18

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 家に帰ると、雨に濡れた服の感触が、ひどく気持ち悪かった。
 けれど、それに構う余裕もなく、ぽたぽたと雨水の滴る体のまま、風呂場へと直行する。そういえば、傘、持っていったのに、忘れてきちゃった。今度とりに行かないと……。でも、あそこに行きたくないな……。
 熱を持った体のまま、風呂場で服を脱ごうとすると、二階から降りてきたらしい勇気が風呂のドアをノックした。

「おい正義、廊下びちょびちょなんだけ……――」

 僕の返事を待つ間もなく、勇気は風呂場のドアを開ける。服を脱ごうとしていた僕と目があい、勇気は言葉を止めた。

「……傘、持って行ったんじゃねえの」
「…………忘れてきちゃって……」
「…………馬鹿じゃねえの!」

 ばん、と音を立てて、勇気はドアを閉めて去って行った。
 ぱたぱたと、遠ざかっていく足音を聞きながら、僕は服のボタンを一つ一つ外していく。肌が、所々赤くなっていて、生々しい痕に見える。手で擦ってみたけれど、消えるはずもなく、自分の体から目を背けた。
 服を全て脱ぎ終え、風呂場に入ると、シャワーコックを捻り、頭からお湯を被る。目を瞑って、上から全身を全てお湯で濡らしていく。あったかくて、気持ちよかった。
 どろどろに汚れきった物が、全て流れていく様な気がした。
 実際はそんなことはないのに。体の痕も、耳の穴も、消えないのに。
 ぬるついた後孔に指を這わせ、中に入っていた物を掻き出す。シャワーの音に紛れて、さっきまで耳に残っていた雨の音も気にならない。指で中を掘る度に、内股を伝ってどろどろとしたものが排水溝へと流れていく。
 ああ、気持ち悪い。
 シャワーのお湯で全てを洗い落としながら、僕は大きく息を吐いた。

****

 シャワーを浴びて、着替えて、布団の中に入って丸くなる。部屋に戻れば、またさっきまでの雨音が耳に届いた。ざあざあ、ざあざあ、ざあざあと。窓を打ち付ける雨の音が止まない。その音を聞く度に思い出す。さっきまであった出来事も、無理矢理暴かれた身体も。中に入ってくる感触の事も。全部。
 ザ――――ザ――――ザ――……
 うるさい。うるさいうるさいうるさい!
 全部うるさい。耳を塞いで、布団の中に潜り込む。温いはずなのに、シャワーだって浴びたのに、体は冷えていて、ガタガタと震えた。
 嫌われた。嫌いになった。友達じゃない。友達だった。嫌いだ。好きだ。全部の感情がごちゃ混ぜだ。
 化野なんて居なくなれば良いと思うのに、消すことすら出来ない。僕にはそんな勇気も、度胸も、何もない。
 だったらいっそのこと。

「消えちゃえばいいのに……っ」

 僕が、消えてしまえば良い。
 綺麗さっぱりいなくなって、そのまま存在ごと無くなってしまえばいい。どうせ、友達なんて居ない。唯一居た友達も、さっき居なくなった。学校で、僕がいなくても悲しむ人なんて居ない。
 それなら、さっさと消えれば良いんだ。
 消えろ、と願えばすぐに消える体だったらよかったのに。
 でも、僕が消えたら、お母さんとお父さんは悲しむかな。じゃあ、僕じゃない僕がいればよかった。弱くて臆病で、何も出来ない小波正義なんて消えてしまって、何があっても何も感じない、すごく強い僕がいれば良かった。
 もっともっと強ければよかった。どうして僕は、もっと強くなれなかったんだろう。
 ぽろぽろと布団の中で涙をこぼし、嗚咽を堪えながら丸くなっていると、部屋のドアが叩かれた。
 今の時間、お母さんはパートに行っていていないから、部屋の外に居るのは勇気しかありえない。僕は慌てて涙を拭った。
 勇気も、今度は勝手に入ってくるような事はせず、僕の返事を待っているらしい。

「は、入って大丈夫」
「…………」

 ドアを開け、仏頂面の勇気が部屋に入ってきた。
 こうやって、勇気が部屋に入ってくるのは、前に風邪を引いた時以来な気がする。基本的に、あまり話すことはないし、勇気もいつも部屋に籠もっているから。

「…………?」

 けれど、入ってきたものの、特別何かを話す訳でもなく、ただ近くにあった僕の勉強机の椅子に腰掛けた。神経質そうな眼差しで、眼鏡の位置を正すと、僕の事をじろりと睨めつけてくる。

「…………? ど、どうしたの?」
「…………俺さ、勉強してんの」
「あ、うん、受験生だもんね。ごめん、シャワーの音、うるさくして……もう静かにするから」
「そうじゃない」

 苛んだように舌打ちすると、勇気は僕に鋭い視線を飛ばす。

「俺が、勉強してんのは、正義みたいな高校に入りたくないから」
「うん、勇気は狙ってるの北星だっけ? 勇気は頭いいし、この間のテストも1番だったって、お母さんが喜んでた」
「あんなレベルの低いテスト1番で当然……、ってか、そうじゃなくて、レベルの高い高校行っておけば、今後の人生で選択肢が増えるだろうし、ゆくゆくは自分の財産になるから、勉強してるんだよ」
「う、うん……、勇気はすごいよ」

 本当に、すごいと思う。
 中学三年生の時の僕なんて、そんなことは考えなてかった。ただ、高校に行ったら、もうちょっと友達が出来たらいいな、くらいのことしか考えていなかったと思う。
 僕が狙った高校は、北星学園という、都内一頭が良い学校では無く、中間レベルの学校だったけど、校風自体は悪くなかったはずだ。あそこに受かって、狐面なんて付けずに普通に通っていれば、友達も出来たんだろうか。
 結局風邪を引いて落ちて、今の学校に通っているけど、勇気は、僕なんかとは違い、万全の体制で挑むだろうから、きっと大丈夫だと思う。

「大丈夫、勇気ならきっとあの学校も受かるよ」
「は? 別に今俺の話はしてないんだけど」
「え? あ、ご、ごめん……」
「…………学校ってさ」
「うん?」

 少し刺々しい言い方をするのは、いつものことだから別に気にならないけど、今日の勇気は、少し戸惑っているように見えた。
 言葉を選んでいるというか、迷走しているというか、うまく言えないけど、そんな雰囲気を感じるのは、僕の気のせいだろうか。

「……別に、その学校に行ったからって、全部が変わるわけじゃないと思うけど、一つの選択として、そこに行くんであって。そこがいいと思ったから行くんであって」
「……うん」
「間違ったなって思ったら、別に変えてもいいと思う」
「…………え?」
「お前、馬鹿だけどそこまで頭悪いわけじゃないだろ。父さんと母さんに頼み込めば、できなくもないんじゃない。あの底辺校よりは、どこ行ってもマシだし」
「……勇気、急にどうしたの」
「正義、お前いじめられてない?」

 突然、転校のことを言い出すなんて、何かあったのだろうか、と思い問いかけると、じっと目を見つめられて、確信を突いたようなことを聞かれた。僕は思わず首を横に振る

「ち、違うよ!」
「正義、小学校の時もいじめられてたろ」
「そ、れは……」
「隠してても、バレバレだから」
「…………」

 バレてた? いや、でも最近はいじめられてない。それとも、ずっと前から、勇気は気づいてたんだろうか。
 でも、ここで肯定してしまえば、隠していた意味がなくなってしまう。

「違うよ、虐められてない。勇気の勘違いだって……」
「じゃあ、なんで最近ピアスとかつけてんの? ほら、穴増えてる。前はつけてなかったろ。帰ってくるのも遅いし、今日だって」
「こ、これはその……友達がくれて……」
「正義、ピアスなんて好きじゃないじゃん。自分で開けたのそれ? 開けられたの?」
「…………」
「開けられたんなら、普通に傷害罪だけど」
「いや……これは、…………僕が、自分で」

 勇気の質問を、とにかく僕は全て否定する。
 化野を庇った訳じゃない。ただ、バレたくなかった。いじめられていたことも、化野とのことも、僕の事も全部。
 心配をかけたくないという気持ちも勿論あるけど、それよりも、バレたら勇気にもっと嫌われると思ったから。元々好かれてはいないけど、それでも、今より嫌われたくはない。勇気から目線を外すと、勇気が僕の耳を引っ張った。

「わっ……!」
「こんなの、なんで自分でつけようと思ったわけ? 全然正義に似合ってない」
「…………、こ、高校生だし、お、おしゃれ? というか……」
「あほくさ」

 吐き捨てるように言われ、少し傷つく。確かに、僕はオシャレというにはあまりにも垢抜けていないから。こういうのは、もっと華のある人間がつけたほうが似合うんだろうな。僕は、自分の意思でつけたわけじゃないけど……。
 押し黙ってしまうと、勇気は再び口を開いた。

「正義は鈍くさいから」
「…………」
「トロいっつーか、鈍いっつーか、やることが一々遅いし、すぐ謝るし、いじめられてても全然不思議じゃないし」
「ごめ…………あ」
「だから、恥とか思う必要もないんじゃね。心配してるわけじゃないけど、一応兄弟だから、縁だって切れないし、転校する手立てだってないわけじゃないってこと、お前知らなそうだったから。嫌になったら言えばいい」

 勇気なりに、僕に勇気づけてくれているのかもしれない。勇気は名前の通り、芯のある子に育ったなと兄として思う。肝心の僕は、正義なんて微塵も似合ってないけれど。
 ツンとすまし顔で言う勇気に、僕はぽろりと口から言葉を溢した。

「…………勇気は、僕がいなくなったら、寂しい?」
「はぁ……?」

 僕の言葉に、勇気は目を丸くした。自分でも、どうしてこんなことを聞いてしまったのかわからない。勇気は僕をそんなに好きじゃないし、寂しいか寂しくないかでいえば、きっと寂しくないと思う。
 でも、さっきまで消えてしまいたいと思っていた僕は、勇気の口から、寂しい、一言でもいいから、と聞きたかったのかもしれない。
 僕にもまだ価値はあるんだって、寂しがってくれる人が居るんだって、確認したかったのかもしれない。
 けれど、勇気は眉間に深く皺を刻み、椅子から立ち上がった。

「……ば、馬鹿じゃねえの」
「……………………だよね、ごめんね。やっぱり、なんでもない」
「………………俺、勉強あるから」
「うん、頑張ってね。応援してる」

 僕の言葉に、勇気はふい、と顔を逸らし、そのまま部屋から出て行った。
 まあ、そうだよね。
 勇気は、根は優しいけど、鈍くさい兄のことを疎んじているだろうし、転校の話も、もしかしたら兄があの高校に通っている事が、面接とかで響くのかもしれない。勇気の目指している学校のことはよく知らないけど、学力以外でも見られることがあるって聞いたことがある。
 つまり、僕は勇気には、とことん迷惑をかけている。
 本当に駄目なお兄ちゃんだと思う。
 布団の中に包まって、もう眠ってしまおうと潜ると、再びドアが開いた。

「おいっ!」
「わっ、な、なに……」
「別に、言ってはないから」
「え? な、なにが……?」
「だから! …………さ、びしくないとは、…………言ってないって話……」
「………………」
「それだけ。じゃあな!」

 バン、と大きな音を立ててドアが閉まり、勇気は下へと降りていったらしい。勉強するんじゃなかったのかな。
 静かに鳴ってしまった部屋の中で、僕は少しだけ微笑んだ。
 ……ひょっとしたら、勇気なりに、気を遣ってくれたのかもしれない。
 さっきまで消えたいと思っていた気持ちが、少しだけ小さくなった気がした。
 でも、雨に濡れたせいだろうか、体から寒気がして、くしゅんと一つくしゃみをした。

****

 あれから、何日か経ったけど、何かが解決したわけじゃない。
 何一つ、解決なんてしていない。風邪がぶり返したおかげで、学校に行かずには済んでいるけど、それだっていずれ治る。というか、もうほとんど治ってる。まだ具合が悪いといって見逃して貰っているけど、それもそろそろ限界だ。
 スマホを弄ると、あれから化野からの連絡は来ていない。毎日来ていたのに、急になくなった。不思議だなとは思ったけど、化野の思惑なんて僕にはわからないから、来ないだけありがたいと思うことにした。
 それと同時に、誠からの連絡も途絶えた。
 けど、こっちは不思議でも何でも無くて、当然だと思う。あんなことがあったんだから、前みたいに友達のようなラインが送られてくるはずはない。当然のことだ。
 当然なんだけど。

「…………はぁ……」

 それでも、傷つかないわけじゃない。
 もう、誠と話すことも出来ないのかな。昔の会話履歴を見直しながら、小さく嘆息し、布団の中で丸くなった。
 風邪はほとんど治ったし、本来なら、もう学校に行ってもいいと思う健康状態だけど、学校には行きたくなかった。
 こうして、布団の中で丸くなっていても、何も解決しないことはわかっているのに、ここから外に出る勇気がない。学校に行って、化野の隣に立つイメージも沸かない。
 かといって、逃げる事も出来ない。八方塞がりだ。
 部屋の中で、インターネットを見て、匿名掲示板にお悩み相談をしてみても、返ってくるのは同じ言葉ばかりだった。
 転校する、訴える、親に頼る、……色々。
 そのどれもがきっと有用なんだろうけど、それを実行に移せるかと聞かれれば、そう簡単にはいとは言えない。
 転校するには、色々手続きだってあるだろうし、お金だってかかる。僕のわがままで、そんなことが許されるのかな。そもそも、あの学校から転校って可能なんだろうか? 訴えるのも、親に頼るのも、したくなかった。だって、誰にも知られたくない。
 写真だって、動画だって、色々見られるかもしれない。卑猥な言葉を喋りながら、ねだる様に腰を振っている画像だってある。あれがもし見られたら?
 そんなことになるくらいなら、きっと、死んだ方がマシだ。誠に見られたことでも大きく心は折れているのに、家族になんて見られたら?
 きっと、もう生きていられない。

 布団の中で膝を抱えて、どうにも手詰まりの状況から抜け出す方法を考えていると、部屋のドアがノックされた。

「正義ー、お友達がお見舞いに来てるわよ」
「…………お友達?」

 僕にお友達なんて居ない。
 ひょっとして、化野だろうか、という不安が胸を過る。僕が学校に来ないから、家に来たのかも……。その考えに至った瞬間、布団から飛び上がる。

「お、お母さ……! 待って……っ」
「西園くんって言う子だけど、どうする?」
「え……」

 誠? なんで?
 いや、でも化野のことだから、西園ですって名乗るくらいのことはするかもしれない。化野と名前を告げれば、僕が会うことを拒否することを考えて。それくらいのことは、化野は簡単にしてのけるって、僕は知っている。
 ドアの向こうから、お母さんに問いかけた。

「……ど、どんな感じの人?」
「あんた友達じゃないの? 背が高くてがっしりしてて……、ちょっと怖い感じの顔だけど、かっこいい子よ、怪我してたけど」
「…………」

 その特徴なら、きっと誠本人だ。化野は怖い顔立ちでもないし、背もそこまで高くないし、体つきも誠ほどしっかりしていない。
 じゃあ、本人? なんで? そもそも、怪我ってどういうこと? 誠が家まで来てくれたという事実に、僕は混乱して、ドアの前で立ち尽くした。

「どうする? 帰ってもらう?」
「! う、ううん。会う……!」

 僕は帰そうかというお母さんの言葉に首を振り、ドアを開け顔を覗かせた。気がつけば、顔に熱が集まっていた。

「き、着替えた方がいいかな。髪とか、ぐちゃぐちゃなんだけど」
「あんた風邪で寝てたんだからそりゃそうでしょ。別に普段と変わんないわよ。お母さんこれから仕事だけど大丈夫?」
「う、うん……」
「じゃ、行ってくるから、鍵閉めてくからね」
「うん……」

 そう言ってお母さんは階下へと降りていき、下からお母さんと話す誠の声が聞こえた。

「ごめんね待たせて。正義、この階段昇ってすぐの部屋に居るから」
「ウス、すみません……」
「お茶も出せなくて申し訳ないわねー、風邪なんてほとんど治ってるのよあの子!」
「や、おかまいなく……」
「私これから仕事だけど、そういえばあなた学校は? 今日平日よね?」
「あー、今日、創立記念で休みッス」
「そうなの! あの子ずっと休んでるから、やーねもうっ」
「あだっ」
「あらっ、ごめんなさい! それじゃ、私行くから」
「はい、いってらっしゃい」
「やだも〜、こんな若くてかっこいい子に見送ってもらっちゃった! ウフフ、西園君? ゆっくりしてってね」
「……ッス」

 お母さんのはしゃぐような声が、ドアが閉まる音と共に聞こえなくなった。お、お母さん……。普段よりもちょっとだけ嬉しそうな声に、僕が項垂れていると、下から、とん、とん、と階段を上がってくる音がした。
 ど、どうしよう。いや、どうするもなにも会うしかないのか。どうして会いにきてくれたんだろう、あ、それより何かお茶とか出すべきなのかな……!
 慌ててどうすればいいのか迷っている間に、僕の部屋のドアがノックされた。

「は、はい! どうぞ!」
「…………よぉ」
「…………ひ、ひさしぶり……」

 ドアの向こう側には、顔にガーゼを貼った、誠の姿があった。


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