話したことは数えるほどしかないけれど、俺の隣の部屋には年若い家族が住んでいる。それなりに綺麗で若い奥さんと、ちょっと冴えない旦那さんに、元気そうな息子さんの三人家族。
  大学に行く途中、よくその家の息子がランドセル背負って学校へ登校する姿を目撃したりする。しかし、近所付き合い的なものもなければ、隣に用事があって何 か話すこともないので、いってらっしゃいとか、おかえりなさいとか、フレンドリーに話かけることはなかった。話しかけただけで不審者と見なされて捕まるこ のご時世だ、あまり近寄らない方がいい。
 引越しの時に挨拶したのと、たまに会うと会釈する程度の付き合いしかないので、俺はその日、隣の息子さんに話しかけられるまで隣人の存在を忘れていた。

「お兄さん、おはようございます!」
「えっ、あ、おはよう」

 おかっぱ頭の少年は、隣に住む若夫婦の息子で、まだ小学生だ。俺は話しかけられたことに戸惑い、驚きながらも返答する。
 以前母親には確かヒナタとか呼ばれていた。ヒナタくんはにっこり嬉しそうに笑うと、「いってきます!」と手を振りながら学校に向かって走っていく。俺も曖昧に微笑みながら手を振り、その姿を見送る。

「……びびった……」
「なぁにがー?」
「うぉっ」

 背後からぬっと手が伸びてきて、視界が闇に覆われた。鬱陶しいその手をすぐさま取っ払うと、背後では渦見がいつものようにへらへらと笑っている。あまりに笑顔なのでなんとなく苛ついて、とりあえずデコピンした。

「痛っ、おっはよー」
「おはよ。お前今日大学は?」
「講義入ってないんだぁ、あひゃひゃ、俺が受けてるゼミの教授インフルったらしいよ。笠原はー?」
「3つ入ってる。じゃあな」
「俺も大学いくよー」
「何しに?」
「遊びに!」

 勉強しろ。
  しかし言って聞く輩でもないので、黙ってそのまま歩き出す。俺は車の免許を持っていないので、普段はバスで大学まで向かうのだけど、今日は珍しく渦見が車 で来ていたので、大学まで送ってもらうことになった。いつも車で俺の所まで来てくれたら交通費浮くなあ、今度頼んでみようかな、などと不埒なことを考え る。
 どうでもいいけど、こいつ大学生の癖にいい車持ってるな。

「そういや笠原さあ、さっきの子供は?」

 車に乗り込むと、渦見は吹けない口笛を吹いてから問いかけてきた。ひゅーひゅーと口から息が漏れるだけで聞いてて不快だったので、吹けないなら口笛吹くなと窘めた。

「隣の家の息子。話したのは初めてだけど。急に話しかけられてびびった」
「ふぅん、ワカメちゃんみたいな髪型してたね」
「おかっぱでいいだろ。つーかお前、そういうこと本人に言うなよ」
「なんで?」
「女の子みたいって言われたらやだろ」
「常にパンチラのサービス精神に溢れたこなのに」
「…………」
「そんなゴミを見るような目で見ないでよー」
「ちょ、前向け前」
「あひゃ、ごめんごめーん」

 運転中だというのに余所見する渦見に注意すると、軽い謝罪が返ってくる。
 ハンドルを操作しながら、渦見が呟いた。

「でも、俺あんまりあの子供好きじゃないなあ」
「ああそう」
「なんで? って聞かないの?」
「いや、だって俺そこまでお前に興味ないから……」
「えー、ひーどーいー」
「だから前向けよ前!」

 と、そんなやり取りをしながら大学まで向かう。本当は、どうして好きじゃないのか、少しだけ気になったけど、素直にそう聞くのが癪で、結局聞けずじまいだった。





 それからというものの、ヒナタくんは、よく俺に話しかけてくるようになった。
  それは主に大学から帰ってきた時だったり、ゴミ出しに行く時や、ちょっとした買い物に行く時だったりもする。偶然会うこともあれば、アパートの前で遊んで る所を通り過ぎることもあった。今時の小学生なんて家でDSでもして遊んでいるか、ネットと携帯駆使しまくりだと思っていたけれど、ヒナタくんは割と公園 とかで友達と遊んでいるような健全な小学生だったらしい。
 アパートの前で、チョークで落書きしている姿を見るとなんだか微笑ましくなる。誰がこの落書き消すんだろうとか考える前にほのぼのする。年相応に、若干歪んだ線の絵が綴られていくのを見て、俺は声をかけた。

「何描いてるの?」

 ヒナタ君が振り返る。
 さり気なく話しかけたつもりだったけど、不審者認定されたらどうしよう。しかし、幸いヒナタくんはにっこりと破顔させて答えてくれた。

「家!」
「家? ああ、このアパートね。うまいうまい」
「本当?」
「うん、ヒナタくん絵上手だね」

 褒めると更に嬉しそうな顔をして、ヒナタくんは笑った。俺もなんだか釣られて笑う。やべえ、この癒し空間。半端ないわ。最近嫌なことばかり続いていたから、余計にマイナスイオンが感じられるのかもしれない。
 飯倉の時も思ったけど、やっぱり兄弟とかいるといいよなあ。

「今度お兄さんも描いてあげる!」
「本当? ありがとね」
「うん! あの虫捕り網持ったお兄さんも一緒に!」
「…………楽しみにしてるよ」

 なんで渦見まで一緒に描く必要があるのか疑問だったが、嬉しそうに言うので水を差すのはやめておいた。ここで「いや、あいつは別にいいよ」とか言っても空気読めない奴扱いだ。
  その時、俺の隣の部屋の扉が開き、若い奥さんが、つまりヒナタくんのお母さんがヒナタくんのことを呼んだ。

「ヒナター、もう夕飯だから入ってらっしゃい」
「はーい!」

 その時、奥さんと目が合ったので、俺は小さく会釈する。初めてまともに見たけど、本当に若くてきれいな奥さんだ。しかし奥さんは何故か怯えたような目をして、足早にヒナタくんの手を引き部屋へと入って行った。挨拶はなかった。
 ……おいおい、これは不審者として通報ルートか?
 馬鹿な、隣の住人がただ話しかけてただけじゃないか、なんだってんだ。悲しくなったので、その日は部屋に帰ってとっとと寝た。
 いつもどおり金縛りにあったけど、そろそろ気にならなくなってきた。



 翌朝、扉を開けると、渦見がヒナタくんと話している姿を見て俺は携帯に手を伸ばす。110番。
 すると電話をかけようとしている俺に渦見がいち早く気づいたらしく、スキップしながらやってきた。

「あれっ、おはよー笠原ぁ、何してんの?」
「いや、変な奴が子供に話しかけてたから通報しようかと……」
「変な奴? どこ?」
「おめーだよ」

 ぱしっと頭を叩いてヒナタくんから引き離す。何も知らない純粋な子供に近づけていいような輩じゃない。やばいかやばくないかで言ったらかなりやばいタイプの男だ。俺は彼の目線までしゃがみこむと、注意するように言った。

「君、駄目だよ、こんな奴と話したら。誘拐されちゃうよ」
「笠原ひどい」
「ひどくない」

 そう主張すると、ヒナタくんは一瞬きょとんとした表情のあと、何かに気づいたらしく、後ろに背負ったランドセルを開き始めた。

「ヒナタくん? どうしたの」
「おはようお兄さん! あのね、僕ね、絵描いたの。今日はそれ渡そうと思って!」
「そっか、楽しみだなあ」
「子供に優しい笠原ってなんかキモい」
「うるせえよ」

  飯倉と同じようなこと言いやがって。俺は普段冷たいイメージでもあるんだろうか。失礼なことを言う渦見を無視して、俺は小さい手から差し出された画用紙を 受け取った。子供らしくクレヨンで描かれたイラストに顔が綻びかけたが、その絵を見た途端、その和やかな気持ちは終わりを告げた。



 俺は引きつった笑顔で彼に問いかける。

「…………ヒナタくん、これは?」
「お兄さんと虫捕り網のお兄さん!」

 ヒナタくんは笑顔で答えた。確かに、俺と渦見らしき人物は描かれている。絶句している俺の後ろから、持っていた画用紙を覗き込んで、渦見が笑った。

「へー、上手だねっ、あひゃひゃ! 少年にはこう見えるんだ?」
「うん、でもママは変な絵描くのやめなさいって言うの」
「…………」

 渦見とヒナタくんが何か話している。だけど俺の耳には入ってこなかった。
 クレヨンで描かれた俺と渦見、二人の絵。多少歪な形をしているのは子供らしくていいと思う。今は持っていないけれど、渦見も虫取り網を持った姿で描かれている。けれど、俺の絵の方はそんな歪とかそういう問題じゃなくて、微笑ましい感想など浮かばない構造になっていた。
 だって、俺の体には無数の黒い手が伸びていて、引っ張るように掴んでいたんだから。
 それから、俺の背後に何人かの顔がある。何故か皆一様に笑顔で、その顔が余計に恐ろしい。髪の長い女、ボーダー服の男、足元には赤ん坊、か? そりゃ、こんな絵描かれてる男に近づいてほしくなんてないよな。
 俺は昨日のあの母親の態度に合点がいった。しかし、合点は行っても、納得はできない。
 背筋が寒くなり、俺は足を振った。

「あ、もう時間だから行かなくちゃ! またね、お兄さん!」

 しばらく固まっていると、ヒナタくんが元気に挨拶をして駆けて行く。その姿をぎこちない笑顔で見送った。

「あ、うん、またね……」
「今度ね、学校の宿題に出そうと思ったんだけど、ママがやめなさいって怒るから、その絵お兄さんにあげるね。ばいばーい!」
「ばいばーい」

  渦見だけが楽しげに手を振ったが、こっちは楽しくない。見なければよかったとも思う。後に残された俺はただ画用紙を持ってどうすべきか考える。子供は嫌い じゃないし、ヒナタくんもいい子だと思うけど、正直子供の絵を破りたいと思ったのは初めてだ。特に最近心霊現象に見舞われることが多いので、尚更だ。
 それとも何かの冗談だったのだろうか? 子供のジョーク、的な? それにしては質が悪すぎる。
 俺は貰った絵をどうしたもんかと見下ろした。

「いい絵もらってよかったねー笠原」

 すると、けらけら笑いながら、渦見が俺の頭を撫でてきた。なにがだ。その手を払いのけて、絵を奴の胸に押し付けた。

「……やる」
「いらないの?」
「……貰う勇気が出たら貰うよ」
「ふぅん」

 小さく呟いて、俺は大学へ向かった。ヒナタくんはばいばーいと言ったが、あの調子ならもしかしてまた描いてくれるつもりなのかもしれない。気持ちはとてもありがたい。
 ありがたいけど、出来れば、もう絵は描いて欲しくなかった。


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