ぎゃはぎゃはっ


 狭くかび臭い六畳一間の片隅で、男が泣いていた。
 嗚咽交じりの、震える声だ。先刻まで蝉の鳴く声が窓の外からは延々と響いていた筈だが、男の泣き声にかき消され、今では悲痛な音だけが室内に反響する。男は薄汚れた白のタンクトップに、穴の開いたハーフパンツを身につけていた。禿げ上がった頭は年齢を感じさせたが、その顔色は伺えない。額を床に擦りつけ、これでもかという程に許しを請うていた為だ。それに対し、請われる側の男はにこやかな笑みを返す。
 端正だが、どちらかといえば動物めいたその顔立ちは、死体に群がるハイエナを髣髴とさせた。ストライプ柄のスーツはだらしなく着崩しており、煤けた赤茶色の髪を弄りながら、もう一方の手で携帯を操作する。

「お願いしますっ……、もう少し、もう少しだけ待ってください、お願いしますっ……!」
「三国さんさあ、前もそう言ってたよねえ? で、用意出来なかったらどうするんだっけ?」
「お願いします、あと一日、せめて一日だけっ……!」

 ぎゃはぎゃはと下品な笑い声を上げながら、冴木久能(さえき くの)は目の前で土下座する男に、足を振りかざした。ぴかぴかに磨かれ汚れ一つない靴には、泣いている男の顔がくっきりと浮かんでおり、靴に映る顔から、涙が零れた。情けなく表情を崩し、その足元に縋りつく。

「冴木さん! ま、待って……」
「うるせーし、うぜーよ、触んな汚ねえなあ! たけぇんだよ? この服、鼻水とかついたらどーすんの、弁償する気あるわけ?」
「お願いです! 一日待っていただけたら必ず……」
「はー……もういいわアンタ、面倒だから」
「そんなっ……!」
「伸ちゃ〜ん、あとは任せた」
「…………はい」

 冴木の声に反応して現れたのは、二メートル近い大男、冴木の部下である伸(しん)だ。短い漆黒の髪に同色のサングラス、黒いスーツに身を包み、怯える男の首を掴むと、暴れるその腕を拘束した。鳴き声と悲鳴の間から鈍い音が間接から零れ、男の目からは涙が流れた。

「ぎゃ、ひぃ! いいい! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! いやだ! たすけっ」
「じゃー、俺外で煙草吸ってっからぁ、終わったら呼んでくりー」
「わかりました」
「ひぃっ、まっ、ああああ! さ、冴木さん、お願いです! 待って! 待って! 嫌だぁっ……助けっ」
「ぎゃはは、ごめんねー俺、金のない奴嫌いなの。だからさ三国さん、俺の金の為に死んでチョーダイ」

 伸びてきた手を振り払い、叫び声には鼻歌を返すと、冴木はそのまま部屋を出る。外に出ると、再び騒々しい蝉の鳴き声が冴木を待っていた。その煩わしい鳴き声に少しだけ面倒そうに舌打ちすると、高級そうなスーツの腕を捲くり、懐から煙草を取り出して火をつける。

「あっちー」

 部屋の奥からは、泣き声と叫び声が続いているが、この通りは人が少ないし、近くに民家もない。あの声が誰かに届くことはないだろう。最後の助けを呼ぶ声は、誰の耳にも届かないのだ。ぷかぷかと煙草の煙で輪を作りながら、にんまり口元に弧を描く。
 それから数分の後、静かになった部屋の扉が開き、中からは無表情な伸が出てきた。その姿には傷一つない。サングラス越しに冴木を見つめると、薄い唇からは低いトーンの声が発せられた。

「終わりました」
「あっそぉ、早かったね」
「冴木さんが暑がると思ったので」

 その返答に、再び冴木は小さく笑い声を漏らす。

「よーく解ってる部下を持って俺はー、とってもうーれしーよ!」
「はい」
「そんじゃ、さっさと帰るか」
「わかりました」
「早く保険金下りないかな〜」

 玄関から見える窓の向こう側に、男が天井からぶら下がっていた。
 しかしそんなものには目もくれず、フンフンと鼻歌を歌いながら、生まれながらにして金だけを愛する男、冴木久能は楽しそうに、いつものように笑い声を上げた。




 冴木久能は札束の海の中で産まれた。
 母親は元々情婦だった。久能を理由に結婚を迫ってくることに苛んだ父親が、札束を投げつけ、産声の中に札束が舞った。手切れ金のつもりだったのだろう。出産直後のことだ。

 産まれたばかりの赤子は万札の中で泣き喚き、母親も負けじと泣き叫んだが、とうとう父親が振り返ることは無かった。呆気に取られた医師や看護士を無視して、父親は逃走。誰か一人に縛られることを嫌い、生れ乍らにしての博打打ちだった彼はその後行方が知れず、以降冴木は母親だけに育てられた。
 余談だが、冴木は父親の姓である。戸籍上は母親の苗字だが、金を持っていた父親の苗字を好んで使っていた。

 それから母親は冴木を十歳になるまで父親が投げつけてきた金で育てた。
 暴言や暴行を繰り返してはいたが、その時間も長くは続かず、母親はその翌年アルコール中毒によって死亡する。この頃、冴木は十一歳。金があれば助かったのかもしれないが、その頃にはもう金は底を尽きており、貧窮に瀕していた。結局冴木は齢十一にして、住む家を追われ、その身一つで生きていかなければいけなかった。毎日残飯を食い漁り、親戚もおらず、親兄弟すらいない、孤独の中で生きてきた。

 そんな冴木の心の支えは金だけだった。金さえあれば幸せになれる、父親だってきっと金があって幸せだったに違いない、自分の母親は金が足りなかったから幸せになれなかったのだ。と毎日自分に言い聞かせていた。
 その頃にはすでに冴木は金へ傾倒しており、毎日毎日、たった一枚だけ、ポケットに忍ばせていた福沢諭吉の顔に口付けをしていた。正直気持ち悪いが、そんな行動を止めるような常識的な者すら、冴木の周りにはいなかったのだ。

 やがて冴木は裏の社会に身を置く存在と成り果てる。身体を使い、言葉を操って、色々な者に取り入り、法の網を掻い潜り、時には犯罪を犯しながらも、彼は金だけをこよなく愛し生きてきた。金の為ならばなんだってやった。そんな彼は今は借金取りという名の殺人犯である。
 しかしこのような前置きなど、まるでどうでもいいことだ。彼の生い立ち等、誰も興味を持たなければ、口出しする者もいない。そんな世界に身を置いているのだから。

 冴木久能はお金が大好き。

 その一言で事足りる。そして今日も冴木は一人の男を金の為に殺し、自分の為に違う誰かへ金を賭ける。





「ん〜〜、好きっ」

 オフィスの中、回転椅子に座り、くるくると回りながら、冴木は持っていた札束へと口付けした。その異様な光景を、伸はいつものように無表情で見つめている。手だけは異様な速さでキーボードを打っていたが。
 上へ提出する報告書を作成しているようだ。借金取りと言えども会社は会社、きちんと報告は文書にして提出するのである。ちなみに冴木は金にならないことはしない主義なので、そんなことはしない。全て部下である伸任せだ。

「伸ちゃあん、次の取立て先はどこだっけ?」
「机の上に資料が置いてあります。口頭説明をご所望なら、矢口四郎、四十歳、元会社員です、借金の理由は」
「へぇ、矢口サンか、待っててね、俺には君がお金に見えるよぉ! ぎゃはははは! 伸! いついくの?」
「…………期限が22日なので、明後日を予定してます」
「ええ〜、今日行こうよ、今日」
「まだ報告書が出来ておりませんので」
「かったいなぁ伸は!」

 抑揚の無い伸の返答に冴木が笑うと、違う声が室内に響いた。

「ただいまー、おー、クノちゃんに伸、帰ってたのか、早かったなぁ」

 オフィスの扉が開き、アロハシャツの男が顔を出す。
 無精髭を生やし、玉蜀黍の房のような頭をしている。年のころは四十半ばと言ったところだろうが、シャツから覗く筋肉には年齢の衰えを感じさせなかった。冴木の同僚にあたる、御門(みかど)だ。本名かどうかは定かではない。御門の顔に浮かぶ表情は笑顔だが、相対する二人の顔に笑みはなかった。
 冴木も先ほどまでぎゃはぎゃはと笑っていたにもかかわらず、今は渋柿でも食ったような顔をして、回転椅子を降りた。伸の表情は変わらず、その手のタイピング速度も変わらない。喋らなければ人形がそこにおいてあるような錯覚すら覚えるが、生憎伸は人形ではなく、生身の人間だ。
 答えない二人に対して、笑いながら近付く御門。

「おいおいおい、シカトかよ? そんな寂しいことされるとおいちゃん泣いちゃうんだけど」
「泣けよ喚けよ苦しめよ、なんなら保険金でもかけてから死んじゃえばぁ? 受取人は俺にしといてね。おい伸、俺ってばこいつと同じ空気吸いたくないから、外で煙草吸ってくるわ」
「俺も行きましょうか」
「いーよ、報告書あるんだろ」
「ですが」
「ガキじゃねんだからほっとけよ、それともまだガキだっけ? クーノちゃーん」
「ヘッ、おっさんうざっ、死ね」

 さっさと死ね、と吐き捨てて冴木はオフィスを出て行った。後に残された御門は楽しそうに笑い、伸は一瞬の逡巡の後、再び席に戻り、タイピングを続ける。室内に静寂が広がった。
 御門は自分の席、つまり伸の隣の椅子に腰をかけると、両手を伸ばして大きく伸びをする。

「あ〜あ、嫌われちゃったー」
「わざとでしょう」
「バレた? で、今日はどこ行ってたんだっけ?」

 表情も手の速度もそのままに、伸は答える。

「三国隆一の取立てです、回収不可能だと解っていたので、いつもの流れでしたが」
「ああ、ふん、なーるほど。三国ってあれだろ? 親友の保証人になって、結婚するはずだった女にも騙されて、苦し紛れに金借りた先がうちだったっつーカワイソーなオッサン」
「そのような情報もありました」
「病気の母親もいたそうじゃない」
「その母親なら冴木さんの口利きで、別の者が手を回して残りの金を回収しています」
「ははは! いつものことながら容赦ねぇなあクノちゃん!」

 バンバンと、近くにあった机を叩きながら御門は笑うが、伸は笑わない。

「他人のことなんてどうでもいい方ですから」
「お前もそのうち捨てられるかもよ? 金の為に」
「利用価値がある内は捨てられません」
「相変わらず歪んでやがるわ。ははっ、あんな奴に尽くすお前が信じられねえよ、なんか弱みでも握られてンの?」

 そう言って、煙草に火をつけようとしたところを、伸が止めた。ジッポの火を素手で掴み、サングラス越しに睨みつける。

「オフィス内は禁煙です」
「……左様で」

 くしゃりと煙草を握り締め、苦笑交じりに御門は言った。クーラーの効いた部屋の中で、蝉の声だけが響いている。外にでればまたあの蒸し風呂のような暑さが襲ってくることは想像に難くない。御門は面白く無さそうに立ち上がると、頭を掻きながら窓を開けた。

「ま、別にいいけどねー、お前らのことなんてどーでも。働いてくれればさ」
「業績が二番手の貴方に言われるとは、一番手の冴木さんも思っていないでしょうね」
「うるせーよ。それに、俺は営業成績は二番目だけど、やり方はクノちゃんよりマシだっつーの」
「借金取りにマシではない取り立て方なんてありません」
「はっ、そうか? 自分だってわかってるくせによ、クノちゃんの取り立ててってエゲツないから、敵も多いって知ってるだろ」

 その言葉に、さっきまで淀み無く動いていた伸の手が、初めて止まった。

「この仕事に情なんて無用ってこたぁ知ってるさ。けど、それでも敵の作るやり方作らないやり方ってあんだろ? クノちゃんは前者、一人で行かせて大丈夫? あいつのことを良く思ってない奴に連れ攫われてるかもよ、ご主人様がさ……」

 喋ってる最中で、伸が立ち上がり、初めてその唇に笑みを浮かべた。
 二メートル近い男が笑うと、それだけで妙な威圧感があるというのに、御門は不機嫌そうに眉を顰めるだけで引こうとはしなかった。対する伸は浮かべた笑みをすぐに消し、静かな声で言い放つ。

「御門さんは勘違いしてます」
「何が?」
「一つめ、冴木久能は、別に私の主人ではありません」
「あーそー……」
「もう一つは」
「なんだよ」
「冴木はそんな簡単にやられるような男ではありません、そんなことでは困ります。何故ならば」

 そこで区切ると、抑揚の無い声が室内に響く

「いつか彼を追い詰めて殺すのは、他でもない、この私だからです」

 実に堂々と言い放つと、伸は再び席に座りなおし、先ほどと同じようにまた手を動かし始めた。

「以上です。仕事がないのなら静かにしていてください」

 面白く無さそうに舌打ちすると、御門はまたもや煙草に火をつけようとしたところ掠め取られ、今度はジッポ自体を捨てられた。煙草と自分に厳しい職場だ、と御門は思った。




 一方その頃、冴木久能は笑っていた。
 大爆笑と言っても過言ではない。

「ぎゃっははははははははははははは!! ぎゃはぎゃはっ、ははっははははは! おいおい、どーした、もうやんねーの!? やんねーのったらやんねーのぉ!?」

 笑いながら人を殴り飛ばしている最中だった。
 薄暗い路地の裏道で、地面に倒れている人間の顔を殴りつけては、また殴り、鳩尾に靴をめり込ませては近くに転がっていた瓶で足を抉った。呻く男、飛び散る鮮血。皮膚は剥がれて肉が見えている。それでも冴木は殴ることを止めなかった。
 そんな異常な空気の中、へらへら笑う姿は見るものに恐怖を植えつける。錆びた臭いと、下品に笑う声に、転がっていた男の一人が息を漏らした。

「畜生! 調子に乗りやがって……!」
「俺はいつでも絶好調よ! ぎゃはっ」
「くそっ、イ、イカレてる……!」
「何が? 何がよおいおいおいおい、つか俺の服に血とかつけちゃってぇ、これトータル三十万もするんだよ? 弁償しろよなぁ、弁償するよなぁ慰謝料込みで五十万でいいよ」

 呟いた男の髪の毛を引っつかむと眼前でべろりと舌を出す、その舌には趣味の悪い金色のピアスがついていて、見た男は思わず顔を顰める。その顔に気分を悪くしたのか、冴木は空いていた方の拳を腹の中へとめり込ませた。

「ガハッ……」
「煙草吸いにきたのにさあ、っつーかお前ら誰? 宗教の誘いにでも来たの? 悪いけど俺が信じる神は俺とマリンちゃんだけだからあー。あっ、マリンちゃん知ってる?」
「テメェ……! ふ、ふざけんな!」

 冴木の後ろに居た男がバタフライナイフを構えた。しかし冴木は薄く笑うと、近くに転がっていた男をその男へと蹴り飛ばす。まるで重力など無視したように、構えた男へ垂直に飛んでいく。そのまま男はナイフを構えていた男に衝突した。避ける暇すらない。

「あ、ああ! うわあ!」
「いっ……あぐっ……ひぃ」
「ぎゃはは! ヒットー! 俺ってばサッカー選手になれんじゃねー!?」

 男が持っていたバタフライナイフは、蹴り飛ばされた男の腕に刺さり、刺された男は蹲り小さく呻いた。むき出しにされていた腕から、ぬるりとした赤い血が流れる様子を見て笑う冴木は、まさに狂人としか言いようがない。痛みに歯を食いしばる男を尻目に、体をくの字に折り曲げて笑っていた。一頻り笑ったかと思ったら、表情をなくし、這い蹲る彼らに手を差し出す。

「あー、笑った笑った……んじゃ、出して」
「な、何を……」

 男たちはもうすっかり戦意を喪失していた。元々彼らはライバル会社の稼ぎ頭を痛めつけろと命令されただけの下っ端だ。なのに逆に自分たちがここまで痛めつけられたのでは、割に合わない。怯えた視線で冴木へと問いかける。

「お・か・ねぇ、決まってるだろ? こんなに遊んでやったんだからさ。それともまだなんかやりたいの? 追加料金もらうよー」
「っ……!」

 その言葉に、男は青ざめ、後ずさった。彼が目指すのは路地の抜け道だ。しかし、転がっている奴らを連れて行くわけには行かない。結局、先刻バタフライナイフを振りかざした男は、一人走って逃げることにした。後ろの悪魔に捕まってはいけない。捕まったらどんな目に合わされるか解ったものではない。

「くそっ……くそっ……!」
「ぎゃはっ、逃げられるわけー、ねえだろっと!」

 衝撃。
 そう呼ぶに相応しい何かが、逃げていた彼を襲った。首に硬い何かが、石だ。転がった灰色の固形物を見て、薄れ行く意識の中で男は思う。冴木は男よりも六メートルほど後ろに居たはずだ。そこからなんのためらいもなく、拳大の石を下手すれば死ぬような場所に狙って投げてきた。悪魔だ、こんな奴に絶対に関わってはいけない、関わっては……。
そこで男の意識は途切れた。
 崩れ去る音を聞いたと同時に、冴木は彼らのポケットを漁り出した。戦利品徴収のためだ。
 サイフを取り出し、札を数えると、にんまり笑って自らのポケットへと仕舞う。これは遊んであげた謝礼金なのだから、当たり前に受け取るものだ。
 冴木はそう考えながらも、他に金目の物はないかと服の下を漁った。

「冴木さん、まだやっていたんですか」
「あっれ、伸ちゃんじゃん、書類はー?」

 そこに無機質な声が響く。視線を声の方角に向けると、入り口を塞ぐように伸が立っていた。

「終わりました。帰りが遅いので心配しました」
「心配? なにそれ、面白えこというね!」
「事実です」
「俺が死んでいればいいとでも思ったんじゃなーいの? ピンピンしてて残念だったっしょ」
「いえ」
「ん?」
「貴方を殺すのは俺ですから、それまで死んでいただくわけにはいきません」
「……っそー」

 その台詞に、冴木はつまらなそうに鼻を鳴らした。つまらない台詞だ。聞きなれた台詞だ。
 その言葉を飲み込んで、あるいは言うことすら面倒だったのか、何も言わずに冴木は歩き出す。伸もその後に倣ってついていく。

「火をどうぞ」
「んー」

 咥えた煙草からたゆたう白い煙が、風に流されて消えた。
 冴木は自分の家を持っていない。
 以前は持っていたが、恨みを持つ者の犯行により燃やされたので、それ以降面倒になり持たなくなった。勿論、燃やした輩は冴木自ら探し出し、金を搾り取ったが、しかしさすがに焼死させられたら困るということで、それからはビジネスホテルや漫画喫茶、あるいは路上を渡り歩き、住所不定の存在になった。

「一まーい、ニまーい」

 ちなみに、本日は会社の事務所に泊まるようだ。いつものように、無心に札束の枚数を数えている。もう枚数なんて彼自身わかっているし、数えても増えることは無い筈なのに、変質的な執着心がそれを許さなかった。椅子に座りくるくると回りながら、楽しそうに数えるその姿は、子供が玩具で遊ぶ姿に似ている。
 瞳はキラキラと輝き、その口元には笑みが浮かんでいる。彼の顔から笑みが消え去ったのは、事務所の扉が開き、御門が現れてからだ。

「あっれー、クノちゃん今日はここに泊まるの?」
「げぇ……」

 笑顔で入ってきた御門のアロハシャツには、返り血がべっとりとこびりついていた。よくここに来るまでに職務質問されなかったものだと、冴木は常識的なことを考える。先刻までの楽しそうな顔を、即座に苦虫を噛み潰したような顔に変えると、冴木は椅子の上で回りながら札束の枚数を数えることを止めた。

「せっかく楽しかったのに……気分最悪ー、慰謝料よこせやおっさん」
「えー、ひどいなクノちゃん、俺はただ単に忘れ物取りに来ただけだぜ?」
「血の臭いがくせーんだーけーどぉーーーーー、死んで」
「やーだよ」

 言いながら、御門は自分の机の引き出しを開け、鍵を取り出す。家の鍵か車の鍵かは、冴木のところからは確認できないし、そもそも彼に知ろうとする意思も、知りたいと思うほどの興味もなかった。
「目的果たしたならさっさと消えろ」と吐き捨てて、また椅子の上で数え出す。その姿を見て、御門はにまりと口元を歪め、鍵をポケットに仕舞ながら近付いていきた。

「そんなに興味ない素振りされちゃうと悲しいよー、クノウちゃん」
「……俺の名前はクノ、クノウって呼ぶなよおっさん。もう耄碌しちゃったの? その頭、有効活用してあげようか? ついでに体も一緒にさ」
「どうやって?」
「余す所無く裏で売りさばいてやんよ、ぎゃははっ」
「ひどいなクノウちゃん」
「クノだっつってんだろ」

 舌打ちしながら、肩に置かれた手を振り払う。その姿が楽しくて堪らないというように、御門は反対の手で冴木の顎を掴んだ。

「クノウって呼ばれるのそんなに嫌? ならもっと呼んじゃおうかな。クノウちゃん、親のお荷物苦悩ちゃん…………っと!」

 二本の指が、目玉を的確に狙ってきた。御門はその手を寸前でかわすと、今度は右斜めから蹴りが飛び込んできたので、左手で入ってきた足首を捉えた。ヒュゥ、と喉が鳴る。動こうとした冴木の右手を捕らえると、冴木よりも高い身長を生かして、思い切り上に吊り上げ、笑ってみせる。

「……あんまりオイタしちゃだめじゃないクーノちゃんっ」
「ぎゃははっぎゃはははははは! そうですねおっさん!」
「っと……っぶねぇ! いっ!」

 冴木はいつものように、笑いながら、勢いをつけ、御門の喉元を狙って噛み付いてきた。御門にとっては幸い、冴木にとっては不幸にも、その狙いは外れ、鎖骨を掠める形にはなってしまったが、ぶつりと皮膚を噛み切って、流れた血に冴木は笑う。口に含まれた血を吐き出したところで、そのまま床に押し付けられた。

「……ハイエナかよ、こーのクソガキが」
「あれぇ? 怒っちゃった? 大人の余裕が持てない大人って生きてる価値あんの?」
「状況よく見てから言え。お前今バック取られてるんだぜ?」
「ぎゃははははっ、押し倒して興奮してんだ? 変態だ変態! ぎゃはははは!」
「ああそうだな、おっさんは若い子に弱いからな、このまま後ろから犯してやろうか」
「ぎゃはっ……! はぁ〜……いい加減うぜえし」

 吐き棄てるように呟くと、冴木は苛立ちを込めた瞳を光らせ、御門を睨みつけた。対する御門は、そんな冴木の目に賛辞を送るように、口笛を吹く。

「そういう目、そそるねえ〜」
「死ねよ。今すぐに、そこの窓から飛び降りて脳漿ぶちまけてとっとと死ね」
「そんな目をした奴をねじ伏せるのが好きなんだよなぁ〜」

 つつつ、と押さえている腕とは逆側の指で、背中を撫でた。着崩したシャツの中に手を這わせ、前に回りこませると突起を摘み、思い切り引っ張った。耳元に唇を寄せて、御門が笑う。

「クノちゃんさ、今まで何人とやったの? おじさんに教えてよ」
「うるせーしきめぇよ、カス」
「あれ? 感じない?」
「俺ってばあんたみたいな腐れおっさんに触られるの慣れてっからあ!!」

 頭を勢い良く上げ、そのまま後頭部を御門の顎に当てると、怯んだ腕から脱出し、足を頭目掛けて振り下ろした。切られる風の音と共に、今度は御門が床に這い蹲る。

「がっ……!」
「ぎゃはっ! ざんねぇん!」
「いてぇな……」
「痛くしたんだよバァアアッカ」

 中指を立て、舌を出して笑う冴木に対し、先刻までの余裕の笑みを打ち消して、御門が舌打ちする。

「ほんっと腹立つよなぁ〜、クノウちゃんは」
「その台詞、そっくりそのまま返してやるよクソ野郎」
「このままここでクノウちゃん犯して泣かすのも面白そうだけど、やることがあるから、また今度ね」
「あ?」

 そのまま向かってくるかと思いきや、あっさりと踵を返す御門に、冴木は首を傾げた。普段の御門ならば最後までのらりくらりとかわしつつもねちねち攻撃してくるので、それを完膚なきまでに叩きのめすのが冴木の楽しみでもあったというのに、御門は少し急いだ様子で、事務所の扉に手をかけた。
 後姿に向かって、靴でも投げつけてやろうかと思案した末に、結局投げつけたが、すんなりとかわされてしまった。
そんな冴木を振り返り、御門はにやりと笑って手を振った。

「じゃーなクノちゃん。ばーいばい」
「うるせえモロコシ野郎、ビルの屋上から飛び降りて死ね」

 罵倒を無視して、扉の閉まる音を最後に、御門は事務所から姿を消した。





 鳥の囀る声など聞こえない、裏路地に面した事務所の奥で、毛布に包まっている男がいた。その男に向かって、大型の男、伸がゆっくり近付き、話しかける。

「冴木さん」

 返事はない。伸はポケットにゆっくりと手を伸ばした。それを確かめて、今度は右手を冴木の首元に伸ばしながら、もう一度確認の意を込め小さく名前を呼ぶ。

「…………冴木さん」
「何?」
「……おはようございます」
「おはよ」
「相変わらず、目覚めはいいんですね」
「ぎゃはぎゃはっ、俺寝首かかれること多いから! 例えば、お前とかにね」
「…………」

 にっと笑う冴木に対し、伸はポケットに忍ばせていた手を抜き小さく会釈した。
 冴木は事務所に備え付けてあった毛布から這い出ててくると、大きく伸びをした。首を左右に動かし、欠伸をすると、まだ眠たげな目を擦る。それから、朝の六時にも満たないというのに、きっちりとスーツを着込み突っ立っている伸に対して、胡乱気な視線を向けた。

「で、何? こんな朝からどーしたの」
「警察が来るので逃げて下さい」
「は?」
「詳しくは後で話します。とにかくこちらへ」

 何がどうしたの? と問いかける冴木を無視して、伸は事務所の裏玄関へと冴木を誘導する。ぎしぎしと軋むドアノブを開け、冴木の手を握ったまま歩き出す。

「なぁおい伸ちゃんよ、俺ってば男と手を繋ぐ趣味はねーんだけどー、大体警察ってなにが」
「御門が裏切りました」
「あ?」

 鞄に入っていた書類を取り出し、隣を歩く冴木に手渡す。片眉を上げながら冴木はつらつらと並んだ文字に目を通すが、やがて面倒になったのか、再び伸に突っ返した。

「読まないんですか」
「なんか面倒くさいから簡単に話して」
「率直に言いますと、うちの情報を御門が他に売ったんです。なので……」
「あーやっぱ昨日殺しておくべきだったなあ、あのおっさん」

 話している最中で言葉を遮り、舌打ちしながら煙草に火をつける。伸の言葉に、あまり驚きというものはない。元から嫌味で食えない男だった。恐らく昨日御門が持っていた鍵は、家や車の類のものではなく、何か重要な場所の鍵だったのだろう。その鍵を持って、御門はどこからか会社の企業秘密を持ち出し、警察、あるいは他の組織に売った。そして当人はまんまと逃げおおせた、のか? へまして死んでればいいのに。冴木は思う。

「御門に昨日会ったんですか」
「うん」

 やはりぼこぼこにしてついでに鍵を奪って殺しておくべきだった。今度会ったら殺そう。
 冴木はそう決めた。しかし今更後悔してももう遅い、となると先に進まなければいけない。煙草をくわえ、これからどうしようか思案しようとした矢先に、煙草と唇の間に手を入れられ、伸に遮られた。

「何?」
「見つからないようにしたいので、臭いや痕跡が残るものを持たないで下さい」
「ぎゃは、相変わらずシンチョー、でももういいよ、俺抜けるし」
「抜けてどうするんですか、そもそもそう簡単に抜けられないでしょう」
「抜けるし、別に、適当にやるよ、今までそうだったし。あーでも退職金貰ってねえや、貰ってからやめよ」
「それでいいんですか」
「いいよ、あんなおっさんに出し抜かれるようなところ、お里が知れてるしな、ぎゃはは! いい機会だったんじゃね?」

 げらげらと笑いながら、腹を叩く冴木を、伸は無表情で見つめていた。その視線に気づき、冴木は笑みを零す。

「で、伸ちゃんはこれからどーすんの? お前優秀だし、引く手数多なんじゃないの?」
「……冴木さんについていきますよ、勿論」
「ぎゃはぎゃは! で、その心は?」
「さあ……心此処に非ずとでも言ったところですかね」

 その答えに吹き出すと、納得したように頷いた。路地裏を抜け、黒のワゴン車乗り込むと、伸が車を発進させる。
これだけ黒いと逆に怪しいよなあ、と冴木は思ったが、あえて言わず笑った。

「伸さあ、朝に俺を起こそうとしたとき、何しようとしてた?」
「なんのことでしょう」
「そのポケット、何が入ってるの?」
「何も入っていませんよ」
「ふぅん、俺が殺しちゃった家族の写真でも入ってるのかと思ってた」
「…………」
「あ、少し表情変わった、当たり? ごめーんね!」

 伸の表情は変わらない。傍から見ればその表情に変わりは見られないが、冴木には動揺していることがよくわかる。そしてその顔が、存外気に入っている自分のことを、冴木は気に入っていた。
 数年前、すでに借金取りとして働いていた冴木は、伸の家族を、今までの獲物同様に奈落の底へ沈めた。その手法は、聞いたものの顔を顰めさせるような方法だった。唯一生き残った伸が自分の下についたのは、すっかりその家族のことなど忘れ、いつものように金に溺れていたときのことだ。
 瞳の奥に隠された殺意が可愛くてたまらない。
 伸が何故自分と一緒にいるのか、そんなこと冴木にはわかりきっている。恐らく自分を殺すためなのだろう。本人だってそういっている。
 しかしそれならそれで、構わない。どうせ碌な死に方はしないと解っているし、伸は使える男だ。

 使えるものは親でも使えと言うし、金のためならば多少の犠牲など構わない。

「ま、俺は親いねーんだけど。たってるものは息子くらいしかいねーってな」
「何の話ですか?」
「べぇつにー」

 心此処にあらずとはよく言ったものだ。初めて会った時の伸は、まるで本当に心がなくなってしまったようだった。
 しかし、今は少しだけ表情が読み取れる。表面上は無表情だが、恐らく内心は腸煮えくり返って自分を殺したいとでも思っているんだろうな、そう思うと、冴木は愉快で仕方なった。マゾヒストの気はなかったはずだが、殺意を向けられるたびにぞくぞくするのだ。
 同時に、この男をもっと動揺させてやりたい、そう思った瞬間、冴木の手は伸のネクタイに伸びていた。

「しーんちゃん」
「何で……」

 べろりと唇を舐める。一瞬伸は呆けた顔をしたが、すぐにまたいつもの表情に戻った。しかし、その呆けた表情を見れただけでも、冴木は十二分に満足だ。

「驚いた? 車運転してくれてるからサービス!」
「運転中とわかっているならやめてください」
「ぎゃはっそりゃそうだ!」
「……これから、何処に行くんですか?」

 伸は冴木に何か言うことを諦めたのか、ため息混じりに尋ねた。冴木は考える。まずは、これから先金が稼げる職を見つけること、それから御門を殺すこと、あとは……

「色々あるけど、まずはやっぱり」
「やっぱり?」
「退職金を貰いに行かなきゃね!」

 そうして座席に背をもたせると、いつものように冴木は下品な笑い声をあげた。



END

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