日常というのは、気づかない内に崩れていくものなのかもしれない。


 狐の面をつけて学校に通うようになってから、しばらく経った。
 相変わらず友達は化野一人くらいしか出来ていないし、喋ることもないけれど、クラスメイトも周りの人もその事に慣れたらしく、今ではあまりからかわれたり、陰口を叩かれたりすることはなくなった。僕が狐面をして教室にいても誰も何も言わないし、後ろから野次が飛ぶこともない。
 要するに、中学時代と同じく、空気と化した。
 
 ちなみに、僕だって、別に毎日狐のお面をつけている訳ではなく、家にいる時は外している。
 四六時中つけているなんて窮屈だし、日常生活でもつけていたら完全に変な人だ。だから、このお面は学校に行く時にしかつけていない。
 家に帰ってからもつけていたら当然親に「え? どうしたの? いじめ?」と、心配されるし、僕自身その質問になんて答えればいいのかわからない。下手したら頷いてしまいそうだ。
 まさか「格好いいと思って学校でつけている」なんて言えるはずもない。

 僕には弟がいるけど、それが僕とは違って優秀な弟だから、こんな格好を見られたら、何を言われるかわからない。きっと馬鹿にされる。ただでさえ、好かれていないのに、できればこれ以上嫌われたくない。
 部屋が別々でよかった。鞄の中に隠しておけるし、見つかる確率も少ない。

「あ……」

 夕飯を終え、お風呂に入ってから部屋に戻ると、ベッドの上に置きっぱなしの携帯電話がチカチカと光っていた。
 アドレス帳には家族と化野のアドレスくらいしか登録されていない。
 家族は今家にいるのだから、メールしてきたのは、当然化野だ。

「…………」

 僕は携帯を持ったものの、ボタンを押すことを少し躊躇った。このまま見ない選択をすることもできるけれど、やはり無視することは出来ず、画面を開く。
 僕は、あれからずっと、化野と友達と呼んでいいものかわからない関係を続けている。

【明日暇?
学校帰り一緒に遊びに行こうよ!】


「…………」

 可愛い絵文字付きのメッセージに、慣れない手つきで画面を操作して、返信する。
 『いいよ』と、ただ一言だけ。というよりも、断るという選択肢なんて、最初からないのだ。
 たとえば、他に用事があるから、と適当な理由を見繕って断れば、化野は、その理由を聞いてくるだろう。そして僕は、それにうまく嘘を返せない。用事なんてないし、他に友達と遊ぶ予定もない。そもそも友達がいない。
 それに化野は、馬鹿っぽく見えて妙に聡いところがあるので、僕の陳腐な嘘なんて、すぐに見破られてしまうだろう。

 返信を終えると、そのままベッドの上に体を預けた。こうして、ベッドの上に一人で寝転がっていると、色々な事を考えてしまう。
 学校のこと、友達のこと、これからのこと、そして、化野のこと。

「…………」

 あの時の事を思い出すと、自分の顔に熱が集まってくるのを感じた。
 ああ、嫌だな。
 どうして僕はこう、すぐ赤くなるんだろう。勢い良く起き上がり、鞄に入っていたお面を取り出して、顔につけた。視界が狭まり、自分の顔が隠れたとわかると、少しだけ落ち着いた。
 誰かに、この赤くなった顔を見られることがないから。僕にとっての精神安定剤と化しているのかもしれない。

「……はぁ……」

 そして、考える。ぐるぐると頭の中で思考は廻る。
 化野は、あれが友達とする”普通”だと言った。
 だけど、僕にはそれが真実とは、到底思えない。あんな事、普通しないんじゃないだろうか。
 けれど、友達がいない僕には、それが嘘だと裏付ける確証もない。もしかしたら、すごく親しい友達は、ああいうことをしていて、誰かに言うことがないだけかもしれない。
 けれど、僕にそれを確認する術はなく、ただずるずると、言われるままに"ああいう事"を、化野と続けている。

 一度、他の人にも確認してみようとしたことはあった。
 化野の近しい友人と話す機会が、偶然訪れたので、勇気を振り絞って問いかけようとした。
 君も、化野とああいうことをするの? って。
 けれど、出来なかった。
 本能的に、避けてしまったのかもしれない。
 もしあれが、普通のことではなく、異常な行動で、他の人に気持ち悪いと蔑まれたら。そう思うと、喉に声が張り付いて、出てこなかった。
 僕と化野の行為が、糾弾されるものだった場合、きっと、蔑まれるのは化野ではなく僕になるだろう。なんとなく、そう思った。化野は、僕と違って、人気がある。
 人望も厚く、お調子者だけど、友達も多い。皆、化野の言うことを信じるだろう。それに、皆の前で何かを説明する自分の図が想像できない。だからこそ、僕は怖いのだ。
 化野に嫌われてしまうことが。
 輪から外れ、複数の人間の的になるのが。
 明日。明日は何をするんだろう。友達みたいに普通に遊ぶこともあれば、それこそ気まぐれに……。

「正義、母さんがサクランボ食べないかって」
「……!」

 その時、唐突に扉が開いた。
 弟が、勇気が部屋に入ってきたのだ。
 普段はノックをして入ってくるけれど、考えごとをしていて聞いていなかった。
 僕は慌てて立ち上がる。どうすればいいのかわからなくて、意味もなく左右を見た。

「……っ」
「……何そのお面?」
「……!」

 お面、付けっぱなしだった! 部屋に入ったら兄が狐面をつけていたなんて、親に報告されたらどうしよう。
 勇気は怪訝な顔をして僕を睨む。元々、兄弟仲はあまり良くない方なのだ。
 僕はお面を外し、勇気から目線を外すと、小さな声で答えた。

「……な、んでも、ない」
「あっそ」

 弟はそっけなく答えると、そのまま部屋を後にする。その前に、僕を一瞥して、小さく呟いた。

「タコみてえ」
「…………」

 顔が赤くなっているのが、鏡を見なくてもわかる。
 なんで、すぐこうなるんだ。ポーカーフェイスの人がうらやましい。感情が表に出ないような人間になりたい。
 すらすらと言葉が出てきて、友達がいっぱいの人間になりたい。
 いつでも笑顔の人間になりたい。
 話していて、楽しいと感じる人間になりたい。
 コミュニケーションがうまくとれる人間になりたい。
 運動神経だって、もっと優れた人間になりたい。

 僕は、化野大志になりたい。

****


「正義ちゃん、おっはよ〜」
「…………」

 翌日、僕は学校で声をかけてきた化野に、小さく頭を下げた。挨拶だ。本当は声を出しておはよう、と言った方がいいのかもしれないけど、すでに喋らない奴として定着してしまった今じゃ、声を発するのも憚られるし、何故か化野は僕が皆の前で声を発する事を良しとしない。
 黙って鞄の中身を広げ、机の中に閉まっていく。
 後ろからのし掛かってくる化野は、今日はアニメに出てくる美少女戦士のお面を付けている。黄色の髪が目に眩しい。
 元々僕の真似でお面を付け始めた化野だけど、今では僕よりもお面キャラとして馴染んでいるし、クラスメイトも、今日は化野がどんなお面を付けてくるのか、楽しみにしている節がある。

 案の定、化野の面を見た近くの生徒が吹きだした。

「ちょっ、大志、何それ! 超ウケんだけど!」
「お前そういうお面何処で買ってんの?」
「秘密〜っ☆」
「ぶはっ、うっぜえ!」
「裏声で答えんなよ!」

 笑い声が僕の背後で巻き起こる。
 化野が、僕にのし掛かっている事については、最早誰も言及しない。僕はすでにこの教室の風景の一部になっているのかもしれない。いっそこのまま風景になれたらいいのに。
 と思ったら、西園が化野の体を引き離した。

「大志、そのままいくと小波が潰れるぞ」
「…………」

 西園がそう言って化野を引っ張ると、化野は不満そうに口を尖らせた。

「ごめんね、正義ちゃん、重かった?」
「…………」

 小さく首を横に降る。圧し掛かられてはいたけど、そこまで体重が掛かっていたわけではない。すると、その反応を見た化野は、ピースサインで西園へと笑みを向けた。

「潰れないってさ」
「……小波も、嫌ならちゃんと言った方がいいぞ」

 そう言って、離れていく。
 僕は何か言おうと思ったけれど、言葉が思い浮かばず、黙って見送った。そもそも、思い浮かんだところで口にする事は出来なかっただろう。
 西園は、見た目が厳ついし、目つきも悪く、不良という言葉が似合うような外見をしていて、最初は怖い奴かと思っていたけれど、実際はそうでもない。
 中身は結構話しやすいというか、お人好しなのだと最近気づいた。席が隣同士になってから、何かと気にかけてくれる。
 大体の人が僕を動く石像か何かだと思っている中、西園は声を発さない僕に対して話しかけてくれるのだ。それだけで、すごくいい人だと思う。
 しかし化野はそのことがあまり気に入らない様子で、僕の耳を引っ張ってきた。

「最近セイと仲良いの?」
「…………」

 僕はまた、黙って首を横に振った。
 西園も、化野程ではないけれど、友達が多い。僕の様に無口キャラを貫いている癖にその実大して面白くもない狐面野郎に友達面されても迷惑なだけかもしれない。そう思って、首を横に振ると、化野は満足そうに口元を歪めた。

「だよね。セイ、友達じゃないって」
「うるせーな」
「正義ちゃんの友達枠は俺だけですな!」
「あんまり可哀想なことすんなよ」
「何を言ってるか……わからないわぁ!」
「お面やめろや」

 美少女戦士のお面を被り、ポーズを決めて裏声で言い放つ化野に対し、また爆笑が起きる。
 僕は、その光景を黙ってみていた。
 西園のことは、できれば友達になりたいと思っている。僕が友達じゃないと言って、嫌な気分にならなかっただろうか。狼狽えていると、化野が僕の肩を叩いてきた。

「ま、強面のセイはほっといて」
「…………」
「今日、どこ遊びに行く?」
「…………」
「ゲーセンにする? でもお金ないしね、誰かから貰う?」
「……っ」
「なんて、冗談冗談、公園でも遊びにいこっか。……いや小学生かよ!」
「……」
「あはは、正義ちゃんって、お面つけてるのにわかりやっすぅ〜」

 そう言う化野は、お面をつけていないくせに、ある種のポーカーフェイスだと、僕は思う。何を考えているのか、よくわからない。笑っている姿は、とても楽しそうだし、恰好いいけど、たまに、すごく怖い時がある。
 僕は化野がそういう笑みを浮かべる時、まるで蛇に睨まれた蛙の様に、動けなくなってしまうのだ。

 結局その後チャイムが鳴って、化野は面倒そうに自分の席へと帰って行った。基本無法地帯な教室だけど、席にだけはついていろ、という妙なルールがある。
 僕は化野がいなくなったことに胸を撫で下ろすと同時に、少しだけ寂しさを覚えた。話しかけてくる人なんて、化野と西園以外にいないからかもしれない。しかし、その西園も、今は机に突っ伏して眠っている。
 僕は一人真面目に教科書とノートを机の上に広げ、授業に耳を傾けた。


 放課後になると、化野が僕の席へ近づいてきた。

「正義ちゃん、かーえろ」
「…………」

 小さく頷いて、立ち上がる。
 家に帰っても、どうせする事なんてないのだ。化野に連れられるようにして、鞄に授業道具を詰め込み、隣に並ぶ。化野は鞄がとても軽そうだけど、何も入れてないんだろうか。
 いつも僕が鞄に授業道具を入れる姿を、もの珍しそうに見ている。多少置き勉はするものの、全部入れてたら机がパンパンにならないのかな。

「準備できた? じゃ、行こう」
「……」

 頷いて後をついていく。これからどこに行くんだろう。ゲーセンとかマックだったらいいな。それなら、普通の学生で、友達っぽい。そう思っていると、後ろから声が投げかけられた。

「おい大志! 今日カラオケ行くんじゃねーのかよ」
「ちょ、佐々木、やめとけって」
「んぇ〜?」

 妙な声を出して、化野が振り返った。
 声をかけてきたのは、同じクラスの生徒で、よく化野と同じグループにいる男子生徒だった。
 佐々木、だったかな。隣にいるのは、確か井上。
 からかわれた事は何度かあるけど、どちらも、話したことはない。佐々木は僕を睨むと、足早く化野に近づいていく。
 そして、少し苛んだように、化野に食ってかかった。

「……今日、合コン出るって約束だったろ、店だって予約してるし女の子にも大志来るっつっちゃってんだけど」
「あ〜、そうだった。忘れてた! でも別に俺いなくてもよくね?」
「あー……、わり、大志、佐々木楽しみにしてたしさ。俺も楽しみだったんだよ。K高って可愛い子多いし。大志いないと女の子集まらないんだよ、俺からも頼むって」

 隣にいた井上がフォローする様に口を挟むと、お面越しに、化野と目が合った。
 ……なんだか、嫌な予感がする。

「んー……、そうか。じゃあ、正義ちゃんも出ねえ?」
「……!?」

 突然の流れ弾に、僕は慌てて首を真横に振った。

「え、大志それマジ?」
「マジマジ」
「……っ!」

 マジじゃない。
 ご、ご、合コン!? それって都市伝説じゃなかったのか。
 高校に入ってまだ一年もたってないのに、どうしたらそんなに人脈を広げられるんだろう。
 どちらにせよ、僕には無理だ。絶対無理。無理無理無理。しかもカラオケって!

「まぁ、人数一人くらいなら増やせるけど……」
「……っ! ……っ」

 いい、増やさなくていい。
 喋らない奴として定着しているのにカラオケ行って何するんだ。延々とマラカスでも振っていればいいのか。狐面かぶった奴が一人でマラカス振ってるなんてシュールにも程がある。
 ネタキャラとしてなら受け入れられるかもしれないけど、生憎そんな面白いことは言えないし出来ない。
 全力で首を横に振る僕を、化野はしばし見つめて、大きく伸びをした。

「あそ。正義ちゃん行かないのか。じゃー、俺もやーめたっと」
「!?」
「大志!」
「なんかダルいし、行きたい奴他にもいるでしょ。正義ちゃんが行くなら、行ってもいいけど」
「……っ、……っ!」

 その言葉に、狼狽える。おろおろと行き場のない手を無意味に上げてみたりした。佐々木の視線が痛い。すごく痛い。
 そして、その視線に込められた意味が、強く伝わってくる。
 さしずめ『なんでお前の行動に大志の行動が左右されてんだよ』とか『行かないっつったらどうなるかわかってんだろうな』とか、そんな意味が込められているんだろう。
 胃が痛い。どうして僕が睨まれるんだ。
 黒い存在感を醸し出す佐々木と目を合わせない様にして、僕は俯いた。
 けれど、僕はカラオケなんて行きたくない。行ったところで何も出来ないし、合コンなんて絶対無理だ。男とすら話すのが下手というか、出来ていないのに、女子となんて話せるはずがない。
 草食系を通り越して枯れ葉系男子だ。
 けど、断るにしても、佐々木が怖い。最近、化野がよく話しかけてくるようになってから、目に見えて嫌われている気がする。
 僕が答えられるずに狼狽えていると、後ろから現れた西園が佐々木の頭を叩いた。

「おい、あんま小波いじめてやんなよ」
「って……、別にいじめてねーし」
「大志も、最初に約束してたんだから、小波とはまた今度遊べばいいじゃん」
「…………!」

 に、西園……なんていい奴なんだろう。僕はお面の奥で瞳を輝かせた。
 化野は、笑っているけれど、明らかに面白くなさそうだ。その事に若干の恐怖を覚えながらも、密かに感動していると、西園が今度は僕に向かって言葉を放つ。

「小波も、嫌なら嫌って言えっつってんだろ」
「っ……」

 小さく頭を下げて謝った。
 実際、西園の言う通りだからだ。いや、全力で首を横に振りはしたんだけど……。頭を下げた僕に対して、何故か罰が悪そうに西園はそっぽを向く。
 すると隣にいた佐々木が携帯の時計を見て、慌てた声を上げた。

「げっ、やっべ。もうそろそろ行かないと遅れる! 女子待たすとすげー言われるんだよ。大志、早く行こうぜ! 行くんだろ」
「…………」
「おい大志、早くしろって、遅れちゃうだろ!」
「……はいはーい」

 ひらひらと手を上げて、化野が同意を示すと、近くにいた奴らはほっと胸を撫で下ろした。
 僕も、少しだけ安心する。これで、カラオケ合コンには、行かなくて済むんだろう。今日は帰って本でも読もう。
 そう思っていた。
 けれど、佐々木や西園らと一緒に出ていくかと思われた化野が、何故か僕に向かって歩いてくる。にこにことした明るい笑みを浮かべていたが、頭につけていた美少女戦士のお面でそれを隠すと、僕の両肩を掴んだ。

「でも俺、正義ちゃんに来てほしかったけど、そっか、駄目か〜」
「…………っ」
「残念」
「……」

 何故か、体が動かなかった。
 まるで凍ったように、動かない。化野の影が、僕を覆う。圧倒的に強い者に睨まれる、この感覚。体中が冷え切っていく。
 化野の声は、とても軽い。朝の挨拶でもするような軽さを含んでいる。けれど、それと反比例するように、掴まれた肩が痛かった。

「た……」
「まあ、嫌ならいいよ。俺も、正義ちゃんが嫌がること、したくないしね」

 西園の声を遮って、化野が笑う。
 なんで、笑ってるんだろう、いやだ。怖い。笑わないでくれ。
 何故か、そう思ってしまった。どくどくと心臓が音を立てている。さっきまで、行かなくて済んだことに、安心していた筈なのに、今はどうしてか、行か無いことに不安を覚えていた。

 このまま、行かなかったらどうなるんだろう。化野は、もう僕の事を友達とすら、見なさなくなってしまうんだろうか。もう、僕に話しかけることすらなくなってしまうのかな。
 僕は、化野に見捨てられたら、また一人ぼっちになってしまう。お面越しに、目線がかち合った。
 細められた黒い瞳の奥には、狐面の僕が映っている。その姿はなんだか、捕食される側のそれに似ていた。

「じゃあね、正義ちゃん」
「っ……」

 行ってしまう。
 その言葉に、僕は何故か化野の腕を掴んでいた。

****



「次歌う人誰〜?」
「はいはい俺ー! マイク貸ーしてー」
「はい、ってか、井上君めっちゃ歌うまそうだよね」
「いや、そうでもねーって! でも頑張る〜」
「あはは、がんばー!」
「あ、ポテト頼んだ人だれー? きたって」
「俺、でも好きに食っていいよ」
「ねぇねぇ、小波、くん? だっけ? 歌わないの?」
「…………」

 そして、数十分後。
 僕は両脇を他校の女子に囲まれて、カラオケルームに鎮座していた。

「ねー、あれ? もしかしてうち名前間違えてた?」
「いや、そいつ小波であってるよ。下が正義と書いてまさよし!」
「えー! かっこいいじゃん!」

 佐々木がそう言うと、隣の女の子がきゃらきゃらと笑った。
 今は目の前で井上がマイクを持って歌っている。僕に歌のうまさなんてよくわからないけど、聞いていて全く不快にならないので、多分うまい方なんだと思う。
 少し広めの個室に、井上のテナーボイスが響きわたる。
 多分、うまいんだと思う。みんなうまーいって言いながら手をたたいているから。
 でも、こっちはそれどころじゃないのだ。
 僕は体を硬直させて、首だけを小さく左右に振った。面白がっているのか、両脇の女子は、ぐいぐいとマイクを押してくる。

「歌わないの? 聞きたーい」
「ってかなんでお面? かわいー」
「…………」
「普段からお面つけてるの? そういえば大志くんもつけてるし、もしかしてそっちの高校で流行ってる?」
「謎のブームきてんの?」

 む、胸が! 胸が!
 柔らかな胸が学ラン越しの腕に当たり、どきりと心臓が跳ねる。
 普段接しないからあまり気がつかないけれど、女の子ってなんでこんなにいい匂いがするんだろう。
 香水? シャンプー? 花のような甘い香りと、艶やかな唇に、さっきから僕の心臓は猛スピードで音を立てている。僕だって、健全な男子高校生だ。話すのは苦手だけど、意識しない訳じゃない。
 顔が赤くなっているのが、意識しなくてもわかる。
 お面をつけていて、本当によかった。

「ねー、小波くん」
「……」
「喋らないの?」
「っ…………」

 ツン、と腕をつつかれた。
 ううう、可愛い。今まで生きててこんなに女の子に絡まれる事なんてなかった。せいぜい前の席の女子にプリントを渡されるか日直の日誌渡されるくらいだった。なんて喋ればいいんだろう。

 結局、僕はあの後、化野についていった。
 どうしてか、そうしなくちゃいけない様な気がして、一緒に来る? という化野の問いに、一も二もなく頷いてしまった。
 しかし、実際来たところで僕が歌えるはずもなく、かといって場を盛り上げることも出来ず、こうしてマラカスを持ったまま固まっている。
 佐々木が誘った相手高校の女子は皆それぞれ可愛い。ちょっと派手目のギャルっぽい子や黒髪ストレートで清楚系の美少女。バレー部に所属しているらしい背の高い快活で親しみやすい子、派手さはないけど、癒し系でほんわかした雰囲気の子。奇跡的なくらい全員可愛い。
 僕は現在黒髪の子とバレー部の子に挟まれて、どうすればいいのかわからず硬直している。
 黒髪の子が、悪戯っぽく笑いながら、カラオケを操作する機械を持ち上げた。僕はカラオケ自体行くことがないのであまりよくわからないけど、これで好きな曲を入れるらしい。
 歌わないから、曲もあまり知らないのにどうすれば……。

「ってか、めっちゃ顔赤くない? 耳真っ赤なんだけど、可愛い!」
「もー、リンってばー」
「ねえねえ、顔見せてよ」

 その言葉に、思わず耳を抑えた。
 え、ば、ばれてる!? 僕が顔赤くしてるの、ばれてる!? もしかして、他の人も気づいていたんだろうか? 挙動不審になると、フォローするように西園が声をかけてくれた。

「ごめん、そいつ無口お面キャラで通ってるから、喋らなくても許してやって」
「えー、じゃあ大志くんは? 大志くんもお面つけてるじゃん」
「あいつはにわか」
「あはっ、お面ににわかとかあんの? ウケんだけど!」

 ケラケラと手を叩きながら笑ったのは、化野の隣にいるギャルっぽい子だ。先刻から、化野にずっと話しかけている。
 佐々木はずっとほんわか癒し系の女の子と話している。さっきまで僕を挟んでいた女の子が、西園が話しかけてくれたことで、興味がそちらへと移ったらしい。
 黒髪の子が小動物のようなくりくりとした瞳を瞬かせて、西園に触れる。

「てゆーか私セイくんとも話してみたかったし」
「あ、うちもうちも!」

 そういって、彼女達は僕から離れていった。
 嬉しいような、寂しいような、複雑な心境だ。話しかけられても困るけど、胸の感覚がまだ残っている。そのうち、井上が歌い終え、マイクは化野の手に渡った。

「はいはーい! じゃあ俺歌いまーす! 正義ちゃんの為に!」
「何それ〜」

 茶化す女の子に笑い掛けながら、最近CMでよく聞く曲を、化野が明朗に歌いあげる。
 その声は透き通っていて、高音域まで無理なく声が出ている。井上よりもうまい気がしたけれど、僕からすれば、どちらもうまい。
 近くにいた女子が、口元に手を当てて笑っている。

「わ、大志くん歌うっま」
「ねー、やばいー」

 手を叩いてリズムを取っている皆に遅れを取らないようマラカスを振るが、やっぱりなんだか遅れている気がした。
 というよりも、この場に居ない方がいい気がする。やはり僕は場違いだ。急に入ったので男5の女4で数もあってないし、全然この場に似つかわしくない。
 幸い、皆化野が歌っているから、そっちに夢中だ。僕は気づかれないように、そっとカラオケルームから出ようとした。

「どっか行くのか?」

 と思ったら近くにいた西園に気づかれた。
 逡巡した後、僕が曖昧に頷くと、西園は特別止めようともせず、また化野の方を向いてしまった。
 僕は幸いとばかりに、カラオケルームを後にした。



 カラオケルームから出ると、丁度前の個室から出てきたカップルと目が合った。
 大学生か、あるいは社会人だろうか? 一瞬、部屋から出てきた僕を見て笑った様に思えた。

「なにあれ、お面?」
「学生っぽいし、パーティ中なんじゃない?」
「あ〜……」

 そんな声が聞こえた気がする。僕はその声に気づかなかったふりをして、トイレへと足を運んだ。
 顔が熱い。
 そりゃ、こんな格好を外でしていたら、注目されるに決まっている。だから、学校の外では付けないようにしていたのに。
 僕は一体何をしているんだろう。こんな、似合わない場所に来て、似合わないグループの中に紛れ込んで。何もできず結局逃げるように出てきて。
 本当、バカみたいだ。

「…………」

 トイレには幸い誰もおらず、僕は個室に入ると鍵をかけた。便器の上に座り込むと、顔に付けていたお面を外す。少し暑かったから、外すと顔が外気に晒され、さっきまでの熱気が薄れていく。
 ただ、これを外すと、今まで我慢していた物まで剥がれるような気がして、視界が滲んだ。

「っ…………」

 滲んだ涙を、袖口で拭う。
 なんだか、とても惨めな気分だった。たとえ、僕が他のグループにうまく混ざることができても、結局コミュニケーションの問題で孤立すると教え込まれたみたいで、意気消沈した。化野は、こうなるとわかっていて、僕を誘ったんだろうか。
 いや、けど結局のところ、最後に行くと意志を示したのは僕だ。化野は関係ないのかもしれない。
 トイレにいると、今流行っているであろう曲がスピーカーから流れてくる。僕は、こういう曲をあまり知らない。もっと勉強しておけばよかった。そうしたら、もっと楽しめたかもしれないのに。

「…………」

 化野は、まだ歌っているんだろうか。
 きっと皆、僕がいなくなったことに気づいてすらいないだろう。いや、気づいたとしても「まあいいや」で済ますかもしれない。
 元々、僕はあの場にいるべき人間じゃなかったんだ。佐々木なんて、僕には来てほしくないと露骨に態度に出していた。実際、友達同士の集まりに知らない人間が入ってきても微妙なだけだと思う。

「…………」

 帰ろう。
 そもそも来るべきじゃなかったんだ。
 カラオケルームに鞄を置いてきてしまったので、一度は戻らなくちゃいけないけど、お金をおいて、用事ができたことにしよう。どんな用事か突っ込まれたら困るが、素早くお金を置いて出てくればいい。なんなら西園にこっそり渡しておけばいい。そうしよう。
 少しだけ落ち着いて、深呼吸し、再び狐のお面をつける。大丈夫だ、これをつけていれば大丈夫。
 多少は、強くなった気分に浸れるから。

 そうして、立ち上がろうとした瞬間、個室の扉がノックされ、心臓が飛び跳ねた。

「っ!」
「誰か入ってますかー?」

 化野の声だ。
 明るい声色に、体がびくつく。
 逡巡した後、僕は入っているという意志を示す様、同じくノックをし返した。というか、普通扉が閉まっていたら誰か入っているに決まってるだろうに。
 いや、それより、化野は何しに来たんだ。疑問が後から沸いてくる。歌い終わったから用を足しに来たんだろうか。でも、それなら女の子じゃないんだし、個室に入る必要はない。そもそも、他の個室もがら空きだったし、僕が入った後、誰かが入ってくる気配もなかった。
 疑問に感じている間に、さらに化野は質問を投げかけてくる。

「入ってるのは正義ちゃん? イエスなら一回、ノーなら二回叩いてくださいね〜」
「…………」

 もしかして、僕を探しにきたのかな。なんの為に? 誘った身としては、急に帰られると空気が悪くなるから? 
 ここで二回叩いたら、化野は帰るのか。でも、その後嘘をついていたと、知られたくない。それに、嘘をついても、ばれそうな気がする。結局、僕は躊躇いがちに一度だけドアをノックする。
 その瞬間、扉にぶつかるような、鈍い音がして、化野がドアの上から顔を出した。ドアの上に空間があるタイプのトイレだから出来た芸当だ。ジャ、ジャンプしたの? どうやって上に……、というか、普通こんなことしたら怒られるのに。
 お面越しの僕と目が合うと、化野はいつもの笑みを見せた。

「あっ、パンツはいてた。じゃあ開けて」
「…………」

 下ろしてたらどうするつもりだったんだ。

「早く早く、人来ちゃうから、俺怒られちゃう」
「…………」

 降りればいいと思うんだけど。そんな事は強く言えない。僕が鍵を開けると、化野はドアから下りた。しかし、トイレの個室から出ようとする僕を逆に押し込め、化野も一緒に入ってくると、後ろ手に鍵をかけた。

「…………!?」
「シーー」

 悪戯っぽく笑うと、化野が僕をそのまま便器の上に座らせた。座っている僕と、それを見下ろす化野という構図になる。なんで、こんなことに。
 僕がおろおろしていると、化野は笑いながら聞いてきた。

「何で出てったの?」
「…………」

 その声には、少しだけ苛立ちが含まれていたような気がしたのは、僕の気のせいだろうか。しかし、すぐに気づいたかのように、質問を変えた。

「ああ、正義ちゃんははいかいいえで答えてくれていいや。首を縦か横に振るだけ。簡単でしょ?」
「…………っ」

 人の良さそうな笑みを浮かべているものの、どこか陰鬱めいたものを感じて、僕は少しだけ体を後ろに下げる。しかし、こんな狭い個室でじたばたと動けるものでもない。
 蛇に睨まれた蛙よろしく、嫌だと言うこともできず、小さく頷いた。

「いなくなったのは、つまらなかったから?」
「…………」

 首を横に振った。別に、つまらなかったわけじゃない。新鮮だったし、僕がもう少しユーモアに富んだ人間だったら、きっと楽しかっただろう。
 可愛い女子もいて、いろんな人と話す機会があった。喋らなかったのは、僕自身の問題だ。すると、次に化野は違う質問を投げかけてきた。

「じゃあ、俺と一緒にいられなくて寂しかった?」
「…………」

 それにも、小さく首を横に振る。化野と一緒にいるのは結構楽しいけれど、別に四六時中一緒にいたい訳でもない。それに、"あれ"も苦手だ。
 すると、化野は不満げに鼻を鳴らした。

「じゃーあ、セイと一緒の方が楽しい? さっき俺が歌ってるとき、話してたよね」
「…………?」

 声に怒気を滲ませた様子で、問いかける。あの時、化野は歌っていたから気づいていないと思っていたけど、気づいていたらしい。でも、言葉をかけられたのは、ほんの短時間だ。それに、僕は喋っていない。
 迷ったあげく、僕は小さく首を横に振った。まるで化野と西園、どちらと一緒にいる方が楽しいかと聞かれているような問いかけだったけど、それに僕が答えるのはおこがましい気がした。
 西園と話すのは楽しいし、案外いい奴だって知ってる。でも、西園は、僕と話していても楽しくはないだろうし、そもそも僕が話すこともない。その点、化野は、別に喋らなくてもそれを当たり前として受け入れてくれる。それが、僕にはありがたかった。

「ふーん……。じゃあ、俺のこと好き?」
「…………」

 好き?
 化野の事が? 嫌いじゃない。友達だと思ってる、でも、友達があんなことするだろうか。でも、ここで首を横に振ったらどうなるんだ?
 僕は、小さく頷いた。
 すると、化野は嬉しそうな笑みを口元に滲ませ、僕に向かって屈み込んできた。

「っ……!」

 化野の手が、僕のお面を持ち上げる。
 止めようとしたけれど、遅かった。一瞬目が合い、その瞬間には唇が重なった。

「っ……ん、……ぅ!」

 化野の舌が、口の中に入ってくる。堪らず目を瞑ると、食むように咥内を蹂躙された。生ぬるい舌が、奥に引っ込んでいる僕の舌に絡んでくる。
 粘着質な水音が、僕と化野の間で鳴り響く。

「ぅ、あ……だ……し、の」
「はっ……よかった」
「……?」

 化野が、安心したように笑うと、僕の下半身の中心に手が伸びてきて、背筋がぴんと伸びた。化野の手が、僕の股間をゆるゆると揉みしだいてくる。
 その感覚に、ぞわぞわとした何かがはい上がってきたので、全力で首を横に振る。

「…………っ! ……っ」
「ん? なに?」
「…………。……っ、化野、だ、駄目だ……」
「何で? あ、そっか。トイレだもんね、そりゃ嫌か。よし、じゃあー、帰ろ! 俺ん家行こう。今日親いないし」
「……っ」

 そうじゃない、それもあるけど、そういうことじゃない。爽やかな笑みを向けられて、僕は困惑する。僕は、化野のことは好きだ。
 一緒にいて楽しいし、化野が話す話はおもしろいし、知らないこととか、未知の世界が、化野を通して知ることが出来る。それに、僕がこのお面をしていても何も言わない。
 でも、これだけは、やっぱり慣れないんだ。
 化野の瞳が僕を射抜き、その視線から逃げるようにずれていた狐面を被り直す。化野のことは好きだけど、あの目だけは、やっぱり怖い。
 すると、化野は僕の手を取ってトイレの鍵を開けた。

「じゃー、帰ろー。今すぐ帰ろー」
「……だ、しの」
「ん?」
「その……こういうのって、本当に、友達がやることなのかと……」

 これで、化野が違うと言えば、僕はどうするだろう。
 こんなこと友達同士でしないと言われれば、僕はなんて言うだろうか。じゃあ、もう二度としないと宣言する? 嘘つきと怒る? 多分、言えないだろうし、出来ないだろう。
 それで、化野に嫌われてしまうかもと思うと、きっと怖じ気付いてしまう。それに、友達じゃなければ、どうしてこんなことをするのか、それを聞くのが怖い。
 化野は笑った。

「そうだよ、当たり前じゃん。皆やってるよ」
「…………そう、だよね」

 まるで望んでいた答えを与えるかのように、化野は言った。
 その言葉に、僕は何故かほっとしてしまった。疑っているのに、その言葉に安堵する。
 皆やってる。
 これは友達同士では普通のことで、当たり前なんだ。だから、僕らがやっていることはおかしくなんてない。そう思いこむことで、自分を安心させている。
 本当は、気づくのが怖いだけなのかもしれない。
 化野は僕の手を引き、カラオケルームまで誘導する。歩いている最中、カラオケルームから他の人の歌声が聞こえる。僕も、こんな風にうまく溶け込むことが出来たら、きっと楽しかっただろう。

「もうそろそろ夏服の季節だけど、正義ちゃんは学ランが似合うよねー。俺超着崩しちゃってるし」
「…………」

 なんて、他愛もない話をしながら、化野がカラオケルームのドアを叩いた。
 帰ってきた化野を見て、佐々木は顔を輝かせた。

「あっ、大志、お前どこ行ってたんだよ〜」
「次歌えってさー」
「ごめんごめん、俺正義ちゃんが具合悪いみたいだからやっぱ帰るわ。送ってく〜」
「!?」

 何故か僕が具合悪いことにされてしまった。
 一気に、僕へと視線が集中する。お面をしているせいで、僕がどういう顔をしているかは見えないだろうけど、逆にそのせいで本当に具合が悪くても気づかれない。
 化野は、こうやってさらりと嘘をつく。案の定、ムードメーカーを手放したくない佐々木や女子は声をあげた。

「えー、大志帰んのかよ〜」
「残念だけどしょうがないねー」
「小波くんだいじょーぶー?」
「また遊ぼうね〜」

 僕のことも心配してくれる女の子達は、本当にいい子だ。きっと、化野を狙っている子もいただろう。化野だって、まんざらでもなさそうだった。それなのに、どうして化野は僕とああいうことをするんだろう。

「俺が送るか?」

 空気を読んだ西園が腰を上げたが、それを化野は手を振って制した。

「いいよ、俺がいくから。ちょっと男メンツ足りなくなるけど、許してね☆」

 美少女のお面を被り、ポーズを決めた。その姿に、皆笑う。僕が、同じことをしても、皆笑顔にはならないだろう。やっぱり僕は、化野が羨ましかった。

「じゃあ、行こっか、正義ちゃん」

 カラオケルームのドアを締めて、化野が僕の手を握る。手の熱が直に伝わってくる。僕が化野に嫌われたくない理由は何だろう。
 唯一の友達だから? 憧れだから? 多分違う。
 僕は化野みたいになりたいんだ。だから

「手ぇ、あっついね」
「…………」
「言い忘れてたけど、俺も正義ちゃんのこと好きよ」

 思考を遮って、化野が笑みを漏らす。駐車場の裏、人通りの少ない場所で、化野がキスをしてきた。
 僕は握られたその手を振り払うことが出来なかった。




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