●●と××と△△の話
……ああ、いらっしゃい。思っていたよりも早かったですね。
貴方が来るのを待っていたのです。そちらにおかけください。
丁度お茶が入ったところなんですよ。貴方のお口に合うかどうかわかりませんが……、どうぞ、ご賞味ください。
ところで、約束の時間までまだ少し余裕がありますので、少し、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか? ……ありがとうございます。
では、お話いたしますね。
私が枢目に出会ったのは、まさに今くらいの時期……、そうですね、数十年前の秋のことでした。
あの頃の私は、まだ酸いも甘いも知らぬような、未熟な学生でした。その日私は、付き合っていた女性に振られ、自暴自棄になっていたのだと思います。普段は飲みもしない酒を片手に、稲荷川の上流付近を歩いておりました。
稲荷川はご存知ですか? ……ああ、ご存知ありませんか。昔は結構有名だったのですが、今では事故が起こるからと言って誰も近づかなくなってしまいましたからね。
ええっと……そうですね、丁度この窓から見えるようです。あちらに大きな杉の木があるでしょう? あの付近が、丁度稲荷川のある場所です。狐の剃刀(キツネノカミソリ)といわれる花がね、毎年秋になると沢山咲くんですよ。
川の近くが一面橙色に染まって、その色が川に反射し、それはそれは綺麗なんです。私もあの頃は毎年見に行っていたものです。稲荷川という名も、その花が由来だそうですよ。
……少し、話が逸れましたね。
その日の私は、酒を手にしたことで、少し気が大きくなっていたのでしょう。普段の私は、あまり事を荒立てたくない、波風を立てたくない、といった感じの、日和見主義の若者でしたから。思えばその頃付き合っていた彼女とは、結婚することを夢見ておりました。
今なら当時は玩ばれていただけなのだとわかるのですが、何せ若かったもので……清く正しいつき合いで、大切にしていたはずの彼女に、突然別れを告げられ、本当に悲しかったのです。世界の終りのようでした。
どうにでもなってしまえ、とそんな風に思っていたのです。大声で、怒鳴り散らしながら私は川の付近を歩いておりました。
すでにとっぷり陽も暮れておりましたから、人の気配はなく、私の泣くような、怒ったような声だけが河原に響いておりました。このまま川に身投げしてもいいかと思えるくらい、落ち込んでいたのです。
その時でしたでしょうか。近くでリン、という鈴の音が聞こえました。生憎その日の天気は崩れておりまして、辺りは若干霧が立ち込めておりました。
夜ということも手伝って、私は少し気味が悪くなったのです。人気のないこの場所で、どうしてそんな音が聞こえたのかと。しかし、酒の力は偉大でした。
普段の私なら、とっくに逃げ出していたでしょう。元々、魑魅魍魎や、奇奇怪怪の類は苦手でしたから。
ただ、その日の私は酒の力を借りて、自分には大きな力がるような気になっておりました。それがまずかったのでしょうか。
シャン、シャンと、途切れ途切れに聞こえる音の方向に向かい、大股で歩いて行きました。己を驚かした相手に対して、文句の一つでも言ってやろうと思っていたのかもしれません。
しかし、ただ音だけを頼りに歩いて行くと同時に、段々と周りが気にならなくなってゆきました。音が近づくにつれ、段々と霧が深くなっていたことを気にも留めなかったのは、果たして酒の力だったのか、それとも別の何かの力が働いていたのか、今となってはよくわかりません。
ただ、私はその頃にはもう音の方向に行かなくては、と強く思うようになっておりました。何故そう思ったかはわかりません。ただ行かなくては、と。
そうして、どのくらい歩いたでしょうか。川がこんなに長いはずはないのに、随分な距離を歩いたように思えました。秋の夜風が、妙にひんやりしていたことを、覚えています。
そしてとうとう、私は音の出所にたどり着いたのです。
そこには、お面を被った、奇妙な方々が居りました。面の模様は、皆ばらばらでした。
怒ったような顔の者もいれば、笑い顔、泣き顔、中には何も描かれないなんて、不可思議な者まで。本当に様々な面を被っておりました。
ただ、一つ共通していたのは、皆着物で、錫杖のような物を持ち、振りながら歩いていたということです。今時提灯を持って、列を成して歩いておりました。
私は、それを見た途端に恐ろしくなったのです。
だってそうでしょう? こんな夜中に、しかも何処かもわからぬような場所で不審な輩が仮面を被り歩いている。それも、一人や二人ではないのです。少なくとも十人以上はいたでしょう。私は逃げ出しました。
己が今いる位置が何処かも把握できぬうちに、走り出しておりました。秋とはいえ、最後の夏の息吹が残る彼岸の時期、私は当時サンダルを履いておりましたので、狐の剃刀がまるで本当の剃刀のように私の足を傷つけてゆきました。
そうして、我武者羅に走り回っているうちに、大きな、広い場所に出たのです。
そんな場所、もちろん川の付近にはありません、私が知る限りの話ですが、少なくとも聞いたことはありませんでした。
その頃にはもう私の中の酒はすっかり抜けきり、ただ恐ろしさと得体の知れない何かに震えておりました。
人間とは不思議なもので、先刻まではふられたショックでどうにでもなってしまえと思っていたのに、いざどうにもならぬような状況に陥れば、どうにかしたいと生に縋り付く生き物なのです。
私も多分に漏れず、彼女のことなどとうに忘れ、ただここから生きて戻りたいと思っておりました。
枢目と会ったのはその時です。
「何をしている」
低くもなく、高くもない声でした。
その質問に、私は声にならない悲鳴を上げました。あの仮面の者が己を追いかけてきたらという恐怖があったものですから。
しかし、私の前に現れたのは、仮面の集団ではなく、ごく普通の、一人の若者でした。年の頃は大体私と同じくらいだったでしょうか。細面で、すっきりとした顔立ちの美男子でした。ただ、髪の色が薄茶けたような黄金色だったことだけが印象的です。
私は、己以外にも人が居たことに安堵し、胸を撫で下ろしてその青年に近づきました。
「み、道に迷ってしまったみたいなんだ……、君は? この辺の人?」
「まあね」
「そうか。僕は倉持、君、名前は?」
「枢目」
クルルメ、とその青年は名乗りました。変わった名前だったので、当時もそのように言った覚えがあります。枢目は座り込んでいる私に向かい、そっと手を差し伸べてくれました。
そうして手を握ると勢いよく引っ張り、立ち上がらせてくれました。あまり表情豊かな青年ではありませんでしたが、心根は優しい方なのだと、そう感じたのです。
「あ、ありがとう……」
「倉持、こんな所で何をしている?」
「ああ、さっきも言ったけど、道に迷ってしまったみたいで……君、出口がわかるかい?」
その問いに、枢目はうっすらと笑いました。私はどうして彼が笑ったのか理解できず、その時は肯定の笑みだと解釈しました。
それから、枢目は何も言わずに私の手を引くと、再び霧の中を歩きだしました。霧と夜の闇が相まって、視界は悪く、とても歩きにくい中だったというのに、彼はひょいひょいと進んでいくのです。
「枢目、くんは、こんなところで何をしていたんだい?」
「呼び捨てでいい。倉持は?」
「えっ、ああ……僕は……情けないことに彼女に振られてしまってね」
「女にふられたのか、それはさぞかし辛かっただろうな」
「まあね……だから、ヤケ酒をしつつ、川を歩いていたところなんだ」
枢目は私の問いには答えてはくれませんでした。しかし、私が酒の話をすると、そのことに興味を持ったようで、私の手の内にある酒瓶にそっと目をやりました。その時の彼の目が、髪の色と同様、黄金色に輝いたように、私には見えました。
「酒? ああ、だからこんな所に来たんだな」
「えっ、どういうことだい?」
その問いにも、彼は答えてはくれませんでした。ただ、私の手を引いて、どこかへ向かっていくだけでした。彼が何処に向かっているのか、話してはくれませんでしたが、私は朧気ながら、此処をでる道を進んでいるのだろうと、勝手に解釈しておりました。
しかし、しばらく彼の後を黙ってついて歩いていた私でしたが、段々と不安に思うようになったのです。
行けども行けども出口は見えず、それどころか闇も霧も深くなっていくのですから。耐えきれず、私は声を上げました。
「あっ、あの!」
「……何?」
「いや……その……」
しかし、声をあげたは良いものの、何を話せばいいのかわからなかった私は、手に持っていた酒を、彼に渡しました。
何故そうしたのかは、良くわかりません。ただ、あのまま黙って付いていけば、己の気が触れてしまうのではないかという、妙な焦燥感が追い立ててきたのです。このままではいけないと、私自身が警告したような気すらしました。
「く、枢目、一杯、どうだい?」
「…………」
「いや、ええと、こんな暗い中歩くのも大変だろうし、喉も乾くだろう? 飲みかけで悪いけど、よければ……」
枢目は、その問いには何も答えず、無言で私の酒を受け取りました。それから、瓶をまじまじと見つめました。蓋を開けると、のぞきこむように中を見ます。
私には最初、彼がどうしてそんなに酒を見つめるのがわかりませんでした。もしかしたら飲めないのかと思ったくらいです。
「あ、ごめん。もしかして、酒は嫌い? 僕もそんなに飲む方じゃないんだけど、でもこれは割と飲みやすくて……」
「飲んでいいのか?」
枢目は、私の言葉を遮ると、本当にいいのか、と、問いかけるように、にんまりと笑いました。念を押すようなその問いに、私はおずおずと頷きました。
何故って、ただ酒を渡すだけなのですから。ただの安酒ですし、案内してもらう礼といった具合でしょう。
「じゃあ、飲むけどいいんだな」
「あ、ああ……」
しかし、たかが酒、されど酒、そう思ったのは、全てが終わった後のことでした。
枢目は瓶に入った酒を飲むと、私にも飲むように勧めてきました。正直、私は恐怖が抜け切れていなかったので、また酒の力を借りようとその瓶を受け取り、そしてこくりと飲み干したのです。
少量でしたが、体の中がじんわりと暖まるような、心地の良さでした。
「……ふぅ」
飲んで一息付くと、隣で枢目が笑っておりました。私は何故彼が笑っているのかも解らず、ただ愛想笑いのように笑みを返したのです。
その時でしたでしょうか。突然目の前の霧が晴れ、闇の中に盆提灯の明かりだけが浮いている光景が開けたのです。しかし、よくよく見るとそれは盆提灯が浮いているのではなく、提灯を持った仮面の輩が、こちらに向かっているだけでした。
「う、うわあああああああ!?」
私は恐慌状態に陥り、その場から逃げ出そうとしました。もつれる足を必死に前へ出そうとしましたが、枢目に腕を捕まれ、その願いは叶うことはありませんでした。その場に転んだ私は、歯を鳴らしながら後ずさります。しかし、時すでに遅く、仮面の集団に囲まれておりました。
「どうして逃げる?」
枢目がニヤニヤと笑っています。まるで獲物を見るような顔つきで、私の腕を放しません。笑っているとは言ったものの、その目はまるで笑っておらず、それどころか、逃げようとした私を蔑むような目で、近づいてきました。私は震えながら、か細い声を絞り出しました。
「き、君にはこの集団が見えないのかい……?」
「見えているとも。しかし倉持、これはお前が招いたことでもあるんだ」
私には、枢目が何を言っているのか、良くわかりませんでした。思えば、彼は最初からどこか得体の知れぬところがあったのですが、恐怖に怯える私は、そのことに気づかぬよう、己を誤魔化していたのです。
ただ、一つわかったことと言えば、彼もこの奇妙な集団の仲間であるという一点だけでした。
私は間抜けたことに、己が恐れる相手に対して、道先案内を頼んでしまったのです。もう震えが止まりませんでした。
先刻まで立ちこめていた霧が突然晴れたり、そもそも此処が何処なのか、彼らは果たして人間なのか? そんな考えばかりが頭をよぎりました。私はこのままここで死んでしまうのかもしれないとすら思ったのです。
「ぼ、僕をどうする気だ……!」
「どうするって……」
言いながら、枢目は私の手を取ります。とても優しい手つきでしたが、目だけは驚くほどに冷たい光を放っておりました。
私はその手を振り払うことも出来ず、最初に会った時と同じく、ただ腰を抜かしてへたり込んでおりました。腰抜けとはよく言ったものですね。
それから枢目は、私の手の甲に小さく口づけをしました。それがまるで愛しい者に対するような、優しい所作だったものですから、私は状況も忘れ目を瞬かせました。
「な、何……?」
「倉持は俺と一緒に来るんだよ。先刻交わした祝言の儀を忘れたとは言わせない」
「祝言……って」
「お前は俺の妻になるんだよ、そうだろう?」
「はぁ……?」
そうは言われても、私にそのような記憶はないので、ただ首を傾げるばかりでした。
しかし、その時私は思いだしたのです。勿論それは、祝事の儀などではなく、ただ、稲荷川の古くから伝わる伝承のことでしたが。そのことが今の私の状況に多く関わっているのではないかということでした。
子供の頃聞いただけですが、あくまでおとぎ話だと思って忘れていたのです。
貴方は、狐の嫁入りの話を知っていますか? ええ、そうですね。天候のことも指しますが、今はそれではなく、文字通り嫁入りのこと。
地域によって差もありますが、稲荷川に伝わる狐の嫁入りの話はこうです。
昔、稲荷川には狐が数多く住んでいたそうです。狐は人里に降りることなく、平和に暮らしていたそうですが、ある時、村に迷い込んだ一匹の雄狐が人間の娘に恋をしました。
娘と一緒になりたい狐は、人間に化け、その人間と見事添い遂げたそうです。……と、此処までは良くあるお話なのですが、この話は幸せなまま終わらなかったのです。
人間と添い遂げた狐は、毎日を幸せに暮らしておりましたが、ある日、妻に想いを寄せる男が現れました。そいつは余所の村からやってきた男だったのですが、美しい狐の妻に一目惚れしてしまったそうです。
当然、狐は怒ります。己の妻を誑かそうとする男に食ってかかりました。
男はその時は引いたものの、諦めきれず、密かに狐と妻をつけ回すようになりました。何か狐の弱みを握れないだろうか、そう考えるようになったのです。
そしてついに、男はある日見てしまったのです。狐が人間に化ける所を。これ幸いとばかりに男は妻と、そして村人に言い触らしました。
あれは狐だ。騙されていると。
おまけに、男はこのままではこの村は狐に化かされて乗っ取られてしまうと、村人を唆したのです。
最初は取り合っていなかった村人でしたが、ある日狐に化かされたという村人が現れ、それから村の中に不穏な空気が漂うようになりました。
その村人は、男に金で雇われ演技をしただけなのでしたが、村人はそれを知りません。そのことを皮切りに、村では狐狩りが始まりました。
稲荷川に住んでいた狐は、化かされることを恐れた村人によって、一匹残らず殺されてしまったのです。狐は、自分が原因でこんなことになったことを、酷く後悔しましたが、それでも妻だけは狐の味方をしてくれました。
たとえ狐でも、愛していると、そう言ってくれた妻を生涯大切にしようと誓ったのです。
しかし、自分のものにならないことに業を煮やした男は、ついに妻を犯し、そして抵抗する妻を殺してしまいました。
狐は泣きました。悲しみ、泣いて、怒り、狂い、男も村人も殺して泣きながら稲荷の川に帰ったそうです。狐の同胞の亡骸は、そのまま狐の剃刀として、その地に残り、毎年その花が咲くことが、稲荷川の名前の由来なんです。
え? その後狐はどうしたかって?
……妻を亡くし悲しみに暮れた狐は、それからも永遠に妻を求めて探し続けていると、昔は聞きましたね。だから女の子は子供の頃、母親には「川に近づいてはいけないよ、狐に浚われてしまうから」と教わるそうです。
それから、その狐は酒が大の好物だったらしく、やがて稲荷川には酒のお供えがよくされるようになったとか。
まあ、今はあまりお供えは見ませんけれど。……なんだか話が長くなってしまいましたね。
私が言いたいのは、狐が嫁入りするのではなく、狐が妻を探し嫁入りさせるということなのです。枢目は、私を妻だと呼びました。何故そうなったかはわかりませんが、どうやら私はおそらく狐なのであろう枢目の妻にされそうになっていたのです。
慌てて逃げ出そうとしましたが、すでに大勢の仮面の輩に囲まれておりましたから、逃げることはもはや不可能に思えました。
彼女に振られ、狐には言い寄られ、散々だと、自分の運命を呪ったものです。
しかしね、狐が、枢目が私を抱きしめて幸せそうに笑うものですから、妙に拍子抜けしてしまったのですよ。
「ようやく捕まえた。もうお前を離したりはしないからな」
「く、枢目……」
「酒を交わしてくれてありがとう」
「…………」
これは後から聞いた話なのですが、私が迷い込んだあの時、丁度狐が嫁を探している最中だったようなのです。そして、あの場所に行くには、お酒を持つ必要があったらしいのです。
狐と酒を交わすことが、婚姻の儀式だったそうですね。神の悪戯か、私はたまたま全ての条件を揃えてしまっていたようです。
つまり、私があの時、あの場所にいたのは、全くの偶然、しかし、それを知らない枢目は私を妻だと言って抱きしめてくるのです。
まるで壊れ物でも扱うかのように、愛おしげに私を見つめてきました。
「これからは、ずっと一緒にいてくれよ」
「枢目」
「お願いだ。好きだよ倉持。愛してる。もうお前と離れたくない」
「…………」
そんな風に言うものですから、なんだか私も可哀想になってしまいまして。しかし私も、両親に産んで頂いた身。そのまま狐に嫁入りするわけにもいきません。だから、一つ枢目に提案をしたのです。
「残念だけど、今すぐに君とは一緒にいけないよ」
「どうして!?」
「僕にはやり残したことが色々とある。ごめんね」
「…………嫌だ」
「わかってくれよ。その代わり、約束するから」
「約束?」
「ああ、約束だ。もし――……」
……私の約束は、ひどく小賢しいものだったと思います。そもそも、私は枢目の妻などではなく、ただ恋人に振られヤケ酒を飲んでいた学生に過ぎなかったというのに、彼は一身にその思いの丈を私にぶつけてきました。
私はその想いに対して、果たして何ができたのでしょうか? あの約束は彼に対する精一杯の、私の誠意だったのかもしれません。
……ああ、もうそろそろ時間ですか。早いものですね。
いえ、大丈夫です。貴方のお手を煩わせる必要はございませんから。それに、貴方に謝らなければいけないことが一つあるのです。
―――――――――――リン……
ええ、鈴の音ですね。貴方にも聞こえましたか。
はい、枢目が私を迎えに来たのです。ほうら、窓の外から提灯の明かりがぽつぽつと見えるでしょう? あの中心に籠がございまして、私はその中に入り、枢目と一緒に暮らさなければいけません。
……話が違う? なので、貴方には謝らなければいけないと申し上げたはずですよ。
生前、よく私の所に来てくださったことは、存じております。貴方が私に会いにくることもわかっておりました。私も貴方と一緒に向かおうと思ったこともあります。
しかし、駄目なのです。
私は枢目と約束してしまいました。だから、貴方とは行くことができなくなりました。申し訳ございません。どうか、そこに転がっている私の亡骸で勘弁していただけないでしょうか。
それに、枢目はとても嫉妬深いのです。今こうして貴方と話しているところを見られれば、貴方もどうなるかわかりません。
せっかく来ていただいたのに、本当に申し訳ないと思っておりますが……どうぞ、お引き取りください。
――――――――――シャン、シャン、シャン……
え? 私はそれでいいのかって?
良いのですよ。これは私の決めたこと。いわば、けじめですから。ああ、もう本当に近くまで来ている。そろそろ行かなくてはいけません。
……それでは、お気をつけてお帰りください。
「倉持」
「……枢目」
「久しぶり。見てたよ」
「ごめん」
「いいよ、もう。これからはずっと一緒だからな」
「……一つ言うけど、私はお前の死んだ奥さんじゃ……」
「愛してるよ、倉持」
「…………」
『約束だ、もし……もし、僕のこの身が滅んだ時、それでも君が僕を想っていてくれるなら、その時は、永遠に君と一緒にいるよ』
枢目は私を抱きしめ、幸せそうに微笑んだ。肉体はすでに無いのだから、抱きしめたという表現は的確ではないのかもしれない。
しかしそれでも、狐は幸せそうだった。気が付けば私は狐の剃刀が咲き誇る川の近くにいた。橙色の花の中で、私と枢目はそっと口づけを交わした。
終わり
- 355 -
PREV | BACK | NEXT