17

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 雨の音がする。
 まばらだった小さな音は、徐々に勢いを増し、やがてバタバタと激しい音を立てながら窓へ雨粒を打ちつけてくる。
 耳に飛び込んでくる雑音を聞きながら、僕はぼんやりとその場に座り込んでいた。今、起こったことが理解できない。というよりは、理解したくないし、考えたくも無かった。
 現実だなんて、認めたくない。
 夢ならどんなによかっただろう。今までだって、何度もそう思う出来事はあったけど、今日ほど、願ってやまない日はない。
 項垂れている僕の隣で、化野がニコニコと笑顔を見せてきた。

「んじゃー、続きする? せっかく準備してきたんだし」
「…………なんで……」
「ん?」

 喉の奥から溢れた掠れた声は、僕が思っていたよりも、随分と低いものだった。自分でも、こんな声が出せたのかと驚くくらいに。
 さっきまで熱かった体は、すでに冷め切って、指先は冷たくなっていた。強ばる体を無理矢理動かし、僕は目線だけで化野を見た。僕の瞳は、化野のにやけ顔を捉える。感情が渦巻いて、唇を噛む。
 なんで、こんなことが出来るんだ。
 どうして、こんな酷いことが出来るんだ。
 僕が、化野に何をした。

「……なんで? 僕は、ずっと、化野の言うこと聞いてきた、のに」

 ぽつりぽつりと、途切れながらも言葉を紡ぐ。
 付き合うようになってからの僕は、化野の言うことを、従順にこなしてきたと思う。最初は間違えてしまうこともあったけど、最近だとちゃんと出来てたんじゃないかな。化野の動向を見続けて、そうしろと言われれば、そうした。それが、正解だと思ったから。
 そうしておけば、大丈夫だと思ったから。
 化野の望む答えを考えて、不正解を避けて、言葉も行動も選んできた。そうしてやっと、均衡を保ってきたのに、どうして化野がそれを壊す。
 カタカタと、体が震える。
 寒さじゃなくて、恐怖でもない。じゃあ、この感情は?

「なんでって何が?」
「まっ……!」
「ま?」
「誠に、い、言わないって……っ約束した、のに!」
「ああ、言ってないよ。見せただけ。恋人自慢ってやつ?」
「…………っ!」

 屁理屈の様なその言葉に、カッと頭に血が上った。反射的に手が伸びて、化野の襟首を両手で掴む。自分でも、こんなことをすると思わなかった。けれど、止まらない。
 戦慄く唇を震わせて、衝動に任せて口を開いた。

「っ、ふざけ、るなぁ……っ!」
「うおっ」

 襟首を掴み手に力を込めて、化野を力一杯睨みつける。
 バラバラと打ち付ける雨音に混じって、自分の呼吸と、心臓の音が耳の奥で大きく響いた。体は冷めているのに、頭は酷く熱く、行き場をなくした感情が爆発しそうになる。
 ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなっ!
 なんでこんなことするんだ、あんな変態みたいな姿、僕は、誠にだけは見せたくなかったのに。
 他の誰かに晒されたとしても、誠にだけは晒したくなかった。

「なんで……っ、なんでっ……!」

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、うまく舌が回らない。体中の血が沸騰しているような気分だった。
 誠は、あれを見てどう思っただろう。
 僕にあんなことをされて、何を思っただろう。
 きっと変態だって思ったはずだ。男のくせに、男に媚びた行動をして、好きであんな真似をしているような、気持ち悪い奴って思われた。化野と僕がそういうことをしているのを見たことがあるとは言っていたけど、でも、あんなことは、初めてしたから見たことだってないはずだ。
 あんな姿を見られたら、もう、友達だと言ってくれることも、僕がそう思うこともできない。
 僕の唯一の心の支えだったものは、今消えた。
 砂上の城のごとく崩れ去ったのだ。
 その事実に、僕は顔を覆って、大声で泣き叫びたくなる。興奮気味に息を漏らす僕に、化野はあっけらかんと言う。

「だって、正義ちゃんが言ったんじゃん」
「僕が、何を……!」
「セイは友達だから、こんなことしないって」
「だ、だから、してないし、したこともない!」
「あのね? 俺さあ、友達は許しても、それ以上は許さないことにしてんの」

 薄笑いを浮かべて、襟首を掴んだ僕の手をすり、と親指で撫でてくる。柔らかな手つきのまま、手首をなぞった。

「正義ちゃんが、セイを友達だっつって、ラインするくらいは別にいいよ。それをしたいって言うならさ。でも、セイが正義ちゃんを特別視するのは、駄目。だって、それは友達じゃねえもん」
「何……」

 その言葉に戸惑う僕を無視して、化野は淡々と言葉を紡ぐ。

「そんでもって、正義ちゃんが、セイを特別視すんのも駄目。だって、俺は友達は許可したけど、それ以上を許可した覚えもないし」
「化野が、何言ってんのか全然わかんない……っ」
「ははっ、正義ちゃんさあ、セイは自分のことをそんな風に見ないだとか、俺とは違うんで〜すとか言ってたけど、実際は同じだったでしょ?」

 要領を得ない物言いに、頭に血が上った僕は、少し苛んだように語調を強めた。

「さっきから、なにが言いたいんだよ……っ」
「だっかーらぁ、正義ちゃんがケツでオナッてるとこ見て、ちんぽしゃぶられてガン勃ちしてたんだから、あいつも結局そういう目で見てるってことじゃん?」
「だって、"友達"なら、普通勃たねえでしょ」
「…………っ!」
「友達じゃないなら、恋人である俺に対する裏切りだよね? 先に約束を破ったのはそっちだから、正義ちゃんがなんで怒るのかわかねえんだけど」

 当たり前の様な表情で言う化野に、僕は震えた。
 なにを、言ってるんだろう。
 さっきまでの、誠の表情を思い出す。まるで、僕じゃないものを見るような目。違う、好きであんなことをしたわけじゃない。
 自慰だって、あんな風にしないし、フェラだって、誠だってわかってればしなかった。
 だけど、そんなことは関係ない。だって、どんな事実があったとしても、僕がああいうことを出来る人間だっていうことに、変わりはないんだから。
 知られたくなかった。知らないでほしかった。
 その為に、僕はなんだってしたのに、そんな。
 そんな、ことのために。

「…………っ」

 強い感情が湧いてくる。胸の奥にある炎が揺らめいて、僕は化野を睨みつけた。

「へー……正義ちゃんも、そういう顔できるんだ。あは、怒った? ゴメンネ」
「……っうわあああああああ!!」

 あくまで飄々としたその物言いに、僕は力任せに化野の体を押し倒し、馬乗りになって襟を掴みを締め上げる。

「……っ!!」

 ふぅふぅと口から漏れる呼吸に、視界の中で化野はうっすらと笑っていた。

「なに、今日も騎乗位?」
「……僕っ……」
「何をそんなに怒ることがあるかなー。セイが俺と同じ穴の狢だったってこと? 友達だと思ってたのに、実際はただ俺と同じようにセックス出来るって思われてたかもしれないってとこ?」
「違う!」
「違わないって、最初から、友達なんかじゃなかったんじゃね?」
「違う、違う違う違う! 違う……っ」

 違うんだ。もう、何もかも、全部違う。言葉にしたいのに、うまく言い表せない。だけど、化野と、誠を一緒にしないでほしい。
 こんなことを平気な顔でして、そんな風にへらへら笑える化野と、誠じゃ、全然違う。喉の奥が乾いて、嗚咽のように僕は言葉を吐く。

「ちがう…………っ」

 真っ黒に塗りつぶされる心にと、僕の下で笑う化野と目があった瞬間、僕は理解した。ぎゅ、と襟首を掴む手に力を込める。
 僕を見て笑ったその瞬間、この感情に、名前をつけることが出来た気がした。
 喉の奥から、絞り出すように、一字一句、違えることなく、化野へと伝える。

「僕…………、僕はっ、あ、化野が嫌いだ……っ!」

 僕は、この化野大志という人間が、嫌いなんだ。

 いつから、なんてわからない。最初は、確かに優しいと思っていたはずなのに、僅かに感じていた不穏な気持ちは、一緒に居る内にどんどん大きくなっていった。
 けれど、最初はその感情がどういう名のつくものかもわからず、ただ怯えていた。恐怖なのかもしれない。憧れとも、信仰とも、羨望とも、取れた。
 でも、きっとそのどれも違う。
 今、体の奥から沸々と湧いてくるこの感情は、怒りに他ならない。
 他人に対して、こんな風に強い感情なんて、抱くことはないと思っていたけれど、どろどろとした黒い靄が体の奥から溢れて止まらない。
 化野と関わることがなければ、付き合うのを絶対に断っていれば、こんなことにならなかっただろうか。なんて、考えてももう遅い。
 選択肢を選んだのは自分だ。
 だから、これは僕の責任なんだろう。それはわかってる。化野一人のせいじゃなくて、選んだ僕のせいでもある。
 でも、それを一人で抱え込むと、もう壊れてしまいそうだった。だから、僕は怒りをぶつけるように強い感情を化野へと向けた。

「嫌いだっ、大嫌いだっ、お前、なんて! 付き合っても、恋人になっても、セックスしても、好きになんてならないっ! 僕は化野のことが、だいっきらいだ! あ、あだ、っ化野なんか……っ!」

 かたかたと震える手で、首を絞める。
 死んじゃえばいい。
 化野なんて、いなくなっちゃえばいい。
 消えて、もう二度と僕の目の前に姿を現さないでくれ。
 今までの記憶を全部消して、君という存在をなかったことに出来ればいいのに。
 頭の奥で、悪魔が囁く。このまま、首を絞めて、消してしまえと。
 だけれど、首を握る手に、力を強く込めることが出来なかった。
 臆病者で、気が小さくて、赤面症で、何もできない、ただの弱い小波正義なんて、死んじゃえばいい。
 カチカチと音がして、それが自分の歯が当たる音だと気づいたのは、化野の笑う声がしてからだ。

「どーしたの。俺のこと、嫌いなんだろ? 首絞めないの?」
「う……っ」
「俺、正義ちゃんになら絞め殺されても別に良いけど」
「…………っ」

 どくん、どくんと、心臓が音を立てる。視界がぶれて、化野の輪郭の線が重なって見えた。笑う口元が、霞んだ様に歪む。

「ほら、早く絞めろよ。ちゃんときっちり絞めなきゃ意味ねえからな? なあ正義ちゃん、早くしなよ、早く、早く早く! ほら! なぁ!」
「あ……、う……っ」

 ぼろ、と目から涙が溢れて、視界がじわりと滲む。そうだ、本人だってこう言ってるんだから、そうすればいい。このまま力を込めてしまえばいい。
 今まで散々色んな事をされてきた。たまには僕の方から、化野が苦しむことをしたっていいじゃないか。でも、出来ない。
 頭の中では理解っているのに、手は硬直したようにうごかない。だって、怖い。
 化野の首に回した手の平に、指に、力を込める。込めているのに、なんで、なんで思うように動かない! 気持ちと体があべこべだ。
 ぼろぼろと何度も、目から涙の粒が落ちてくる。
 早く、早くしないと、時間がなくなっちゃう。
 いや、時間なんてもうとっくにない。早くしないと、なんて、全部今更だ。全部手遅れ。こんなことになる前に、どうにかしないといけなかったのに。

「絞めないの?」
「ふっ……う、うぅ〜〜〜〜……っ!」

 消えちゃえ、違う、どうして、なんでこうなったんだろう、友達でよかった、ただ普通にしてたかった、特別なことなんてなくてもいい、平和な日常を送ることができればそれでよかった、楽しかったこともあったのに、殺したい、消えて欲しい、好きだったのに、大嫌いだ、友達だと思ってた、化野、化野化野化野化野化野化野!!
 頭の中で、化野への強い感情が溢れてくる。

「はーーっ……はーーっ……!」
「ほら、もっと強く力を込めないと、ここを抑えるんだよ」
「……ひっ……!」

 化野の手が、僕の手を自らの気道へと誘導する。
 かたかたと震える僕の手は標準を定めきれず、冷えた手に重ねられた化野の手が妙に熱く思えた。
 ぱたり、ぽたりと化野の顔の上に僕の涙が落ちていく。唇付近に落ちた涙を、化野がぺろりと舐めとった。
 僕は、どうしようもない臆病者だ。化野なんて消えればいいと思う反面、自分でそんなこともできない。ただ怒りに任せて癇癪を起して、結局何もできないままで……。
 化野はそんな僕を見て、とても嬉しそうに笑う。

「正義ちゃん、俺のこと好き?」
「……嫌いに、決まってる…………っ」
「でも、首も絞めれない? ほんと、優しいね、正義ちゃんは。お前には虫も殺せないよ、ふ、ふふ、ふはっ、あはっ、あははははははははっ、はははははははははははっ!」

 仰け反り、ゲラゲラと笑うと、やがて化野は僕を見据えた。

「あ―――――、勃起しちゃいそー……」

 その言葉に、僕は怒りを通り越してぞっとした。
 イカレてる。けたけたと笑う化野は、もはや狂人にも思えた。
 実際、化野の陰茎は反応して、馬乗りになる僕のお尻に硬く熱いものが押し当てられている。布越しにも確かにわかる慣れた感触に、僕は手を離した。

「…………っ」

 全身に鳥肌が立ち、一瞬腰を引いた瞬間、僕の視界は反転する。

「……あっ……!」
「絞めないなら、もういいや。正義ちゃんのそういう表情も見れて楽しかったけど、もう飽きちゃった。騎乗位もいいけど、やっぱこっちの方がいいよね?」
「あ、や、っ」

 覆い被さってくる化野に、僕は首を振った。けれど、そんなことでやめてくれるような性格じゃないってことは、もうわかっている。
 布越しに、怒張した化野の陰茎が、僕の肛門へと擦りつけられる。なりふりなんて構っていられない。僕は、化野の手へ思い切り噛み付いた。

「……っい゛……て!」

 骨を滑って、血管を潰すような、ゴリという感触と共に、皮膚へ歯を食い込ませる。痛いと思う。痛いのはいやだ、痛いのは苦しい。
 そういうことが、わかっているからこそ、傷つけられるのも傷つけるのもしたくない。でも、しなくちゃいけない時があることを、僕は学んだ。
 もう、選択を誤ることはできない。

「…………っ」
「あ゛〜〜〜〜……」

 そのまま噛み付き続けると、化野は顔を歪め、けれど振り払うようなことはしなかった。まるで、僕のしたことを、ペットの悪戯とでもいうように、噛まれている箇所を見つめて、うっとりと微笑む。

「…………!」

 ぞっとした。
 怖いなんてものじゃない。不気味なその笑みに、さっきまでの怒りの比重が、恐怖に支配されていくような気すらした。
 口を離すと、化野は僕の唇に噛み付いてきた。

「ん゛ん゛ーーーっ!」

 ぶつっと音がして、口の中に鉄の味が広がる。錆びた鉄の味。喉の奥へと流れ込んでくる。そのまま舌で、口の中をかき回し、唇を離すと、化野の唇が、僕の血で汚れていた。
 至近距離で化野は笑う。

「消えにくい痕付けてくれて、ありがとね」
「…………っ」

 その言葉に、僕はもう、どうすればいいのかわからなくなってしまった。心を折られたような気分で、小さな子供のように、途方に暮れる。
 化野の考えてることがわからない。
 嫌い。嫌いだ。大嫌いだ。
 世界で一番、こんな強い感情を向ける相手は、きっと化野しか居ないと思うくらいに、君のことが嫌いだ。
 かちゃかちゃと、化野がズボンの留め具を外して、猛った陰茎を僕の後孔へと押し当ててきた。
 僕は、ひりついた空気に喉を震わせて、泣きながら言った。

「大嫌いだ、大嫌い、嫌い、嫌い、嫌いきらいきらいきらいキライ……っお前なんて、お前、なんてっ……!」

 呪文のように、呟いて、何度も嫌いと繰り返す。

「……嫌いだぁっ……」

 消え入るような声を絞り出すと、化野は目を細めて笑った。

「俺も、正義ちゃんのことだーいすき、だよ」

 言いながら押し入ってきた肉の感触に、全部夢ならいいのに、と願わずにはいられなかった。 


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