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 子供の頃の嫌な記憶って、中々忘れられない。

『おいデブタ。早く土下座しろよ』
『デーブ! ブーブー暑苦しいんだよ!』
『ぎゃははははは! 泣いてるよこいつ! どーする×××?』
『もっと泣け! デブタ〜!』
『なあデブタ、お前、今日から俺の……――』


 天は人の上に人を造らず、天は人の下に人を造らず、なんて言葉もあるけれど、そんな事はあり得ない。
 格言に続きがあるように、人間には産まれながらにして格差が存在する。だから、人は努力せねばならない。格差に押し潰されてしまわないように。地べたを這いずり続けぬよう、這い上がらなければいけない。
 自然界に食物連鎖があるように。
 捕食者と被食者がいるように。
 人間界にだって上下関係も食物連鎖も存在する。弱い奴は強い奴に食われ、下の人間は上の人間に従わなければいけない。抵抗したところで、変える力がないとただただ辛いだけだ。
 俺は、そのことに小学生の段階で気がついていた。

『デブに人権はありませ〜ん!』

 今もたまに思い出す。俺を囲む同級生の笑い声と、楽しそうな声。囲まれて泣いている自分の姿。
 人よりもただ、少しだけ太っている。それだけが理由じゃないけど、総合的に見て、俺はあのクラスで「下」の存在だった。そして、「上」の奴に嫌われていた。
 だからいじめられたし、クラス内において人権もなかった。靴を隠されるのは日常茶飯事。小突かれ、机はぐちゃぐちゃにされ、友達なんて勿論出来なかった。
 特にリーダー格のアイツに関しては、怖すぎて思い出すのも恐ろしい。今もたまに夢に見る。
 小学生の頃の俺は、毎日泣いた。親の転勤で転校出来たのは、僥倖だった。
 ただちょっと太っていただけなのに、と理不尽に感じたが、そもそも世の中は理不尽なのだ。俺がいじめられたのは、肥満だけが原因じゃないのかもしれない。性格とか、他にも、理由はあったのかもしれない。けど、付け入られる隙ではあったんだろう。人は、人より違う所を貶める。
 だったら、それを払拭しなければ、と転校を機に俺は必死でダイエットをした。雨の日も風の日も走り込み、うざったかった髪の毛はバッサリと切って、少しだけ明るい色を入れた。
 高校に入ると同時に、耳にピアスも開けてみた。痛かったけど、なんだか世界が開けた気持ちだ。朝起きて鏡を覗くと、あの頃の俺とは似ても似つかない男が立っている。
 元々整った顔の作りという程ではなかったけれど、痩せて鍛えれば、中の上くらい、いや上の下くらい……というレベルまでには上がったと思う。髪の毛が明るいせいか少しチャラい気もするけど、まあこんなものだろう。
 今の俺を見て、あのデブだった俺を思い出す奴はいない。
 性格だって、昔よりは根暗じゃなくなったはずだ。
 お菓子を禁じて、筋トレにせいを出したのも、あらゆる欲望を抑え込み禁欲生活に励んだのも、偏に小学生時代の悪夢が原因だ。
 デブタ、という声が頭の中で木霊する。
 悪魔の声に、ぶるりと震える体を抱きしめて、俺は教室へと足を踏み入れた。

 大丈夫、今度こそもう、失敗はしない。


 親が転勤族だったから、昔から転入と転校の繰り返しだ。
 それが幸を為したことも、不幸の原因となったこともあるけど、今回でその転校も終わりとなる。
 ここは今時珍しい全寮制の学校で、ちょっと変わった校風はあるものの、あらゆる面で充実している。
 だから俺は、卒業までこの学校の寮で暮らすことになった。
 高校二年という半端な時期ではあるけれど、編入試験には結構な高得点で受かったし、自分で言うのもなんだけど、成績に関しては上の方だ。この学校には変わった制度があるらしく、うまく良い成績を収めていけば、その分リターンも多いらしい。
 大丈夫、きっとうまくやっていける。それに、ここを出たら日本には居られない。
 と言うのも、今度の転勤が海外らしく、しかも、ちょっとした紛争地域らしい。
 いくらなんでも遠すぎるし、危険で怖いと必死に勉強した。
 もともと、ダイエット生活では禁欲をモットーとしていたので、勉強もよくしていたし。海外に興味がないわけではなかったけれど、やっぱり高校くらいは日本で青春を過ごしてみたい。だから、俺はこっちを選んだ。

「えー……」

 教師の、黒板に名前を書く音が静かな教室内に響く。
 俺は少し緊張しながら、教室の中を見渡した。
 見渡す限り、男、男、男。男子校なのだから、当然といえば当然だが、やっぱり少し残念だ。出来れば彼女とか欲しかったな……。いや、欲を持つのは禁物だ。そんなもの持つと碌なことにならない。
 教師が、俺の名前を黒板に描き終えると、俺を見た。

「この時期だが転校生を紹介する。山本くん」

 声をかけられ、俺は精一杯練習した挨拶を披露する。明るく。でも、チャラくなりすぎないように。親しみやすく。
 笑みを浮かべて、声を上げる。

「あ、はいっ、えっとー、桜ヶ丘高校から来ました、山本……タです。よろしく!」
「山本 三角(デルタ)くんだ。仲良くするように」
「…………」

 わざわざ聞こえないように小声で言ったのに、俺の名前を教師が正しく言い直した瞬間、教室内が少しだけざわめいた。
 笑っている奴も居る。人の名前を笑うんじゃねえよ、と言いたいところだけど気持ちはわかる。笑うよな。
 そう、俺の名前はデルタという。
 三角と書いてデルタと読む。
 ちょっと厨二病が入ってる、頭のおかしい父親のせいでこんな変な名前をつけられた。そのせいで、太っていた小学生時代は、もじって散々デブタと呼ばれ続けた。
 いっそのこと、ギャグに昇華して堂々と名乗ればよかったのかもしれないけど、そこに行きつくには名前にトラウマがありすぎた。デブタという言葉が未だに耳を離れない。俺はもうデブではないのに。
 親に貰った名前を云々、とか言う奴はいるけど、俺は自分の名前が嫌いだった。
 同じ三角と書くなら、ミスミ、とかの方がまだマシだ。いやもういっそもっと普通のありふれた名前でよかったんだ。何だデルタって。
 ひくりと引き攣る頬を無理矢理上げて笑顔を作ると、教師が黒板に書いた文字を消して、教室の後ろの方を指さした。

「山本は甲斐(かい)の隣だ。おーい、甲斐、手ぇあげてー」
「はい」

 教師の言葉に、甲斐と呼ばれた男が手を上げる。生真面目そうな、精悍な顔つきの男が、俺を見る。少し太めの眉に、切れ長な瞳の男前だ。すげーモテそう。いや、ここ男子校だからそれはないか。

「あいつの隣だ。このクラスの委員長だから、寮のことや、わからないことがあれば聞きなさい」
「はい」

 俺は頷き、甲斐と呼ばれた男の隣の席に腰掛ける。

「よ、よろしくー……甲斐、だっけ? あ、俺のことは山本って呼んで」
「よろしく山本」

 へらりと笑うと、委員長、甲斐も少しだけ微笑んだ。それがまたなんていうの? ニヒル? いや違うか。爽やかって言うか、嫌みがないっていうか。
 かっけ〜の……、俺もこんな感じの男になりたかった。
 ただ笑っただけだというのに、なんとなく格差を見せられた気がして、少し落ち込む。いや落ち込むな。俺だって別に悪くないはず。右隣は甲斐だが、左隣は空席だ。そしてその横は窓なので、俺は窓に映った自分を見る。よし、大丈夫。
 望みすぎるな。欲深くなるな。普通に、平穏に。
 小学校の時のようなことにならなければ、それでいいんだ。

 散々鏡の前で練習した笑顔を向けて、甲斐に言った。

「俺さ、転校とか結構多いんだけど、初めて入る学校ってやっぱ緊張しちゃって……、なんかわかんないことあったら聞いていい?」

 甲斐は、少し驚いたような顔をしていたが、すぐに優しく微笑んだ。

「ああ、勿論」

 その笑みに、ほっと胸を撫で下ろす。よかった、良い奴そう。友達が出来るか出来ないかで、学校生活って大分変わるし。
 短い期間だったけれど、小学生時代の記憶は、俺の価値観に大きな打撃を与えた。トラウマと言ってもいい。欲深くなればまた太っていじめられるかもしれない。そういう強迫観念じみたものがある。だからこそ、禁欲、禁欲。男子校っていうのも、その一環だ。
 中学の時はそのトラウマを引きずっていたから、碌な思い出がないけれど、高校くらいは、そんな悩みも吹っ切って忘れて、楽しく過ごしたい。
 普通に友達とか作って、穏やかに、波風立てずに過ごせれば……そんな淡い期待を抱いた瞬間、再び教室のドアが開いた。

「おはよーございまーす」
「志熊! お前また遅刻か!」
「はいはい、すみませーん」
「全く……特待生だからといって、好きなだけ遅刻するんじゃない! はい、志熊は出席と!」
「ありがとせんせー」

 ヘラヘラしながら入ってきた男に、俺は気絶するかと思った。
 っていうか吐くかと思った。

「山本?」
「……………………」

 突然堂々と入ってきたその男には、見覚えがあった。
 細身の長身、端正な顔立ち。少しつり目がちな瞳。前髪は片側だけかき上げていて、色は淡いブラウン。声はもうとっくに変わっているけれど、その顔と名前だけは、きっと一生忘れない。

『――おいデブタぁ、お前、今日から俺の玩具決定な』

 志熊だ。志熊一太(しぐま いちた)
 俺の中では通称"悪魔"
 暗黒の小学生時代、俺を散々いじめ尽くした悪夢の元凶。俺のトラウマ。
 ここは、小学校の時過ごしていた地元じゃない。

 なのに、何でここに居るんだ? 偶然にしたって、あんまりだ。俺が希望を抱いたからいけなかったのか? だから、神はこんな最低なことしてきたのか?
 無意識のうちに震えていたのか、甲斐が心配そうに声をかけてきた。

「山本、どうした。大丈夫か?」
「だっ、だだっ、だいじょっ」

 だいじょばない。
 やばい、泣きそう。と思ったけれど、こんなところで泣くわけにはいかない。俺は口を閉じて、目を伏せた。
 ここで泣いたら志熊相手じゃなくてもいじめられてしまうかもしれない。俺は俯いたまま、志熊が通り過ぎるのを待つ。
 志熊の席は後ろの方だったのか、つかつかと俺の方へと歩いてくる。緊張の一瞬を過ごしながら、ばくばくと高鳴る心臓を押さえ込む。頼む! ……頼むから、気付きませんように。

「あれ?」
「っ!」
「誰コレ? 転校生?」

 ひょい、と志熊が俺の方へと顔を向けた。俺は目線を逸らしながら、小さく頭を下げる。どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。なんて言えばいい? どうすればいい!? 悪魔が俺を見ている。
 なんて言うのが一番楽にやりすごせる? 突然声をかけてきたかつての悪魔に、硬直していると、助け船を出すように、隣の甲斐が声を上げた。

「今日転校してきた山本だ」
「へー、ふーん、はー」

 じろじろと、見定めるような視線が俺にぶつかる。志熊の目線が、胸元につけてあるネームプレートへと注視された。
 小学校時代のトラウマを思い出し、俺は吐きそうだったが、これは逆にチャンスかもしれない。今の俺は、あの頃とは違う。体型だって、性格だって、昔とは違う。幸い、このネームプレートもふりがなは振ってない。大丈夫、俺はやれる!
 何度も練習した「明るくて親しみやすそうで、よく笑う山本三角の顔を」作った。
 人好きしそうな笑みを浮かべて、志熊へと向き直る。

「あ〜、し、志熊って言うんだ? 初めまして。俺、山本。よろしく〜!」
「……ヨロー。ってかこれ名前なんて読むの? サンカク?」
「いやっ、その……ミ、ミスミ! そう、ミスミっていうんだ」
「へ〜、変わった名前だ」
「はは、だろ〜、俺もそう思っ……」
「やべねむっ、寝るわ。おやすみ」
「え、あっ? おお、おやすみ……」

 人が話している途中だというのに、志熊は口を開けて欠伸をすると、隣の席に座って突っ伏した。昔からこのやりたい放題っぷりは全然変わっていない。ってか隣の席かよ。吐きそう。

「…………」

 そのまま眠ってしまった志熊をぼんやりと見ていると、隣の席の甲斐が声をかけてきた。

「悪いな。そいつ自由な奴なんだ、あんま気にしないで。山本、教科書あるか? 俺の一緒に見る?」
「あっ、うん、ありがとー……はは」

 へらへらと笑いながら、俺は甲斐と机をくっつけた。
 …………ば、バレてないよな? バレてないはずだ。だってあの頃の俺は、デブで、髪の毛も長くて、鬱陶しくて、よく泣いて、今思えば確かにいじめられそうな感じだったけど。今の俺はあの頃とは全然違う。そう、俺は変わったんだ!
 だから、もう同じ事は二度と繰り返さない。
 ……だよな?

****

「山本、今日放課後時間あるか? よかったら寮を案内するけど」
「ほんと? ありがとー、すげえ助かる!」

 甲斐という男は、名が体を表すがごとく、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれた。きっと、面倒見がいいタイプなんだろう。
 教科書を見せてくれたり、授業の進み具合や、学校の特色、ルールなんかも教えてくれた。
 休み時間ごとに各教室の案内もしてくれたし、わからないことがあれば細かく教えてくれて、俺は本当に感謝した。
 正直、転校先で友達が出来なかったらどうしようって思っていたけど、甲斐は困ったことがあったらいつでも言って、と優しくしてくれた。マジで良い奴!
 これは確かに面倒見のいい委員長って感じ。甲斐以外にも話しかけてくれる奴は居たし、あからさまにいじめてきそうな奴もいない。
 志熊以外は今のところ良い感じだ。
 ちなみに、俺が志熊にミスミ、と名乗った件に関しても、甲斐は察してくれたのか特に何も言わなかった。

 デルタなんて珍しい名前、聞けば流石に志熊も思い出してしまうかもしれないから、出来ればそのままで通したい。
 いや、でも案外いじめた方っていじめた奴のことなんて覚えてなかったりするし、いっそのこと忘れてくれていればいいんだけど。いじめられた復讐とか考えないから、関わらないで欲しい。
 
「………………」

 ちらり、と横目に志熊を見る。
 志熊はなんというか、野良猫みたいに突然席を立って教室を出て行ったり、かと思えば遅刻して入ってきたりするような奴だった。
 授業中の態度は、正直不真面目と真面目が同居している。寝ている時もあれば、きちんと聞いている時もある。聞かれた質問はきちんと答える割に、教科書を開いても居ない。
 でも、先生受けは悪くはないようで、むしろ媚びへつらうような教師も居た。
 俺の事はミスミクン、と親しげに呼んでくるから、多分バレてはいないんだろうとは思うけど、正直怖いからもう話しかけてこないでほしい。
 クラス内での人気は、よくわからない。
 けど、色んな奴に話しかけられるのをよく見るから、一匹狼という訳でもなさそうだ。小学生の頃は、よく取り巻きを連れて俺を囲んできたのに、今はそういった空気はない。
 そうこうしている内に、志熊は再び教室を出て行った。
 自分の部屋じゃないんだから、チャイムが鳴ったのにそんな出たり入ったりしたらダメじゃね、って思うけど、志熊は「特待生」だから許されるのだ。

 特待生っていうのは、この学校の一風変わった制度の一つだ。
 知力、財力、体力、成績、優秀な生徒には試験ごとに星が送られる。胸元にあるネームプレートに、星がついていて、その星の数が有能さを示すらしい。俺のは星一つ。これは一般生徒の証。
 その星が多ければ多いほど、学校で許される処遇が変わってくる。志熊のように、途中で抜けても、遅刻しても許されたりする。
 羨ましい制度だけど、親が金持ちで、成績優秀だったり、学校の知名度をあげたりしないとこの特待生にはなれないらしく、そう考えると、ハードルは高い。
 あんな悪魔が、いや悪魔だからこそ出来るのか。悪魔に権力を持たせたらダメだろ。

 居なくなった机を睨んで、俺はため息を吐いた。あーあ、せめてデルタなんて巫山戯た名前じゃなけりゃ、名前を知られても他人のそら似で押し通せたのに。
 授業には問題なくついていけそうだし、校内も綺麗で、見た感じヤンキーとかも居らず、住みやすそうな環境だ。
 ただ一つ、志熊の存在だけが俺の心を苛んでくる。

「なあ甲斐、その、俺の隣の志熊って……どんなやつ?」

 俺はそれとなく甲斐に聞いてみる。
 すると、甲斐は少しだけ眉を顰めて答えた。

「……変わった奴だよ。成績は優秀だし、星持ちの特待生だけど……。本当はこういうことを言うのは良くないんだけど、あんまり関わらない方が良いと思う」
「だよねー! わかった!」

 知ってた知ってた。
 そんなん小学生の頃から知ってる。笑顔になった俺に対して、甲斐は驚いていたようだが、逆に後押しされたようで気分がいい。甲斐に言われるまでもなく、関わらないつもりだったが、現実はそう簡単にはいかなかった。


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