「…………は?」
『だからね清(きよし)、涼(りょう)が……、涼が帰ってきたの!』

 まだ暑さの残る八月の終わり頃。秋へと移り変わる直前の、晩夏の夜。
 実家から一本の電話がかかってきた。

 酷く興奮した母の声には涙が滲んでいて、俺は持っていた携帯電話をきつく握りしめる。

『あの子が、帰って来てくれたのぉ!』

 喜色と興奮が入り交じった、電話口から響く母の声。網戸から舞い込んできた風が、ぶわりとカーテンと俺の髪を揺らした。
 外から聞こえる虫の輪唱を聞きながら、俺は何かの間違いだ、と思わずにはいられなかった。

****

 実家から離れて早二年。
 俺は成人を迎えて、来年からは本格的に就職活動が始まる。両親とは、実家を出てから少し疎遠になり、あまり頻繁に連絡は取っていなかった。
 それが、昨晩、泣き崩れるような声で母から電話がかかってきた。
 涼が帰ってきたのだと、涙ながらに何度も何度も口にした。俺は眠ることも出来ず、翌日、朝一番の列車で実家へと急いだ。

 俺の実家は、言ってしまえば田舎の、何もない場所だった。名産品なんてものもなく、人口も少ない、過疎化が進むド田舎だ。延々と広がる田園に、娯楽施設だってない。周りは木や森ばかりで、周りの住人なんて皆顔見知り。市町というよりは村で、子供時代は、窮屈な場所に思ったことを覚えている。

「あっつ……」

 もう八月の終わりだというのに、ここでは未だ蒸すような暑さが続いていた。俺は額の汗を拭って、家路へと急ぐ。蝉の声が鳴り響く砂利道を踏みしめ、遠くにある森を見た。
 この季節になると、いつも思い出す。弟のことを。

 俺には昔、一つ年下の弟が居た。
 可愛くて、愛嬌があって、よく喋り、よく笑う、誰からも愛されるような弟だった。血が繋がっているのに、俺とはあまり似ていなかったので、兄弟と言うと似てない、とか、驚かれたことを覚えている。
 弟は俺によくついてまわって、あの日も兄ちゃん、と呼びながら俺の後ろをついてきた。俺が、いくらついて来るなと言っても、頑なに一緒に遊びたがった。

 俺の地元は、山や森が多く、というか森しかなかったので、子供時代遊べる場所なんて、森くらいしかなかった。虫を捕まえたり、ザリガニを釣ったり、そういう遊びくらいしか出来なかった。
 子供が遊ぶところは森、けれど、森の奥には絶対に行ってはいけない。
 モリシシ様に見つかったら、連れ去られてしまうからね、と昔から教えられていた。
 モリシシ様は、森を守る神様と崇められている俺の地元の伝承だ。
 森に住み、俺たちを見守ってくれている。
 だけど、夜になると子供を攫う悪鬼となる。言うことを聞かない子供を連れて行く。嘘をつく子供をつれていく。だから、森の奥に入ってはいけない、嘘をついてはいけない、夜の森にも行ってはいけない。モリシシ様に連れて行かれてしまうよ。
 そういう言い伝えが、あったのだ。子供に言い聞かせるための作り話だろうけど、皆、それを信じていたから、森の奥に踏み込むことはなかった。


 そんな中、俺と弟の涼はあの日。丁度今の季節と同じ頃。
 まだ暑さの残る八月の終わり、森で一緒に遊んでいた。木々が日差しを遮って、涼しく感じたことを、なんとなく覚えている。
 二人でかくれんぼをして、俺が見つける役。
 もういいよ、という声を聞いて、俺が探す。
 ……けれど、どうしても涼が見つけられなくて、日も暮れて怖くなった俺は、一人で家に帰った。
 いつまで経っても帰ってこない涼を心配して両親は泣き、警察も地元の人たちも総出で探した。けれど、結局見つからなかった。
 足を滑らせたり、川に落ちたりということも考えられたけれど、遺体すら発見できなかった。
 煙のように消えた涼を、住人はモリシシ様に連れて行かれたのではないかと、まるで神隠しにあったかのように噂した。

 あっという間に伝わった涼の話に、両親は辛い思いをしただろう。俺だってそうだ。けれど、もしかしたら、涼が帰ってくるかもしれないから、と言って、両親は引っ越さなかった。

 そうして、涼が居なくなってから十四年目の夏。
 涼が帰ってきたと、母からの連絡があった。

****

「清!」
「……ただいま」

 実家に戻ると、満面の笑顔で、母が出迎えてくれた。

「なんか、涼が、帰ってきたって」
「そう、そうなのよ! 清も早くこっちに来て!」
「ちょ、ちょっと母さん」

 半ば引きずられるように、はしゃぐ母親の後をついていく。こんなに元気な姿を見たのは久方ぶりだ。涼が居なくなってから母は、どこか虚ろに笑ってばかりだったから。狭い集落で、俺たち家族はまるで腫れ物のように扱われた。
 モリシシ様に連れて行かれた家。
 俺も、色々と心ない言葉を同級生に投げかけられたのを覚えている。しかし母さんは、決してこの地を離れようとしなかった。

「それ、本当に涼なの?」
「そうよ! 昨日言ったでしょ!」
「っつったってさ……」

 弟の姿は、今となってはもう朧気だ。
 どんな顔をしていて、どんな喋り方だったか、まるで霞がかったように思い出せない。二桁に昇る年月が、俺の記憶を薄めていった。
 それに、母が「涼」と呼んでいるそいつが、涼なはずがない。きっと偽物だろう。十四年も経てば何もかも変わる。二人とも世間知らずな所があるから、きっと騙されているんだろう。
 そう思って、俺は居間へと足を踏み入れた。
 少し古びた家の内装は、昔とあまりかわらない。物心ついた時からある、もう鳩が飛び出さない鳩時計。仏間から香る線香の匂い。少し軋む床板。父さんが古民家を買い取って改造した家は、未だ昔の面影を残している。
 やや古めかしい扇風機が風をそよがせる部屋の中、そいつは居た。

「そうかぁ、そんなことがあったのか」
「うん、でもおれも、結構楽しかったよ。あ、これ懐かしい、花火大会の時だっけ」
「そうそう! このときお前達に金魚釣ってってせがまれてなあ」

 居間の中で、テーブルを挟んで父さんとそいつは談笑していた。つけっぱなしのテレビの音をBGMに、まるで昔からそれが当たり前だったかのように、嬉しそうに。
 俺は、持っていた荷物を手放した。
 どさりと響く音に、二人の会話が止まり、気がつけば俺の口から呼ぶ声が溢れていた。

「り…………涼……」
「――あ、お帰り清兄ちゃん。……あれ? この場合って、おれがただいまって言うべきなのかな?」

 そう言って笑う涼が、居た。
 さっきまで朧気だった涼の姿が、唐突に克明になっていく。喉の奥が乾き、舌の根が張り付いたように、喋ることが出来なかった。
 十四年だぞ。
 涼という人間が消えてから、十四年も歳月が流れた。
 俺は成長したし、生きていれば涼も成長する。消えた人間が、また突然現れるはずがない。だから、きっと涼の名を騙る偽物が、両親を詐欺にでもかけようとしているのだろう。そう思って、帰ってきた。
 偽物だと言ってやるために。偽物の涼を見て、安心するために。
 けれど、目の前にいるそいつを見た瞬間、俺は直感的に涼だと思ってしまった。

 笑うと顕著になる涙袋、その下に二つ並ぶ黒子、笑うときに口元に手をあてる癖。声も体格も、昔とは全然違うのに、顔立ちは成長した涼そのものだった。テーブルの上に広がったアルバムの中の写真には、幼い頃の涼と俺が映っている。
 涼は、アルバムの中と同じ笑顔で言った。

「それじゃ改めて。――ただいま、兄ちゃん」

 ごきゅ、と生唾を飲み込む音が、俺の中に響いた。指先が震える。お土産に買ってきたお菓子のパッケージが、視界の端で歪んだ。
 そんなはずがない。
 これが涼のはずがない。
 これはきっと、涼を語る偽物で、思い出話も適当に合わせているだけで、顔だって、それっぽく整形したんだ。
 そうだ、そうに決まってる。
 だって涼は。

 涼は、あの日、あの森で。

 俺が、殺したはずなんだから。

 頭から冷水を浴びせられたような心地で、俺はその場に立ち尽くした。

****

「お兄ちゃんも、今日は泊まっていくでしょー?」

 夕食の準備をしながら、母が俺に声をかけた。
 涼が居なくなった日以来、聞くことのなかった呼び名に、一瞬反応することが出来なかった。だって、俺はもう「お兄ちゃん」じゃなくなったはずだったから。
 ぎこちない動作で頷くと、明るい声が返ってくる。

「あ、ああ。うん。でも明日帰るけど……」
「え〜、もっとゆっくりしていけば良いのに」

 浮かれた顔で台所に立つ母に俺はゆっくりと近づいた。母は、綺麗な人だった。こんな田舎に居るのが勿体ないくらいの美人で、昔はよく羨ましがられた。それが、涼がいなくなってから一気に老け込んだ。目尻の皺も、ほうれい線も、会う度に増えていった。
 それが、今は若返ったように溌剌としている。
 涼と父は、居間でテレビを見ながらまだ何かを話していた。ガラス戸一枚を隔ててその様を見ながら、口を開く。

「なあ、母さん……」
「んー?」
「……本当に、あいつが涼だと思ってんの?」

 鍋の中身を見ようとしていた母が、手を止めた。
 涼の話曰く、気がつけば見知らぬ老人のところで暮らしていたらしい。それまでの記憶はなく、育ててくれたのは天涯孤独の老人で、自分だけが身内だったという。
 けれど、その老人が死んで、事後処理の手続きやらを済ませていると、戸籍を見つけ、そこで自分が涼だったことを思い出したようだ。
 荒唐無稽の話だと思うけれど、両親はあっさりそれを信じた。
 大変だったのね、と泣いた。
 でも、おかしいだろ。十四年もの間行方知れずだったのに、突然現れた男を信じる方がどうかしている。もっとちゃんと調べた方がいい。
 しかし、振り返った母は、怖いくらいの笑顔だった。

「涼よ?」
「…………」
「清も、涼だって思うでしょ」
「…………それは」
「食器、持ってってくれる? 今日はカレーハンバーグで豪華にいっちゃうから!」
「…………わかった」
「特製よ〜! おかわりしてもいいからね」
「うん……」

 カレーも、ハンバーグも、どっちも涼の好物だった。
 きっと、父も、母も喜んでいる。居なくなったはずの息子が帰ってきたのだから、喜ばないはずがない。でも、俺は……。

 食器を居間に運ぶと、俯いた父が泣いていた。俺はぎょっとして食器をテーブルに置き、父に近づく。

「ど、どうしたの父さん」
「いや…………、本当に、帰ってきてくれたんだなぁと思って……涼っ……あ、会いたかった……! お前、ほんとに、で、っでっかくなったなあ……!」
「うん、おれも会いたかったよ、父さん」
「………………」

 父は、厳格な人だった。
 昔から厳しくて、涙一つ見せない。
 俺はいつも怒られて泣いていた気がする。けど、涼が居なくなってからの父さんは、まるで魂が抜けたように、あまり怒らなくなった。
 泣いているところだって、見たこともない。けれど、その父が、顔をくしゃくしゃにして泣いているのだ。俺は胸の中に靄を抱えたような気で、言葉を噤んだ。
 その隣に立つ涼は、少し物憂げな顔で父の肩を叩く。

「ただいま、父さん」
「あ、ああ……っ」
「清〜、涼! ご飯よそって……やだもう、お父さんったら泣いちゃって!」
「はは、久しぶりだからなあ! 涼も、今19か? あと一年経ったら、一緒に酒を飲もう」
「うん、楽しみ」
「ああもう、母さん、酒だ! 今日は飲むぞ!」
「もう、はしゃいじゃって」
「………………」

 和気藹々と会話する家族の中に、俺の居場所はない気がした。三人が話している横で、ぽつんと一人立ち尽くす。
 父も、母も、二人とも嬉しそうで、俺の姿なんて目に入っていない。……ああ、この感じ。
 思い出したくもなかった、子供の頃の記憶。封印しておいたはずの思い出が顔を出そうとしている。
 涼が死んで閉じ込めたはずの、箱の蓋が開いてしまう。
 なんで、お前はいつもそうやって……!

「ほら、清もそっち座って。家族四人で食卓を囲むの久しぶりなんだから」
「うん。ほら、兄ちゃんはここ。いつもの席」
「っ、あ、う、うん」

 そう言って涼が指し示したのは、自分の隣の席だった。確かに、この四人用の食卓テーブルで、俺の隣は涼だった。
 顔を出した黒い感情を抑えて静かに頷くと、椅子に腰かける。砂のような味しかしないカレーを口の中に詰め込んだ。
 涼は満面の笑みで頬張っていた。

「美味しい、母さんのカレー、やっぱりおれ、一番好きだな」
「涼……っ! おかわり食べる?」
「うん! ね、兄ちゃんもそう思うでしょ?」

 涙ぐむ母さんを前に、涼が俺に問いかけてきた。
 俺は一瞬息を呑み、言葉を溢した。

「お前誰だ」
「え?」
「涼は死んだ。もういない。お前、誰だよ」
「清!」

 俺の言葉に、母が悲鳴のような金切り声で制した。けれど、俺は止まらなかった。一度溢れた言葉は、もう元には戻せない。

「だって、おかしいだろ! 十四年も行方不明で、今更戻ってくるって! あんなに探したけど見つからなかったんだろ!? そもそもその老人のところに居たのもなんでって話だろ! ちゃんと調べたのか!? 二人とも騙されてんだよ! 別の誰かの成り済ましだ! 目を覚ま……っ」
「いい加減にしろ!」

 止まらない俺の言葉は、父のテーブルを叩く音によって止められた。母が、両手で顔を覆っている。父が、怒りを露わにして、俺を睨みつけてくる。俺は狼狽しながら、涼を見た。
 人形のように整った顔立ち。子供の頃から、綺麗な顔をしていた。涼はきっと、母に似たのだろう。凡庸な俺とは、似ても似つかない。
 涼は長い睫に影を落として、憂い顔で口を閉ざしている。
 この空気の中で、悪いのは、俺だ。

「だって、だって……」

 おかしいだろ、絶対。
 途方にくれたような顔で、行き場所をなくした手を握りしめた。静かな声が、隣で響く。

「いいよ、父さん。信じられないのも仕方ないし」
「…………」
「でも兄ちゃん、信じてほしい。おれは、涼だよ」

 嘘だ。だって、涼が、生きているはず、ないのに。
 けれど勿論そんなことは言えず、俺は目を伏した。

「……ごめん……ごちそうさま」

 結局、俺はその言葉だけを残して、食卓を後にした。
 カレーは、俺も好物だったのに。





 風呂から出て、ベランダで涼んでいると、母さんがやってきた。

「清ー、スイカあるけど、一緒に食べない?」
「……いい……」
「…………清」
「…………わかったよ」

 悲しそうな顔で見つめられると、意地を張る気にも慣れなかった。俺は嘆息しながら、家族が集まる居間へと戻る。テレビからは野球中継が流れていた。

「あ、兄ちゃん」
「…………」

 俺が居間に戻ると、涼が嬉しそうな笑顔を見せた。
 昔と、同じだ。
 『にいちゃんはおれのとなり! こっちすわって!』
 『えー、涼、お母さんの隣は〜?』
 『じゃあこっちお母さん、こっち兄ちゃん』
 『俺、ここでいい……』
 『ヤダ! にいちゃんおれのとなりにきてよぉ』
 『清、行ってあげて』
 『…………』
 昔から、こいつは俺の近くに来たがった。

「ほらここ、ここ座りなよ!」
「あんたたち、本当に昔から仲良いね〜」

 母さんが嬉しそうに目尻に皺を刻んだ。俺はその言葉には何も応えず、席についてスイカを掴む。スイカは、正直好きじゃない。甘いのも上だけだし、種を出すのも面倒くさいし、手は汁でべたべたになる。食感もジャリジャリしていて、どこが美味しいのかわからない。
 けど、涼は西瓜が好きだった。

「ん〜、うまっ」
「八幡さんちから貰ったスイカだからねぇ、瑞々しいでしょ」
「ああ、八幡のばあちゃん元気?」
「元気元気、あと十年は死なないって笑ってる」
「ははは、変わんないな〜」

 八幡のばあちゃん。俺たちが子供の頃、よく遊びに行った駄菓子屋のばあちゃん。涼は、ばあちゃんにも可愛がられてたな。
 しゃくしゃくとただ咀嚼しながら、考える。
 ……これは本当に涼なんだろうか。
 いや、涼のはずがない。なら、これは涼の名前を騙る偽物で、俺たちを騙そうとしている。わざわざ俺たちのことを調べ上げて。過去何が好きだったとか、どういう行動とかを、調べて。……なんの為に?
 別に特別金持ちでもない、良い土地に住んでるわけでもない。俺たちを騙して手に入れられるものって、なんかあるか?
 俺たちを騙す為に、整形したり、ここまで周囲のことを調べたりするか? ここは狭い田舎で、誰かの話なんて筒抜けだ。俺たちの昔のことを調べている、なんて人間がいれば、きっとすぐに伝わるだろう。
 それに、調べてもわからない家族間のことなんて、どうやって調べるんだ。
 口を噤んだままスイカを咀嚼していると、母が俺に声をかけてきた。

「あ、そうだ清」
「……なに」
「さっきお父さんと話し合ったんだけどね、しばらく涼を清の家に一緒に置いて貰えないかなって」
「………………は?」

 手に持っていたスイカから、ぽたりと赤い汁が垂れた。
 一緒に? 俺が、こいつと?

「ほら、昔あんなことがあったでしょ? ここだと色んな人に噂されると思うのね。変な目で見られるかもしれないし、そこに涼を置いておくのは、ちょっと可哀想だから」
「…………や、でも」
「本当は父さん達も引っ越そうかって話をしてたんだけど、すぐには出来ないし、仕事もあるからな。涼もずっと向こうで暮らしていたらしいし、そっちの方がいいと思うんだ」
「いや、待てよ、ダメだって! 大体向こうで暮らしていたなら涼一人でも……!」
「――清、また涼を一人にするの?」
「…………っ」

 暗に、責められている気がした。母の目が、じっと俺を捉える。
 あの日、俺は涼を置き去りにして、森から帰ってきた。そのことを、未だに責められている気がする。
 また、一人にして置いていくのか。また、弟を置き去りにするのか。
 母にそんな気はなかったとしても、俺にはそう聞こえた。

「……けど、俺も大学あるし……」
「心配なのよ、涼のこと。清が傍にいれば、お母さん達も安心できるし、清が大学卒業するまでには、私たちも引っ越すから」
「…………急に、そんなこと言われたって」
「そうだよ二人とも。それに、兄ちゃんはまだ疑ってるんだよ、俺が涼じゃないんじゃないかって」
「ッ……!」
「そうだろ?」

 にぃ、と笑みを見せられて、俺は閉口し、目線を逸らした。
 だって、本当のことだったから。
 俺が黙っていると、母さんが笑った。

「そんなことないでしょ? 清」
「そうだぞ、清、涼が帰ってきたんだから、もっと喜びなさい」
「嬉しいでしょ?」
「ああ、嬉しいなあ」
「……………っ……」

 まるで能面でも貼り付けたかのような笑みを浮かべる両親が、なんだか不気味に感じて、俺はスイカの皮を皮入れの中に放り込んだ。
 昔から、両親は涼に甘い。俺の気持ちなんて、考えてくれない。

「お、俺は……」
「だからさ、ちょっと二人で話してくるよ。兄ちゃん、夜の散歩いこ」
「……え……」
「久しぶりに、遊ぼうよ」

 昔と同じような言葉を吐きながら、涼が立ち上がった。
 俺に手を伸ばして、『にいちゃん、二人で遊ぼうよ!』と笑った笑顔が蘇ってくる。
 瞬間的に、胃がむかついて、吐き気を覚えた。気持ち悪い。
 吐き気を堪えて、俺は立ち上がる。

「い、いい……俺、もう寝るから……」

 実家のはずなのに、まるで異世界に取り込まれたような居心地の悪さに、ふらふらと居間を出て二階へと上がる。
 その後を、涼がついてきた。

「兄ちゃん、待ってよ」
『にいちゃん、まって、おいてかないで!』
「……っ!」

 思い出す。
 あの、夏の日のこと。
 森の中で起きたこと。
 涼の手が俺の手首を掴んだ。やけに冷たい、手。

「ひっ……!」
「兄ちゃん、なんで逃げるの?」
「…………お、お前、誰」
「だから、涼だよ。決まってるでしょ」
「涼は、死んだっ、だからお前が、涼なわけないっ……」
「でも、おれはここに居るよ」
「違う、お前じゃない、だって涼は……っ」

「ちゃんと殺したはずなのに、って?」

 居間の方から、テレビの野球中継でホームランでも打ったのか、歓声が漏れてきた。心臓が、馬鹿みたいに音を立てている。全身が冷たくなっていくような、そんな気分だった。
 壁一枚隔てた居間とはまるで別世界になったみたいで、囁かれた涼の言葉に、俺は喉の奥から乾いた空気を漏らした。
 今こいつ、なんて、言った。
 電気もつけず二階に上がろうとしたせいで、廊下も階段も薄暗い。涼の顔は、暗闇に紛れて、よく見えなかった。

「散歩に行こうよ、兄ちゃん」
「あ……」
「二人で散歩。兄ちゃん、ほら」

 ぐい、と手を引かれ、俺は涼に引きずられるように外へ出た。
 隣の家までの距離があるせいか、辺りに人の姿は見えない。建造物が少ないここじゃ、夜空に浮かぶ月が綺麗に見えた。
 昼間は暑かった温度も夜になると下がって、リーリーと虫の鳴く声や、カエルの鳴く声が辺りから響いた。涼は、俺の手を引いて進んでいく。足下がおぼつかない。なんだかふわふわして、夢の中にいるような気分だった。
 夢といっても、悪夢だけど。

「通学路、砂利道、田んぼ、景色、十四年も経つのに、ここはぜーんぜん昔と変わらないね、兄ちゃん」

 振り向いた涼は、笑顔だった。
 明るくて、屈託がなく、誰からも好かれる愛らしい笑顔。成長した今となっては、誰もが見惚れるであろう美しい笑顔へと変貌していた。
 俺は、そんな涼の笑顔が。

 昔から大嫌いだった。

「…………お前、なんで」

 喉が、カラカラに乾いている。
 涼に掴まれた手首を振り払って、今すぐ逃げてしまいたかった。

「なんでって、何が?」
「…………いや……」

 聞き間違い? いや、そんなはずはない。だってさっき涼ははっきり言った。ちゃんと殺したはずなのにって。

 涼のことは、昔から嫌いだった。
 好きだったことなんて一度もない。涼が産まれてから、俺の家は、ずっと涼を中心としてまわっていた。何をしても、褒められるのはいつも涼。優先されるのも涼。愛されるのも涼。そんなことないって言われても、俺はそう感じていた。皆、涼、涼、涼、涼、涼涼涼涼涼涼ばっかりだ! 血が繋がった兄弟なのに、俺は兄で我慢させられて、涼は弟で甘やかされる。そう思っていた。
 そのくせ、涼はいつも俺について回ってくる。どんなに邪険にしても、素っ気なくしても、兄ちゃん、と慕ってついてきた。
 本当に嫌だった。
 周りから涼と比べられるのも、涼を邪険に扱う、性格の悪い自分も。涼と居たら、俺はどんどん自分が惨めで、矮小で、汚い人間に思えてきて、いやだった。
 だから、あの日、俺は涼と一緒に、森に入った。

『にいちゃん、そっちいったらあぶないんだよ』
『じゃあ、お前はついてこなければいいだろ!』

 入ってはいけない森の奥に、わざと入った。立ち入り禁止の看板を無視して、親の言いつけを破って。
 そうすれば、涼はついてこないと思ったから。でも、涼はついてきた。兄ちゃん怖いよ、と泣きながら俺にしがみついてきた。心底鬱陶しかった。そうやって、泣いて甘えれば助けて貰えると思ってるその浅ましさ嫌いだった。
 俺はずっと涼が嫌いだった。誰からも愛されて当然という顔をして、俺の欲しいものを全部奪っていく。
 嫌い、嫌い、大嫌いだ!
 胸に芽生えた嫉妬心と、浅はかな子供の行動力は、かけ合わせると碌なことにならない。

 俺は入ってはいけないと言われる森の奥へと足を踏み入れ、俺の後をついてきて足を滑らせ、木の根元にある洞と繋がる大きな穴に落ちた涼を、置き去りにした。
 挟まって動けないままの涼は、泣き叫んだ。

『にいちゃん、まって、いかないで!』

 泣きながら俺の名前を呼ぶ涼の声を聞きたくなくて、自分が持てる精一杯の大きさの石を持って、そうして。

 ――涼の真上に落とした。
 ごき、と嫌な音がして、俺を呼ぶ涼の声は聞こえなくなった。穴の中は暗くて、よく見えなくて、俺は目を背けて走って森を出た。
 体が震えた。
 涼を殺してしまった。俺が、殺した。
 生きてるかな? でも首が折れてた。血も、沢山流れていた。
 殺した、俺が殺した。弟を、俺が!
 喉が張り裂けるのではないかと思うくらい大声を上げて、森の中を駆け抜けた。
 居なくなればいい。消えれば良い。だから、これでいいんだ。
 これでもう、あいつと比べられることもない。他の奴らと遊んでても、涼ばかり優遇されることもない。俺は、叫んで、泣きながら笑っていた。
 とんでもないことをしでかしてしまったという自覚はあったけれど、それよりも、もう涼の顔を見ずに済むのが、嬉しかった。
 両親が泣くのを見る度に、捕まるんじゃないかって、怯えていたけれど、結局涼の遺体は見つからず、モリシシ様に連れて行かれたことになった。
 俺はひどく安堵した。
 ああ、これでようやくお兄ちゃんにならなくて済む、って。

 なのに、どうして今更。
 立ち止まって俯いていると、涼の白い手が、俺の腕を撫でてきた。血管が見える白い肌は、陶器のようになめらかで、男の腕というよりも、美術彫刻のように、人間味を感じなかった。涼の指が、俺の動脈をなぞるように、触れる。
 触れられる度に、ぞわぞわと怖気が立つ。瞬間、撫でられていた腕に赤い滴が落ちてきた。

「え…………」

 ぱた、ぱた、と落ちた赤い滴は俺の腕を伝う。なに、雨? いや、これ、血……。

「兄ちゃんが、俺の上にあんなおっきい石を落としたからさぁ、おれ、首が折れちゃったよ」

 気付いた瞬間顔を上げると、涼の首が折れていた。
 額からは赤黒い血が流れ、首が不自然に折れ曲がっている。

「あ、ああ、わあああああああああああ!!」
「きゃははははははははははははははははははははははははははははははは!」

 目が合って、涼が笑った瞬間、俺は涼の手を振り払い走り出していた。全力で家の中へと駆け込み、両親が居るであろう居間へと走った。
 化け物だ。涼が、化け物になって帰ってきた。きっと、俺に復讐するために……!

「父さん、母さん! やっぱりアレ涼じゃ……!」
「あれー、兄ちゃん外行ってたの?」
「なによアンタ、さっきもう寝るって言ってたのに」
「おい清、今試合盛り上がってるぞ。一緒に見ないか」
「あ、あ……?」

 そこには、涼が居た。当たり前のように涼しげな顔をして、半袖短パンというラフな格好で団扇を扇いでいる。
 父も、母も、それが当たり前のように近くに座っていた。
 ……どういうことだ? たった今まで、涼は俺と一緒に居たはずだ。首が折れて、頭から血を流して笑っていた。……俺は、幻でも見たんだろうか。涼を見たから、脳が混乱しているのかも知れない。

「…………涼、お前、ずっとここに居た……?」
「? うん」
「なにボケたこと言ってんの清はー」
「おっ、打った! ああ〜〜、走れ走れ!」
「………………」

 俺がおかしいのか。
 それとも、俺以外がおかしいのか。母さんは呆れ、父さんは野球に夢中だ。涼は、変な兄ちゃん、と笑いながら、まだスイカを食べていた。
 なんだか、頭が痛くなってきた。涼と目が合うと、涼は嬉しそうに笑う。その笑みを見たくなくて、俺はわざと視線を逸らした。

「あ、そうだ清、さっき言ってたこと、よろしくね」
「え? さっきって……」
「だから、清のところでしばらく涼と一緒に暮らしてねって」
「っ! だからそれはい……!」

 絶対に嫌だ。どうして俺が涼と暮らさなければいけないんだ。この涼が本物だったとしても、偽物だったとしても、化け物だったとしても、どれでも嫌だ。
 けれど、嫌だ、という言葉は、三人の目線によって黙殺された。
 さっきまでの団欒の空気を消して、父も、母も、涼も、じっと俺のことを見つめてくる。全員が口を閉じて、やけに不気味な、無機質な空気が流れていた。

「兄ちゃん、いやなの?」
「あ………………」
「清、嫌なの?」
「え、だって」
「清、嫌なのか」
「俺……」

 お前は、涼を殺したのに、その罪滅ぼしもしないのか?
 と、責められている気がした。
 外から聞こえてくる虫の声が、やけに遠くに感じる。虫の声だけじゃない。テレビから流れる野球中継も、壊れかけてる掛け時計の秒針の音も、全てが遠く、耳の奥で金属音のような耳鳴りがした。
 断れ、断らないと。
 俺を見つめてくる六つの眼に、俺は乾いた笑みを浮かべた。

「い、いや、じゃ、ない……、俺も、涼とまた一緒に暮らせて、う、嬉しい、よ」
「よかった! おれも、兄ちゃん大好きだから、また一緒に暮らせるの嬉しい!」
「………………」
「も〜、清はたまに頑固だからね〜」
「父さんもたまに遊びにいっていいかな?」
「はいはい、お父さんはお仕事してくださいねー」
「なんだ、冷たいな!」

 俺が答えると、さっきの底冷えしたような空気とは真逆の、明るい雰囲気が戻ってきた。色を取り戻したように、空気が鮮やかになる。息を吐いて、俺は今度こそ自室へと戻った。
 一刻も早く、この家を出たかった。
 眠りたいのに、布団の中に潜り込んでも、全く眠れず森の土の匂いがした気がした。

****

「それじゃあ、また連絡してね」
「帰ってくるときは先に言えよ」
「うん、父さん母さん、じゃあまたね」
「………………」

 翌日、俺は父の車に乗せられて、涼と二人駅まで送って貰った。
 涼は元々私物が少ないらしく、最低限の荷物しか持ってこなかったらしい。足りない分は出してやるから買いなさい、と父が多めに小遣いを持たせてくれたけど、両親ともこんな田舎に住んでて、給料だってそこまで多いわけじゃないのに、こんな風にされると申し訳ないし、情けなかった。
 父も、母も、引っ越すとは言っていたけれど、その資金だって貯まらなければ叶わない。ここに居れば涼の噂はすぐ広まるだろうし、両親の考えもわかる。けど。

「兄ちゃんの家、楽しみだな」

 隣で笑う弟の姿をしたこいつのことを、俺はどうしても好きになれなかった。



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