14




 陸上部に入るには、色々と条件があるらしい。
 美由先輩はファンが多いので、陸上に興味のない人間や、ただ美由先輩に近づきたいだけの輩が入部して、以前問題になったことがあったみたいだ。
 だからそれ以来、陸上部には入部テストがあり、その条件をクリアした人間じゃないと入部できないのだと、瀬田が教えてくれた。
 美由先輩が許可してくれたなら、多分入れると思うよ、と瀬田は言ってくれたけど、これ以上敵を増やすような真似をするのも憚られる。
 どうしようか、と悩んでいる内に、瀬田はやることがあるから、とふらりとどこかへ消えてしまった。神出鬼没な男だ。

 やることもなくなったし、寮に戻ろうかと体育館を通り過ぎた所で、声をかけられた。

「山本!」
「! 甲斐」

 聞き覚えのあるその声に振り向くと、どうやら部活中だったらしい甲斐が笑顔で駆け寄ってきた。今は休憩中なのか、体育館を見ると他の剣道部員も練習を中断している。

「どうしたんだ山本、こんな所で。珍しいな」
「ああ、美由先輩が部活中だったから、お礼言いに来た」
「そうか。ちゃんと言えたか? 美由先輩周りってガード固いだろ」
「うん、大丈夫。ちゃんと言えた」
「ならよかった」

 Vサインを作って見せると、剣道着姿の甲斐は、汗を拭いながら微笑む。それだけなのに、凜とした佇まいが、様になっている。こうしてよく見てみると、本当に男前だよなあ。いや、初めて見たときも思っていたけど、マジで格好良い。剣道着姿がよく似合うし、俺の目指す目標は甲斐みたいな男だな。もうちょっと身長と筋肉だ。
 うーん、やっぱり俺も陸上部入部してみようかな。

「で、美由先輩はなんだって?」
「あ〜、なんか、陸上部入ってみないかって」
「……へえ、山本は俺が剣道部に入れようと思ってたのにな」
「いや無理無理、だって俺剣道やったことないし」
「ちゃんと一から教えるよ」
「無理だって〜、それに二年から入るのって微妙だし」
「そうか?」
「そうそう」

 実力や経験があれば違うのかも知れないけど、転校してきて、突然やったこともない剣道を始めるのは、中々ハードルが高い気がする。それに俺、別に剣道に興味ないし。基本的なルールすら知らない。
 それならまだ、陸上の方が頑張れそうだ。
 少し残念そうにする甲斐に笑みを向けて、俺は手を振った。休憩中といっても、部活中にあまり長居するのも悪い。

「じゃあ、俺はそろそろ寮に戻るから。部活頑張って」
「ああ。……あ、そうだ山本」
「ん?」
「後で話があるんだけど、俺が部活終わったあと、時間取れるか?」
「おう、いいよー、俺見ての通り帰宅部だし。何時頃?」
「じゃあ、夕飯の後で。俺の部屋来れる? 特待生寮の22号室だから」
「特待生寮……」
「大丈夫、志熊の部屋の前は通らない場所だ」
「なら、わかった」

 本当は俺の部屋でもいいけど、瀬田がいる限り、俺の部屋は話ごとには向かない環境だ。あいつなんでもかんでもすぐにネタにするからな。この間部屋の中に盗聴器や盗撮機がないか探し回った。
 結局何も出ては来なかったけど、油断するのはよくない。甲斐に頷き約束して、体育館を後にした。

 話ってなんだろう。志熊関連かな、それとも、学校生活のこととか? もうすぐ試験も近いしなー。
 俺もちゃんと勉強しないと。そんなことを考えながら、俺は寮の自室へと戻った。





 夕飯を終え、瀬田に甲斐と話してくると伝えると、ズルいとか、オレも行きたいとか、なんだか色々と喚いていたが、無視して部屋を出た。
 甲斐は星5の為、元々居た一般寮から特待生寮の方に先日移動になったらしい。
 22号室が甲斐の部屋だ。幸い、志熊の部屋とは階が違うから、会うことはないと思うけど、もし鉢合わせたらどうしよう。
 少し警戒しながら特待生寮を歩く。しかし、静かで人の気配が感じられない特待生寮に、志熊の気配もなかった。
 星持ち専用特待生寮は、俺たち一般の星持ちの寮とは違う、相変わらず高級感が漂う造りだ。
 寮と言うよりは、ホテルに近い。
 俺は難なく甲斐の部屋まで辿り着くと、インターホンを鳴らして、名を名乗った。

「甲斐? 俺〜、山本」
「ああ、今開ける」

 甲斐がドアに近づいてくる音がして、すぐにドアが開く。
 丁度シャワーでも浴びていたのか、部屋着姿の甲斐の髪は少し湿っていた。

「悪いな、部屋に呼び出したりして」
「別にいいよ〜。俺も筋トレか勉強しかやることなかったし」
「ああ、ここって娯楽少ないからなあ……」
「まあ、山の中だしね。かといって瀬田のはやりすぎだけど」
「はは、言えてる」

 甲斐と俺は同時に笑った。

「入れよ」
「お邪魔しまーす」

 甲斐の部屋は、特待生でも星の数は関係あるらしく、前に入ったことのある志熊の部屋よりは狭かった。けれど、俺と瀬田の相部屋より勿論広く、これで一人部屋なら十分過ぎるほどだ。
 部屋の中は、志熊の部屋ほどモノは置いてなくて、必要最低限のモノばかり。ストイックな甲斐らしい部屋だ。
 シンプルではあるけど過ごしやすそうな空間で、甲斐が冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、コップに注いだ。

「お茶しかないけど」
「ありがとー。てか、話って何?」

 志熊のことかな、と少し身構えたが、俺の予想とはまるで違う言葉が返ってきた。

「ああ、山本って今転入したてだから星1だろ? もうすぐ試験だし、そこで平均は取っておかないと、次星貰えないからさ、大丈夫かと思って。俺、出そうな傾向とか出題されそうな問題ノートにまとめてあるから、よかったら教えようか」
「甲斐……!」

 こいつ、マジで良い奴すぎないか?
 正直、俺の頭は平均レベルから抜け出せないから、ちょっとレベルの高いこの学校で平均を取れるかどうか心配な所があった。超助かる。
 瀬田も教えてくれるとは言ったけど、あいつの場合は対価が気になるし、教えるのも下手だ。その点、甲斐はしっかり教えてくれそう。
 俺は甲斐の手を両手で掴んだ。

「ありがとう、すげー助かる!」

 目を輝かせると、甲斐も嬉しそうに微笑んだ。

「いいよ。そういえば山本ってここに来る前はどこの学校行ってたんだ?」
「え? あー、群馬の……××学校ってわかる?」
「ん、ごめん、わかんない」
「いいよ、田舎の方だし。そこもすっげえ森の奥だったんだけどさ、ここよりやたら坂道多くて毎朝登校が死ぬほど大変だった」
「ははは、じゃあここは坂道なくて良いな」
「そこなー、すげえいい。でも、前の学校は割とランク低かったから、俺こっちで勉強ついていけるか不安だったんだよ。編入試験の時めちゃくちゃ勉強したし。瀬田も教えてくれるって言うけど、何要求してくるかわかんなくて怖くてさー」
「……瀬田が?」
「うん。しかもあいつの場合、理論がすっ飛びすぎててよくわかんないんだよ」
「へえ……そうなんだ」
「?」

 気のせいか、少し声のトーンが落ちた気がした。何か気に障ることを言ってしまったか、と不安になったけど、次の瞬間にはもういつもの甲斐に戻っていた。
 黒縁の眼鏡の奥で爽やかな笑みを浮かべ、机の上にノートを開く。

「じゃあ、俺が今から教えようか。俺、人に教えるの結構得意だから」
「えっ、今からって」
「ダメ?」
「いや、っつか、いいの?」
「いいよ。山本の為だし」
「でも、甲斐も色々忙しいんじゃ……」

 まだ消灯まで時間はあるけど、貴重な自由時間を俺の為に奪ってしまっていいんだろうか。遠慮がちに声を萎ませると、甲斐は柔らかな笑みを浮かべて、俺の肩を叩いた。

「山本。俺も忙しかったら、わざわざ呼んだり教えるって自分から言ったりしないよ。俺がしたいんだ」
「…………あ、ありがとう」

 タイミング良く明日は休日だ。寮生活だって勿論門限が存在するけど、少しくらいなら長居しても良さそうだ。
 微笑む甲斐に、俺は大袈裟に頭を下げた。

「――じゃあ、お願いします。先生!」
「ははは、任せろ」

 頼りがいのある笑みを見せる甲斐に、俺は心底感謝する。
 ああ、甲斐が俺の隣の席で、友達で、本当に良かった。

****

「っは〜〜、甲斐、マジで教えるのうまいな……」
「そうか? ならよかった」
「いや、伊達に眼鏡をかけてないね」
「眼鏡かけて頭がよくなるなら、俺の予備眼鏡を山本にあげようか」
「うるせー」
「ははは」

 それから少し、俺は甲斐に勉強を教わった。
 といっても、がっつり一から教わった訳じゃなく、次の試験の要点やポイントを重点的に掻い摘まんで教わっただけだ。けれど、それだけでも十分に理解できたので、きっと甲斐は人に勉強を教えるのが本当にうまいんだろう。
 長時間教わったら、もっと身につきそうだ。甲斐って先生に向いてそう。
 瀬田にも、一度だけ教わったことがあるけど、瀬田は多分天才タイプの人間だと思う。
 自分の感覚で説明するから、どうして俺がわからないのかわからない、と言った感じだった。教えて貰おうとしたところで、瀬田の頭の中で理解されている過程を飛ばされて教わるので、どうしてそうなるか俺に理解が出来ないのだ。
 結果、瀬田は俺を「デルタくんは頭が弱い」とストレートに悪口を言ってきた。
 その点、甲斐はそういうのをよくわかっているのか、わかりやすく教えてくれた。俺がわからない所を聞いて、どうしてわからないかを一緒に考えて紐解いてくれる。甲斐のノートも、綺麗に書き込まれていて、甲斐の真面目さが窺えた。
 剣道部のエースで、勉強もこんなに出来て、文武両道とは、まさに甲斐の為にある言葉のように思えた。

「甲斐はすごいなー」
「別に、俺は特別すごくないよ。この学校ではさ」
「…………それでも、俺からすればすごいけどな。だって、甲斐が頑張ってるのに他の奴は関係なくね? 俺が頑張っても、きっと甲斐にはなれないし」

 甲斐の言うとおり、この学校では、文武両道どころか、加えて金持ちで顔も良いとか、そういう奴がゴロゴロいて、それが星持ちになるんだろう。
 でも、それと甲斐がすごいというのは別の話だ。甲斐よりすごい奴が居たとしても、甲斐が勉強も運動も頑張っていることに変わりはない。
 俺の言葉に、甲斐は少しはにかんで笑う。

「ありがとう、そう言って貰えると、俺も嬉しいよ」
「いや、改めて言われるとこっちも照れるけど……」

 なんとなく照れくさくなって、誤魔化すように大きく伸びをして、そのまま後ろに倒れた。

「う〜〜、肩こった……」
「揉んでやろうか?」
「はは! 俺何様だよ、苦しゅうないぞ〜ってか。いい、いい。しなくていい」
「そうか」
「ん。……ってか、マジでありがとな、甲斐。次の試験なんとかなりそうな気がしてきた」

 それに、今まで友達とかあんまり出来なかったし、志熊のせいでこの学校でも出来る気がしなかったから、甲斐の存在がありがたい。起き上がって甲斐を見ると、甲斐は笑みを返す。

「気にするな、またいつでも教えてやるよ」
「ありがと、……じゃ、迷惑にならない程度に頼んでもいい?」
「もちろん、いつでも」

 頷く甲斐に、何かお礼をしないと、と考えていると甲斐が俺の近くに座った。

「なあ、山本」
「ん?」
「お前、同室の瀬田とはどう?」
「え? どうって?」
「瀬田はその、結構問題が多い奴だから。……何もされてないか?」
「……え〜? まあ、されてないと言い張れることはないけど、ははは……」

 なんせ転入当初からあの新聞だ。
 他にも俺の体験を面白おかしくネタにしているような奴だから、清廉潔白な同室とは言い難い。何もされてないか? と聞かれれば俺の人生ネタにされてる、と言える。
 とはいえ、俺も瀬田の存在があって助かっているところもあるし、なんとも言い難い。
 俺の言葉に、甲斐は眉を顰めた。

「そうか……、やっぱり、転入してきたばかりで瀬田じゃあまりにもだな」
「瀬田癖が強いからな〜! あ、でも別に甲斐が心配するようなことじゃ」
「山本」
「え、な、何……?」

 横を見ると、思ったよりも近い位置に甲斐が居たので、少しびびった。僅かに後ろに下がり、目線を下げると、男らしく血管の浮いた甲斐の手が、俺の両肩を掴んだ。真っ直ぐ真摯な瞳で見つめられ、無意識のうちに唾を嚥下する。

「甲斐?」
「山本、特待生寮の人間は、特待生側の同意が得られば、同室になれるって知ってるか?」
「ああ、うん、知ってる……」

 散々志熊に言い寄られたけど、そこを超えてしまえば終わりだと思って、断り続けてきた。特待生寮側の人間が同意を出しても、同室になる側の人間がそこまで人権ないわけじゃないから、きちんと正式な手続きが必要になるらしいけど。
 勝手に同室にされないように入念に調べたから、その制度があることは知っている。俺の場合、同室が瀬田だと、その意見が上に通りやすいということも。
 なら、と甲斐が言葉を続ける。

「なら、俺と同室にならないか、山本」
「は?」
「俺は今この通り、ここで一人部屋だし、俺と同室になれば、前よりもっと、山本のことを守れると思う。志熊も流石に、部屋に踏み込んでは来られないはずだ」
「え、あ……」

 伝えられた言葉をうまく飲み込めず、軽く目を見開いた。
 同室? 俺と甲斐が? 冗談かと思ったけど、甲斐の目は真剣だった。
 頭の奥で、その言葉を反芻してみる。
 同室か……。甲斐と同じ部屋。
 そりゃあ、甲斐と同室になれたら、良いことばかりだろうな、と思う。今みたいに勉強を教えて貰えるかもしれないし、甲斐は俺の事を無視したり避けたりしないので、部屋に帰っても話せる。良い奴だし、それに、志熊にきちんと物を言うことも出来る。
 俺にとっては、願ってもない話だろう。
 だけど。

「や、大丈夫だよ。心配してくれてありがと、甲斐」

 だけど、ダメだろそれは。
 まず第一に、甲斐にとって良いことがない。俺が志熊と関わっている時点で、甲斐に及ぶのは被害しかないのだから、頷けない。この話は甲斐が俺のことを心配して提案してくれたんだろうということが予想できるし、甲斐は優しい奴だから、俺の身を案じてくれてるんだろう。
 だけどそれはまるで、甲斐の気持ちに付け込むみたいだ。
 第二に、甲斐は志熊という男を侮っている。
 小学生の頃から思っていたけど、志熊は頭の螺子がいくつか外れている。今日は課題中ということもあってか、大人しくしていたみたいだけど、いつまでもあんな風に大人しくしているとは思えない。あいつは頭がおかしい。
 志熊のタガが外れた時、俺の周りで一番に被害を被るのは甲斐になってしまう。
 そんなの、俺だって嫌だ。
 瀬田の場合はまあ、何があっても自業自得だと思えるし、起きたとしても気にせず笑っていそうだから、俺も気にしないけど。甲斐はだめだ。俺が気になる。
 瀬田と同室だと、俺のプライバシーは消えるが、そういう点では気が楽だった。訳
 のわからないやつだけど、瀬田以外と同室なら、志熊に見つかった時点で巻き込んでしまったら、と思うだろうし。
 だから、甲斐と同室だと、俺は甲斐に迷惑をかけて、罪悪感で申し訳なくなってしまいそうだ。
 そう思って、断った。
 それだけだったんだ。本当に、それだけ、なのに。

「――なぜだ?」
「は? え、ちょ、甲斐、手ぇ痛……」

 けれど、甲斐の反応は、俺が予想していた物と違った。
 てっきり甲斐の事だから、あっさりと引いて「そうか、また何かあれば力になるよ」とか、そういう当たり障りのない事を言ってくれるのかと思っていた。
 しかし、予想に反して、俺の両肩を掴む甲斐の手に力が込められる。がっつりと掴まれた手は、振りほどこうとしたけれど、振りほどけない。

「あの、甲斐? どうし」
「なんで、断る? おかしいだろう。何故断る。断る理由がない。瀬田の方がいいのか。どうしてだ、俺と同室になる方が、お前にとって正しい選択だ・・・・・・・・・・・・!」
「い゛っ……!」

 肩を掴む手に爪が立てられ、思わず顔を歪めると、甲斐がはっとしたように手を離した。

「わ、悪い山本……っ」
「いや、いいけど……」

 掴まれた肩が、未だにじんじんと痛む。爪を立てられた所は、もしかすると痕が付いているかもしれない。それほどに、強い力だった。心臓がどくどくと音を立てていた。……ビビった……。
 でも甲斐は、きっと俺のことを思って言ってくれたんだろう。
 そう信じたかった。

「あ、あのさ〜……、甲斐と同室になるのは、きっとすごい楽しいと思うよ。ありがたいし助かるって思うんだけど……。俺、きっと迷惑かけちゃうだろうから。瀬田ならほら! あいつ薄情だからその辺別に気にしないんだけど!」
「………………俺は瀬田よりだめなのか」
「え?」
「いや、なんでもない。……そうか、でも、そうだな。山本の気持ちが一番大事だもんな」
「………………」

 少しぎこちない笑みを浮かべて、甲斐が言った。
 ……なんだろう、なんていうか、妙な違和感があった。甲斐の顔は、笑っていないのに、笑っているような、奇妙な違和感。ボタンをかけ違えているような、違和感。
 志熊と居る時に感じる、ヒリつくような恐怖とはまた別の、肌に馴染まない空気感。ただ目の前に居るだけで、追い詰められているような、そんな感覚。
 自分が何か、とんでもないことをやらかしてしまったかのような気すら覚えて、頭を下げた。

「あの……ごめん、本当に」
「なんで謝る? 気にするな。仕方ないんだ。山本は今、志熊に追いかけられてるんだもんな? 大丈夫、俺が守ってみせるよ。約束したからな」
「う、うん……」

 甲斐の瞳が、真っ直ぐ俺を見る。
 黒縁眼鏡のレンズ越しの瞳は黒く、真摯に俺を見つめてきた。その顔はいつもの甲斐だ。生真面目で、優しい甲斐の顔。
 けれどなんでだろう。笑っているのに、どうしても笑っていないように思える。
 俺は誤魔化すように笑みを作った。なんだか、この話題をあまり長引かせない方がいい気がしたのだ。

「やー、でも、あんまり無理しなくていいよ、俺も自分で頑張って、みるし……」
「具体的には?」
「え?」
「頑張るって、具体的には何をするんだ?」
「あ……それは、えっと」

 厳格な声が飛んできて、俺は言葉に詰まる。
 確かに、具体的な案はない。志熊は自然災害みたいなものだから、突然やってくるし。狼狽える俺に、甲斐が手を伸ばす。

「大丈夫だ、山本。俺がついてる」

 するり、と伸びてきた手が俺の首を撫でた瞬間、全身が総毛立った。
 俺は昔、志熊にいじめられた経験からか、危機察知の能力が、通常の人間よりも長けていると思っている。まずいと思うことがあれば、本能的に体が逃げようとする。
 そして今、俺の本能が逃げろと言っている気がしたのだ。

「あ、あ〜〜っ、そろそろ時間も遅いし! 俺部屋に帰るよ!」

 立ち上がって、無理矢理笑みを作ると、甲斐も立ち上がった。

「そうか、じゃあ部屋まで送ろう」
「いや、大丈夫! あ、ノートありがとな、コピーして明日返すから!」
「いつでも大丈夫だ」
「そういう訳には……」
「山本」
「っ、な、何?」

 俺の言葉に、甲斐が笑顔を向けてきた。

「何かあれば、いつでも俺の所に来て良いからな。同室になりたくなったら言ってくれ」
「…………うん、ありがとう……」

 何故だろう。普段なら、頼りがいのある言葉で、きっと俺はその言葉に飛びついてお願いします、と頭を下げたくなるのに。
 ゾクゾクと背中を虫が這いずるような寒気が、さっきから止まらなかった。……俺も、疲れているのかもしれない。とにかく今日は、早く部屋に帰って休もう。
 明日は休みだし、部屋から出ずに、一日のんびり過ごそう。

 微笑む甲斐に笑顔を向けて、俺は部屋を出た。足早に特待生寮を駆け抜ける。
 未だに背中がそわそわする。
 甲斐が言ってることは、多分正しいことだ。甲斐は正しいことしか言わない。
 甲斐と同室になれば、俺は志熊から逃げる手段が増えるだろうし、甲斐も悪い奴じゃない。だから、甲斐の話に乗るべきだったのかも知れない。だけど、どこかおかしいと感じる。ひょっとしたらおかしいのは俺の方なのかもしれない。

「……早く帰ろ……」

 独りごちを足を早める。
 どうして、断ったんだろうと自分の中で考える。甲斐と同室になる、というのは、魅力的な提案に思えた。けれど、甲斐だって星を失えば特待生寮には居られない。俺が原因で星を失うなんてことになったら、俺は甲斐に顔向けできない。
 それに、星持ちはファンを多く抱えている。あの志熊ですらだ。ならきっと、甲斐にもファンがいるはずだ。それを、突然転入してきた俺が同室になってみろ。
 志熊の時に貰った手紙とは比じゃないような手紙を貰う気がする。でも、きっと根本的なことはそれじゃなくて、もっと別の感覚……。
 悶々と考え込みながら、廊下を足早に進む。
 ここは特待生寮だ。志熊の部屋がある階じゃないし、エレベーターで降りればすぐに抜けられる。志熊の部屋がある階に近づくこともない。だからだろう。さっきの甲斐の件があって、俺の頭の中は、そのことに支配されていた。
 気が抜けていたのかも知れない。

「デールタ」

 ぞわっ、と全身に鳥肌が立ち、逃げようとしたときにはもう遅かった。強い力で手て口元を塞がれると同時に、体が引きずり込まれた。

「んん゛っ……!?」

 そう、ここは特待生寮。すなわち、志熊の部屋がある場所。ちょっとでも気を抜いたりしてはいけなかったのに、どうして俺は油断したりしたんだろう。
 バタン、とドアの閉まる音がして、暗がりの中、近くの部屋に引きずり込まれたことを悟った。入り口のドア近くにある灯りのスイッチが押されたらしい。部屋が明るくなったと同時に、俺の体は部屋の通路に放り投げられ、志熊がドアの前に立った。
 志熊が後ろ手に部屋に鍵をかける音がした。自動ロックじゃない、チェーンロック。
 ドアを背にして、志熊がにぃっと笑う。俺は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。

「…………っ!」

 確かにちょっと油断した。甲斐の事を考えていたから。
 でもおかしいだろ。だって、志熊の部屋はここじゃない。十八号室は甲斐の部屋の上の階であって、だから志熊に遭遇することはないと思っていたのに。

「不思議そうな顔してんね、デルタ。ここが俺の部屋じゃねえから?」
「…………な、なんで」
「別に、難しく考えることねえって。ただここの部屋の持ち主とちょーっと、一日だけ部屋交換しただけだからさ」
「な…………」

 俺が絶句していると、志熊が一歩、また一歩と俺に近づいてくる。
 
「久しぶりに、お部屋で一緒に遊ぼうか、デーブタ

 トラウマの開く音がした。


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