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 というようなことがあったのが、つい最近のことだ。
 これ以上志熊を刺激してなるものかと、瀬田には絶対に新聞にしないことを誓わせた。一応今のところ記事にはなっていないようだけど、瀬田という男は一切信用が出来ないので、警戒は続けた方がいい。そう思っていた矢先の事だった。



「デ〜ル〜タァ〜、これ、なーに?」
「………………っ〜〜〜……」

 笑顔の志熊に、俺は青ざめたまま硬直した。

 昼の時間になると、志熊はいつものように俺の腕を引っ張っていく。そこに俺の意思は関係なく、俺が昼飯を食うのを延々と飽きることなく眺めてくる。食べづらいし、やめてほしいと言っても、志熊はやめることはなかった。
 昼は一緒に取ることが当たり前になってしまったのと、正直食える飯は美味いので、そのままついていった。
 すると、今日は何故かあの星持ち専用レストランではなく、あまり使われていなさそうな、教室へと連れてこられた。
 そこで、見せられたのは、あの時の映像だった。

『好きだよ、瀬田、愛してる』

 と、まるで俺が瀬田に告白しているかのような映像が、志熊のスマホに映し出されていた。

「な、なんで……」
「まあ、入手ルートは秘密だけどぉ」
「ひみ……」

 秘密っていうか、瀬田だろ。それしかないだろ。
 あいつ! 新聞のネタにはしてなくても、志熊に見せるのはダメだってわかるだろ! わかっててやったのか!?
 殺す!
 という殺意が沸いてくる中、この非常にまずい状況をどうすべきか、と脳みそを回転させていた。
 志熊の酔狂とはいえ、恋人だと宣言している志熊にこの動画を見せつける瀬田の心情もどうかしている。いや、あいつの場合、事態がこじれればこじれるほど面白いんだろう。人の心がないのか。なかった。
 涙目で目線を逸らしながら、一歩後ろに下がった。
 けれど、腕を掴まれそれは叶わずに終わる。

「まー、瀬田にはあとでちゃんと話を聞くとしてェ」
「…………あの、志熊、それはさ」
「あー……ん」
「ん゛っ、うっ、んっぐ、う〜〜〜……!」

 かぱり志熊の口が開いたかと思えば、噛み付くように俺の唇へと重なった。もう何度目かわからないキスだけど、キスと呼ぶには凶暴すぎる。まるで獣が獲物を捕らえて、食い破るような、乱暴な口づけに、目を見開いた。志熊の皮膚が間近に見える。長い睫が、色素の薄い瞳が、毛穴すら見えない陶器の様な肌が、間近にあった。

「ん、ん゛う、っふ……」

 ぐちゅ、ぐちゅと濡れた音が空き教室の中で響き、志熊の舌が、俺の口腔内に潜り込んで中を揺さぶってくる。頭をがっちりと固定して、口の中を肉厚な舌が蠢く。内頬を擦り、歯列をなぞって、唇が潰れる程に強く口を押しつけられた。
 唾液が口の端から溢れ、呼吸が苦しくなってくる。目を瞑って、終わるのをじっと待った。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ、という嘆きは、ここに転入してから三日くらい経った時点で諦めた。
 堪能するように薄い皮膚が嵌まれ、小さな水音と共に、吐息が溢れる。
「ん、ふぅ……っ」

 少し目頭が熱くなると、ぢゅる、と唾液を啜る音がして、志熊の唇がようやく俺の口から離れた。唾液の糸が引いたかと思えば、そのまま目元に志熊の舌が這いずった。

「う゛っ……!」

 生ぬるい舌の感触に、背筋がぞわりと粟立った。志熊は恍惚とした笑みを浮かべて、俺の頬を舐める。舌が眼球に触れるのではないかと思った所で、ようやく体が離れた。

「……っ」
「あ〜、おいし」
「…………っ」

 終わった、のか? と思ったけれど、志熊はそう甘くなかった。

「それで? デルタ」
「それでって、な、なにが」
「浮気してごめんなさいは?」
「や、ちが、浮気とかじゃな……」

 い、という言葉は、真横の壁を思い切り殴られて、続ける事ができなかった。拳が壁に当たった音に、俺の体が強ばった。

「ハァ〜?」

 普段俺を呼ぶ声よりも二オクターブくらい下がったような低い声で、志熊が顔から笑みを消した。
 殺気の籠もった瞳で俺を睨みつけ、額に青筋を浮かべている。

「じゃあ本気ってこと? なあ、おいデルタぁ」
「いや、その」

 ぐ、と首元を掴まれて、志熊の指先が喉元に食い込んで締まる。怖い。
 子供の頃のトラウマを抜きにしても、今目の前にいる志熊の存在が恐ろしかった。普段から何を考えているのかわからない男だけど、基本的に俺を見れば嬉しそうな笑顔を見せてくる。
 けれど今は、そんな笑顔なんて微塵もなく、冷徹な、殺し屋のような顔で俺の首を絞めてきている。怖すぎる。
 震えながら、締まる喉から声を絞り出した。

「ち、ちがう、違う!」
「じゃあ、俺の方が好き?」
「………………っ」

 どっちも好きじゃない。けど、ここで首を横に振るような勇気は流石になくて、こくり、と小さく頷いた。
 すると首を掴んでいた手の力が緩まる。

「っ……げほっ……! げほっ……」
「じゃあ、改めて言えよデルタ」
「……いえって、何を……」
「俺の事が好きだから、俺のお嫁さんになりますって」
「………………」
「はーやーく」

 い、嫌すぎる……。そもそも俺は男なんだけど。
 青い顔で固まっていると、志熊の足が壁を蹴った。

「ヒッ」
「早くしろや」

 反射的に、俺の体は縮こまる。
 人を暴力で従わせるなんて、一番やっちゃいけないことなんだからな! という正論は、口から出なかった。
 俺はもう、あの頃みたいにただいじめられるだけの男じゃない。そりゃ、喧嘩はしたことないけど、人並みに力はあるし、力尽くでどうにかされるほどやわでもなくなったのに、志熊を前にすると、体が恐怖で硬直する。やべえ、吐きそう……。
 最近吐き癖がついてるんじゃないかってくらい、志熊と話していると胃の奥がむかむかしてくる。

「お、おれは……」
「うんうん」

 志熊は、さっきの凶相から一転してニコニコしながら俺の言葉を待っている。こんなの、ただのお遊びだ。別に本気じゃないんだから、志熊の望む言葉を吐いてやればいい。そうすれば満足して、きっと酷いこともされない。
 瀬田の台詞じゃないけど、振り回されるより振り回す側にいけばいい、というより、うまくコントロールできるようになれば、きっと俺の高校生活は、前より少しはまともになるのかもしれない。友達は出来ないだろうけど、それでも貞操の危機を常に感じるような気が狂った高校生活ではなくなるはずだ。
 けど。

「俺は、志熊のこと、が……だ、……」

 震える唇で、言葉を紡ぐ。
 ……けど、本当に?
 大好きだよ、って言えば、満足するか? こいつが? この悪魔のような男が、そんな女子小学生みたいな台詞でおさまるか? 昔、俺が何度やめてくれと言っても全く反省する気配はなく、むしろエスカレートして、結局転校するまでいじめつづけた男が、そんな言葉で?
 転校初日に俺に睡眠薬持って服脱がせて手コキした写真使って脅してくるような男が?
 収まるわけないだろ。むしろ、もっとエスカレートするに決まってる。そう思うと、昔の怒りも相まって、勢いで言葉を口にしていた。

「大っっっっっ嫌いに決まってんだろ! ざっけんな! お前なんて死ね!」
「…………!」

 言うが早いか、踵を返して、逃げようとした。
 志熊とまともにやりあっていたら、命がいくつあっても足りない。そのままボコられたりするほど弱くないけど、かといって志熊に勝てるビジョンが全く浮かばないのも事実だ。
 けれど、逃げるからといって、背中を見せるべきじゃなかったのかもしれない。

「――がっ……!?」

 後ろから、志熊の蹴りが飛んできた。
 ドロップキックでもかまされたのか、俺は無様に前のめりに倒れ、べしゃりと音を立てながら床に突っ伏した。慌てて起き上がろうと仰向けに転がった所で、志熊の靴が俺の頬を掠めて床を踏み潰した。
 鈍い音が耳元間近で響く。

「ひぃっ!?」

 あ、あと数ミリずれてたら顔踏み潰されてたぞ!
 一切躊躇のない動きに、俺はそのまま硬直した。馬鹿なことをしたし、馬鹿な事を言ったと後悔した。
 なんで、あんなこと言ったんだろう。好き、と言う言葉で許されるなら、言ってしまえばよかったんだ。エスカレートするかなんて、言わないとわからない。重みなんてない、ただの単語なんだから。その二文字でこんな目に遭わないくらいなら、言えば良かった。けど、後悔してももう遅い。涙目で震えていると、仰向けに転がっている俺の腹の上に、志熊が座った。

「うぐっ」
「デルタぁ〜〜〜〜、お前って、ほんっと昔から馬鹿で可愛いよなぁ? 俺、教えなかったっけ? 俺に逆らっちゃいけませんって」
「だ、そっ、あの、でも、それは、……っ」

 さっきまでの無表情をやめて、またにこにこと明るい笑みを浮かべる志熊に、俺は目線を彷徨わせながら挙動不審に口を開いた。緊張で、言いたい言葉も浮かばない。
 ああ言われたよ。お前の玩具だった時代に、散々教え込まれた。玩具が持ち主に逆らうのはおかしいから、俺に逆らうなって散々な。授業中、休み時間、放課後、ありとあらゆる場所で言われ続けたらそりゃ本能に刻み込まれもする。
 でも俺は、もう玩具じゃないのに……っ。
 悔しさと恐ろしさと嫌悪感に吐きそうになっていると、志熊が言った。

「デルタ、俺にごめんなさいは?」
「あ…………」
「早く」
「ご、ごめん、……なさい……」

 屈して溜まるかという俺の意思は、志熊を前にすると脆くも崩れ去る。どうしてか、こいつを前にすると本能が逆らうなと叫ぶのだ。昔のトラウマが消えない。
 俺が謝ると志熊は気分を良くしたのか、四つん這いの状態で俺の上に覆い被さってきた。その距離の近さに、喉の奥から、引き攣った声が漏れる。

「ひ……」
「どうしよっかなぁ」
「あの、何が……」
「俺さ、本当は全部知ってんだよね、お前が瀬田と話してたこと」
「は……?」
「俺のこと色仕掛けする予定だったんだろ? ワクワクしてたのに、なんで何もしてこないかなぁ、くそつまんねえの」
「なんで……」

 なんで知ってんだ? 瀬田が喋ったのか? あいつなら俺を簡単に売って喋りそうではあるけど、でも、それより瀬田は俺が志熊を籠絡させる方が面白そうだと言っていたはずだ。だからこそ、あんな訳のわからん提案をしてきたわけで。瀬田のことだから気が変わった可能性もあるけど、そういえばさっきの動画も、志熊は出所を濁していた。てっきり瀬田が渡したものかと思っていたけど、あの時瀬田が触っていたカメラは遠くの位置にあったし、それに、カメラのアングルも少し高いように思えた。

「なんで、知ってんの……?」

 盗撮、という言葉が浮かんだけれど、直接口にすることはせず、頬を引き攣らせて問いかけた。
 けれど、志熊はそれに対してただ笑うだけだった。

「それ、今言う必要ある?」
「………………」
「なぁデルタぁ、俺に色仕掛けしてみろよ、瀬田にしたみたいに。その出来によっては許してあげるから」
「許す、って」
「瀬田に言ったこと、俺のこと嫌いって言ったこと、逃げようとしたこと、俺に逆らったこと、あと色々。許さなかったらどうなるかくらい、デルタには検討つくでしょ?」
「…………〜〜〜……っ」

 なんで、お前にそんなこと言われなくちゃいけないんだ。
 という気概は、最早沸いてこなかった。内心そう思っていても、反論する気にはなれない。今の俺に出来ることは、志熊のご機嫌取りくらいだ。許されなかったら、志熊がしでかすことを考えるだけで胃が痛む。全裸で校内マラソンしてこいとか平気で言い出しそうな男だ。
 ここは素直に従おう。
 けど、色仕掛けってなんだ? そもそも、どうやるもんなんだよ。瀬田にしたのなんて、ほとんど嫌がらせに近いもので、本来そんなの、仕掛けるのが無理だって話だ。しかも、本人がそれを色仕掛けだと認識した状態ですることなんて……。

「なに、しないの? じゃあ、俺の好きにしていい?」
「っ! ま、待って……!」

 志熊の言葉に肩を揺らして、上体を肘で支えて少しだけ持ち上げた。志熊の好きにさせることは、俺が一番されたくないことだって、志熊はきっとわかって言ってる。
 キスくらいなんてことない。もう何回もされてるんだ。ただちょっと唇がくっつくだけのこと。それだけそれだけそれだけ!
 頭の中で言い聞かせて、少し唇を尖らせ、志熊の唇にちょんと触れた。それだけで、顔が羞恥に熱くなる。
 あの悪魔に、自分からキスをすることがこんなにも恐ろしい事だなんて。

「…………他には?」

 少し嬉しそうな声で、志熊が問いかけてきた。目が細くなり、頬がうっすらと赤く染まっている。
 今のキスだって、大分勇気を振り絞ったものなのに、すぐに他を望むな。っていうか、近い。怖い、怖い怖い怖い! 青ざめながらも知恵を振り絞る。他にはってなんだよ。どうすればいい?
 逆にどうすればお前は満足なんだよ。聞きたいけど聞くのは怖い。目線を志熊から外して、瀬田の言葉を思い出した。
 例えば彼女(仮)。好きな子に何をされたら嬉しい? いや好きな子を追い詰めるような真似、俺だったらしないけど、偶然押し倒してしまったと仮定して……。
 自分で自分の思考回路が気持ち悪いけど、背に腹は代えられない。震える手を伸ばして、志熊の体に抱きついた。四つん這い状態の志熊に抱きついたから、負荷が半端ないかもしれないけど、そこまで知るか。
 抱きつくと、志熊の肩口からふわりと柑橘系の香りが鼻孔を擽った。香水でもつけているのかもしれない。ライムのような爽やかな香りなのに、今のこの状況は、爽やかからはほど遠い。
 志熊の肩に鼻を埋めると、志熊が俺の体を掴んだまま起き上がった。
 それから、目を爛々と輝かせて、嬉しそうに問いかけてくる。

「う、わ……!」
「デ〜〜〜ル〜〜〜タ〜〜〜 他には? 次は? 次は俺に何してくれんの? ねえねえねえっ
「…………っつ、次……」

 次? キスして、抱きついたんだ。それだけでも相当なことをしたはずだ。それなのに、まだ際限なく次を要求してくるのか。瞳の奥が渦巻いてくる。次、次は何をしたらいいんだ。
 応え続けていたらキリがない気がする。もし俺が同じ立場だったらどうする? 好きな子に次を望んで断られても、傷つかない、角が立たない断り方……! 頭をフル回転させて、答えを探る。慎重にいけ。相手は悪魔志熊だ。小学生の頃、俺がちょっと可愛いなって思った女子をクラス全員に言いふらして目の前でその子に「デブは無理」って言わせたような男だ。
 そして残念なことに、きっとその性格は昔から変化してない。失敗したら、次はどんな地獄が待っているかわからない!

「あの、し、志熊……」
「なに?」
「その、俺、こういうことはちゃんとしたところでしたいっていうか……っ、は、初めてはちゃんと、したい、なぁ……」

 我ながら薄ら寒くなるようなことを震える声で言った。初めてというか、男に初めてを捧げるのを遠慮したいのに。

「じゃ、今日の放課後俺の部屋くる? 色々用意しておくよ」
「えっ、あーえっと、今日はちょっと用事があって」
「用事って?」
「ほら、授業でわからないことがあるし、先生に聞きたいこととか」
「んじゃ俺が教えてあげる」
「や! あの! えっと……し、志熊!」
「ん〜?」

 どうしようどうしようどうしよう。このままいけば放課後食われる。逃げ続けてたのに今日で終わりなのか? そんなの嫌だ! 食われるくらいなら、キスの方がまだマシだ!
 俺は恥をかなぐり捨てて、ちゅっと、音を立てて唇をくっつけた。すぐに離れて少しだけ笑う。

「俺、初めてだからうまくできないだろうし、ちょっと、キスを先に練習したいっていうか、へ、下手だから」
「……へ〜〜〜」
「だめ……?」
「ううん、いいよ。んじゃキスしよっか」

 にこっと明るい笑みを浮かべて、志熊が口元を歪めた。俺も引き攣った笑みを返し、少しだけ志熊に身を近づける。我慢だ、我慢。これさえ終われば貞操は守られる。
 貞操っていうか俺の尻。誰も助けてくれないなら、俺が自分の身を守るしかないんだから、これは必要な犠牲。唇はただの皮膚接触
 頑張れ俺! と自分を奮い立たせた所で、志熊の手が俺の尻を揉みしだいてきた。

「ぅひっ」
「ん? どーしたデルタ? キスしないの?」
「や、あ、うん、する、します、けど……」

 むにむに、もみもみ、と堂々とセクハラをかましてくる手のひらに、背中が反って志熊の肩を掴んでいる手に鳥肌が立った。ぞわぞわぞわ、と怖気が走る。
 布越しに感触を確かめるような手つきに、全身が震えた。セクハラ親父かよ、そういうの相手に了承を取ってから……いや、志熊にとって俺の体は自分のものみたいに思ってんのかな。無理、無理無理無理無理、でも無理なんて言ってる場合じゃ……。

「デルタ、早く」
「……う、うん」

 笑う志熊の顔は綺麗だ。
 頭はおかしいし性格も性癖も最悪だけど、顔だけは綺麗だ。だから、俺に固執しなくても、志熊のその最悪な中身に応えようとする人間はきっといると思う。だから、俺を見逃してくれないだろうか。
 いくら顔が綺麗でも、俺はお前のその全部が無理だ! 無理、無理無理無理。
 するり、と志熊の手が、俺の尻から上に移動してシャツの中に入り込んできた瞬間、俺の中でプツリと何かが切れた。

「うわあ゛ーーーーーっ!!! 無理ぃいい!」

 鈍い音がして、気がつけば志熊の肩に乗せていた手が志熊の顔面を殴っていた。

「…………ってェ〜……」

 低い声がして、俺は自分のやらかしに気付く。

「あ、ごめ……」
「………………」

 俺の拳は運悪く志熊の顔面を強打してしまったらしく、志熊の鼻から血が一筋流れた。
 志熊はその血を指で拭って流れた血が皮膚を擦った。べろりと長い舌で唇を舐め、首を鳴らしながら笑う。

「あ………………」
「…………アハッ
「…………――っ〜〜〜〜!」

 その時の俺の瞬発力と俊敏性は、我ながら見事だったと思う。
 さっき逃げようとしたときも、これくらい動ければ良かったのに。火事場の馬鹿力という奴なのかもしれない。
 逃げろ! と全力で本能が叫んだ瞬間、体が動いて走り出していた。ダイエットの為とはいえ、今までコツコツと育ててきた筋肉をフル活用する時が来たらしい。全力で走って逃げた。教室のドアを速やかに開けて、音を立てながら全速力で廊下を駆けていく。

「ああああああああああああ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 許して志熊くん!」
「待〜〜〜〜〜〜て〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜! デルタァアァアア お前のそういうとこ、ほんっとサイッコーだわ あはははははははは! だ〜〜〜〜〜〜いスキ!!!」

 うわあああああ追いかけてくる!! 鼻血の痕ついた状態で追いかけてくる! 目が血走ってんだよ! こえーよ! 振り返ると、志熊は最高に楽しそうな顔で、頬を赤くして、けれど尋常じゃない早さで追いかけてくる。
 捕まったら死ぬ。
 本能的にそう思って、俺は手足を振り上げた。

「ぎゃあああああ!! 助けて! 誰か! 誰かー!」

 別にここ、陸の孤島じゃないのに! むしろ俺の叫び声を聞いて、教室から色んな奴らが何事かと顔を出しているのに!
 誰一人助けてくれる気配はない。むしろ、追いかけてくるデルタを見て、誰もが関わらないように俺から目を背けた。

「アハハハハハハハハ! 待てよデルタァ! 追いかけっこかぁ!? 捕まったらデルタの負けなぁ〜〜〜〜!!」
「いやだあああああ゛あ゛あ゛あ゛っ!」

 絶対に捕まるわけにはいかない! 視界の端で、瀬田がウキウキした顔でカメラを構えているのが見えた。あいつ! 殺す! いつか絶対殺すわ!
 けれど全力で駆けぬけているので、瀬田が視界に入ったのなんてほんの一瞬だ。幸い、走るのは苦手じゃない。昔は苦手だったけど、今は好きだ。持久力もあるし、短距離だってそこそこ走れる。そのおかげで志熊にも追いつかれずに済んでいる。でも、体力はいつまでも続かない。それは志熊も同じかも知れないけど……。
 必死の形相で駆けていると、突然角を曲がった所で誰かに体を引っ張られた。

「こっちだ!」
「んぐっ……!?」

 口元を手で塞がれ、近くの教室へと引っ張られた。そのまま、そいつは俺の手を引っ張って走り、掃除用具入れと押し込んできた。
 志熊の近づいてくる音が聞こえて、慌ててそいつも中に入る。男子高校生二人が入るには大分きついけど、入れないほどじゃない。饐えた臭いのする掃除用具箱は雑菌の臭いがしたけれど、命の危険を感じる中じゃ脳がバグって気にならなかった。
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた掃除用具入れの中で、俺はようやくそいつが誰なのか認識する。

「甲斐……?」
「…………大丈夫か? 山本」

 そこに居たのは甲斐だった。黒縁の眼鏡の奥で、心配そうな瞳を向けてきた隣の席の委員長。眩いその姿は、錯覚かもしれないけど、後光が差しているように見えた。不覚にも涙が溢れてくる。
 だって、今まで誰も助けてくれなかった。
 瀬田は話してくれるけど頭おかしいし、心配してくれるのも、まともにクラスで話をしてくれるのも甲斐だけで、他には誰もいなかった。
 そりゃ、甲斐は星が志熊よりも少ないから、志熊には逆らえないことも多いけど、それでもこうやって助けてくれたのだ。その事実だけで、泣けてくる。
 周りに居る奴が頭ぶっとんだ変態とすぐに裏切るサイコパスだからかもしれない。甲斐を見ていると安心する。

「う……がい゛ぃ〜〜……」
「お、おい、泣くなって」
「死ぬほど怖かったんだぁっ……」
「だろうな……」

 悲痛な声を上げる俺を抱き寄せ、甲斐は苦渋に満ちた声を上げながら、背中に回した手をあやすように叩いてきた。この狭い空間じゃ仕方がないのかもしれないけど、密着していると、甲斐の心臓の音が背中に回した手のひらから伝わってくる。
 真面目な甲斐らしく、規則的な心音に、全力で走って乱れた俺の呼吸も少しずつ落ち着いてきた。男とくっつくのなんて何が楽しいのかって志熊から逃げる寸前までは思っていたけど、今は少しだけ安心する。
 志熊は、もうこの教室を無視して行ってしまったのかもしれない。周りから音は聞こえない。けれど、甲斐は周りに声が漏れないよう、小さな声で俺に呟いた。

「ごめんな、山本」
「え? 何が……?」
「お前のこと、教室とかでも、ちゃんと助けてあげられなくて。俺が、あいつより星を持ってたらよかったんだけど……」
「……や、そんな、全然! 今だってこうして助けてくれたし、それに、ちゃんと話してくれるのだって甲斐しか居ないし、星だって5つある時点ですごいだろ!」
「でも俺、逃げてばっかりだろ。志熊を好き勝手のさばらせて……自分が情けない」

 と、甲斐は言うけど、それじゃあ他の奴らはどうなんだ。俺の事なんて見て見ぬ振りをするか、関わり合いにならないよう近づかないかの二択だ。けど、それを責めることはできない。だって俺も同じ立場ならそうしただろうから。
 どちらかといえば、こんな状況でも話そうと、助けようとしてくれる甲斐の方が異質なのかもしれない。
 それは、俺からすればありがたい話だった。形だけでも、話してくれる。助けてくれる甲斐の存在は、俺にとって救われるもので、感謝はしても、非難は出来ない。

「いやいや、甲斐は悪くないよ」
「でも俺、お前のこと色々任されてたんだ。転校先なんて心細いだろうし、力になりたいって思ってたのに、頼りにならなくて……」
「いや、なってるって! マジで!」
「山本……」

 何故かへこんでいる甲斐を励ますように言葉を続ける。

「転入初日の時さ、甲斐、隣の席で普通に話しかけてくれただろ? 俺すげえ安心してさ、甲斐が隣でよかった〜て安心したもん」
「山本……」
「だからさ、本当にありがとな、甲斐、お前はめちゃくちゃ頼りになるって思ってるよ」
「……っ――」

 この状況じゃ、真っ直ぐ目を見ることも出来ないけど、心の底から、改めて礼を言った。甲斐の息を飲む音が聞こえた瞬間、教室のドアが開く音がした。

「デールーター、いるぅ〜?」

 その声に身を縮こませると、俺の背中に回った甲斐の手の力が強くなった。ひたひたと、志熊が教室の中に入ってくる音がする。俺は呼吸を鎮めて、時が過ぎるのをじっと待つ。ここで見つかったら最悪だ。俺だけじゃない、甲斐まで巻き込むことになってしまう。
 息を潜めて、志熊の足音に集中する。早く出て行け。出てけ出てけ……!

「あれぇ〜? この辺で見失ったと思ったから、この教室だと思うんだけどな〜〜。おおーいデールタァ〜、今出てきたらさっきのチャラにしてあげっから、出ておいでぇ〜」

 間延びした声が教室内に響く。
 嘘つけ。お前、めちゃくちゃ執念深いし、チャラになんてしないだろ。俺は志熊という人間の性根をよく知っている。弱みがあればそこを握り、なんならつぶしにかかってくるような奴だ。絶対に見つかってなるものか。
 ここで見つからなければ、追いかけっこは俺の勝ちだ。勝者には特典が与えられる。昔志熊が言っていた言葉だ。
 なら、俺はやっぱり見つかるわけにはいかない。甲斐には悪いけど、甲斐の肩に俺の口を押しつけて、声が漏れないようにした。ふぅ、ふぅ、と鼻で呼吸して、音を立てないように密着して、なるべく小さくなる。
 甲斐もこの状況がまずいことはわかっているのか、息を潜めて俺を抱き寄せた。

「デ〜〜〜ル〜〜〜タ〜〜〜! ……つってもここで隠れられるようなところなんて、テーブルの下と、あと、そこくらいかぁ」

 俺たちが隠れる掃除用具入れに視点を定めたのか、甲斐が少しだけ腕に力を込めた。ぺたぺたと、上履きが床を踏みしめてこっちへと近づいてくる音が聞こえる。
 まずい。いや、まずいというより、開けられたときの事を考えるべきだ。嘆くよりも次のことを考えないと。
 開けられたら、この掃除用具を志熊にぶつけて、甲斐だけでも逃がして、そんで俺も逃げられそうなら……。

「ここかな?」
「……――っ!」

 志熊の手が、おそらく俺たちの隠れていた掃除用具入れのドアに触れた。眼前にはモップ。まずこれと雑巾をぶつけて目くらましを……! と思った瞬間、別の声が割り込んできた。

「志熊一太! ここにいんのか!」
「あ?」
「通報があったんだよ! 余計な仕事増やしてんじゃねえぞカス! テメー学内をグラウンドとでも思ってんのか!? 走りてぇなら外行けや外!」
「あ〜〜、先輩かぁ」

 …………誰だ?
 知らない声だ。口は悪く、男にしてはちょっと高い声が割り込んできて、志熊の手がおそらく掃除用具入れのドアから離れた。気配が掃除用具入れから離れていく。俺からは見えないが、志熊が誰かと話している声が聞こえた。

「はぁ〜? ただ恋人とイチャついてただけなのに、人の恋愛話にまで口出すことありますぅ?」
「追いかけられてた奴は助けてって泣きながら全力疾走してたらしいじゃねえか、ストーカー被害者は恋人とは言わねえぞ色ボケ」
「うっせぇ〜、うぜぇ〜、先輩に関係ねーじゃん」
「ねーのに呼び出されっからキレてんだよ、余計な仕事増やしてんじゃねえ。お前の星の数はいくつだ? 言ってみろよオラ」
「七ですけどぉ〜」
「はい大正解、じゃあ俺は?」
「…………はーあ、わかりましたよ。追いかけっこやめりゃいいんでしょ。せっかく楽しかったのに、クソチビのせいで台無し」
「俺は楽しくねえんだわ。あと次にクソチビっつったらテメェの星剥奪すんぞ」

 誰かは知らないけど、あの志熊が押し負けている。志熊が星の数を言わないってことは、話している相手は、志熊よりも多い星持ちなのかもしれない。そうじゃなければ、ただ先輩というだけで、あの志熊が従うはずもない。
 誰だ、一体。好奇心は募るが、今はここを見つかるわけにはいかない。
 やがて、志熊が追い立てられるように教室を出て行く音がして、話していた相手も悪態をつきながら出て行った。
 た、助かった……。

「ハァ〜〜〜……焦った……」
「大丈夫か、山本」
「ん……、ありがと……」

 助かったと思うと脱力して、甲斐の方へもたれ掛かる。もう出てもいいのかもしれないけど、まだ近くに志熊が居るかもしれないと思うと、気配がなくなるまでは出られない。
 そのまましばらく、志熊がいなくなるまで、俺は掃除用具に身を隠した。甲斐には付き合って貰って、本当に申し訳ないことをした。今度何か飯とか奢ろうかな。




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