かみさまのいうとおり。


 俺はいつだって、爽のヒーローでありたいと思っていた。


 俺がまだ赤ん坊の頃に、母親が死んだ。
 交通事故だったらしい。突っ込んできたトラックに跳ねられ、ベビーカーに乗っていた俺は、奇跡的に生き残ったのだと聞かされた。母親の記憶は、ほとんどない。
 そして、幼稚園くらいの頃に、父親が再婚した。その連れ子が、爽(そう)だ。

 俺より二つ下の弟。
 体が弱く、引っ込み思案で華奢で色白。女の子みたいに可愛い顔をしていたので、俺は父親によく「弟をちゃんと守ってやるんだぞ」と言われていた。
 俺の名前が「守(まもる)」だったせいもあるかもしれない。
 弱い人を助け、守ってあげる人になりなさいと、そう願いを込めてつけたと聞かされた。それがなんだかかっこよくて、子供ながらに自分の名前が好きだった。

 俺より小さく弱い存在の爽と、名前からして、守護するべき存在となった俺。ともかく、俺は爽を守ると決めた。
 いじめっ子から、近所の野良犬から、道ばたに転がってる石ころからすら。とにかく、爽を傷つける奴は許さないからな、意気込んでいた。それを爽に言うと、爽は笑ってありがとうと言う。大好き、とも。俺は、それが気持ちよかった。

 自分より小さい弟ができて嬉しかった。爽は何もできない奴だったから、優越感もあったのかもしれない。頼られていい気分になっていた。

「お兄ちゃんは、そうのかみさまだね」

 そう言われたとき、俺は本当に誇らしくて、だから俺は、爽にとってもっと尊敬できる人間になろうと決めた。

「俺が、お前の神様になってやるよ!」




 小学校に上がってからも、それは続いた。
 俺は喧嘩も強く、やんちゃで、傷が多い、男の子らしい男の子だったと思う。勉強もそれなりにできたし、友達も沢山いた。
 一方爽は、名前の爽やかさとは裏腹に、家に引きこもりがちの、大人しい少年だった。俺がいない時は、いつも一人で本を読んでいる。そんな少年だった。
 友達も、遊び相手も、話す人も、俺一人。俺にしか心を開かない。母親や父親よりも、多分俺の方が好きだったと思う。
 爽の中の一番は、俺だった。
 俺がそうなるように振る舞っていた。だからいつも俺は爽の相手をしていた。爽は俺をきらきらした目で見ており、俺にはそれが気持ちよかったのだ。
 爽がいつも俺を頼る度に、仕方ないなという気分になった。こいつは、俺がいないと駄目なんだから、という、どこか上から目線の気分だ。
 だから、宿題でもなんでも、手伝ってやった。それは、小学校の高学年になるまで続いた。




 中学生になってから、少ししんどくなってきた。
 小学生の時、俺は自分が無敵だと思っていた。なんでも出来ると過信していた。
 自分でも勘違いしていたのかもしれないけど、元々、そんなに出来る方ではなかったのだ。
 小学生の時は、気力とノリと元気でなんとかなっていたし、勉強もそれほど難しくもなかったけれど、中学校に上がると、生活サイクルも一気に変わる。部活に入ると、小学生の時よりも自由な時間は少なくなった。勉強も運動も交友関係も全て完璧にこなすには無理が出てきた。
 出来ない訳じゃないけど、めちゃくちゃすごいというレベルには、到底達しない。それでも、俺は頑張った。
 爽に尊敬される兄であろうと、必死で勉強したし、運動も、友達作りも頑張った。
 でも、思うように結果は延びず、結局上の下止まりだった。俺は、思うようにいかなくて、少しイライラしていたのかもしれない。
 次第に爽に当たる様になっていった。爽は俺が中学生になったにも関わらず、いつもついて回っていた。その頃にはもう爽は小学校の高学年で、昔に比べれば大人びた雰囲気になっていたのに、中身は何も変わらない。
 相変わらず友達もいなければ、俺にべたべたくっついてくる。
 家に帰れば兄ちゃん兄ちゃんと慕ってくる。昔は、それが嬉しかったはずなのに、段々疎ましくなってき始めたのは、どうしてだろう。爽がいると、やりたいことが出来ない。時間が足りなくなる。
 俺は頑張っているのに、爽は何も考えずにただ俺に頼っている。俺がそうする様し向けたのに、自分勝手な話だ。
 俺が一人で頑張って、うまくいかなくなったら爽にあたって、本当に最低だ。全部、俺が始めて、俺が自分で決めて、そのルールの中でうまくいかないだけなのに、俺は爽を鬱陶しいと感じてしまう。爽は、何も悪くないのに。
 一時期俺はひどく悩んだ。
 けれど、爽はやっぱり俺のことを慕っていたし、きつく当たっても、その時は離れるがすぐにまた俺にくっついてきた。だから、俺はまだ頑張った。
 爽にかっこいいと思われるよう、頑張った。


 中学三年生の時だ。
 俺は、志望校に合格しようと猛勉強していた。その頃、丁度爽も中学校に入り、俺と同じ学校に通えると喜んでいた。
 俺も、表面上は喜んでいたけれど、内心はそうじゃなかった。
 爽は、中学生に入ると同時に、背が伸び始めた。
 すらりとした体躯は綺麗で、女の子みたいな顔立ちも、成長するにつれて美少年と呼ぶにふさわしい顔に変わっていった。俺と並んで歩いていると、兄弟ではなく友達同士かと思われることがほとんどだ。
 昔は爽を無視していた女子も、今ではもじもじしながら爽と話している。
 今はまだ俺の方が背が高いけれど、いつか抜かされるんじゃないかと思うと、嫌だった。
 勉強も、昔は全然出来なかったくせに、俺が教えて褒める度に、嬉しそうにして、中学に入学してすぐのテストは一位を取って、親から褒められていた。
 その姿を見て、俺は胸が焼け付く様な感覚を覚えていた。

 爽が、俺よりも優秀になっていく。
 爽が、小さくて弱くて、駄目駄目だった爽が、どんどん俺を追い越していく。最初に生まれたのは、小さな嫉妬心だった。ちくちくと胸に刺さり、爽を見る度に苦しくなる。
 俺はすぐにその嫉妬心を消そうとした。
 弟が褒められるのは良い事じゃないか。自慢の弟だ。それに、俺は、そんな弟に尊敬されているんだぞ。そう思うことで、自尊心を保とうとしていた。
 けれども、友達に、先生に、似てない兄弟と言われる度に、胸が痛くて、喉につっかえた小骨が取れない様なもどかしさがあり、俺を揺さぶった。
 そう言われる度に、俺の中に生まれた小さな嫉妬心が、大きく成長していく気がして、それがたまらなく嫌だった。

 しかし、それでも爽は俺の事を慕っていた。俺はいつまで経っても、爽の中で「何でも出来て、自分を守ってくれて、かっこいい兄」だったのだ。
 爽は俺を神様か何かと勘違いしたように、いつでも俺の事を優先させた。

 しかし、それももう限界だ。
 俺はそこまで優秀な訳でもなければ、爽みたいに綺麗な顔立ちでもない。ごく普通の、平均的な人間なのだ。所詮、血の繋がりはないし、俺が成長しても、爽みたいにはなれないだろう。爽はきっと、これからもっとかっこよくなっていく。
 俺よりも、頭がよくなって、俺よりも……。
 そこまで考えた所で、俺の中の何かが折れた。

 積み上げてきたものが、壊れていくのを感じた。
 結局俺が爽に感じていたのは、小さいものを守ろうという正義感などではなく、弟に負けたくないという対抗心だったのかもしれない。けど、それでも爽は俺にとって、大事な弟だ。血の繋がりはなくとも、家族には違いない。

 何もかもが思うようにいかなくなって、努力しても報われなくて、反面、爽はどんどん成長していく。
 駄目だ、このままじゃ俺は、きっと爽を嫌いになる。爽も、俺を嫌いになる。
 結局、志望していた高校は諦めて、一つ下の高校を受けることにした。受験勉強の抑圧もあったのかもしれない。
 高校受験が終わったのを期に、俺は、頑張るのをやめた。
 




 高校に入ってからは、楽しかった。
 頑張るのをやめて、ストレスがなくなったからだろうか。俺は昔よりも自分が落ち着いたと感じていた。
 作ったような笑みも必要なくなり、成績も運動も、昔より落ちたけど、毎日が楽しかった。
 爽のヒーローと呼ぶには、頼りないけど、俺はもう爽のヒーローじゃなくてもいいと思うし、爽だってもう中学生だ。
 兄をヒーローと慕う時期は卒業するべきだろう。
 けれど、そう思っていたのは俺だけの様で、爽は相変わらず俺を敬い、慕ってくる。
 俺はもう、お前の望むヒーローじゃないのに、そう言っても、爽にとってはあまり関係ないみたいだった。爽にとっては、俺という人間が重要らしく、相変わらず友達も作らず、俺にべったりだ。

 背は今や俺と並び、外見もあか抜けた。美少年と言うよりは美形に進化し、ますます兄弟には見えなくなってきた。
 あと、もう一つ変わったことがある。
 今まで兄ちゃんと呼んでいたけれど、いつの間にか「守」と名前呼びに変わっていた。それはいい。呼び方なんてどうだっていいし、逆に、兄と呼ばれるとその度に似てないねと言われるのが辛かったから、返って嬉しいくらいだ。
 けれど、未だに友達一人作れないのはどうなんだろう、と不安になってくる。
 最近、俺は自分が爽の人格を歪ませてしまったのかもしれないという気になって仕方ないのだ。
 子供の頃、俺が爽を構って、爽に友達が出来るよう動こうともしなかった。ただ俺を頼る様、俺を慕う様、教えこんで過ごしてきた。それが、悪かったんだ。俺がしてきたのは守ることでも助けることでもなく、ただ殺してきただけだ。弟の成長を、弟の人格を。その過ちに気づくのが、遅かった。

 爽だってもう中学三年生になる。受験だって始まるし、兄弟だからって、ずっと一緒にいられるわけでもない。このままだと、流石にやばいだろう。

 そう思って俺はある日、爽に言った。
 「お前、友達作れよ」って。

 次の日、爽は友達を連れてきて俺に見せた。
 迷惑そうな顔をした少年の隣で、爽は言った。守の言うとおり、友達作ったよ、偉い? と、笑いながら。
 友達が出来て嬉しいと思う反面、俺は爽が怖かった。
 爽が、本当にそいつと友達になったのなら、それでいい。けど、そうじゃなくて、その友達になった彼に聞いたところ、帰り道に声をかけられて、友達になろうと言われただけだと、後で聞いた。
 つまり爽は、別に友達なんて作ろうとはしてなくて、ただ俺に言われたから、適当に声をかけて俺に見せただけなのだ。何のために? 多分、俺に褒められる為に。昔から爽は、俺に褒められるのが大好きだったから。
 俺は頭を抱えた。

 爽が、俺に依存しすぎている。

 俺という人間を神格化している気すらする。
 ともかく、爽の中で、俺の言う事は絶対なのだ。昔からそうだった。そして、かつては俺もそれに依存していた。
 爽が俺に依存して、俺は依存されていることに優越感を覚え依存していた。
 でも、今はもう違う。あの頃から何年も過ぎたし、関係性だって、周りの環境だって変化した。
 俺はもう、爽に頼られる事に優越感なんて覚えないし、逆に心配になってくる。
 俺がそうなるよう育てたとは言え、ここまで影響するだなんて思ってなかった。申し訳ないと思っている。早く、なんとかしなくちゃ。
 落ちぶれたヒーローの最後の仕事だ。
 日が経つにつれ、そう思うようになっていった。

 元々俺は、そこまで尊敬される様な人間でもない。勉強も運動も、多分中学の頃の俺と比べれば、今の爽の方が出来るだろう。爽は、俺がやれと言えば、出来るように勉強し、努力する男だった。
 女子にももてるのに、彼女は作らない。友達すら、名前だけの関係で、今でも俺を慕っている。
 ……このままじゃ、まずい。俺がいると、きっと爽は俺に頼って、益々孤立してしまう。
 だから俺は、大学受験を期に、家を出ることにした。




 大学に入って、ようやく俺は解放された気がした。
 一人暮らしの部屋の中は、少し寂しい気もしたけれど、家にいる時より、息が詰まることはない。
 何より、爽の目を気にしなくていい。
 家を出る前は、散々爽にいかないでくれと言われたけど、俺は首を縦に振らなかった。
 全部、爽の為だ。
 俺がいると、爽によくない。
 そう自分に言い聞かせてきたけど、本当は、単純に逃げたかっただけなのかもしれない。
 変質的なまでに自分を崇めてくる弟から。

 だから俺は、家を出る前に、爽に言った。
 「彼女とか友達とか、ちゃんと作って、自分の人生を楽しめ。もう俺のこと忘れろ」的な。実際に忘れろとは言っていないが、もうあまり俺を見ない様に言い含めた。
 爽は、捨てられた子犬みたいな顔をしていたけれど、基本的に、俺の言う事には絶対服従だ。昔から。
 小さく首を縦に振って、消え入りそうな声で、「わかった」とつぶやいた。
 それから、爽には会ってない。

 いや、会ってないというよりも、爽が俺を避けているのかもしれない。
 俺だって、実家に帰る機会がないわけでもない。なるべく帰らない様にはしているが、親に帰ってこいと言われると、流石に断り続けることもできず、年に何回かは実家に帰る。しかし、爽はバイトに行っていたり、友達の家にいたりで、会う機会がなかったのだ。
 俺は、少しだけ寂しい気もしたが、これでよかったのだと自分を納得させた。

 爽に友達が出来た。
 親に聞くところによると、彼女も出来たらしい。高校では、結構モテるみたいだ。まあ、元々爽にその気がなかっただけで、中学の頃からモテてたしな。
 よかったよかった、めでたしめでたし、と、俺は勝手に自分の中で完結させた。
 もう、爽に俺は必要ない。爽には爽の、俺には俺の人生があるのだと。



 だから、大学から帰って、部屋の前に爽が立っていた時は、めちゃめちゃ驚いた。

「…………え」
「おかえり、守」
「お、おお……」

 季節は、冬。俺は大学二生で、爽は高校生になっていた。
 どのくらい待っていたんだろう。いつの間にか染めたらしい茶髪の上には、雪が積もっている。吐いた息が真っ白になる季節に、赤と緑のチェック柄のマフラーをして、学ランに積もった雪を払っていた。
 俺を見ると笑顔になり、立ち上がって駆け寄ってくる。
 しばらく見ない間に、また背が伸びたみたいだ。もう、俺の身長を追い越している。手と頬は真っ赤で、俺が帰ってくるのを待っていたのか、忠犬っぽいその行動に、俺は困惑した。

「おま、爽……何してんの?」
「守を待ってた、おかえり、久しぶり」
「そ、そうか。とりあえず、寒いから家に入れよ」
「入ってもいいの?」
「当たり前だろ、つーか、お前、どれくらい待ってたの」
「一時間くらい」
「馬鹿、近くにコンビニあるんだから、そこにいればよかったのに……」

 言いながら、部屋の鍵を開けた。
 部屋の中は結構ちらかっているけど、昔ならいざ知らず、もう尊敬できる兄ではないのだから、部屋が汚かろうがなんだろうが、別に構わないだろう。
 ストーブをつけ、漫画や服が散らばっている部屋に通すと、俺は台所でお茶を煎れる為カップを出した。
 それを見た爽が立ち上がる

「俺が煎れるよ」
「いいよ、座ってろ。つーか、どした突然。父さんと母さんには言ってんのか?」
「ううん」
「あ、そ。メールしとけよ。紅茶でいい?」
「守が煎れたのならなんでもいい」
「…………」

 しばらく会わない内に、変わったのかと思ったけど、俺至上主義なのは、相変わらず変わっていない。茶葉を漉して適当に注ぐと、爽の前に置いた。ほのかな湯気が立つカップを、爽は右手で持ち上げる。
 
「茶菓子はないけど」
「ありがとう、いただきます」

 そのまま口を付けると、目を丸くした。

「そこまで熱くない」
「お前猫舌だからな」
「うん……。うん、そうだね」

 何を今更。
 爽は何度か頷きながら、さして高くもない紅茶を美味そうに喉を鳴らして、飲み干した。紅茶って、そんな飲み干すようなもんじゃないけど。
 何があったんだろう。

 しばらく会わない内に、爽は益々格好よくなっていた。身長もだけど、顔立ちも、昔のような女の子っぽい顔立ちではなく、男らしい顔になっていた。筋肉質で、男の俺から見ても格好いい。
 俺は、早々に諦めてよかったと思った。今も俺が変なプライドを持って、爽よりも上に、尊敬できる奴になろうと努力しても、きっと届かなかっただろうから。
 ぼんやりと爽を見ながら思っていると、爽が顔を上げた。

「守」
「ん?」
「俺、友達できたんだ。沢山、名前も全部言える」
「ああ、知ってる。母さんから聞いたよ。よかったじゃん。つーか友達の名前言えるのは当たり前だけどな」
「うん、あと、彼女もできた」
「それも聞いた。どんな子?」
「こんなん」

 爽がスマホを出して、写真を俺に見せた。プリクラの写真だろうか。二人で並んでポーズを取っている。横に立っている女の子は、小柄で可愛い感じの女の子だった。

「可愛いじゃん」
「うん。あと、俺、この間のテストで学年一位だった」
「マジかよ、すげーな」

 爽は、俺が通っていた高校と同じところに進学した。俺が最初志望していた高校よりはランクが下がるけれど、別にレベルが低い高校じゃない。
 その中で一位をとるのは、相当頑張らないとできないだろう。きっと、爽は努力したんだろうな。
 俺は素直に爽を褒めると、爽は顔を赤くして喜んだ。

「あと、俺、今部活やってて、バスケしてるんだけど、レギュラー貰えた」
「へーマジか」

 俺が通っていた頃から、バスケ部は人数多かったし強かったけど、今も強いのかな。その中でレギュラーって、相当だぞ。あんなに運動が苦手だったのに。
 昔の面影もない弟の偉業に、俺は目を丸くした。昔、俺がやろうとして成し得なかったことを、今は弟がすべてこなしている。その事実がチリチリと胸に焼き付いた。
 誤魔化すように、俺は紅茶に口を付ける。

「……すごいな、爽は。本当」
「うん、だからさ、もういいかな、守」
「ん、いいって何が?」

 気がつけば、爽が真剣な目で俺を見ていた。
 俺は驚いて少し体を後ろへ引くと、じりじりと迫ってくる。
 爽は、俺に許可なく触れようとはしないが、今にも手を伸ばしてきそうだった。恭しく頭を下げて、絞り出す様に言葉を紡ぐ。

「俺が、駄目な奴だったから、守は俺に愛想つかしちゃったんだよね? だから、家を出たんでしょ? 俺、頑張ったんだ。守が言ったこと全部守った。ちゃんと友達も彼女も作ったし、勉強も運動も、頑張った。守と並んでも恥ずかしくない様に。だから、もう守に近づいてもいい? 触ってもいい?」
「…………は」

 冗談かとも思ったが、爽の目は真剣だった。
 痛いくらいに真剣で、苦しそうだ。
 俺は、どう言えばいいのか迷っていた。愛想尽かしちゃったって、なんだよ、爽はずっとそんな風に思っていたんだろうか。
 大体、俺と並んでも恥ずかしくないって、どういう意味だ。今のお前と並んだら、俺の方がよっぽど下の存在だろうよ。
 昔から、こいつは変わらない。俺を神聖視して、頭を下げてくる。俺はそんな、そんな立派な人間じゃないのに。俺が昔、こいつを歪ませてしまったから。
 胸に罪悪感がこみ上げてきて、頭を下げた爽の両頬を掌で挟んで、目線を合わせた。

「……あのさ、お前、なんか勘違いしてるよ。俺は別にお前を避けてた訳でも、愛想尽かしたわけでもない。ただ、お前が俺に頼りすぎて、お前に友達が出来ないのを心配して……」
「嘘ばっか」
「え」

 爽の目が、俺を射抜く。

「守は、いつも嘘ばっか。知ってるよ、本当は、俺が嫌いなんだって」
「いや、違うよ」

 そうだ、違う。俺は、爽が嫌いな訳じゃない。胸に膨らんだ嫉妬心が爆発する前に家を出た。俺は爽が嫌いな訳じゃない。大事な弟なんだから。
 首を横に振ると、爽は嬉しそうに微笑んだ。

「いいんだ。それは俺の努力が足りなかったからだから。守はかっこいいし、人気者だから、俺みたいなのが近くにいたら駄目だったんだよね。だから俺、守にふさわしくなろうって」
「違うって! お前、そもそも前提が間違ってんだよ」

 この弟は、本当に昔から、何かフィルターでもかかってんのかってくらい、俺をおかしな目で見ている気がする。俺はスーパーマンか何かか? 逆に惨めに思えてくるから、やめてくれ。
 爽の両肩を掴んで、真剣に説いた。

「いいか? そもそも俺は、そんなすごい人間じゃないんだよ。子供の頃はそりゃ、お前に尊敬されたくて、いろいろ頑張ってみたけど、段々実力が追いつかなくなったし、中学くらいでお前のヒーローごっこはやめたんだ。かっこよくて尊敬出来る兄ちゃんじゃない。見てみろこの部屋、ぐちゃぐちゃだろ、情けないだろ、片づけてくれるような彼女もいない。大学だってあんまいい大学じゃないし」
「俺が片づければいいじゃん、彼女いない方がいい」
「そうじゃない。俺はもう、お前のかっこいい兄ちゃんじゃないの、そんな風に俺を見るな。いい加減目え覚ませよ。お前の方がずっとかっこいいし、すごいんだよ」
「…………守に褒められた」

 嬉しそうに頬を染めて、爽が微笑んだ。
 こいつ、人の話を聞いているのか? いや、こいつが俺の話を聞かないなんてことないか。
 ……ああ、駄目だな。
 爽に俺を特別視するのはやめろなんて言っているくせに、俺は爽が俺を特別視するのをやめない前提で考えている。
 こんなだから、いつまで経っても変わらないし、爽を解放出来ないんだ。俺が家を出て変わったかと思ったけど、やっぱり何も変わってない。どうすれば、こいつはもう俺に縛られずに済むんだろう。
 頭を悩ませていると、凛とした爽の声が響いた。

「守も、間違ってるよ」
「……ん?」
「俺は、守が世界一かっこいいし最高だし一番だと思ってるから、守がどう思おうと関係ないんだ。守が俺より劣っているなんて思わなくていいし、俺が自分勝手に守にふさわしくなろうと思ってるだけで、そこに守が罪悪感を感じる必要はないんだ。ごめんね守、迷惑なことして」
「いや……その……」

 しゅんとうなだれてしまった爽を見ると、ずきずきと胸が痛む。違う、違うんだ。
 俺がお前をそんな風にしてしまったのに、お前はそれに気づかず未だに俺を神様扱いしてくる。そのことが申し訳なくてたまらないんだ。
 子供の頃、俺があんな風に言わなければ……。どうあがいても俺を特別みたいに扱ってくる弟に、なんて言えばいいのかわからなかった。
 すると、爽が俺に向かって手を伸ばしてきた。

「守、触ってもいい?」
「? いいけど……」
「ありがとう」

 するりと、延びてきた手が俺の頬を緩く撫でた。
 そういえば、高校に入った時位から、爽は俺に触らなくなっていったな。べたべた周りをうろついて、話しかけてはきていたけど、触ろうとはしなかった。触るときは、何故か必ず俺に許可をとっていた。昔は、そんなことなかったのに。
 それがどういう意味を持つのかなんて、特に考えもしなかったけど、触れた手が妙に熱くて、俺は再び後ろに下がった。朝起きたままの、布団の畳んでいない乱れたベッドに背中を預けると、爽の顔が近づいてきた。

「え、ちょ」
「守、好き」
「待て待て待て!!」

 慌てて近づいてきた顔を押さえる。
 今、こいつ、俺に何しようとした? ばくばくと鳴る心臓を押さえつけ、今にもキスしようとしてきた弟を睨みつけた。
 こいつ、本当は友達未だに出来てないんじゃないだろうか? 普通、こんなことしないだろ。彼女も脳内彼女じゃないだろうな。いや、さっき写メ見たしあれは本物か。じゃあなんで俺にこんなことしようとした?

 昔からわかりにくかった弟の表情が、今はさらに読みにくい。

「何すんだよ……」
「ごめん、まだ俺が足りてなかった。勉強してから出直す……」
「いや待てって! お前説明足りなさすぎ!」

 うなだれて帰ろうとする爽の手を無理やり掴んで、呼び止めた。足りてなかったって、何がだよ。勉強って何の!?
 わからなすぎる弟を捕まえると、爽は俺に掴まれた手を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「守が手を握ってくれた。嬉しい」
「いや、お前……じゃなくて、なんで今俺に、あー……間違えてたらあれなんだけど、キス? しようとしたんだ」
「好きだから」
「あのな、お前は勘違いしてるみたいだけど、俺、別にお前のこと嫌ってないから。ちゃんと大事な家族だと思ってる」
「違う」
「は?」

 俺の言葉を遮って、爽が続けた。

「俺は、守のこと家族だと思ってない」
「………………」

 ……ええー……。
 頭を金槌で殴られた時って、こういう感じなのかな。
 絶句というかなんというか、今までの自分を全否定されることを言われた気がする。
 揺れる脳の向こう側で、泣きそうになっていると、爽が再び口を開いた。

「嘘。大事な兄弟だと思ってる。だからそんな悲しそうな顔しないでほしい。それ以上に、守が好きなだけだから」
「……好きって」
「兄弟同士の好きじゃなくて、さっきみたいなことしたい」

 ……ああーー……。
 頭を金槌で何度も殴られた時って、こういう感じなのかな。まさかの弟のカミングアウトに、頭が破裂しそうだ。
 勢いがありすぎて全然ついていけない。
 さっきみたいなことって、つまりキス? そういう意味で、俺のことが好きだって?
 兄弟としてじゃなくて、恋愛的な意味ってことか。
 え、マジで? いつから? 冗談? そう思っても、爽の顔は真剣だし、そもそも爽は、俺相手に冗談は言わない。
 いつも本音しか話さない。まごついていると、ぼそぼそと爽が続ける。

「ずっと隠してた。迷惑になると思って。でも、守が家を出て、どんどん遠くなって、俺が守にふさわしくなろうってなってる内に、誰かに取られちゃうんじゃないかって思ったら、我慢できなかった、ごめんなさい」

 そう言って頭を下げたが、俺は何の反応も出来なかった。だって、ショッキングすぎるだろ。義理とはいえ、弟に告白されるなんて、想定してない。
 何て言えばいいんだよ。
 俺は、爽のことを弟としてしか見ていなかったから、そんなこと言われても、どうすればいいのかわからない。
 押し黙っていると、爽が立ち上がった。

「……頑張って、そろそろ守にふさわしくなれたかなって思ったけど、まだ駄目だった。もうちょっと練習してから出直してくる」
「ま、待て」

 そのまま帰ろうとした爽を引き留めた。何爆弾落として帰ろうとしてんだ。出直してくるじゃないよ。
 いや、そもそもまだ聞かなくちゃいけないことが沢山あるんだ。
 疑問を残したまま帰られてしまったら、俺は今夜眠れないだろう。

「何? 守。守が俺を何度も引き留めてくれて嬉しい」
「……い、いつから? その……」
「好きになったの? 最初から。守が俺の神様になった時から、俺はずっと守が好きだよ」
「その! その、神様ってのは、俺が……、いじわるなガキだった俺が、お前に、俺を尊敬する様にし向けたんだぞ。俺は、お前が俺を神聖視するのを見て、優越感に浸ってたんだ。……ごめん」
「守がそう思いたいなら、それでいいし、謝る必要もないよ。俺は変わらないし、俺の中で守の存在も変わらないから」
「…………」

 そう言われて、口を噤んだ。
 爽は、確かに俺を好きだっただろう。そんなの、俺は知っていた。爽の中の一番が俺だったことも、何をおいても俺を優先させていたことも、全部知ってる。
 子供の頃から、ずっとそうだった。好きだなんて、当たり前でわかりきっていたことだ。でも、こういう意味での好きだなんて、考えたことはなかった。
 それくらい、俺は爽のことを、家族だと思っていた。

「……てか、お前彼女いるじゃん……」
「守が彼女作れって言ったから」
「…………」
 
 何も変わってない。
 本当に、清々しいくらいまったく変わっていない。中学生の時、適当に声をかけた奴を友達と言って連れてきたあの頃から、まるで成長していない。
 つまり、爽の中では俺の言葉だけが全てなのだ。
 俺が、家を出るときに友達を沢山作って、彼女も作れと言った。だから、作った。それだけだ。たぶんそこに、爽の意志は薄い。俺に言われたからやっただけ。
 なんてことだ。
 頭を抱える俺に対して、爽は続ける。

「でも、守は俺を見ないで自分の人生を楽しめって言ったけど、それだけは、守がいないと出来ないよ」
「…………」
「守がいない俺の人生に意味なんてない」

 決定打だ。
 三つ子の魂百までってやつか? 結局、昔からこいつはこうなんだ。きっと、俺が例えどんな駄目な奴になっても、変わらないんだろう。
 どんなに友達を作らせても、彼女を作らせても、何も変わらない。ふらつく頭を抑えつけて、何とか質問を投げかけた。
 そろそろキャパシティが越えそうだ。

「なあ……練習するってさっき言ってたけど、誰と? 彼女を練習台とかにすんのはやめろよ、可哀想だろ」

 図星だったのか、少し考え込んだ後、爽は言った。

「じゃあ他の女の子にする」
「他の子も駄目だって、それは彼女が可哀想だろ」
「別れるよ」
「……いや、そもそも、女の子練習台扱いすんなよ」
「じゃあ他の男で試す」
「……お前ホモなの?」
「さあ。でも守は好きだよ」

 自覚症状があるのかないのか知らないけど、俺のことがそういう意味で好きだってんなら、たぶんホモなんだろう。
 父さんと母さんになんて言えばいいんだ。
 息子がホモだなんて知ったら、卒倒するんじゃないだろうか。いや、母さんはああ見えて肝が座っているからな。驚きはするだろうが、息子の選んだ道なら、受け入れるかも。血の繋がらない俺に対しても、おおらかに、本当の息子みたいに接してくれた、優しい人だから。
 問題は父さんだ。
 昔から爽を可愛がっていたから、受け入れるかもしれないけど、死ぬほど悩むだろう。つうか、現在俺が悩んでいる。相手が俺だなんて知れたら、自殺するかも。世間体だってあるわけだし。いや、待て、なんで受け入れる体で考えているんだ俺は、そんなことはあり得ない。
 俺は、ホモではないからだ。

「……悪いけど、俺がお前をそういう目でみることはないぞ」
「何当たり前のこと言ってるの?」
「え?」
「守が俺相手に本気で好きになるわけないでしょ。大丈夫、身の程くらい弁えているよ。だからせめて、守が気持ちよくなるよう勉強しようと思ってるだけで守とエッチ」
「う、うおわあああああああ!」

 思わず殴った。
 気持ち悪くてつい殴ってしまったのは悪かったと思う。でも、我慢できなかった。だって今こいつ、なんて言おうとした。
 気持よくって、どういう意味での気持ちよく? あまり考えたくない。
 それなりの力で殴られた爽は倒れて、ベッドの上に倒れ込んだ。口の端が切れたらしく、起きあがると、目を丸くして口元の血を拭った。俺は慌てて謝る。

「ご、ごめん……!」
「大丈夫。守に殴られるのだったら平気」
「……ごめん……」
「? 平気」

 いや、今のごめんには、殴ってごめんの意味以外にも、他の意味が込められている。
 お前をそんな性癖にしてごめん。そんな風に歪めちゃってごめん。なんかもう、全体的にごめん。
 謝っても謝りきれない。全てが俺のせいとは思わないけど、子供の頃、引き離さず甘やかし続けて、あげく勝手に突き放した俺にも、責任はある。
 手を伸ばして、爽が起きあがる為に手を掴んだ。

「と、とにかく、練習はやめろよ、お前、そういうのってよくないよ」
「守の命令でも、それは無理だよ。だって、そうじゃないと俺の意味がない」
「いや、命令とかじゃ……とにかく、やめろって、そんな」

 そんな、体売るみたいな真似、とは言えなかった。
 どの口で言えるんだ、そんなこと。俺の為にすると爽は言うけど、俺は弟にそんなことしてほしくない。
 俺の意味がないと爽は言うが、お前の存在にそんな意味は持たせなくていい。
 狼狽えている俺に対して、爽は微笑みかける。

「大丈夫。次会うときは、もっと守が流されるくらいかっこよくなってるから」
「やめろって」
「やめない。無理だよ。今更変われって言われても、もう無理。守のせいじゃない。昔から俺がこうだっただけ。気にしなくていい。守は俺を拒んで殴ってもいい。でも、俺は変わらないから」
「……わ、わかったよ! キスだけな!」
「……!」

 爽が勢いよく起きあがった。
 起きあがったというよりは、俺の手を引っ張って起きあがろうとして、逆に俺が爽を支えきれず、腕の中に引き込まれた。

「ご、ごめんなさい。守」
「いや、大丈夫だけど……」
「ほんと?」
「ああ」
「本当にキスしていい?」
「…………」

 そっちかよ。目をきらきらさせて抱きしめてくる爽に、俺は目をそらした。
 今からでも否定すべきだ。
 俺に、爽を受け入れる気がないなら、こんな残酷なことやめるべきだ。
 でも、俺が断ったところで、爽は自分の努力が足りないせいという訳の分からない持論を持ち出して、他の奴に走るんだろう。そんな生活していたら、きっといつか刺されるぞ。
 なまじ顔がいいだけに、相手も寄ってきそうだから始末に終えない。爽が、俺を見ている。そんでもって、爽の瞳の中には、度し難い表情の俺がいた。
 ぐ、と唇を噛んで、それから、もう一度爽を見る。
 俺を見る顔は昔から変わらない。きらきらした瞳だった。

「…………他の奴、練習台にしたりすんなよ」
「その代わり、守にしていい? だったらもうしない。二度としない。絶対しない」
「…………わかった」

 瞬間、爽の手が、俺の頭を引き寄せ、口づけてきた。

「っ…………!」
「守、まもる、スキだ」

 口と口の間で、熱い息が漏れる。くっついては離れ、離れてはくっついて。やがて、爽の舌が俺の口の中に入ってきた。

「うう、そ、う」
「はぁっ……は……」

 ぬるりと入り込んできた舌が、俺の舌を絡めとる。唾液が口の端から垂れてくる。口を閉じようとする度に咥内を舐められて、背筋が震えた。
 く、くそ……、悔しいけど、めちゃめちゃ気持ちいい。
 練習するとか言ってたけど、俺より絶対経験豊富だこいつ。
 濡れた音が室内に響き、そろそろ酸欠になるんじゃないかという所で、ようやく口が離れた。

「はっ……あ……」
「……守、めっちゃ可愛い」
「…………」

 ぐったりとしている俺を見て、爽が漏らした言葉を、俺は聞き逃さなかった。男に、兄に向かってその意見は何事だよ。睨みつけると、慌てて頭を下げる。

「ご、ごめんなさい」
「このこと……父さんと母さんには言うなよ」
「守がそう言うなら」

 言ったら何かが確実に終わる。
 そのまま爽の腕の中から離れ、横のベッドに倒れた。横を見ると、爽が嬉しそうに俺を見ている。
 その笑顔が、昔の重なった。嬉しそうに、俺をお兄ちゃんと呼んでいたあの頃と。どうして、こんなことになってるんだろう。

「お兄ちゃん」
「…………」

 すると、まるで俺の心を読んだかの様に、爽が俺のことを兄と呼んだ。

「……なんだよ」
「ありがとう」
「何が」
「全部だよ、俺と兄弟になってくれて、俺を守ってくれて、俺のわがまま聞いてくれて、キスしてくれて、ありがとう。守は今までもこれからも、ずっと俺の神様だよ」
「…………っ」

 ふわりと微笑まれ、俺は閉口した。本当は、こんなの間違ってる。いくら同性愛というものが存在するからと言って、それはあくまでマイノリティであり、世間でも認知されにくい。俺は今すぐ、爽の横っ面をひっぱたいて目を覚ませと言うべきだ。
 だけど、なんとなく、そうしても結局爽は変わらない気がするのだ。俺は諦めて目を瞑った。
 とりあえず、これからは爽から離れるのはやめよう。あまり意味がないとわかった。
 離れていても、爽は変わらないし、おかしな方向に突き進んでいきそうだ。それなら、俺が傍にいて、矯正していった方が、いいかもしれない。
 だって、俺は爽の神様なんだから、俺の言うことは聞くだろう。守様の言うとおり、なんてな。

 アホな事を考えた所で、爽が再びキスをしてきた。
 これから一体どうすればいいんだろう。





終わり

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