「人のモン取るの好きなんだよね」
「……お前のモンなんて取った覚えねえけど」
「俺の話なんてしてねぇけど?」
「言いたいことあんならはっきり言えよ」
「ちょちょ、待った、チャイム鳴ったから! にっしーも大志も! にっしーだってまた謹慎くらいたくないだろ? な? お前もそう思うだろ!」

 佐々木に同意を求められて、僕も思わずこくこくと頷いた。登校して初日でまた謹慎なんて最悪だ。いや、今回は謹慎じゃ済まないかもしれない。だから、喧嘩腰になるのはやめてほしい。佐々木もきっとそう思っている。
 こんな風に佐々木と同じ気持ちになったのは、初めてかもしれない。僕と佐々木の言葉に、誠は無言で、化野は笑いながら自分の席へと着いた。
 ……事前にこうしようって話していたことと、違うんだけど、誠はどうしちゃったんだろう。その後の授業なんて、さっぱり頭に入ってこなかった。

****

 授業中は携帯をいじれないから、休み時間になったら、トイレに行くフリをして誠に連絡しよう。そう思っていたのに、授業が終わった瞬間、化野に後から肩を叩かれた。

「正義ちゃん、ちょっといー? ツレションしーましょ」
「…………」

 良くない……。良くないけど、そうしよう、と提案されれば、僕はうんとしか言えない。
 こくりと頷いて、化野の隣に立つと、誠も席を立って僕の隣に立った。化野が不服そうに唇を尖らせる。

「いやセイは呼んでねーけど」
「別に俺はお前についてくわけじゃねーよ、こいつと話があんの」
「は? ストーカーかよキモ。ついてくんなし〜」
「やだね」

 誠の中で、学校に来る前に話した「教室の中では、なるべく関わらないようにしよう」という話は、消滅したのかもしれない。
 でも、化野と二人きりになるのはやっぱり少し怖いから、僕としてはありがたいけど……。殴り合いの喧嘩をしたというから、話もしないのかと思っていたけれど、普通に話はするんだな。
 ちらりと二人を見る。表向きは前と同じように話しているけれど、その空気にはどこか剣呑なものを感じて、やっぱり前とは少し違うのかも知れないと思い直した。
 二人で連れ立って教室を出ると、化野、僕、誠の順で廊下を歩く。周りは、どこか僕たちを避けるように歩いて行った。なんだろうこれ。
 僕は人前で化野に話しかけることも出来ず、ただ黙ってついていく。

「ほら、トイレだよ。セイうんこ? はよしろ」
「お前ら行かねえのかよ」
「俺たちは別のトイレいく。ねーっ」
「ねーじゃねえよ。どこ行くんだよ、そっち三年棟だろ」
「うるさ、ついてくんな」

 だんだんと早足になっていく化野と誠に、僕もなんとかついていく。なんとかというか、ほぼ引きずられるように腕を掴まれているから、ついて行かざるを得ない。っていうか、は、早い早い早い! 歩くのが早い!
 最早ほぼ走ってる! こんなの教師に見つかったら……!

「おいお前ら! 廊下走んなっつってるだろ!!」

 ほら怒られた! バタバタと足音を立てながら走っていると、通りすがりの教師に声をかけられた。この高校は、大きいところのルールは緩いくせに、こういう細かいルールはやたらと厳しい。
 僕の狐面は許容されるのに、廊下を走るのは許されない。
 強そうな体育教師に一括され、僕たちはようやく歩みを止めた。心臓の音がうるさくなり、狐面の奥で息を整える。よ、よかった……正直もう走り続けるの限界だったから……、お面してると息しづらいし……。気がつけば、僕たちは教室から、二年の教室を一周してまた元の場所に戻ってきていた。
 その時、休み時間終了の予鈴が鳴る。

「あ、チャイム鳴った」
「よし、戻るぞ」
「もーセイがうざくて全然喋れんかったー」
「話すな」
「なんで? やだよ」

 ずるずると引きずられるようにして教室に戻ると、誠が一瞬僕に目を向けた。それから、音声には乗せず唇だけで、ごめん、と象る。僕はそれに対し、首を横に振った。どうして、関わらないと決めた教室の中で誠が僕に関わろうとするのかはわからないけど、守ろうとしてくれているのだとしたら、感謝こそすれど、謝られる筋合いはない。
 小さく頭を下げて、元の席に戻る。
 スマホの電源を入れると、誠からラインが届いていた。
 【悪い、最初に話してたのと違うけど、出来ればお前ら二人にしたくないから、さりげなく近くに居るわ】
 全然さりげなくはなかったけど、やっぱり、誠なりに気を遣ってくれたんだろうと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。誠といると、時折こういう気持ちになる。ぽかぽかして、胸の奥が熱くなる。
 僕はありがとう、とだけ打って、次の授業に備えて再び電源を落とした。

****

 それからというもの、さり気なさというのは、全くないけれど、休み時間の度に誠は常に僕と化野の近くに居た。
 化野は、僕が思っていたよりも誠とちゃんと喋っているし、誠も化野と会話している。だけど、その節々に棘を感じて、気がつけば近くには誰もいなくなっていた。あの佐々木ですら、井上と一緒に遠巻きに僕たちを見ている。
 僕は居たたまれない気持ちを抑えながら、放課後を告げるチャイムの音を聞いていた。

「よし、帰ろう正義ちゃん!」
「…………!」

 チャイムが鳴った瞬間、僕は化野に手を引かれて、教室の外へと駆けだした。というか、引っ張り出された。その隣を当然の様に誠がついてくる。

「俺も一緒に帰る」
「うーーーぜーーーー」
「いいだろ別に」
「よくねーし! あのさあセイ……」
「あ、あの、西園……っくん!」
「あ……?」
「ちょっと、話したいことあるんだけど、いい……?」

 教室を出てしばらく歩いたところで、突然化野の言葉を遮って、見知らぬ女子が会話に入ってきた。
 クラスでは見たことのない子だから、隣のクラスの子かもしれない。髪の毛を上で一つにまとめ上げて、メイクはばっちりだけど、この学校では珍しい黒髪に、スカート丈もそこまで短くない。ギャルが多いこの学校でも、比較的ギャルっぽくない、可愛い女の子だった。ほんのりと頬を赤らめながら、気まずそうに鞄を握るその姿を見て、化野がニヤニヤ笑いながら、誠の肩を叩く。

「セイ呼び出しじゃーん、頑張れよー」

 ああ、そっか。そういうことか。化野の言葉に僕も納得する。誠は、自分の事を悪人面とか揶揄するけど、僕から見れば男前だし、女子人気だってそれなりにある。告白だって、普通にされるよね。
 どうするんだろう、と誠を見ると、当たり前の様に首を振った。

「悪い、今日は無理」
「えっ……」
「つーか、話あんならここでして」
「え、あ……、ふ、二人で話したいんだけど……っ」
「ごめん、無理」
「……っ!」

 誠の物言いに、僕は焦った。
 ものすごく焦った。僕が焦ることじゃないのかもしれないけど、焦らずにはいられなかった。
 だって、この女の子が、誠に告白しようとしていることは、鈍感な僕でも感づく程にはわかりやすい。誠は気づいてないのかな?
 顔を赤らめて、もじもじした様子で言いにくそうにしている。告白。女子からの告白。僕からしてみればそれはとても羨ましい、夢みたいなものだけど、それをどうするかは誠の自由だ。とはいえ、その機会を、簡単に僕が奪ってしまっていいんだろうか。だって、僕がいなければ、告白されて断るにしても、話くらいは聞いてくれたはずだ。今みたいに無碍に話も聞かず断ったりしないと思う。
 少し目が赤くなっている女の子を前にして、僕は心臓がチクチクと痛んだ。あわあわと焦っていると、呆れ気味な化野の声が飛んできた。

「セーイー、お前さあ、その子の気持ち、ちょっとは考えなよ。ねぇ?」
「お前に人の気持ち考えろとか言われたくねえ」
「は? どういう意味?」
「どう考えてもそのままの意味だろ」
「あ、あの……っ」
「ん?」
「やっぱ、いい、ごめんなさ……」
「っ〜〜〜〜……!」

 泣いてる!?
 な、泣いてる……! この学校の女子って、結構皆強いし、泣くところとか全然見たことないし、僕のこと睨んできたりするし、普通に怖いと思ってたけど、こうやって泣いてるのを見ると、不思議とか弱い女の子に見えてしまった。僕はこの女の子のことを全然知らないし、もしかしたら、他の皆と同じく強めの女の子なのかもしれないけど、今この瞬間だけは、なんだか可哀想に思えてしまった。
 僕は誠の腕を掴み、ぶんぶんと首を横に振る。

「あ? 何?」
「…………っ!」

 とりあえず、化野の前では喋らないことにしているので、ジェスチャーだけで必死に伝えた。僕のことは気にしないで、とりあえずその子の言いたいことは伝えさせてあげてほしい。告白の場すら立てないなんて、あんまりだ。
 そう思ったのに、誠は全然気づいていなかった。
 ぐいぐいと袖を引っ張って、その子の方へと押すと、なんとなく気がついたようで、不満げに眉を寄せる。

「おい、正義……」
「……っ!」

 僕は首を横に振って、泣いているその子を指さした。
 その動作に、誠は僕が言いたいことに感づいたのか、苛ついたように舌打ちする。

「あー、……まあ……お前はそうだよなぁ……っ」
「…………」

 低い声色にびくりと肩を揺らすと、背後にいた化野が笑う。

「ほらほら、正義ちゃんも行っておいでっていってるし、いってこいよセイ」

 ばしばしと誠の肩を叩きながら、化野は誠の体を彼女の前へと押し出した。化野の腕を払い、誠は僕に言う。

「………………おい、正義!」
「!」
「五分待ってろ!」

 僕が頷くと、納得したのか、誠は背を向けるその女の子と一緒に近くの教室へと入っていった。
 いつの間にか人が居なくなっていた廊下で、化野が呟く。

「あれ、セイ好みっぽい顔してんなあ」
「…………」

 そうなんだ。
 誠の好みは、よくわからないけど、あんなに可愛い子だったら、僕だったら嬉しいかな。でも、今はそれを気にしている場合じゃない。化野の手が、僕の腰へと伸びてきた。
 正直、誠を行かせた時点で、ある程度覚悟は決めている。写真も動画も、撮られているから、今更増えて困るような事も、捨てるようなものもない。いつもみたいに、抱かれるだけで……。

「それじゃー、帰ろっか? 今日は結局二人きりになれなかったからねー」
「…………っ」

 でも、気がつけばその言葉に、首を横に振っていた。わかった、と頷くべきだったのかも知れない。でも、僕の足は硬直したみたいに動かなくなっていた。

「はぁ?」
「っ」

 怒気を孕んだ声色で聞き返され、僕は身を竦める。震える声で、抵抗する。

「……ま、待ってろって、い、言われたから……」
「そんなの無視でしょ。正義ちゃんの好きな"フツー"だと、恋人の約束優先じゃね?」
「…………」

 そうかもしれない。でも、僕と化野は、普通の恋人なんかじゃない。
 お面の奥で押し黙ると、化野は怒るかと思ったのに、にこりと明るい笑みを浮かべた。僕は、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
 化野が、こうやって笑みを浮かべるときは、いつだって不気味だ。腰に回されていた手が離れ、両手を開いた状態で、微笑みかけてきた。

「じゃー、鬼ごっこしよっか?」
「……お、おに……?」
「そうそう、十秒数えるから、正義ちゃんが逃げてぇ、俺が捕まえるの。正義ちゃんが俺から捕まらずに学校から出られたら、そのまま帰ってもいいよ。その変わり、俺に捕まったら俺の言うとおりにしてね。ど?」
「…………」

 化野の提案はいつだって唐突で、何を考えているのかわからない。そもそも、化野が何を考えているかわかった試しなんて一度もないんだから、考えるだけ無駄なのかもしれない。
 こっちを見透かすような黒い瞳が細められ、口元は三日月のように歪む。ここから、玄関までは走っても十秒じゃつかない。
 そもそも、走っていたらまた見つかって怒られるかもしれない。そんなことをしていたら足止めだ。じゃあ、隠れながら行ったら逃げられるだろうか。わからないけど、今このまま化野と一緒に帰るよりは、希望はある。
 僕が小さく頷くと、化野は顔色を明るくした。

「ほんと? やー、嬉しいな、正義ちゃんと遊ぶの、久しぶりだから! あ、こんなことになるなら鬼のお面でもつけてくるんだったかな〜。でも、そろそろバリエーションが」
「…………ほ、ほんとに!」
「ん?」
「本当に、勝ったら帰っていいんだよね……」

 僕の問いかけに、化野はにぃっと口元を歪ませた。

「勿論、そういうゲームだからね!」
「…………わかった」

 こくり、と頷き、僕は持っていた鞄を背負って、靴紐を結びなおした。なるべく、身軽に、最小限に。
 十秒で玄関まで行くのは無理。となれば、他の場所に隠れつつ、玄関に向かわないと。でも、足音を立てるとその音でばれるかもしれないから、比較的早歩きで。
 玄関で待ち伏せされるかもしれないけど、1階にある他の教室の窓から出られない訳じゃ無い。外靴は置いて帰らなきゃいけなくなるけど、ソレも仕方ないことだ。大丈夫。僕は自分に言い聞かせて、道筋を整えた。
 準備が整うと、化野は笑顔のままカウントダウンを始める。

「んじゃ、始めるね。十秒経ったら、追いかけるから」
「…………っ」
「じゅーう、きゅーーう……」

 頷き、駆け出す。
 まずは、玄関を目指す、ように見せかけて、こっそり別の階段から二階に行こう。化野はきっと玄関を目指すだろうから、しばらく別の場所で隠れればいい。
 そして、時間が経ったら、誠に連絡して、化野を誘導して貰うとかしてくれれば、僕はとっくに帰ったことに出来るかも知れない。
 先生に見つからないように廊下を走り、玄関を通り過ぎて、近くの階段を上り、二年の教室へと入った。放課後といっても、もう人もまばらで、あまり残っていない。これじゃあ、鬼ごっこというよりは、かくれんぼだ。
 誰かに見つからないように僕は教卓の中に入って、息を潜める。
 ……もうそろそろ十秒経っただろうか。化野は、僕を探しているかもしれない。追いかけてきているかな。ふうふうと口を押さえ、駆けて乱れた息を整える。

 周りに人の気配は無い。化野は、今頃玄関付近を探しているだろうか。誠は、もう告白された?
 僕のこと、好きだって言ってくれたけど、女の子と僕なら、女の子の方がいいんじゃないかなと思う。だって、誠にはきっと可愛い女の子が似合う。好みの子なら、尚更だ。
 僕は、誠が思うようないい人でもないし、化野とも、結構色んなことをしてきたし、変態みたいなことだってした。だから、誠には、もっとこう……。
 現実逃避のように思いを馳せていると、近くでカツン、と音がした。
 ビクリと肩を揺らし息を潜めた。教室のドアが開く音が、大きく響いた。

「っやべー、忘れ物ー」
「おいーあったかー!」
「あったあった、今いくー」

 …………化野じゃ、ない。
 教卓の中で、口元に当てた手の隙間から息を吐いた。心臓、止まるかと思った。今は心臓の音がどくどくとすごくうるさい。この音でばれるんじゃないかと思ったくらいだ。
 どうやら入ってきたのは化野ではなく、このクラスの生徒だったらしい。
 忘れ物を取りに来て、見つけると騒ぎながら複数人で教室を出て行った。再び、教室内には静寂が戻ってくる。
 胃がきゅうきゅうと締め付けてきて、おかしくなりそうだ。早く逃げたい……。あ、今の人たち、教室のドア、開けっぱなしにしていったな。もしかしたら、教卓の下の隙間から、僕の足が見えるかもしれない。移動した方がいいかな……。
 そう思っていると、再びぺたぺたと足音が聞こえてきた。

「まーさよーしちゃーん、どこー? いるー?」

 ひゅ、と心臓が縮んだ気がした。
 だ、大丈夫。息を潜めていれば、見つからないから……! 息を止めて、ただひたすら、化野が通り過ぎるのを待った。やがて、足音は遠ざかっていく。
 ぺたぺた、と音が遠くなってから、ようやく息を吐いた。さっきから、呼吸が不規則で、心臓の音が乱れっぱなしだ。ヒヤヒヤする。
 でもとりあえずよかった……。見つからなかったということは、このままここに隠れているのも手かな? と思ったけれど、やっぱり油断はできない。ここだと見つかりやすそうだし、移動した方が安全かもしれない。やっぱりここは、離れた方がいいのかな……。
 誠は、もう終わっただろうか、とスマホの電源を入れると、誠からラインが届いていた。
 【今どこにいる?俺は視聴覚室の近くに居る】
 視聴覚室は、この教室を出て、階段を上がって、すぐの所だ。連絡を入れたら、迎えに来てくれるだろうか? いや、それよりも、化野の所に行って、もう帰ったっていってもらう方が早いかな。あるいは、足止めして貰えれば僕の勝ちだ。
 スマホを操作して、誠に返信する。
 【二年の教室に居るよ。でも、化野と鬼ごっこの最中だから、化野を先に見つけてほしい。玄関近くに居たら、玄関から離して貰えると助かる……】
 そう送ると、すぐに既読がつき、返信が来た。
 【は?なんで鬼ごっこなんてしてんの?つーか、今近くに居るの見つけたから殴るわ】
 !? な、なんでそうなるの! 学校内で暴力なんて、駄目に決まってる。でも、この間喧嘩してたし……、いやいや、誠もそんな短絡的に殴ったりは、し、しないはず……。そう思いたいのに、今日の険悪さを見ていると、無いとは言い切れないのが悲しかった。とりあえず、止めないと。
 僕は慌ててラインを送る。
 【駄目だよ!僕が今そっち行くから、待ってて】
 早く止めなきゃ。
 化野が三階に居るなら、違う階段を使えば遭遇しないかもしれないし、今上に居るって事は、ここを出ても見つからないはず。
 スマホをポケットにねじ込み、音を立てないように教室を抜け出した。近くの階段を駆け上がり、階段付近から廊下を見渡した。

「…………?」

 けれど、誰も居なかった。化野はもちろん、誠の姿も見えない。もしかして、空き教室とかで、喧嘩になっているんじゃ……!
 最悪の想像に、顔を青くした僕は、近くの教室を覗いてみようと、誰も居ない廊下に足を踏み出した。
 誰も居なかったから、人の気配がなかったから。
 だから、ここに化野は居ないものだと、思い込んでいたのかも知れない。

「…………っ!」

 突然、近くの教室のドアが開き、手が伸びてきた。

「……――ンッ……!?」

 そのまま奥へと引きずり込まれ、かつん、とつけていた狐面が落ちると、僕の口元を手で押さえた化野が、見下ろすように笑っていた。

「つーかまーえたー」

 からからと、その教室のドアが閉まっていく音が、聞こえた。なんで、どうして。疑問を投げかける前に、目の前で、僕と誠のライン画面が晒される。それは、誠の携帯電話だ。驚愕に目を見開く僕に対して、化野はくすくすと楽しそうに笑いながら、言った。

「ほんと、かわいいねお前」

 ガチャン、と鍵の閉まる音がした。
 

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