水蒼に消ゆ
かたばみ、って言うんだ。変わってるでしょ。
と声をかけられたのは、僕がまだ小学校三年生くらいの頃だったと思う。
クラスが変わって、前の席になった少年の名前が読めず戸惑っていると、彼は振り返って笑いかけてくれた。
栗色の髪に、目の色が、僕とは違う色を放っていたことが、未だに印象深い。母方の祖母がイギリス人なのだと教えられた。
方波見(かたばみ)葵(あおい)は、変わった少年だった。物静かで、端正な顔立ちをしていたが、あまり他者とは関わろうとせず、いつも一人でいた。
というより、他の子達が、あまり積極的に関わろうとはしなかったのだ。僕は良くわからないけど、大人たちが、彼の事を「バイタ」の子供というのを、よく耳にした。
「インラン」の子だとか、「カタオヤ」だとか。
僕も、お母さんから仲よくしてはいけないと言われていた。
けれど、僕は方波見の事が好きだった。
彼の瞳が綺麗だったこともあるけれど、何より、方波見は優しかった。身体が弱く、他の男子に交じって遊べない僕に対しても、優しく接してくれた。要は、人の輪に混ざれない者同士だったのかもしれない。
僕たちはいつの間にか自然に友達になって、いつの間にかいつも一緒にいる様になっていた。
「ねえ、そうちゃん、そうちゃんにだけは教えてあげるね」
「なに? あおくん」
方波見は、二人だけの時は、僕のことをそうちゃんと呼ぶ。
木島(きじま)蒼大(そうた)は、僕の名前だ。
僕は、そう呼ばれることが、ひそかに好きだった。
方波見は、誰かの目がある時、方波見は決して僕に近寄ろうとはしなかったし、また、話しかけてくることもなかったけれど、二人になると、そう呼んでくれた。そう呼ばれることに、優越感を感じていた。
友達なのだという、優越感。
方波見は、自分と一緒に居ると、いじめられちゃうよ、と言っていたけど、僕は正直それでもいいと思っていた。
それよりも、こんな優しい方波見をいじめる奴は、皆大ばか者だ。僕と方波見以外は、どこかに行ってしまえばいい、なんて、子供じみたことを考えていた。
「ほら、これ、綺麗でしょ」
「うん」
その日、方波見の手の中で、綺麗な花が咲いていた。方波見の目や名前と同じく、青い、綺麗な花だった。小ぶりな花びらが、手の中でひらひらと揺れている。
「じゃあ、そうちゃん、ついてきて」
「えっ、どこいくの?」
「いいから、そうちゃんにだけ教えてあげる」
そう言って、方波見は僕の手を引っ張っていく。
訳のわからぬまま連れてこられた場所は、学校の裏にある、大きな湖だった。森の奥にあり、大雨の日なんかは、水が溢れるから、近づいてはいけないと言われている場所だ。僕は親に怒られるのではないかと、方波見の服をそっと握った。
「だ、駄目だよあおくん。ここ、いたら怒られちゃうよ」
「ほら、見て、そうちゃん。きれいでしょ」
僕が言う前に、方波見は、手に持っていた花に、石をつけて、水の中へと沈ませた。
美しい青い花は、静かな音を立て、方波見の目と同じ、碧い水底へと吸い込まれると、やがて消えて行った。
消えて行った後、方波見が嬉しそうに微笑む。
「……? なんで、しずめちゃったの?」
「こうすれば、傷つかないですむんだよ。すいそうっていうんだ」
「すいそう?」
「うん、すいそう」
「さかなをいれるやつ?」
「あはは、そうちゃんは単純だなあ」
そう言った方波見の顔は、どこか歪んでいたように思えたけれど、方波見が僕に向かって「二人だけの秘密だよ」と囁いてくれたことがなんだか嬉しくて、僕は小さく頷いた。
そう、僕はあの頃、方波見の事が好きだったのだ。
美しくて、影があり、優しいけれど、水のように掴めない彼に憧れていたのだ。彼の特別になりたいと思っていた。
だから、少し変だなと思うことがあっても、特別口を出そうとは思わなかった。そんなことで、方波見に嫌われるのが、嫌だったのだ。
その後、僕はよく方波見とその湖で遊ぶようになった。親の言いつけを破り、湖で遊ぶなんていけないことだ、と僕を襲っていた罪悪感も、回数を増すごとに、薄れていった。
一緒に遊ぶようになってから、僕が知ったことが、いくつかある。
それは、方波見は自分の好きな物を水葬するのだ。最初は花だった。野原に咲き誇る美しい花から、人にもらったという豪華な花。次は石、河原に落ちている綺麗な石。それから宝石、やがてお気に入りの玩具。それはすべて他愛のない物で、方波見にとって大切な物だったんだろう。
僕はいつも、それが沈んでいくのを隣で眺めていた。幸せそうに沈んでいく姿を見つめる方波見を見つめていた。
しかし、ある日小鳥の死骸を持ってきたときは、僕も流石に慄いた。
「し、しんでるの?」
「うん、飼ってたんだけど、死んじゃった」
「……しずめちゃうの?」
「そうだよ。おつかれさまっていって、やすんでもらうの」
「そう……」
そうして、小鳥は沈んでいった。安らかな寝顔をしていたような気もする。今では、もうあまり覚えていないんだ。それよりも、方波見は、いつもの様に優しい笑みを浮かべていて、僕はそれが怖かった。死骸を水底へ沈める方波見が怖かった。沈めながら笑っている方波見が怖かった。
僕は、方波見のことが好きだったけれど、方波見に沈められるのは嫌だなあと思っていたから。
「……そうちゃん」
「な、なに」
すると、方波見が僕の思考を読んだ様に、手を握った。僕の心臓は飛び跳ね、深い水底の様な彼の目を見た。暗い色を持つその目に、僕は視線を逸らした。季節は夏だった気がする。妙に蒸し暑くて、近づく方波見の吐息が、僕の顔にかかっていた。
心臓が、早い音を立てている。零れる声は、引き攣っていたかもしれない。
「どう、したの。あおくん」
「そうちゃんは、僕のこと好きでいてくれる?」
「う、うん。もちろんだよ」
「嬉しい」
その瞬間、とん、と肩を押された。
僕が口を開け、間抜けな顔をした瞬間、背中から水の中にダイブしていた。一瞬で、視界が水に埋れる。
「あっ! ああっ」
流転する世界の中で、方波見が笑っていた。歪んだ視界の先で、方波見が愛おしそうに微笑んでいた。
伸ばそうとした手は空を掴む。助けて、助けて!
もがき苦しむ様に伸ばした手は、漸く方波見の足を掴む。そのまま必死で、引きずり込み、僕は湖の中から這い上がった。方波見を犠牲にしたと言ってもいい。
方波見を踏みつけ、草を掴み、必死で湖から上がる。
「はぁっ……はぁっ……」
今、僕の後ろでは、きっと僕の代わりに方波見が溺れている。助けなくちゃ。そう思うのに、足は動かない。地面に縫い付けられた足は、やがてぎくしゃくと動き出す。
助けなくちゃと思っているんだ。早く、方波見を、親友を助けなければ。
だけど、僕の細い脚は、僕の思惑とは逆の方向に進んでいた。湖の方ではなく、森の出口の方へ。後ろから「そうちゃん」という声が聞こえた気がした。激しい水音から、やがて何かが水の中に沈んでいく音。暗い闇からこぽこぽと空気が漏れる音。
僕はそれを
「あっ…………」
無視して、走り出した。
「あっ、うああっ、ああああ! ああああああああ!」
僕が落とした?
違う、あおくんが、先に僕を落としたんだ。
でも、あれは本当はただ肩を叩いただけで、僕が足を滑らせただけなんじゃないか? だって、あおくんが僕を落とそうとするはずない。あおくんは助けようとしてくれたんだ。それを僕は。
僕が殺した。
ちがう、死んでない。もしかしたら僕みたいに、助かっているかもしれない。
じゃあなんで戻らないんだ。今すぐあの場所に戻ればいいだろう。戻って、ごめんねって謝って、仲直りして。
だけど、足は必死に走っている。止まったらもう逃げられない気がして、僕は走り続けた。
どうして、どうして。頭の中で掻き雑ぜられた思考は溶け、逃げる様に家に帰った。
家に帰り、布団の中で、ずっと震え、そして怯えていた。
僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。
好きだった少年を、僕が殺した。
***
それから、方波見がどうなったかを、実の所僕は知らない。僕はあの後、熱に浮かされ肺炎に罹り、入院することになってしまったからだ。
僕の状態が回復した頃には、もう方波見はおらず、また、聞いても教えてもらえなかった。転校してしまったのだと言って、取り合ってもらえなかったのだ。
そして僕は幼いあの日の悪夢と、犯してしまった罪を忘れたいと願っていた。忘れる事なんて、許されるはずないのに。
あの頃から数年経ち、僕も大学生になっていて、忌々しい思い出が残る地元を離れ、地方の大学へと進学した。
そこで、友人から紹介された。
「こいつ、かたばみ。変わった名前だろう」
「…………あ、おく……」
昔から、消極的だった僕も、方波見のあの事件があってから変わろうと、積極的になるよう努力した。
もっと自分から話しかけられるように、もっと友達が増える様に。そうすれば、もうあんなことは起こらないんじゃないだろうかという、一種の罪滅ぼしの様な感覚で。
そうして、大学では少ないながらも気心の許せる友達も多く、それなりに楽しいキャンパスライフを送っていた。
友人の一人が、合コンのメンツが足りないからと言って、呼び出され、紹介されたこの日までは。
「方波見です、よろしく」
「…………」
栗色の髪に、蒼い瞳。あの頃からは大分大人びた方波見が、そこにいた。僕の目の前で、笑って手を差し出している。
僕が呆気に取られていると、友人が急かすように腹をせっついてきた。
「おい、蒼大、何ぼーっとしてんだ。同じ合コンメンツなんだから、挨拶くらいしとけよ」
「あ、ああっ……ごめん。木島、蒼大、です」
「よろしく、木島君」
手を握ると、方波見がにこりと笑う。
その笑みは、いつか見た優しい笑みだった。見ているだけで幸せな気持ちになる、僕の大好きな優しい笑顔、だったはずなのに。どうしてだろう、今は震えが止まらないんだ。
彼と目を合わせるのが怖い。やっとの思いで手を掴んだけれど、すぐに離してしまった。
生きていた? いや、そもそも死んでいなかった? でも、それなら僕の事を木島君、なんて呼んだりするだろうか。方波見は、僕の事を恨んでいるだろうか?
僕の事を怒っているだろうか? 許していない。きっとそうだ、だから。
「おい、蒼大!」
混乱する僕を余所に、友人が僕の背中を押した。
「今日はめっちゃ可愛いS女の子がくるからさ〜、蒼大も気合いれろよ!」
「……あ、う、うん」
「ノリ悪い〜、方波見もよろしく!」
「あはは、任せて」
「あっ、やっぱいいわ、お前女の子全員持ち帰りそう」
「え〜? そんなことしないって」
「うわー、やりそうだよこの顔」
けらけらと、皆笑っている。
……もしかしたら、この「かたばみ」は、違う人なんだろうか。僕の知っている方波見は、女の子と話したりなんてしない。物静かで、他のグループの輪に入ろうともしなかった。一人で、本を読んでいたり、優しく話す印象が強かった。そして、綺麗な物を、水に沈めていた。
でも、あれから何年経ったと思ってるんだ?
僕も方波見も、お互い大人になった。僕が積極的になろうと決めたように、方波見も変わったのかもしれない。それより、僕は方波見となにを話せばいいんだろう。
どの面さげて、彼に詫びればいいんだろう。
顔面蒼白だったであろう僕の隣で、方波見は笑っていた。
**
結局、その日はすぐにお開きになった。
というよりも、僕の体調が悪く、こっそり抜けようとしたら、方波見がついてきてしまったからだ。散々「来なくていい」と言ったのに、方波見は譲ろうとはせず、僕と方波見は今、一緒に歩いている。海沿いの道路、水が近くにあると怖くなる。僕は離れる様に歩いていたが、方波見がこっちに来いと言うので、仕方なく一緒に歩いていた。
タクシーで帰ろうと思ったのに、少し話したいことがあるから
と言って、強制的に一緒に歩かされる。僕の都合なんて無視。いつから、こんな自分勝手になったのだろう。
やはり、違う人間なんだろうか。
「……方波見」
「何? 木島君」
「……その木島君って、嫌味か」
「変なこと言うね、俺と木島君は、初対面なのに」
「…………」
初対面。方波見の中では、そういう事になっているのか。それとも、本当に彼は方波見ではないのか。なら、僕も初対面ということを演じた方がいいんだろうか。
ごくりと唾を嚥下して、僕は方波見に問いかける。
もしかしたら、僕は殺されるのかもしれない。あの日の腹いせに。それでもいと思ってしまった自分がわからない。もう、すべてが嫌だった。
「じゃあ、話したいことって、何」
「うん、あのね」
そこで、方波見が振り返った。
「木島君って、人殺しだよね?」
心臓が、凍った気がした。
足を止めた僕に、方波見がくすくすと笑いながら肩に手を回してくる。耳元で囁くように、僕に告げた。
「何年か前にさあ、俺、兄貴がいたんだ。双子の兄貴で、本当優しい奴だったんだけど」
まるで物語でも紡ぐかのように、静かな口調だった。
僕は逃げなければいけないと心の奥で思ったけれど、どうして、逃げられるだろうか。また、逃げることになってしまうじゃないか。それに、体は動かなかった。足に根でも張ってしまったのかと思うくらいに、地面に縫い付けられ、そのまま棒立ちになる。
「でも、ある日溺れて死んじゃった。母さんは放っとけって言ってたけど、俺は、誰が殺したかなんとなくわかるんだよね。知ってるんだ、犯人」
「や、やめ……」
「だって兄貴、あんまり人と話さなかったから。よく仲良くしている子の話、俺に聞かせてくれたよ」
「やめてくれ……!」
手が冷たい。身体の芯から凍っていくようだ。震えが、震えが止まらない。崩れる様に腰が抜けると、それを支えようと、方波見の手が僕の腰へと伸びてきた。方波見の端正な顔が、僕の正面で笑う。
「嬉しかった? 俺が生きてるって知って?」
「あ、あ……」
「殺してなかった、って喜んだ? 僕は人殺しじゃなかったって、安心した?」
「う……」
「ざぁんねーーん! お前が殺したよ! 間違いなく、兄貴を、方波見葵を湖に突き落として殺したんだよ! あははは、ははっ、ははは!」
げらげらと、品のない笑い声を上げながら、方波見が僕の襟を掴んだ。その目には、優しげな笑みなんてひとかけらもない。これは、間違いなく方波見葵じゃない、方波見は、こんな風に笑わない。こんな風に、嘲たりしない。今僕の目の前に居るのは、別の誰かだ。
突き付けられた真実に、僕は目の前が歪んでいく。あの時、方波見に、あおくんに湖に落とされた時と同じように、透明な世界がぐにゃりと歪む。レンズの奥底に閉じ込められたみたいだ。
「うっ、うう」
吐き気がこみ上げてくるのを、必死で抑えた。方波見が、僕を支えながら、教えてくれる。
「遺体は上がらなかったんだよ、だから、今も兄貴はあの水の中」
「……僕を、殺すの?」
声を絞り出して問いかけると、きょとんとした方波見の顔が僕を見る。
「はは、何で?」
「……復讐なんだろ、こうやって、僕に」
「復讐? なんで! 別に俺あいつが死んだってどうっでもいーんだよ! そんなことより、もっと楽しいことがあるんだから」
手を叩きながら笑うと方波見は腹を抑えて、僕の肩を叩く。
「木島くんはさ、このこと他の人にばらされたら、いやだよねえ」
「…………」
「人殺しだなんて、周りの人に、知られたくないでしょ?」
くすくすと、乾いた笑い声が僕の頭に響く。
証拠はない。けれど、僕が殺したということは、僕が一番良く知っている。僕は僕を騙せない。正当防衛だったとしても、僕は方波見を助けられたかもしれないのだ。
僕が殺した。僕は、人殺しなのだ。
ぼろぼろと溢れる涙を、方波見が拭った。
「これからよろしく、木島君」
そう言って、方波見は手を差し出した。
僕は嫌と言うことも出来ず、差し出されたその手を凝視する。この手を握らずに逃げることは、出来るだろうか。僕は、また逃げるのか。逃げられるのか。
ちゃぽん、と水の音が聞こえた。後ろの海で何かが跳ねたらしい。その音に、僕の体はびくつき、そして、怯えながら差し出された手を握った。
方波見は満足そうに僕を見るとその瞬間、とん、と肩を押され。
「え」
視界が、反転する。
激しい水しぶきの音がした。方波見の顔は夜空へと変わり、すぐに暗闇に変わった。歪んだ視界の向こうで、方波見が手を伸ばす。
僕はその手に縋るように、手を伸ばした。
「あ、あっ」
「ほら、あとちょっとで手が届く」
「うううっ」
ぎりぎりまで延ばされた手をようやく掴むと、方波見がそのまま引っ張り上げてくれた。幸い、深い所ではなかったけれど、いつかの思い出が引きずり出され、僕は泣きじゃくった。
「うっ、ううっ」
僕は、方波見に水葬されるなら、それでいいと思っていたこともある。
方波見が好きだったから、彼に好かれて、水葬されるなら、それでいいと、彼を殺してから何度か考えた。だけど、無理だ。
水の中冷たくて暗い、怖くて怖くて仕方ないんだ。
泣き縋る僕に対して、方波見の声が上から降ってくる。
「単純だなあ、そうちゃんは」
黒と蒼の混じった世界で、その言葉は風に消えて行った。
終わり
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