冬と君とラッカースプレー



「そこから飛んだら、天使様に会えるよ。三木君は天使様が好きだから、優しい優しいこの僕がぁー、天使様に会わせてあげるって言ってんのにさあ」

 からからと音がする。
 スプレー缶を振る音だろうか。それとも冷えていかれた僕の頭が誤認識している幻聴だろうか。
 濡れた制服が肌に張りついて冷たい、歯が悴む。冷えた空気の中、滴る海水が僕の体を凍てつかせる。
 けれど、僕が寒いのは、そのせいだけじゃないのかもしれない。
 制服の裾を絞ると、びしゃびしゃと零れた海水が地面に叩きつけられる音がした。
 掠れた咳をすると、目の前で村井が笑う。温かそうなマフラーを装備した村井は、真冬の空の下、裸足の僕を嘲笑っている。
 狼狽えた目をしながら、僕は村井に訴えた。

「む、村井……も、う……これ以上は……」
「もう一回飛ぼっか三木君。次は会えるよきっと、なんせ僕が会わせてやるんだから」
「もう、無理だって……死んじゃうから……」
「無理じゃないってー、ほら、もう一度飛び込んで。僕が天使様に会わせてやるよ。これでキレーーに描いてやっからさあ、テ・ン・シ・サ・マ」

 ラッカースプレーを振りかざし、げらげら笑いながら、村井は僕の鳩尾を蹴ってきた。くぐもった声を発して、僕はその場に蹲る。吐いた空気は白くなり、消えていく。後ろに下がれば海、前に進めば村井が立っている。僕は涙を堪えて声を抑えた。なんていうんだっけ、こういうの?
 前門に虎、後門に……ああ、駄目だ、寒くて、頭が働かない。
 寒いし、冷たいし、なにより、怖い。
 どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
 僕はただ、向こうの都市へと行きたかっただけなのに。

「はい、もーいっかい」
「う、あっ!」

 どん、と音がして、村井が再び僕の胸を押した。
 僕の視界は反転し、水しぶきが跳ねると同時に、体が海へと沈んでいく。真上に見える太陽が、落ちてきそうな気がした。手を伸ばせば、太陽が掴めるんじゃないかって、そんな錯覚すら覚えた。



***



 空を飛ぶことを禁じられたこの国では、海を渡る手段は船しかない。
 遥か昔、僕たちの祖先であるらしいイカロスは、空を飛び、太陽に近づきすぎて、その身を燃やし落ちたと聞く。
 そんな話は嘘だと思っていたけれど、それは実際の事なのだ。僕らにも昔は翼が生えていた。そう、天使様と同じように。
 しかし、愚かにも太陽に近づきすぎて、やがて神話の様な存在になるくらい昔に、羽は消えてしまった。そして、それと同時に、太陽がどんどん落ちてくる。
 今、この国は特殊な外壁で守られてはいるものの、あまりにも太陽が近くなっている。
 空を飛べばたちまち太陽に焼かれてしまうだろう。

 だから、海を渡るには船しかないのだけれど、船に乗るには高額なお金が必要で、そんなお金、学生たる身分の僕は持っていなかった。大人になって、働いても、船に乗り、あっちの都市に行けるかどうかは、解らない。
 けれど、僕はどうしても向こう側の都市に行きたかった。
 だって、向こうの都市には、天使様がいるから。

 僕は天使様を愛していた。
 愛していたと言ってしまうのは、恐れ多いかもしれない。
 敬愛、心棒、盲信、どれもしっくりこないけれど、僕の心の大部分は天使様が占めているのだけは確かだ。
 昔、学校の教科書で見た天使様は、絵の中で優しく微笑んでいた。赤ん坊の姿を模したものが多かったけれど、その中に羽の生えた美少女がいて、僕はその時からずっと彼女に夢中なのだ。

 絵の中の人物に傾倒するなんておかしいと思われるかもしれない。
 けれど、その絵は海を越えた向こう側の都市に実際に飾られていて、海さえ越えられれば、天使様に会うことが出来るのだ。
 天使様に触れることが出来る!
 夢にまでみた展開だ。

 だから、村井にそのことを話して、天使様に会う方法を教えてあげると言われた時、僕は迷いなく村井についていった。
 だって、僕と村井は友達だから、本当に海を渡れると思ったんだ。
 まさか、海に突き落とされるだなんて、思ってもみなかった。


***


「あ……っ、はぁっ、はっ……、う、ああっ、むら、いっ」
「んー……、うまく描けなかったなあ」

 海の中から引っ張り上げられ、僕は堤防近くに座り込んだ。
 ゼイゼイと肩で息をすると、冬の海水で冷えた体が、小刻みに震える。寒い、なんか、体が痛い気もする。
 人間が、真冬の海に入っていても大丈夫な時間って、何分だっけ? 僕、まだ生きてる? もしかしたら、このまま、殺されるかもしれない。
 ぞっとしながら、村井を見ると、村井はその綺麗な顔を歪め、まるで天使様みたいに柔らかく微笑んだ。

「三木君、寒い? 大丈夫?」

 そう言いながら、僕の首元にマフラーを巻いてくれた。柔らかくてふわふわの、カシミアのマフラー。
 村井がつけている柑橘系の香水の香りがふわりと鼻腔を擽った。温い体温の残るマフラーから、じんわりと暖かさが伝わってくる。
 ……許してくれたんだろうか? 何に対して僕が村井に許しを請わなくちゃいけないのかわからないけれど、マフラーの温度に、思わず心を緩めた。
 
「あ……、むら」
「あったまったら、もう一回飛ぼうね」

 しかし、僕が口を開く前に、村井は僕を絶望へと突き落とす。
 どうして。どうしてこんな。
 口を金魚みたいにぱくぱくさせながら村井を見ると、村井は優しく笑う。僕は、村井に何かしたんだろうか。

「村井……、なんで?」

 元々、僕と村井は同じ美術部に所属していた。
 あまり人の輪に入りたがらず、浮いていた村井と、人付き合いの苦手な僕だったけれど、村井の絵の才能だけは確かだった。
 彼の絵は人を引き付ける。ひと筆一筆が、魔法みたいにきらきらと輝いていて、彼の描く天使様は、今まで見たどの天使様よりも輝いて見えた。もちろん、あの天使様には敵わないけれど。
 僕は村井の描く絵に一目惚れして、積極的に彼に話しかけた。 すげなくふられたり、うざいと罵られたり、最初は釣れない返事をしていた村井も、段々僕の話に答えてくれるようになり、やがて友達だと思えるような関係まで築き上げた。
 当たり前の様に、笑って過ごしていた。

 それなのに、どうして。
 息も絶え絶えに村井を見ると、村井は僕に巻いたマフラーの端を両手で握り、勢いよく横に引っ張った。

「あっ……!?」

 首が、締まる。
 いき、できな。

「なんでって、なにが?」
「……あ、僕たちっ……友達だって……」

 酸素が回らなくて、苦しい。
 じたばたと暴れる僕を、村井は真顔で見つめていた。

 友達だって、思ってた。
 でも、思っていたのは、僕だけだったのかもしれない。本当は、話しかける僕の事を煩わしいと思っていて、これは単純にその仕返しなのかもしれない。ごめん、もう話しかけないから。ごめん。
 そう言いたくても、言葉が出ない。村井はマフラーを離すと、立ち上がった。

「げほっ……げほっ……」

 ようやく回ってきた酸素に、僕は大きく息を吐く。

「だってさあ三木君、天使様の話しかしないんだもん。妬いちゃうよ」
「は……?」
「あははっ、僕はさあ、別に天使様製造機じゃないんだよ、三木君が喜ぶから描いてあげただけ、でも、僕のだーーーい好きな三木君が天使様に会いたいっていうから、こうして会わせてあげようと思ったわけ。ケナゲだね、可愛いね。そう思うよね」
「……何いってんの?」

 良くわからない。
 村井が何を考えているのかも、何を言っているのかも。全然わからない。困惑に顔を歪めていると、村井が屈んで、僕の頭を撫でてきた。

「三木君は、僕の手だけを掴めばいいってことだよ」

 そう言って、再び体を押され、僕は海へと沈んだ。
 村井がラッカーを海の上から降り回し、塗料が沈んでくる。天使様の絵を、描いているのかもしれない。だけど、僕が溺れそうになり、もがくたびに、その絵は消えていく。
 それを見ながら、村井は嬉しそうに笑うのだ。

「三木君、天使様に会えた?」
「げほ、むらいっ、たす……っ!」

 助けて。
 沈まぬ様、足をばたつかせ手を伸ばす。その手を、村井は嬉しそうに握った。
 
「絵の中の女が、君に何をしてくれるって言うの」

 そう言いながら、引き上げた僕の体を村井が抱きしめた。

終わり

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