→ 毒と砂 後編




 辺りを見回しても人っ子一人いないこの田舎の風景は、とても美しいものであったがちっとも落ち着けるものではなかった。ここがどこなのかはもちろん、いつも降りる自宅前の停留所からどれくらい離れているのかも、またどうやって帰るのかもわからない。夕陽に色はミズキの心を焦らせた。
 バス停に書かれている路線図を見てみると、かなり遠くまで来たようだった。ここは終点だったようで、バスが次に向かった場所は車庫のようだ。急いで家に帰るために、逆方向のバスが来る停留所を探さなければ。
 道路の向かいを見てみるが、視力の届く限りではバス停は見当たらない。道路沿いに住宅と畑が並び、左右に道が枝分かれしている所がいくつか見える。どこに行けば正解なのかわからない。どこにも行けず、立ち尽くしてしまった。
 ふと、いつかの授業でカニを保管していた棚の事を思い出した。確かあの時も、自分のスペースの場所を全く違う場所と勘違いをしていた。あの日の放課後から、あの声が聞こえ始めたはずだ。もしかすると関係あるのだろうか?棚のスペースを勘違いしたのも、絵が思い通りに描けなかったのも、停留所を間違えたのも、声が聞こえるのも…
「…お嬢様、ですか?」
 声が背後からまた聞こえた。同じマルカの声だったが、これはミズキにしか聞こえていないマルカの声ではなかった。少し大人びて、かしこまった声。ミズキの家で新人の使用人として働いているマルカの声だった。
 振り返ると、いつものおさげではなく髪を下ろしたマルカが困ったような顔でそこにいた。素朴なキナリのワンピースを着ており、肩から小さなポシェットを提げている。買い物帰りだろうか紙袋を抱えていた。ここにマルカがいる事に対して何一つリアクションを取れずにいると、マルカは困惑した表情でミズキを上から下まで眺めた。
「こんなところで、いったいどうなさったんですか?おひとりのようですが…ど、どうやってここまで…って、学校の帰りのはずでは?それに…」
 聞きたいことは山ほどあるだろう。一気に質問をしてもミズキを困らせてしまうとわかってはいても、質問したりなくなったマルカは我慢するように言葉の途中で口をつぐんだ。
「…一気に質問をしてしまい申し訳ありません」
 目を伏せて謝るマルカの表情は、いつもの仕事姿とは打って変わってひどく大人びたものだった。これが普段のマルカなのだろうか。とにかく、自分の事を知っている人に会えて安心した。
 レザーリュックを下ろして、中からメモ用紙とペンを取り出す。そこに走り書きをしてマルカに手渡した。そこにはただ一言「家に帰りたい」とだけ書いた。
 それを呼んだマルカは顔を上げて、少し考えたあとに「こちらです」と言って歩き出した。ミズキはレザーリュックを背負い直して、その後ろをついていく。
「帰りのバス停は、少し離れた所にあるんですよ」
 少し歩いて、角を右に曲がりまっすぐ歩く。そうしていくつ目かの角を左に曲がると、バス停が先に見えた。バス停に記されている到着時刻を見たマルカは、自分の腕時計を見て「あと5分もすれば来ます」とミズキに言った。「それにしてもお嬢様、どうしてこんなところまで…」
 そう尋ねられ、メモ用紙を返されたのでそこに「バスで本を読んでたら、ここまで来てた」と書いた。それを読んだマルカは顔を上げて、ミズキが抱えている砂絵の資料を見て驚いた表情を見せた。
「お嬢様、それは…あの…砂絵、ですよ…ね?」
 肯定の意味を込めて頷く。「砂絵を嗜まれているのですか?」との質問にも頷く。マルカは懐かしい記憶を思い起こすような、ミズキの乏しい語彙力では表現できないような切ない表情で遠い目をした。
 それから少ししてバスが到着し、ミズキが乗り込むとマルカも紙袋を抱えながら一緒に乗り込んできた。後ろ側の、二人掛けの椅子に並んで座り彼女を見ると、困ったように微笑んだ。
「お嬢様が無事にご帰宅されるよう、私も同行いたします」
 走り出したバスの中、ミズキは膝の上に抱えていたレザーリュックから砂絵のキャンバスを取り出した。マルカの声が聞こえたこのキャンバスをマルカに見せると、彼女は呆然とその絵を見たあと口を開いた。
「あ、あの…これ、私が学生の頃に描いた最後の絵です!」
 ミズキは驚く事もなく、あぁやっぱりそうか、と納得をしてしまった。
「祖父が、砂絵の画家だったんです。今思えば、そんなに売れている画家でもなかったんですが、子どもの私にはとても偉大な画家に見えて、心の底から尊敬していたんです」
 走り続けて揺れるバスの中、夕陽を浴びたマルカの瞳は小さく、控えめに光った。
「それで私はずっと砂絵を描いていましたが…まさかお嬢様が砂絵を嗜まれていたとは思いませんでした。驚きましたが、とても嬉しいです」
 静かに、嬉しそうに微笑んだマルカを見て、ミズキは心がゆっくりと温まっていくのを感じた。冷たい氷がじわじわと解けかけていくような感覚を覚えながら、砂絵の資料をマルカと一緒に眺めた。ところどころでマルカからの補足説明を受けながら、バスはミズキの自宅前まで向かっている。マルカとなんとなく通じ合えた事で、砂絵の理解を更に深めたのを自覚した。
 バスを降りた頃には日が沈んでしまい、西の空がぼんやり明るいだけだった。最後の曲がり角のところで、マルカは立ち止まってしまった。そちらを見やると、マルカは両手で紙袋をぎゅっと抱えて困ったように笑った。
「それでは、私は帰ります」
 せっかくだから使用人部屋に泊まればいいのにと思ったミズキは、マルカの真意がわからず首を傾げる。彼女は抱えている紙袋を少し持ち上げた。
「今日、実家で夕食を作る予定なんです。ではお嬢様、おやすみなさいませ」
 頷いて、閉まっている門の傍に設置されているインターホンを3回押した。その後、背後からまたマルカに呼ばれて振り返る。
「砂絵、完成させて下さい。私、楽しみにしています」
 何か反応を示す前に、マルカは深く頭を下げて走り去ってしまった。角に曲がって見えなくなったところで、モカおばさんとクロエの安堵した顔がミズキを迎えてくれた。
 部屋に戻る時間もなく夕食のためダイニングへ案内される。両親は何も知らないのか、ミズキが席について少ししてから笑顔でダイニングに入ってくる。後ろからドアを閉めたリータニアが気まずそうにモカおばさんに目配せをしていた。
 就寝までの少ない時間でも、ミズキは部屋のアトリエで砂絵の続きをはじめた。砂の感触を指でとらえる。うん、砂絵なら頑張れる。資料を読み直して、今日バスでマルカに教えて貰った事を復讐する。ペンで書き込んだ自分の頼りない文字が、資料のところどころに走っていた。バスの中で、マルカが話していた事を思い出す。実際に声が聞こえてくることはなかったが、言葉が文字になってミズキの心の中で反復し、それはいつまでも心の中に残った。空いた心を埋めてくれるようなこの気持ちが何なのか、ミズキには理解できない。しかしこの感覚は不思議と、心地よいものだと思った。
「お前は砂絵の才能があるよ。自分を信じて描けばいい」



 いつかに見た美しい景色。霧がかかった湖を横切り、森の中を何かがすうっと駆け抜けた。小さな丘のふもとでとぐろを巻いて霧の中で息をひそめている。
 「おじいちゃん、ありがとう…私、頑張るから」
 立ち込める霧が濃いためその姿は輪郭しか見えないが、静かな森から聞こえてくるその息遣いは深く、少し震えていた。どこか傷ついているのかもしれない。
「頑張って…描かなきゃ。でも、どれだけ頑張っても、どうして評価はこんなに低いの?私はもっとうまく描かなきゃいけないのに…どうしてうまく描けないの…?」
 震えた声は、霧の中に消えてしまう。
「みんなの期待に、応えたいだけなの…」

 目が覚めると、カーテンの隙間からやわらかい朝陽が差し込んでいた。
 夢を見ていたようだ。耳がふたたび聞こえるようになったあの日の夢と同じ場所だった。あの時にミズキを呼んだ声は、とぐろを巻いていた生き物の声だったのだろうか?
 マルカの声も聞こえた。とうとう夢にまで出てくるようになったのか。それとも、元から夢のことだっただろうか。
 あの声は、きっと芸術学校の美術科に通っていた頃のマルカの記憶だ。どういうわけか、声が聞こえるようになったのと同時にミズキはスランプに陥ってしまった。マルカが描いても描いてもうまく描けなかった時の心情は、ミズキの今の気持ちとリンクしていた。しかし、それ以外で2人に共通していることはない。
 お互い絵を描く動機は「期待に応える」ことだが、ミズキは自分のいる意味を持つため。しかしマルカは周りを喜ばせるためだ。そして喜ばれると嬉しいと言った。そのために、一生懸命努力をした。それでも結果が伴うことはなかった。諦めてしまうほど打ちのめされたというのに、まだ描き続けたいと言っていた。ミズキにはその気持ちが理解できない。
 そして昨日マルカと会って、一緒の時間を過ごした。砂絵への理解と知識はミズキに刺激を与えてくれた。家の前での別れ際、マルカの困ったような笑みと放った言葉が忘れられず、ずっと心に残っている。
「砂絵、完成させて下さい。私、楽しみにしています」
 期待されている、というものではないだろう。あの言葉には、控えめながら彼女の願いが込められていた。彼女が諦めてしまった砂絵への気持ち。それはきっと無念という名前。昇華させたいのだろう。その願いを、ミズキに託したのだ。空いた心を埋めるこの正体は、きっとそういうことだ。
自分にも、誰かの為に絵を描くことができるのだろうか。
 それを確かめたくて、ミズキはベッドから抜け出し登校の支度を始めた。
 デスクの上に置いてある卓上カレンダーを見る。初夏の絵画コンクールの締切日まであと4日だ。時間はない。スランプで絵を全くといっていいほどまともに描いていない。その上、途中まで描いていたものは黒く塗りつぶしてしまっている。しかし、ここからスタートしてもじゅうぶんだ。コンクールで、砂絵を描く。それが決まってしまえば、あとはひたすら描くだけだ。前準備として砂絵の勉強もした。クロエが部屋のドアをノックしてミズキの名前を呼んだ。はやく朝食を済ませて学校へ行かなければいけない事を思い出して、レザーリュックにキャンバスと砂絵のセットを詰め込んだ。

 午前の授業は必修科目以外はコンクールの作品制作の時間にあてられた。ミズキはもちろん、砂絵を黙々と進めたが、昼休みの時間を知らせるベルが鳴った時に顔を上げて気づいた。以前は教室内の雑談が耳に付いて気になっていたというのに、生徒たちが雑談をしていたかどうかも覚えていない。その上、周りがどんな絵を描いていて、どれほど作業が進んでいるのかも横目で観察していたが、全く観察していなかったのだ。

 昼休みの時間を4号館裏で過ごす。小さな花壇のそばのベンチに腰掛け、砂絵のキャンバスと資料を眺めて次の手順を考える。学校は少し低めの山の上にある。目の前のフェンスの向こうに見える町の風景を見下ろすと、爽やかな風が通りすぎた。
「おじいちゃん、ごめんね。私、学校に通って分かったの」
 風と一緒に、マルカの声が通りすぎる。
「もっともっと上手な人は本当にたくさんいて、私なんか、全然、大した事なかったの。学校辞めて、訪問介護員になるよ。友達には、もうあいさつしたの。友達はね、みんな卒業まで頑張るんだって」
 昼休みの終了5分前を合図するベルが鳴った。次の授業は必修科目だから、絵の続きはできないだろう。キャンバスと資料をロッカーに入れてこなければ。
「私も、頑張りたかったよ…」
 去り際に聞こえたマルカのつぶやきに、ミズキは小さくうなずいた。砂絵を完成させて、最優秀賞を獲る。今はもう、それだけしか考えていなかった。

 6限目の授業が終わり、夕陽が学校を照らしはじめた中、ミズキはバス停で資料を読みながら帰りのバスを待った。
 6限目の授業は曜日交代で科が枠をとっているので、もうこの時間になると下校する生徒の数はまばらだ。残り少ない時間で、早く作品を完成させなければ。周りの目も気にせずに、バス停の前に立ちながら資料を黙々と読みふけった。
 バスが到着し乗り込むと、いつもの窓際の後ろ側に座る。ぽつぽつと生徒たちがバスに乗り込んでしばらくして、バスは発車した。その揺れで前の座席の背に資料をぶつけて取り落としそうになった。顔を上げると、どうやらバスロータリーをぐるりと迂回したようだった。いつもは進行方向のまま進むというのに、どうしたのかと車内の掲示板を見た。そこに表示されている行先を見ると、正反対の方向へ向かうバスだったようだ。次の行先は、ここからしばらく行った後にある大学病院前だ。昨日に引き続きまた間違えてしまった事に気付き慌てて降車ボタンを押す。帰り方がわかるだろうか。繰り返した失敗にミズキは自分を叱責した。
 確かに、目の前にはとても大きな大学病院があった。しかし帰りのバスに乗るためには他のバス停を探さなければ。資料を胸に抱きしめて、辺りを見回した。他にバス停は見えない。通行人はちらほらといたが、引っ込み思案で人見知りをするミズキはいざという時に怯んでしまい帰り方を訊けずぽつんと突っ立っているだけになった。誰か自分の事を知っている人が通らないかと心の中で強く願った。次のバスが止まって、しばらくして発車し行ってしまう。
「あ」
 自分のかかとに、何かがコツンとぶつかった。そして道の上に何か軽い物が転がる音。ミズキは顔を上げて後ろを振り返る。とっさに拾おうとしてしゃがんで手を伸ばすと、それはよく見れば何度か目にした白い杖だった。視界の端から白い手が伸びる。その手はゆっくりと伸びて、少しさまよった後にミズキの伸びたままの手に触れた。
「…ん?」
 顔を上げて手の伸びた先を見る。目を黒いバンドで覆った少年。ミズキの顔より少しズレたところを向いて首を傾げている。
「その辺りに、杖が転がっていませんか?」
 心に強く願った通り、自分の事を知っている人がそこにいた。けれどもその人物は、ミズキにとって一番困る相手だったかもしれない。
 目の前で首を傾げるヒムを見て、大事な物のわりには杖をよく落としているな、とぼんやり思った。彼はひょっとするとドジなのかもしれない。
 しかし、そんなことより早く家に帰らなければ。首を振って、先ほどまで考えていた帰宅後の予定を思い返す。こんなところでうろうろしている場合ではなかった。ヒムに帰りのバスをたずねるのは不可能だと判断し、ミズキは立ち上がろうと膝に手をついた。しかし、2人の手と手はつながったままで、ミズキは立ち上がれずヒムを見た。彼は首を傾げたまま、辺りの様子をうかがうようにゆっくりと顔を左右に振った。
「ごめんなさい、もしかして、急いでいましたか?」
 相手の少しの動きで状況を理解しようとしているのか。そんなこと、うまくできるわけないのに。彼は、自分と比べてハンデを前向きに受け止めている様子は前に会った時でわかった。それは素直にすごいと思う。自分にはその前向きさを持ち合わせてはいないからだ。それでも、できない事はないと思っているのかなんでもやろうとする姿勢はどうしても気に食わない。目が見えないなんて、話す以外何もできないのと一緒だろうに、ヒムはどうして、自分と違って…
 まただ。自分と彼を比べたりなんかして。何もかもが違うんだから、比べても意味がないのに。ミズキは無性にいらいらして、転がっている白杖を片手で拾ってヒムに押し付けた。ヒムは突然の事に驚くも杖をしっかりと受け取り、ミズキの手を握り直した。握られた手から、命の燃える暖かい色があの時と同じように見えた。やはりこれは、見間違いじゃなかったようだ。
「ありがとう…えぇと、間違ってたら申し訳ないんだけど、もしかしてこの前杖を拾ってくれた美術科の子かな?」
 どきりとして思わず握られた手を強張らせてしまう。それを敏感に感じ取ったのか、ヒムは眉を上げて首を傾げた。
「うん?おれの言ってる事わかる?じゃあ、違うのかな…でも、この手は…ううん…」
 何やらぶつぶつ言っている。ミズキに違いないという確信があったようだ。手を握っただけでわかるはずないのに、なぜ気づいたのだろうか?
 ヒムの声に思わず反応してしまったため、耳が聞こえないと思っているヒムは相手がミズキかわからなくなって悩んでいる様子だ。
 ふと、背後からヒムの名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。ヒムは顔をあげて声のする方を見る。
「今日は帰ってくるの遅かったわね…あら?」
 ミズキも振り返ってみると、病院から事務員と思われる制服を着た人が寄ってきた。事務員はミズキの姿を確認するとにこりと微笑んできた。
「ヒムのお友達?」
 ごく自然に聞かれて戸惑う。おろおろしていると、ヒムがミズキの手を放した。そして「そうだよ」と至極当然の様に返事をする。驚いてヒムを見ると、嘘のない明るい表情をしていた。目が隠れていてもわかるくらいに。
「ヒムがお世話になってるわね。音楽科の子かしら?」
 聞かれて首を横に振った。と、ここで気づく。帰りのバスを聞くチャンスじゃないだろうか。事務員が名前は?と尋ねているそばでレザーリュックからメモ用紙とペンを取り出し、そこに言葉を書いていく。
『美術科です。ミズキです』
「あら、美術科?ミズキちゃんっていうのね」
「あ、やっぱりそうなんだ。ミズキ?おれはヒムスだよ」
「自己紹介できてなかったの?」
 事務員のもっともな質問にヒムは照れもせず強くうなずいた。
「聾唖って聞いてたから、どうやって聞けばいいかわからなかったんだよね」
「そう。ミズキちゃん、耳は聞こえてるみたいね?」
 まずいことをしたかもしれない。別に隠していたわけじゃないが、知られることになぜか不安をおぼえてしまった。適当に応えて、帰り方をたずねようと急いでメモにペンを走らせる。
『最近聞こえるようになりました。教えてほしいことがあります』
「なにかしら?」
 メモ用紙が、夕陽を受けてオレンジ色に染まっている。メモ用紙を事務員に渡すと、彼女は丁寧に帰りのバス停の場所を教えてくれた。これでやっと帰れる、と安心してミズキは頭を下げる。
「いいのよ、ヒムもお世話になってるし。お友達が困ってたら、助けるのは当たり前よね」
 事務員の言葉にヒムは嬉しそうに2回頷いた。彼も経緯は事務員とミズキのやりとりで察している。
「そうだね。ミズキ、帰れるようになってよかったね。じゃあ、気を付けて」
 そう言うヒムの肩に、事務員は手を置いた。彼は帰らないのだろうか。その沈黙に気付いたのか、ヒムは困ったように笑った。気がした。
「困ったことがあったら、いつでもおいでよ。おれ、よくここにいるからさ」
 じゃあね、ミズキちゃん。と事務員は笑顔で手を振ってくれた。ヒムは学校がやっと終わったというのに、家にも帰らずに病院で過ごしているのだろうか?
「じゃあね、ミズキ。また、学校でも会おう」
 ヒムの、優しい有無を言わさぬ言葉にミズキは頷いて、もう一度小さく頭を下げて帰りのバス停に向かった。

 帰りのバスの中、ミズキはヒムに対してあんなにもイライラしていたというのに、いつの間にかそれがどこか遠くに消えてしまっていたのを思い出した。八つ当たりもしたというのに、それを許してくれた。余裕のなかった自分が、恥ずかしくなる。

――ヒムのお友達?――
――そうだよ――

 あの迷いのない明るい答えが、ずっとミズキの心の中に留まった。
 胸の中を優しく引っ掻くこの感触は、大人げない自分の行動を恥ずかしがる痛みをいくらか和らげてくれた。いつもは冷えてしまうところが、ほのかに暖かい。

 初夏の絵画コンクールの締切日まで、あと3日。この残り日数が、どれくらいの早さで過ぎるのだろうか。学校はサボらない。夜更かしもしない。授業が終わったら、まっすぐ帰って夕食の時間まで絵を描く。夕食後は風呂に入って、就寝時間まで宿題をすませる。そして決まった時間に眠るのだ。毎日与えられる決められたサイクルの中で、ミズキの作品はこれまでブレる事も無く、安定して創り出され続けてきた。
「思い通りに絵が描けないの。苦しいでしょう?」
 それが妨害されるような事があれば、どう対処すればいいのか。それをミズキは今まで知らずに生きてきた。妨害されるような事に出会った事がないからだ。今まではうまく回避できただけかもしれない。コンクールに絵を出せば、ミズキは必ず入賞した。
「すっごく悔しくって、頑張ったの。でも、だめだった。私、才能ないんだ」
 はじめはあんなに嫌だったマルカの声も、彼女と心を通わせた今となっては嫌な気持ちは湧いてこない。
 置き去りの絵に残されたかつてのマルカが、ミズキに語りかけてくる。夢を持って描き続けた絵に、ひとつも報われはしなかった。努力もむなしく、期待してくれた家族や友人に応えることができなかった。
そして、大人になって夢をあきらめてしまったマルカはミズキを助けようとした。学生の頃の自分を重ねて見たその切ない眼差しは今でもミズキの手を支えている。
「応援してるよ。友達だもんね」
 友達。とてもむず痒くなる響き。その言葉に思わずキャンバスから顔を上げて声のする方を見た。隣接する部屋の奥に、デスクがあるだけだった。
 マルカが、ミズキの友達?
 ヒムも言っていた。曇りのない笑顔で。ミズキは友達だと。
 マルカの声が聞こえて、砂絵に出会って、絵が描けるようになれた。知らない町に行ってしまった時は、マルカが案内してくれた。また帰り道がわからなくなった時は、ヒムと出会った。友達が困ってたら、助けるのは当たり前だという。困ったことがあったら、いつでもおいでという。
ミズキはまだまだ子どもで、一人きりだというのに、一人では絵を描く以外の事はほとんど何もできない。
 そんなミズキが困った時に助ける。それが友達というものか。
 友達って、そういう事なのかな。キャンバスの上に、砂が降り注ぐ。



 静かな森を外れると、砂丘が広がっていた。遠くに見える岩山は、雲に隠れて先は見えない。白い蛇のような生き物が、砂の上でとぐろを巻いている。砂の上に投げ出されたライムグリーンの羽はすぼんで、砂に汚れてくたくただった。こちらの視線に気づいたのか、固く閉じているまぶたが、かすかに震える。
 こちらをしっかりと見据えながら、くぅ、と鳴いた。
 砂絵に取り組みながら、ミズキはこの夢を何度も見た。しかし不快感は不思議と感じられず、夢を見た日の朝はどこか気分がクリアだった。



 そうしてゆるゆると時間は過ぎ、提出期限がやってきた。
 ホームルームの時間、担任のサクラ先生は生徒にコンクールへ提出する絵に名札を貼らせて教壇へ提出するよう指示した。
 狭い教室の中、クラスメイトが口ぐちにお喋りをはじめて教室は一気にざわつく。その中でミズキはただひとり、黙々と配られたカードに名前を書いて、キャンバスの裏に貼りつけた。そして一番乗りで教壇へ行き、サクラ先生へキャンバスを差し出した。
「ミズキ・ダリアス。麦の田園、ね…」
 細かい目元の皺がぴくりと動く。先生は、ミズキの絵をまじまじと見つめた後にちらりと目だけを動かしてミズキを見た。
「砂とアクリルを混ぜて描いたのね。砂絵を使うのは、うちの学校じゃとても珍しい例ですから…採点だって難しいでしょう。よく描こうと思ったわね…」
 絵をまじまじと見ながらぶつぶつとひとりごとを言っている。ミズキには聞こえていないと思っているのだろうが、すべて聞こえていた。ミズキは知らないふりをして、首をかしげてみせる。
 先生はメモを一枚ちぎって、何やら走り書きをしてミズキに手渡した。それを受け取ってめくってみる。
『慣れていないようですが、よく頑張っているのがわかる絵です』
 小さく頭を下げて、その場を去った。机の間を縫って後方の自分の席へ戻る。
「ほら、ミズキ。また最優秀賞なんじゃない?」
「取るかもね、あたし達とは違うんだし」
「ねぇ、今日の帰りにアンチョビ・モール行こうよ」
「そうしよ、これさえ出せたらまたしばらくは自由だしね!」
 クラス中を賑わせるざわめきの中、ミズキはひとり席について、作品を提出する生徒達の背中をじっと眺めていた。



「次に佳作の発表です」
 作品展示会場の中央にあるステージの上。多くの絵に囲まれたそのステージの上には、選ばれた絵とそれを描いた生徒が賞状を持って並んでいた。左から、最優秀賞、優秀賞、優良賞、入選の絵と生徒が並んでいる。これから佳作の4名が呼ばれるようだ。
 1人ずつ名前が呼ばれるたびに、生徒は行儀よく返事をしてステージの上に立つ。理事長より賞状を受け取って、笑顔で頭を下げて列に並んだ。
 それをミズキはステージの下、ギャラリーの中で一緒になって眺めていた。周りに真似て手をゆるく叩く。自分の合わせた手からは気持ちのいい拍手の音は鳴らなかった。結果に少し期待をしていた昨日をむなしく思い出す。
 ミズキの名前は最後まで呼ばれることなく、入選者の発表会は終了した。
 帰り際、自分の絵の前を通るとギャラリーの話声が聞こえてきた。
「お、あの耳が聞こえないってやつ。名前呼ばれてなかったなぁ」
「賞を貰ってないの初めて見たよ?」
「まぁでも入賞したのに比べると、ちょっと違うかな」
「あ、佳作おめでとう!お祝いにモック寄ってこうぜ!」
 駆け足でその場を離れて、トイレに逃げ込む。個室の鍵を閉めて、レザーリュックを胸に抱えしゃがみこんだ。遠くから会場のざわめきが聞こえて、静かなトイレに響く。
 人々の声。ミズキはそれがどうしようもなく怖くて、嫌いで、自分さえも嫌いで、耳を塞ぐ。涙は出てこなかった。

 呆然としたまま、いつの間にか家のすぐそばまで来ていた。
 角を曲がって門に向かうところで、私服姿のマルカがちょうど門から出てきていた。門の方を向いて屋敷を見上げたあと、ミズキとは逆方向に歩き去ってしまった。しばらく休んでいたから、あいさつに寄ってきたのだろうか。その姿を見送り、門をくぐると最近まで屋敷内の掃除を担当していたメサリナが箒を片手に笑顔で迎え入れた。
「失礼します」
 ホールの隣、執務室に声をかけて入っていくモカおばさんの姿を見つける。いつもの仕事服ではなく、スーツを着ていた。おそらく展示会を見に来ていたのだろう。執務室の扉の向こうで、短くキレイに前髪を揃えて横に流している、パパの頭が見えた。もしかして、展示会の結果を報告するのだろうか。
 ミズキは忍び足で閉じられた扉に近づいた。くぐもった声が聞こえる。
「お電話でご報告しました通り、お嬢様は今回、入賞されていませんでした」
「そうか、おかしいな。様子を見てやらなかったのがまずかったかな。しかしやはり、砂絵を描いていたのだろうな。色砂が部屋にあった」
 パパは怒りもしていなければ、落ち込みもしていない様子だ。ミズキは肩の力を抜いて小さくため息を吐く。
「はい、そのようでした。急に砂絵の道具や資料を注文されたので、どうされるのかとは思いましたが…しかし、お嬢様にはとても良い刺激になったとは思います。マルカは学生の頃、砂絵をよく描いていたそうで…」
 モカおばさんの話の途中で、強くデスクを叩く音が聞こえた。驚いて飛び上がり、耳を扉から少しだけ離してみる。
「マルカがミズキに吹き込んだというのか、その砂絵とやらを?おかげでミズキは不慣れな絵を描いて入賞できなかったのだ。やはり辞めさせて正解だったようだな」
 パパはかなり怒っているようだ。声を荒げた所なんて初めて聞く。それに、今、辞めさせて…と言っただろうか。手の先がすっと冷えて、心臓が気持ち悪く鼓動を打った。
「辞めさせた、とは…」
「先日、庭でミズキを泣かせたと言っていたね。それをマルカは認めた。だから、うちを辞めてもらったのだ」
「しかし、しばらく休職させると旦那様は…」
「不満かね?報告をしたのは君だろう」
 ですが…と、モカおばさんはうろたえた様子で言葉を濁した。
「マルカは、ミズキにとって毒だったんだよ。あの子を守るためなら致し方ない処遇だよ」
 それだけだ、とパパは有無を言わさぬ口調でぴしゃりと言い放った。とうとうモカおばさんは黙ってしまった。ミズキは血の気が引いたように頭の奥が痺れて、心臓が冷たくなったような感覚をおぼえる。

 よろよろと階段を上り、部屋に戻ってアトリエに入った。
 辺りを見回しても、砂絵の道具も資料も全てどこにもない。
 キャンバスの前にへたり込んで、ふと隣のキャビネットの下に目をやると色砂のケースが一つ落ちていた。その隙間に指を入れてつまみ上げる。一度も使わなかった、赤い色砂が新品のまま転がってしまっていたようだ。窓から差し込む夕日に照らされ、命が燃えるような光を放った。
 マルカと乗ったバスの中で、心を通わせた時のぬくもり。冷えた心に、暖かい血がめぐりはじめるような感覚。感じはじめたつもりだった。
 しかし、そんなことはなかったようだ。マルカの願いを叶えられる事はなかった。友達とは、きっとこんなものなんだろう。知らなければよかった。耳が聞こえる事を呪った。
 転がったキャンバスを手元に寄せて、イーゼルに置かれた茶色の絵具とペインティングナイフを取る。それはすぐに人の形を成す。
 特に悲しい気持ちもない。悔しくもない。残念でもない。ただ、パパの期待を裏切ったこと。マルカが辞めさせられたこと。入賞できなかったこと。願いを叶えられなかったこと。色んなことを失った気がした。呆然と、砂を茶色の絵具の上に撒く。命の色が、冷たいキャンバスに降り注ぐ。
「…ありがとう」
 ふと、背後から声が聞こえた。すぐに振り返ると、カーテンの閉められていない窓があるだけだった。差し込む夕陽が眩しく、ミズキは目を細める。
 なぜだかどこか、すがすがしい気分だった。

 








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