僕こと小波 正義(こなみ まさよし)は、非常に残念なことに、高校進学にあたって、間違った高校デビューを果たしてしまいました。

「……おい、来たよ〜!」
「お前、何か話しかけてきたら?」
「えー? や、無理無理、友達だと思われたらいやじゃん」
「確かに、ははは……ぶっちゃけさあ、"あれ"はねーよなあ」

 ひそひそと後ろの方で展開される会話は、聞きたくなくても耳に入ってくる。向こうも、別に聞かれたくないなんて思ってないんだろう。わざと聞こえるように言っているのかもしれない。僕は小さく溜息を吐いて、肩を落とした。
 げらげらと楽しそうな笑い声が背後から聞こえてくる。……友達だと思われたくない、か。それもそうだ。そんなもの、僕自身が一番わかっている。
 誰がこんな、狐の面を被るような痛い奴と友達になりたいだなんて思うだろうか。

「…………」

 やっぱり、どう考えても僕のこの「高校デビュー」は大失敗だった。

 そもそも、赤面症である僕がミステリアスなキャラクターを目指そうとしたのが間違いだったんだ。髪を染める程度に留めておけばよかったのに、この高校でなめられちゃいけないなんて、思ったのがよくなかった。慎ましく、静かに過ごせた方が、絶対によかったのに。
 間違えた。
 完璧に間違えた。
 間違いがこじれてこうなった。どうしてこうなったんだ? もうよくわかんない。

「あれさあ、本人かっこいいと思ってんのかな」
「さぁ……? 小波くーん、狐面ちょーかっこいいねー!」
「…………」
「無視されたわー」
「狐が喋るわけねーじゃん、ばーか」
「ぎゃははは!」
「つーか、あいつが喋ったところ見たことある?」

 やめてくれ。居た堪れないからもうやめてくれ。
 椅子に座ったまま、僕はズボンを握りしめた。
 学ランに狐面、一言もしゃべらず颯爽と歩く姿は、最初は格好いいと思ったんだ。自宅の鏡に映してもかなりイケていたし、何より、ちょっとしたことですぐに真っ赤になる自分の顔を隠せるのが魅力的だと思った。
 でもそれは、所詮鏡が見せる魔力に過ぎなかったんだ。翌日我に返ればよかったのに、深夜のテンションでそのまま入学してしまったからこんなことになった。

 不良高校に現れた謎の狐面少年。
 響きだけなら、漫画にでも出てきそうだけど、現実はそうもいかない。授業中でもずっと狐面を取らない僕に、もうクラス全員引きまくり。よくよく考えてみたら特別喋りが上手いわけでも、目立った特技があるわけでもない奴がこんなことをしたところで寒いだけだ。
 オタクグループも不良グループも、リア充グループも、全員僕をヤバイ奴として見ていた。
 世間には、こういう事をして許されるキャラクターと許されないキャラクターってのがある。僕は、その許されない方だ。
 そして、許される方のキャラクターは……。

「うぃーーす! おはよー、殿様の登校じゃ! おい、道を開けたもー」
「うわー、来たよ!」
「あはは! おい、道開けて差し上げろよ!」
「どうぞ、殿!」
「うむ、よきにはからえ!」
「ぎゃはははは! なんで今日はバカ殿の面なんだよ大志ー!」

 ドアから彼が入ってきた瞬間、クラス中が、どっと沸いた。
 中心である人物が、バカ殿の面を外すと、明るい金色の髪の下に、爽やかな笑顔が現れた。笑うと少し犬歯が覗いて、肉食の動物を思わせるが、女子曰く「可愛い笑顔」らしい。僕は仮面の下から、その姿をじっと見ていた。

「今日はバカ殿でいくでおじゃる〜」
「あ? お前はいつもバカだろ」
「あははは! ひっでえ」
「怒ったでゴザル! 処刑じゃー!」
「殿が怒った、出会え出会えー!」
「なんだこれ! ぎゃははは! キャラ統一しろ!」

 うるさいな。もう授業も始まるっていのに。
 僕は彼らから視線を外して、前を向いた。……なんて、こんなの、ただの嫉妬だ。羨望が入り混じった複雑な感情を、胸の中に押し込めているに過ぎない。

 ――化野 大志(あだしの たいし)、僕と同じく毎日お面をつけている。にも関わらず、カリスマ性は抜群で、クラスでも絶大な支持を得ているクラスメイトだ。僕と違って、人気者で、面白くて、僕みたいに引かれない。
 ちなみに、彼がつけているお面はよく縁日で売っているようなキャラクターのお面が多い。けれど、彼は僕の様に授業中もつけているわけではなく、ちょっとしたことですぐに外す。仮面の下から現れる、その整った顔立ちも、人気の秘訣なのかもしれない。
 僕は今までクラスメイトの前で仮面を外したことはないけれど、外したところで、絶世の美男子が現れる訳じゃないんだから、話題性だって乏しい。僕の中身と同じで、特に面白みのない顔が現れるだけだ。

「おはよー、小波くん!」
「…………!」

 気が付けば、化野が、僕の目の前まで来ていた。愉快なバカ殿の面が、僕の前で笑っている。僕は驚いたが、仮面をかぶっているので、僕の表情の変化は化野へ伝わらなかったと思う。それだけが唯一の救いだ。気が小さくて赤面症なんてことが知られたら恥ずかしすぎる。
 僕は何も言わず、席を立った。

「あれれーん、行っちゃうの? もう授業始まるでごじゃる〜?」
「…………」
「やめとけって大志、任務があんだよ!」
「あはは、何の任務? 教えてよ小波くーん!」

 他のクラスメイトの囃し立てる声を無視しておのまま教室を出て行った。
 がやがやと騒がしい廊下を抜け、後ろ指刺されてるのに耐えながら、僕はトイレへと足を進める。この学校で唯一安心できるのがトイレだなんて、泣きたくなる話ではあるけれど、誰も踏み込んでこないのはいいことだ。
 もうすぐ授業が始まるが、かまうもんか。
 どうせ誰も授業なんて聞いてないだろうし、先生も気にしないだろう。ここは県内でも有名なお馬鹿高校だ。そもそも、こんなふざけた仮面を被って授業を受けても注意されない時点でお察し。先生は生徒の事なんてどうでもいいんだろうと思っている。
 ああ、馬鹿にされないようにと高校デビューを果たそうとしたけど、僕が一番馬鹿だったという情けないオチ。そもそも、風邪で寝込まなければ、僕だって狙っていた公立高校に入学できたかもしれないのに……。
 運もなく、度胸もなく、面白みもないなんて終わっている。せめて、化野みたいに楽しい人間だったなら、この仮面ライフも良いものになったかもしれないのに。
 いや、そもそもこんな仮面を外してしまえばいっそ楽になるんだろうか?
 でも、入学時からずっと仮面をつけていたせいで、仮面を外したら実はイケメンとか、よくわからない噂が飛び交い始めている。今更外せないのが現状だ。友達なんてもちろん一人もいないし、昼ごはんはもっぱらここで食べている。

 やっぱり、完璧に間違えた。

****


 そんな僕の生活に転機が訪れたのは、体育の時間だった。

 二人一組作ってーと言われれば毎回最後に余り、先生と準備運動をする僕だったけど、今日は偶然一人休んでいたらしい。偶数となった生徒数、となると、必然的に僕と組まされる可哀想な生徒が現れる。俺ら三人で組むから、とか言われたらいつも通り先生と組もうと思っていたけれど、意外なことに、その可哀想な生徒は、自分から僕へと名乗り出た。

「小波くーん、俺と! 俺と組もーぜ! 俺今日狸だからさ、ぽんぽこりん、なんつってぇ!」
「…………」

 化野が、狸の面をしながらケラケラと笑った。
 自分で言ったことに、自分でうけている。なんて楽しい人間なんだ。いいな、羨ましい。こういう奴なら、きっと人生楽しいんだろうな。そうは思うけど、僕の顔はいつだって無表情だ。だって狐面だし。しかし、黙っているのも悪いと思って、小さく頷いた。

「んじゃ、準備運動しようぜ!」
「おーい大志ー! 俺らと組まねーの?」
「そー、今日は正義くんと組むわー! じゃあねだポンポコ!」
「いや狸はそうやって鳴かねーから」
「頑張れよ〜お面馬鹿コンビ」

 良くわからない名称を付けられた。蔑称かもしれない。
 それと同時に、馬鹿だなあいつ、という笑い声も聞こえる。そう、化野は馬鹿なのだ。成績だって、クラスでも下の方だし、どんな冗談にも馬鹿な答えを返してくる。それは、呆れると同時に少し羨ましい。僕は冗談すらいえないから。それに、馬鹿なのは僕だって同じだ。こんなお面被っちゃってるし。
 同時に、やっぱり大志は変わっているという声もあがった。
 このクラスで僕に話しかけてくるのは、冗談交じりのからかいを除けば、化野くらいなものだから。他は話しかけてくることがあっても、どこか引いているし、痛いやつだなあという感情が目に見えている。そんな中、化野は他と変わらないテンションで話しかけてくるから、もしかしたらいい奴なのかもしれない。

「小波くん、前屈だってさ。俺背中押すから」
「…………」

 準備運動の際、こくりと頷くと、化野の手が僕の背中に当てられる。少し強めに背中を押され、高めの体温が背中に伝わってきた。僕は体は結構柔らかい方なので、ぺったりと床に手の平を付ける。
 すると、背後から感心したような化野の声が聞こえてきた。

「やー、小波くん体超やわらけーね。なんか運動とかやってた?」
「…………」
「つかさ、体の線マジ綺麗じゃね? 俺結構好きなんだけど、羨ましいポンポコ」
「…………」

 僕は自分で勝手に作ったキャラ設定上、喋らない事にしてるけど、そんなことを言われたのは生まれて初めてで、正直嬉しかった。
 仮面の下の顔はこれ以上無いくらいに赤い。体の線が綺麗だなんて、言われたことはなかったから。誉め言葉なのかどうかは微妙なところだけど、悪い意味ではないだろう。
 中学の頃、水泳をやっていたけれど、あまり筋肉がつかず、太陽の下を泳いでも、小麦色にならず赤くなるだけの肌はコンプレックスだった。軟弱っぽくて嫌だった。だから、そんなことをまさか化野に言われるだなんて思ってなかった。嬉しい。
 にやけそうな顔は、もちろん面で見えない。

「じゃあ、次俺前屈すっから、背中押してくれる?」
「…………」

 こくりと頷いて、僕は化野の背中に手を伸ばした。僕とは違い、程よく筋肉がついた、男らしい体をしていた。正直、僕よりも化野の方が綺麗な体をしていると思う。ぎゅっと押すと、化野の体が前へ伸びていく。化野の体は硬く、床に手は付かなかったけれど、それは足が長いせいでもあるんだろうなと、少し思った。

「いちーにーさんーし、ごーろくしっちはっち」
「…………」

 僕が声を発さないため、化野一人でずっとしゃべっている。普通なら怒ってもいいのに、化野は変わらず笑いながら話し続ける。準備運動が終えた頃には、すっかり体も温まっていて、化野はひらひらと手を振りながらいつものグループへ戻って行ってしまった。残念な様な、寂しいような。しかし、戻る前に、化野が僕を振り返る。

「……あー、小波くん」
「……?」
「ぶっちゃけ、俺と組んだのやだった?」
「……っ!」

 慌てて首を横に振った。
 迷惑なんかじゃない。むしろ、嬉しかったし楽しかった。高校生活で、こんなに長い時間人に話しかけられたことなんてなかったから。勢いよく首を振ったことに気を良くしたのか、化野はにかっと笑い、ピースした。

「マジ? じゃあまた組もうぜ」
「……っ」

 何度か頷くと、化野は元の位置へと戻っていった。
 万歳しながら走っていく姿は、僕には絶対にできない。やろうと思えばできる行為も、僕がやるとぎこちないものになってしまう。いつもの友人たちが、彼をからかいながら迎えているのが見えた。

「大志ー、どうだった? 狐くん」
「ん? 結構話した」
「話してたのお前だけじゃん、見てたぞ俺らー!」
「あんまいじめてやんなよ」
「いじめてねーし!」

 そして、化野の周りでまた笑い声が起こる。その中心で、化野も笑っている。いじめてる、か。傍から見れば、そう見えるかもしれない。でも、化野はいい奴だし、僕は話しかけられて嬉しかった。
 いいなあ、僕も、あの輪の中に入れればいいのに。輪から外れた片隅で一人、ぼんやりと考えていた。


****


 その日以降、化野は、前にも増して僕に絡んでくるようになった。

「正義ちゃーん、遊びましょー」
「…………」
「まーた絡んでるよ大志のやつ」
「あいつもよーやるわ」

 今日は日曜朝にやってる戦隊モノのお面らしい。
 なんとかレッドのお面を頭につけて、化野が僕の前でにこにこと笑っている。いつの間にか、僕に対する呼び方まで変わっていた。下の名前で呼ばれるのは嬉しいけど、ちゃんづけは、ちょっとやめてほしい。女の子じゃないんだから。
 彼のグループの友人たちが、呆れた様子で僕たちを見ていたが、僕はどうすればよいのかわからず一人狼狽える。しかし、化野はそんなこと気にせず僕に向かって腕捲りして腕を伸ばしてきた。

「腕相撲しようぜ腕相撲!」
「…………」
「負けたら今日一日俺とお面交換。どうよ!?」
「……………〜〜〜っ!」

 そんな、そんなの。
 僕が負けるに決まっている。僕は力が弱いとまでは思ってないけど、それでも化野とやったら負けるだろう。僕は帰宅部で、化野は運動部……じゃないけど、しょっちゅう色んな部で見かける。元々の運動量が違うし、体のつくりも差があるんだから、勝てるはずない。僕が固まっていると、周りから「いじめんなよー」という野次が飛んでくる。その声に対し、化野が振り返って声を上げた。

「バカヤロー俺は本気だよ! 正義ちゃんとお面交換してーの! 絶対する! お面保存する!」
「うわーー、きもっ!」
「小波くん、逃げてー」
「ぎゃはははは!」

 周りの声に、僕の体はますます硬直する。
 ど、どうしよう、嫌だって、断らなくちゃ。でも、今更声を出して断るのなんて、僕に出来るだろうか? 声は、普通、だと思うけど。周りが僕の声をどう思うかなんてわからないし、そもそも、昔から僕の声は小さくて何を言っているのか聞こえないとよく言われるんだ。小学校の時も、中学校の時も、先生に言われた。正義くんは、もっとちゃんと喋ろうねって。ああ、思い出していいたらまた顔が赤くなってきた。いやだな。耳、赤いの見られたら恥ずかしいな。
 なんだか、居た堪れなくなって、ぎゅっとズボンを握った。俯いている僕に対して、化野が覗き込むように屈んで僕を見る。赤い正義のヒーローのお面をかぶって、化野の目が僕を射抜く。正義、なんて名前、本当は化野の方が似合っていたのに。僕には不釣り合いだ。

「正義ちゃーん、怒った?」
「…………」
「お面交換やだったり?」
「…………」
「そっか、ごめんね」

 小さく頷くと、化野はお面を外して、グループの方へと帰って行った。……気を悪くさせてしまっただろうか。冗談を真に受けるつまんねー奴とか思われただろうか。内心ドキドキしていたが、そうでもない様だった。

「正義ちゃんにフラれちったー」
「ばーか!」
「お面交換とかホモかお前は!」
「うん、アタシ実はホモなの……。佐々木くん、抱いてーっ」
「きめえーー!」
「おい、寄るな!」
「あははははっ、ダッセ!」

 しかし、化野は僕が断ったことは特に気にしていないみたいで、そのことにほっと胸を撫で下ろした。よかった。また、いつもの様に化野の周りからは笑い声が聞こえてくる。たった今僕が断ったことなんてすでに遠い過去の事みたいに、別の話題で盛り上がっている。
 もしかしたら、あれは化野なりの冗談だったかもしれない。それなのに、本気になったりして。僕は冗談にも乗れない様な、つまらない人間だ。卑屈な自分が嫌になる。
 チャイムの音が鳴ったと同時に、僕は机から教科書を取り出した。嫌なことを忘れるには、別の何かに集中するに限る。カチカチとシャーペンの芯を伸ばしている僕の後ろから、なんだか視線を感じたような気もしたけど、勘違いだと思い直した。


*****


「正義ちゃーん、整理ちょっと手伝ってくんね? あいつら先に帰りやがんの、マジ意味わかんなくね? 今度ぜってー奢らせるし!」
「…………」

 化野からその話を持ち掛けられたのは、それから数日後の事だった。
 その間も毎日変わらず話しかけられてはいたけれど、僕は結局、声を発して答えを返すことが出来なかった。しきりに話しかけてくる化野に対し、頷いたり、首を振ったりする程度のリアクションしか返せない。こんな僕に懲りずに話しかけてくるのは、化野くらいだ。
 人と話すのは、元々苦手だ。今やミステリアスというよりもただ根暗な痛いやつというキャラが定着しつつあるが、変わらず話しかけてくれる化野の存在はありがたかった。
 今日の化野の面は、ちょっと怖い赤い鬼のお面。狐に鬼、なんてまるで昔話にでも出てきそうだ。少し笑ってしまったけれどど、それが化野に伝わることはない。
 化野は、放課後、科学室準備室の備品整理を頼まれたらしい。危険な薬品はあらかじめ撤去してあるので、他の細々としたものを片づけてくれと、化学教師に頼まれたようだ。
 もともと調子のいいところがある化野は、その依頼を簡単に引き受けた。
 この学校にしては先生受けも良く、教師も化野には頼みごとがしやすいらしい。しかし、今日は一緒にやってくれるはずの友人が先に帰ってしまった様で、僕に手伝ってくれと頭を下げてきた。特に用事もなかった僕はすぐに小さく頷く。

「マジ? ありがとー!」

 にこにこと人好きのする笑顔で喜ばれると、僕だって悪い気はしない。そもそも、高校生活が孤独すぎてやることなさすぎだし、暇だし。僕は化野の後に続いて、科学準備室へと足を運んだ。

「ちょっと待ってねー、今鍵開けっから」

 普段は鍵がかかっている準備室に入るのは、なんだかドキドキしてしまうのは、僕が小心者だからだろうか。
 化野は先生から鍵を預かっている様で、ポケットから銀の鍵を取り出した、準備室のドアを開けると、少しほこりっぽい匂いが鼻を突く。窓はあるものの、カーテンで光は遮られており、薄暗い。狭く閉鎖的で、良くわからない物が所狭しと置かれている。これを片づけるのは少々骨が折れるかもしれないけれど、日が暮れるまでには終わるだろう。掃除用具を手に取ると、化野が頑張ろうね、と僕に笑い掛けてきた。
 僕は頷くと、邪魔なものを片づけ始めた。






 片づけ終わった頃には、日もとっぷりと暮れていた。日が暮れる前には終わるだろうと高を括っていた僕が甘かったかもしれない。
 あらかた片づけ、雑巾がけまで終えて、手を洗うと、さっきまで薄汚れていた準備室は、すっかり綺麗になっていた。これは、先生も喜ぶだろうな。暖房が入っているせいか、学ランを着ていると暑く、僕も化野も、学ランの上着を脱いで、腕まくりして作業をしていた。お面をしていると、さらに暑いのだ。ワイシャツはすっかり汗で張りついていて、襟元をばたつかせて冷たい空気を取り込む。すると、妙な視線を感じた。振り返ると、化野が、面を外して僕を見ている。

「……小波くんは、やっぱり体の線が超綺麗だねー」
「…………」

 この間から、化野はしきりに僕に向かってそう言ってくる。正直、そんな綺麗なもんでもないと思うし、そう何度も言われると恐縮してしまう。照れながら首を横に振るが、化野は目を細めながら、からからと笑った。

「いやいや、いいって! マジで!」
「…………」

 褒められることに慣れていない僕は、なんだかまた顔が赤くなってきた。例え、僕が普通に喋る男でも、なんて答えればいいかわからなかっただろう。こういう時ばかりは、お面をつけていてよかったと思う。しかし、この空間に耐えられなくて、僕は誤魔化すように地面に落ちている小物を片づけ様としゃがみ込んだ。すると、ふと目の前が翳り、突然肩を掴まれると、首筋を何かが這った。

「っ……!?」

 驚いて、そのまま前のめりに倒れ込んだ。な、何、何だ!?
 慌てて振り返ると、化野がにこにこしながら僕の真後ろにいた。ぺろりと舌を出して、僕に手を振ってくる。

「あ、ごめんごめん、なんか美味そうだったから、つい」
「…………」

 つ、つい? つい、何したんだ?
 自らの首の裏に手をやると、なんだか濡れている。……舐められたんだろうか。嘘でしょ? いや、多分、ただの冗談だ。化野の事だから、いつもの悪ふざけなんだ。そう思い直して、僕は立ち上がった。
 しかし、不思議なことに、化野は笑いながらじりじりと僕の方へと迫ってくる。

「…………?」
「正義ちゃんさあ、なんでお面外さないの?」
「…………」

 誰もが思っている当たり前の質問を、今この場所で聞かれるとは思わなかった。なんで、と言われても、今更なんとなく外せないとしか。そもそも、元々大層な理由なんてない。つけるとなんとなくかっこいい様な気がして、引っ込みがつかなくなっただけだ。僕が黙っていると、化野の手がちょうど耳の裏の方へと伸びてきた。紐に手をかけられたので、慌ててその手を振り払う。

「あー、駄目か」
「……っ」
「……。正義ちゃんは、なんで喋んないの? 声だせないの?」
「…………」

 小さく首を振った。

「まあ、そうだよね」
「……」

 僕は一人で、自分勝手にショックを受ける。今更、そんなこと言われるなんて思ってなかった。今まで散々、化野は僕が声を発さなくても当たり前の様に接してくれていたから、それが普通なんだと思ってくれているのかと思っていたのに。普通に考えて、そんなわけはない。勘違いしていた。本当は、化野も心の底ではむかついていたのか。
 なんだこのくそ根暗野郎、声くらい出せよって、思っていたのかもしれない。
 俯いてしまった僕に対して、化野の人差し指が胸の中心をトンと押した。

「別に、怒ってないよ」
「…………っ」

 化野はにこりと笑った。
 その笑顔に、ほっと胸を撫で下ろす。しかし、化野と僕の距離はさっきよりも近づいてる様に思えた。遮光カーテンの端からは、うっすらと赤い光が漏れてくる。……何か、嫌だな。この空気。掃除は終わったし、そろそろ帰った方がいいような気がして、そっとうしろに下がると、何かが踵にぶつかった。なんだろう? それに気を取られた瞬間、化野の手が僕の脇腹を撫でてきた。

「っ」
「でも、俺ずっと気になることがあってさあ」

 くすぐったくて身を捩るが、化野の手ががっちりと僕の脇を掴んでそのまま後ろに押し付けてきた。幸い後ろには何もなく、落ちて危険なものもなかったけど、化野の声は、さっきよりも暗い色を帯びていて、僕は何が何だか分からなくなってきた。おかしい。こんな化野、僕は知らない。化野はいつだって明るくて、馬鹿で、友達とふざけてて、こんな捕食者みたいな空気、纏っていなかった筈なのに。するりと、掌がシャツを捲ってもう一方の手が忍び込んでくる。

「っ!?」
「俺、中学の頃水泳やってたんだけど、そん時見た奴に、正義ちゃんの体が似ててさあ」
「っ、…………!」
「キレーな線、してたんだよね」

 胸の上を、化野の手が這いずると、ぞわりと肌が粟立った。ごつごつした指の先が、肌を突いた。慌てて引き離そうとするが、先刻足にぶつかった何かが絡まって、そのまま体制を崩してしまった。

「っ……うぁっ……!」
「あ」

 転びそうになった僕の体を、化野は支えてくれたけれど、結局間に合わず、視界が反転する。目の前には、天井と、化野の顔。

「……う……っ……」
「へー、そんな声してんだ」
「っ」

 ハッとして、口元を抑えた。よかった、お面は外れていない。しかし、背中には冷たい床が当たっていて、気が付けば、化野が僕の腹の上あたりに跨っていた。膝で立っているので重くはないけれど、この構図はなんだか変だ。ともすればいじめにも思える体勢に、僕は化野の胸を押した。僕が嫌がっていることくらい、この動作でわかるはずなのに、化野はどこうとはしなかった。

「…………」
「もうちょっと、声聞かせてよ」
「…………」

 化野は、何がしたいんだろう。声を聞いたところで、どうするんだ。僕の顔を見たところで、いいことなんて何もない。戸惑っていると、化野の手が、僕の面に伸びてきた。紐を解こうとしたので、思わず振り払う。

「っ……!」
「…………」

 乾いた音がして、化野の手をはじく。振り払った瞬間、化野は先刻まで浮かべていた笑みを消した。いつも笑顔の化野の無表情というのは、あまり見ないので、思わず縮こまる。……怒らせてしまっただろうか? でも、今の化野はちょっと変だ。
 いつもと違って、ピリピリしている。怯える僕に、化野は頭につけていたお面を被った。赤い、鬼のお面。それをつけたことで、化野の表情はわからなくなってしまった。僕と同じで、科学準備室の中、鬼が狐を組み敷いている。
 ……化野は一体、何がしたいんだろう。僕をどうしたいんだ。怯える僕に、化野は大げさに溜息を吐いた。

「……これ、つけてれば、なんか考えわかんのかなって思ったけど、特になんもわかんねーんだもんなー」
「……?」
「仲よくしてたらその内喋ってくれっかもって思ったのに、喋ってくんないし。そんなら、もー喋らせるしかないじゃん?」
「……っ!」

 化野の体が後ろに下がり、僕の股間に触れた。その瞬間、ぶわり、と汗が吹き出てくる。いやいやいや、何!? 何してんの!? 起き上がろうとした僕の肩は強く抑えられ、再び床に頭をぶつけた。

「っ……〜〜」

 硬い床にぶつけた痛みに思わず頭を抑えると、化野の手が、僕のズボンのベルトに手をかけていた。かちゃかちゃと外す音がして、青ざめていく。これは、何だ。何が起こってるんだ? いや、とにかくまずい。これはまずい。化野の悪ふざけ? それにしたって、度が過ぎている。なんとかしてやめさせないと。僕は化野の手を掴んで、口を開いた。

「や、ゃめて……ください……」
「!」
「僕、き、気に障ることしたなら謝るので……、ご……ごめんなさい、やめてください……」

 震える声で、静止の声を上げると、化野の手が止まった。顔は、お面をつけているので表情はわからないが、穴から覗く化野の目は、じっと僕を捕えている。どれくらい、そうしていただろう。すっと、化野の顔が、僕の目の前まで迫ってきた。
 眼前までくると、穴から覗く化野の目が薄く細まった。

「っ……?」

 何かと思えば、突然化野がお面を外して、僕の狐の面越しにキスをしてきた。

「……っ!?」

 硬直する僕に、にこりといつもの様に微笑むと、腕を引っ張って、体を抱き寄せる。

「あ、化野、な」
「ごめんね正義ちゃん、怖かった? 俺のこと嫌いになった?」
「…………」

 どう答えればいいか迷った末に、小さく首を振った。別に、僕は化野のこと自体は嫌いじゃない。それどころか、クラスで唯一話しかけてくれる、いい奴だと思っている。けど、これは何かが違う気がした。どこかで食い違っている。ボタンのかけ間違いの様に、何かがずれている。すると、化野は嬉しそうに声を弾ませ、背中に手をまわしてきた。

「ほんと? じゃあ続きしていいよね?」
「!?」

 いや、何を言ってるんだ!
 慌てて首を横に振って、ついでに手も振った。全身全霊で拒否を選択。
 続きってなんだ、さっきのズボン脱がせようとしてた続き? それは嫌だ。おかしいよ。僕は化野の事は好きだし、僕みたいな奴にも態度を変えず接してくれることは嬉しいけれど、それとこれとは話が別だ。というか、化野はホモなんだろうか? この間、教室で騒いでたあれは冗談じゃなかったのか? 確かにこの高校は女子が少ないけれど、いないわけじゃないし、化野はモテるから、彼女だっているはずだ。なのに、どうしてこんなことをしてくるんだ。
 ぐるぐると考え込んでいると、化野が、僕の足の間に、割って入ってきた。僕は思い切り腕を突き返して、首を振る。すると、化野は不満げに口を尖らせた。

「なんで? 俺の事嫌い?」
「…………」

 そういう話じゃない。好きだからって、なんでこうなるんだ。

「俺、好きだったらしてもいいと思うんだよね」
「…………っ、じゃ、じゃあ嫌い、……です……!」

 化野は馬鹿だけど、ここまでとは思っていなかった。能天気だからってなんでも許されるわけじゃない。どうして男相手に貞操を狙われなくちゃいけないんだ。もう帰る。化野の存在はありがたかったけど、今後は、なるべく化野に関わらない方がいいのかもしれない。ぼっちが真のぼっちになるだけ。そう思って、学校で始めて声を荒げた。
 しかし、化野はむっと眉を寄せて、僕の肩を掴む。

「さっき嫌いじゃないって言ったじゃん」
「こ、こういうことするのは……」
「なんで?」
「なんで、って」
「友達同士のスキンシップなのに、これもしないの?」
「……!?」
「ふーん……」

 化野が、冷めた目で僕を見た。スキンシップ? これが? 嘘だ。絶対嘘。こんなこと、するはずない。だけど、悲しいことに僕には友達がいないので、それが本当のことかどうかもわからない。
 多分嘘だと思うけど、化野の目は、明らかに呆れを含んでいて、まるで僕が分からず屋の様な気分になってくる。狼狽えている僕を見つめると、化野はけらけらと笑った。

「別に重く考えなくても、ただの抜きっこだって。ね? 皆これくらいやるし、やってみてもいーじゃん」
「…………」

 皆? 皆って誰だ。存在するのか? いや、それとも僕は、その皆の輪の中にまた馴染めないのか。それは少し、悲しい気もする。どくどくと、心臓が強い音を立てている。多分、僕の顔は今真っ赤になっているだろう。汗ばんだ掌は、未だに化野の胸の上にある。化野が微笑みながら、僕のその手をそっと外した。化野の手も熱くて、もう片方の手がゆるりと僕のシャツのボタンに手をかけてくる。

「恥ずかしくてもほら、そのお面してれば顔隠れるし、いーじゃん。あ、なんなら俺もお面しよっか」
「…………」
「だからさあ、――――シよ」

 にこりと笑った、化野の手が下半身に触れたけれど、僕は固まったまま動けなかった。

****



「……っ…ぁ……う」
「はぁっ……はっ……」

 生々しい匂いがする。ぐちゃぐちゃと粘液が混ざり合って、雄の臭いが鼻腔を突く。
 科学準備室の中で、鬼の面と、狐面が、一体何をしているんだろう。化野の手が僕の陰茎を掴んで、自らの物と擦り合わせていた。表情は、わからない。僕のがわからない様に、僕も化野の表情も見えない。ただ、堪らず漏れる小さな声と、急く様な息遣いだけが響いていた。頭が、ぼんやりと霞んで、僕は縋るように化野の制服のシャツを掴む。……今、何時だろう? 遮光カーテンの隙間から漏れる光は、段々薄暗いものに変わっていた。早く終わらせないと、先生が来てしまう。なのに、化野は夢中になって、幹を擦る。先から垂れる体液を掬って、扱くように手を合わせた。僕の手を誘導して、重ね合わせると、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を鳴らす中心部に、熱が集まっていく。
 ……なんで、こんなことになってるんだろう。僕は、友達が欲しかったんだろうか、それとも、またみんなの輪から外れることが嫌だったんだろうか? よくわからないけど、伝わる自分の物でない体温が妙に艶めかしくて、まるで現実じゃないみたいだ。

「ぁ……だし……の……っ」
「……はっ……いいね……もっと呼んでよ……」

 ぐり、と先端を人差し指で押されると、反射的に体が反り返った。自分ではほどほどに、だけど、他人の手に触れられるなんて初めてで、どうすればいいかわからない。人の手でやられると、妙に気持ちよくなるのは、どうしてだろう。化野だって、同じものを持っているのに、僕より少しサイズの大きいそれはそそり立って、僕のものと絡み合っている。こんなの、本当に皆やるのか? 高校生ってそうなのか? 中学生の時は、こんなのなかった。いやでも、僕は中学の時も友達なんていなかったから、本当は皆やっていたのかもしれない。
 ただ、僕が知らなかった、だけで。
 化野の手が、僕の手を掴んで、自分の陰茎を擦らせる。

「あっ、ぅあ」
「はー……っ、あはっ、正義ちゃんがさ、喋らないの、ぶっちゃけ俺、反対じゃないんだよ」

 くすくすと笑いながら、化野の手が僕の足を掴む。すでに脱げて放置された制服のズボンと下着が、床の上に散らばっている。ぐっと上体を近づけると、鬼の目の穴から見える化野の目が、ぎらついている様に映った。僕は壁に背中を預けて、必死に声を押し殺す。声をあげたら、もっとおかしなことになる気がして。けれど、ぬめった手で擦られるたびに、上ずった声が出た。

「……正義ちゃんの、声さあ、学校で聞いたことあるの、俺だけでしょー……ははっ、気分いー」
「……っ……あ!」

 ぬるっと先から溢れ出た粘液が、カリから根元にかけて流れていく。粘着質な音と同時に、化野の指が勢いよく僕のものを扱いた。

「っ……!」
「……ふっ……あ、いきそう? ……いく時はいくっつってね。せっかくきれいにしたのにっ、床、よごしたくないでしょ」 
「……〜〜」

 そう言われて、僕はどうしようもない気分になった。なんなんだ。もう。僕は一体何をしてるんだ? けれど、脳内とは真逆に体の方の快楽は強まっていく一方だ。裏筋を化野が擦りあげると、びくりと内股が震えた。

「あ、化野、い、いく」
「…………はは、いーよっ……」

 化野の手の内に吐精すると、それは当然僕の掌にも飛び散った。化野のシャツに、少しだけついてしまった。

「……はーっ……はっ……」
「…………」

 肩で息をする僕の耳に、化野の手がかけられた。

「っ」

 あ、と思った時にはもう遅く、お面が床に落ちる音がした。からんと乾いた音がして、目の前が明るくなった。と言っても、準備室の中は薄闇に包まれているけれど、それでも顔の判別くらいはできる。僕は慌てて腕で顔を隠した。

「……なんで隠すの?」
「……っ!」

 ぶんぶんと首を振った。入学して以来、人前でお面を外すなんてことがまずなかった。やめるタイミングがあればやめようとすら思っていた狐の面だけど、今じゃ外すと恥ずかしくて仕方がない。顔に熱が集まってくるのがわかる。覆っていた腕を、化野が掴んだ。

「や、やめ」
「見せて」
「いっ……」

 簡単に腕を外されて、鬼の面の化野と、素顔の僕の目があった。普段は全く逆の構図。なのに、今は僕が素顔を晒している。その事実が、どうしようもなく恥ずかしかった。目を伏せて下唇を噛んでいると、突然化野が鬼の面を外して、僕の口に唇を重ねてきた。

「ん、っ!?」
「……お面、俺の前で以外でさあ、外しちゃだめだよ」
「ふ、あ」
「顔、俺にだけ見せてよ」

 ぬちゃ、と下半身から音がする。ぴちゃぴちゃと口の間から水音が漏れ、腹の上に化野の精液が飛び散った。舌が口の中に入ってくる。

「う」

 絡め捕られた舌にこねくり回され、うまく呼吸ができない。はぁはぁと断続的な息を吐いて、化野の腕を掴んだ。ようやく離されたと思えば、化野の顔が目の前にあって、僕の顔を見てにやけている。

「……な、なんで」
「ん?」
「……これ、本当に、と、友達がやること、なんですか」
「はは、まーね」
「…………」

 本当なのか嘘なのか、判断がつかないままに、化野が僕の手を握った。
 体が、なんだか変にぬるぬるする。近くにタオルがあったから、早く拭ってしまいたい。ぼうっと視線を横に移すと、狐の面が転がっている。隣には仲良く鬼の面もあった。化野が、目の前で嬉しそうに笑って、唇の前に指を立てた。

「でもこれは、俺と正義ちゃんだけの内緒だよ」
「…………」
「気持よかったでしょ? またやろうね」

 化野は、近くに落ちていた鬼の面をつけて、ピースサインをした。僕は無言のまま下に落ちた狐のお面を、顔につける。

 ……やっぱり、僕の高校デビューは、どう考えても失敗だった。




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