→ 毒と砂 中編




 ご飯がのどを通らないとはこのことだろう。食事の手はすぐに止まり、向かいの両親の手の動きを見ては、我に返って食事を再開する。それを何度か繰り返した時、お母さんはミズキの名前を呼んだ。
「ミズキ、食欲がないの?何か心配事でもあるかしら?」
 急に話をふられてミズキは驚いて顔を上げた。急いで首を横に振って、誤魔化すようにグラスに注がれた牛乳をひと口飲んだ。
「そう…そうだわ、夏の絵のコンテストは…あれは、順調に描けてる?」
 ミズキは一瞬ためらって、小さくうなずいた。
「大丈夫だ。ミズキならまた入賞できるような絵を描けるって事は知っている。途中経過として、今晩にでもミズキの絵をみてみよう」
 お父さんが飲み干したコーヒーのカップに、デカンターを持って控えていた使用人のリータニアはあたたかいコーヒーを注いだ。カップから暖かい湯気がのぼる。お父さんとお母さんは、ふたりそろって楽しみね、と顔を見合わせた。ミズキは部屋のアトリエに置き去りになっている絵の事を頭に浮かべて、必死に首を横に振った。
「あら、あら…だめなの?」
 どう答えればよいのかを考えて反応できないでうろたえると、お父さんはおもしろい物でも見つけたかのように体を前に傾けてミズキにウインクした。
「わかったぞ。まだ途中の絵を見られるのが恥ずかしいんだな?」
 首を縦に振ると、お父さんは嬉しそうに笑った。
「かわいいミズキに免じて、絵をのぞくのはおあずけということにしておこうか」
「そう、そうね。そうしておきましょう」
 お父さんの顔をうかがいながら、お母さんも嬉しそうに笑っていた。ミズキは内心でほっと胸をなでおろした。

「お嬢様、行ってらっしゃいませ」
 ダイニングを出ると、モカおばさんがまたおじぎをした。あの新入りの使用人の姿がない。庭にもう行ってしまったのだろう。きょろきょろと辺りを見回すミズキを見て、モカおばさんは首をかしげた。
「何かお探しでしょうか?」
 モカおばさんになら聞ける気がした。しかし怪訝な顔をされないか気になり、うつむいて視線を泳がせる。モカおばさんは膝を曲げて、ミズキと視線を合わせて微笑んだ。
「私がお力になれそうでしたら、遠慮せずおっしゃって下さいね」
 のろのろとモカおばさんのポケットを指差す。彼女はそれに気付き、ポケットからメモとペンを出した。それを受け取ったミズキの手が止まるまでモカおばさんはじっと待った。
『新しい使用人の名前は?』
 ほどなくして手渡されたメモには、大人しそうな字でそう書いてあった。ミズキはモカおばさんの顔を見上げて返事を待つ。
「あぁ、彼女はマルカといいますよ」
 誰のことかすぐに理解したモカおばさんは微笑んでそう返した。ミズキは頷いて返事をし、玄関へと向かった。
 マルカはやはり今日も、ミズキが門に着くまでの少ない時間の中一生懸命話しかけてきた。適当に頷いて返しながら、ちらりと横目で彼女の顔を見た。そばかすの似合う田舎娘。ふとそんな印象が頭に浮かんだ。この屈託ない笑顔から、あんな卑屈が出るようには思えない。門の前でマルカが下げた頭を上げる前に、ミズキはバス停に止まっているバスに早足で乗り込んだ。



「さぁみんな、今日も楽しくカニを作ろうね!」
 フェンデーロ先生の元気は相変わらずだった。そしてミズキの絶不調も相変わらずだ。先生のノリについていける気はまったくしなかった。今回は自分の棚の場所がわかりカニを迎えに行くが、そこにはやはり無残なカニが横たわっていた。
 ミズキのアイデアの泉は依然枯れたまま、色があふれてくることもない。周りの生徒は好きにおしゃべりしながらもそれなりにカニを仕上げにかかっている。
 周りができて自分にどうしてできないのか。ミズキには理解しがたいことが、当たり前のようにこの数日間続いている。
 周りの雑談に聞こえないふりをしながらパレットに色をいくつか出していじってみるが、自分がかつて塗った胴体と同じ色ができる事はない。記憶喪失になった気分だった。とにかく手を動かさなければ色も出ないだろうし、作業が進んでいないダメな生徒だと先生にバレてしまうのは避けたい。
「こんな事をしても、どうせうまく描けないんだ…意味なんてないんだ…」
 また背後からあの声が震える声で囁いた。
 筆を持つ気にもなれず、筆を置いて小さくため息をつきながら顔をあげる。すると机を挟んで目の前で、フェンデーロ先生が首を傾げてミズキを見ていた。ばちっと音がなりそうなほど目が合った。
 フェンデーロ先生と3秒ほど目が合った後、先生はミズキから視線を外さないまま自身の白衣のポケットからくたくたのメモとキャップがないペンを取り出した。
『何かお困りかな?』
 クセのある、右肩下がりの一文が書かれてミズキの前にそっと差し出された。先生のその一文を見て、ミズキは頭の中が真っ白になるのを感じた。教室は少しざわついているのに、先生とミズキの間にはどっしりとした沈黙が流れている。
 ミズキは目の前に置かれたメモをじっと見つめた。うつむいていても先生の気配を真正面から感じる。どうやら、何か反応を返すまではそこから退くつもりはないようだ。
 とうとう先生に見つかってしまったショックで、手足が小刻みに震えた。この教室にたくさんの生徒がいるというのに、先生はよりによってミズキに気づいてしまった。ひとりでまともな作品をひとつ仕上げられない生徒だと思われたくはない。
 羞恥と緊張で汗が滲み、手足が痛いほど冷える。下書き用の色鉛筆を手に取った。手が情けなく震えている。文字を書く色鉛筆が一緒に震えていた。
『大丈夫です』
 文字は震えているくせに、とても強気な事を書いて後悔した。しかしやっと書けたその一文に、先生は納得したのか「そう」と言った。「それでいいのかな」とメモをまた一枚ちぎりながら言った先生の一言に強く頷いた。そこでメモに何やら書いている先生の手が止まったのを視界の端にとらえた。何事かととっさに顔を上げて先生の方を見てみる。先生はぽかんと口を開けてこちらを見ていた。そして先生は片手を持ち上げて耳を指差す。それを見たミズキは自分の失態に気づいた。耳が聞こえるようになったのは学校の誰も知らない事だ。しかしミズキは、先生の独り言に反応を示してしまった。先生が驚くのも無理はない。聾唖だと思っていた生徒は、耳が聞こえていたのだから。

 授業が終わってカニを棚に仕舞った後、ミズキの肩に誰かの手が置かれた。振り返ってみると、先生がにこにこと笑顔を作ってそこに立っていた。
 教壇の裏にある先生の個室に呼ばれ、イスに腰を下ろすと先生もデスクのそばにあったイスに腰を下ろした。デスクはプリントや本で散らかっているが、そこにはメモ用紙らしきものはない。先生は笑顔のまま口を開いた。
「耳が、聞こえているんだね?」
 どう返すべきかわからずうろたえていると、先生は手近にあったプリントを裏向けてミズキに差し出した。一緒に渡されたペンを手に取って、そのプリントを見つめる。裏面にうっすらと透けている文字が見えた。『12月学年通信』と書いてある。半年ほど前のプリントがいまだにデスクに残されていたようだ。
「でも声は出ないのかな、いつから聞こえるようになったの?」
 戸惑いながらも素直にペンを走らせる。『先月から』と書けば、先生はそうか、とだけ言って納得してくれた。
「ところで、今回の課題はどうかな?うまくいっているかい?」
 ことさら明るく言っているが、うまくいっていない事はわかっているだろう。うつむいていると、先生は返事をもらえない事をわかっていたのか言葉を続けた。
「カニの課題はあんまり進んでないようだね。今までの君なら、黙々と…おや」
 先生がデスクに視線を落とすと、『大丈夫です』とプリントに書かれていた。
「ちょっとしたスランプなんだよ。ただの一時的な不調。それを乗り越えれば、いつもの君に戻れるよ。それまでは、無理に絵を描かず待てばいい。時間はあるよ」
 時間はない。カニの課題はもちろん、初夏の絵画コンクールだって締切日は近い。先生は何もわかっていない。なのに、先生に課題が進んでいない事や耳が聞こえるようになった事がバレてしまった上にアドバイスまで受けている。
『本当に、大丈夫です』
 もう一度、力強く書いてみせた。プリントを先生に突き返すと、先生は受け取って「そう」とだけ返した。「あんまり偉そうな事を言うキャラじゃないんだけどね」と、先生が言ってプリントをデスクの紙束の上に置いた。
「スランプは誰だってあるからね。いつでも完璧は、しんどいよ」
 少しだけ真剣な先生の声を聞いて怖くなった。ミズキはうつむいたまま、席を立って軽く会釈をした後そそくさと第二美術室を出る。
 廊下を歩きながら、白杖をヒムに突き返した日と同じような胸の冷えを感じた。先生にいやな態度を取ってしまった事を猛省した。
 しかし、後悔も反省も何をどれだけしても、ミズキはうまく次に活かせない事を自覚しはじめていた。また自分の機嫌を損ねるような事になれば、同じような態度で人に接してしまうのだろう。そんな自分が大嫌いだ。
 関わってほしくなかったのだ。言葉を交わすだけで手間がかかるような自分と。いや、本当は、ただ自分が人とどう接して良いのかわからないだけだった。本当につまらない人間だと思った。絵がなければ、誰にも喜ばれない、価値の無い、要らない人間だと強く自覚している。
 それがばれてしまうのが嫌で、絵の上手なミズキでいたくて、学校にいる間は休み時間でも授業の無い空き時間でもずっと絵の資料を見て勉強もした。自分で課題を作って絵を描き続けた。
 スランプなら無理しないで待てばいい、なんて事は決してない。ミズキにとっては、どんな課題やコンクールでも、いつだって本番のつもりだ。
 冷えきった手がしびれないように、ぐっと握りこぶしを作った。

 廊下を歩いていると、窓の外から生徒たちの楽しそうな声があちこちから聞こえてきた。
 廊下が交差になっているここは、小さなホールなので四方向からの足音や話し声が届いて集まってくる。
 ホールに出ると、左の廊下からいくつかの楽器を演奏する音が聞こえてきた。昼食もとらずに自習しているのだろうか。音の数からして何人かいるようだ。左に曲がって音がする方へ歩く。扉の傍のプレートには『第3音楽室』と書かれていた。ガラス窓からこっそり覗くと、何人かの生徒がそこで演奏をしていた。
 ピアノ、ギター、バイオリン、ドラム、サックス…音楽に詳しくないミズキでも伝わる彼らの音の一体感は、心地よく高揚感が湧いてくる。バイオリンとドラムを演奏している男の子は以前ヒムと一緒にいた2人だった。ギターとサックスを演奏しているのは、見覚えのない女の子だった。ぴたりと音が止んだ。曲を演奏し終わったのだろう。彼らは笑顔でなにやら話し、楽しそうに楽器を置いて楽譜を片手にピアノに歩み寄った。ミズキもピアノの方を見やると、ちょうどピアノが陰になって演奏者が見えない。男の子の1人が演奏者の肩を叩いたように見え、そうしてピアノの陰から出てきたのは、立ち上がったヒムだった。彼らの話に合わせて一緒に話している。それは楽しそうにみんな揃って口を微笑ませていた。音楽室の中はヒムと彼の友達であふれているが、それを窓越しに覗いているミズキはひとりきりだ。この廊下には、ミズキ以外の誰もいなかった。
 彼は…ヒムは、どうして自分と違って…
 そこまで考えて、ミズキは我に返った。
専攻科も、性別も、友達の数も…できない事も、何もかも違うというのに。比べられるモノなどなく、共通である事はひとつもないはずなのに。どうしてヒムと自分を比べてしまうのだろう。
 心に刺さる痛みから逃げようと踵を返そうとした時、ひとりの男の子と目が合ってしまった。慌てて駆け出してその場から逃げる。見られてしまった恥ずかしさと、あの場に立ち止まって演奏に聞き入ってしまった後悔がミズキの心を痛めつけた。
 


「私ね、絵を描いてる時が一番楽しいの」
 帰りのバスの中、窓側からまたマルカの声が聞こえてきた。不本意ながらも慣れてきてしまったこの現象に、ため息をこぼした。
 本当に楽しそうにうふふ、とかわいらしい声で笑っている。その声がマルカの明るい声とまったく同じだ。
「家族や友達が喜んでくれるのが嬉しくって…このために絵を描いてるんだなぁって、実感できるの!」
 あぁそう、とそっけなく返事をしてやりたかった。ミズキは最近の不調を全部この声のせいにしてイライラをぶつけたくてたまらない。
「みんなが喜んでくれるなら…みんなのためなら、頑張って絵を描けるの」
 ミズキには到底理解できない動機だった。
 結局絵を描くのは自分だけなのに、どうして人のために描けるというのだろう。ミズキが作品を完成させれば両親はとても喜んでくれたが、それの為に絵を描こうとなるのだろうか。そんな事は一切なかった。ミズキは自分の居場所がないとわかっていながらも、死ぬことも消えることもできない臆病者だ。だから、あそこにいてもいいように、絵を描き続けて周囲の期待に応えている。優先度は呼吸をすることと同じ。しかし、その居場所ももうすぐなくなるかもしれない。マルカのこの幸せそうな声が腹立たしかった。
 崖っぷちだという自覚はあるがあのキャンバスを前にして絵が描けるのか不安はある。だからといって描かないわけにはいかない。門をくぐると、出迎えたのはやはりマルカだった。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
 黙って小さくうなずいた。なるべくマルカの事を意識せず、適当に頷いて玄関まで歩いていく。しかし、玄関が近づいてきた所でマルカはミズキの前に立った。
「お嬢様…」
 いつもの明るさからはイメージできないその真剣な声と表情に、ミズキは思わず顔を上げた。まっすぐ見つめたマルカの顔に発見があった。頬に遠慮がちなそばかすがある。彼女が屋敷に来てから約1か月、ほぼ毎日会っていたがまともに顔をみたのは初めてだった。
「本当に、学校は楽しいですか?」
 突然言われた言葉に心臓がどきりと跳ねた。俯けばマルカの靴が見えた。そのつま先が、土で汚れている。
「いつも、元気のない表情をされています。何か、お困りではありませんか?学校で、お悩み事はありませんか?」
 急に絵がかけなくなって、マルカの声が聞こえてきて、先生にスランプだと言われて…
「実は私、少しですが絵を勉強していた事があります。私なんかでよければ…もしかしたら、お役に立てるかもしれませんから…」
 ミズキは、目頭に熱いものがこみあげてきたのを感じた。鼻の奥がツンと痛くなって、視界が歪む。瞬きをすれば目からしずくが垂れて、床に染みを作った。マルカもそれを見たのか、息をのむ音が聞こえた。
「あ、あの、お嬢様…?」
 涙はとめどなくあふれ、両手で顔を覆った。泣くのを我慢しようとすれば、肩が震える。
「お嬢様!」
 背後からモカおばさんの声が聞こえて、駆け寄ってくる足音が聞こえた。肩に触れる手の温度を感じて、肩の震えがおさまっていった。
「あ、あの…私は…」
「話は後で、よ。お嬢様、こちらへ」
 うろたえた声のマルカを置いて、モカおばさんに促されるまま家に入った。玄関ホールでミズキを待っていたクロエが息をのんだ。モカおばさんと短く言葉を交わし、次はクロエに促され部屋へ戻った。

――本当に、学校は楽しいですか?
 一度は落ち着いた涙が、またあふれてきた。
――学校で、お悩み事はありませんか?

 あの声でそんな事を言われるとは思いもしなかった。涙は拭っても止まらない。
 ミズキはひとり泣きながら、キャンバスに描かれていた夏の田園風景を黒く塗りつぶした。



「今日はカニの課題をお休みしよう!」
 フェンデーロ先生は今日も楽しそうだ。ミズキはトートバッグから画材を出す動きの鈍い手を止めた。提出期限が近づいているというのに、休みとはどういう事だろうか。
「この授業はカニにつきっきりだったから、息抜きに美術倉庫室の作品整理をやろう!」
 生徒はみんな口ぐちにお喋りしながらも画材を片付け、先生の指示に従って美術倉庫室に向かった。美術倉庫室は3部屋に分かれており、両隣の部屋はかつてホームクラスがあったが使われなくなったため美術倉庫室の拡張に使われている。この学校は約30年の歴史があり、卒業生の作品を残していくのには限界がある。そこで定期的に作品を整理し、今後の生徒の参考になれそうな作品かの選別を慎重に行っている。
「作品の選別はもう済んでいるから、端に寄せているキャンバスの束を4人一組で持って裏のゴミ倉庫に運び出そう。もし欲しい作品があったらあげるから言ってね」
 キャンバスがいくつか重なり結束ヒモに巻かれている。ぼんやり眺めていると、生徒たちはすでにそれぞれグループを作って運びにかかっており、先生がミズキを手招きして1人足りない組の中に入れさせた。
「じゃあ、みんな気を付けて運んでね」
 キャンバスの束を持ち上げた周りと少し遅れて、ミズキも腕に力を入れて持ち上げた。
「私、絵を描くのが好きなの…」
 またつぶやきが聞こえた。周りの生徒が喋っている声ではなかった。ミズキにしか聞こえていないだろうこの声は、同じことを何度もつぶやいていた。絵が好きでなによりだが、こちらはそんな声のお陰で心が折れそうなほど絵に苦労させられている。何度も繰り返しているそのつぶやきを全て無視して、ミズキは一緒に束を持っている生徒たちと足並みを揃えてゴミ倉庫へと急いだ。
「こんなに、絵が好きなのに…」
 廊下の突き当たりにある扉を抜けて外に出ると、つぶやいていた声がふるりと悲しそうに震えた。つぶやく内容が変わってミズキは心臓が冷えて固くなるような感覚を覚えた。次に声は何を言うのか怖くて、キャンバスの束を持つ手に力が入った。
「どうしてうまく描けないの?どうしていい成績が取れないの?私とみんなで、いったい何が違うの?」
 どうして…と、マルカの声が泣いていた。裏のゴミ倉庫までもうすぐだ。アスファルトの通路から外れて、砂利を踏む。
「こんなに頑張ってるのに…私だけ、どうしてこんなに、絵が下手くそなの…?」
 自然と歩みが遅くなるが、握っているキャンバスに引っ張られて慌てて歩みを早める。そうだ、この声は本当なら誰にも聞こえない声なんだ。気にしないで早く作業を終わらせてしまえばいい。そのはずなのに、その悲痛な声にミズキの聴覚は支配されていく。
「描いても描いても、ちっともうまく描けない。みんなの期待に応えなきゃいけないのに、こんなのじゃ、だめなのに…」
 冷えた心臓に刺さるつららのような言葉だった。この声も、自分と同じような思いで絵を描いているのだろうか。絵に対する気持ちは違えど、絵を描かなきゃいけない目的は他人事とは思えないほどミズキの心と響きあう所があるようだ。しかしキャンバスの束は、ごみ倉庫の扉の横に立てかけられた。他のキャンバスの束も重ねられていく。生徒達に混じって、ミズキは数歩下がった所でそれを見ていた。離れたところにあるキャンバスから、はっきりと声が聞こえる。
「待って、私はまだ…」
 懇願するような声だった。誰にも聞こえないはずの声なのに、どうして自分にだけは聞こえるのか。自分だけにしか聞こえない理由があるというのだろうか。やがて全てのキャンバスを運び終わり、先生は美術倉庫室の掃除をしよう、と言って戻るよう指示をした。
「もっと、私は絵を描きたかったの…」
 お喋りをしながら美術倉庫室に戻る生徒達について行こうとしたミズキの足が止まった。描きたかった?もっと?泣くほど描いてもうまくいかなかったのに?
 束を見ると、埋もれた中に悲しそうな色を放っているキャンバスが見えた。生徒達が行ってしまったのを確認して駆け足で近寄る。絵を見てみると、青い空と麦畑が広がる田舎道の絵だった。よく見ると、絵具を下地にして色のついた砂がまぶしてある。
「それは砂絵というんだよ」
 背後から声が聞こえてミズキは飛び上がった。キャンバスを抱えて振り返ると、フェンデーロ先生が微笑んで立っていた。
「60年くらい前まではジャンルの一つとしてあったんだけどね。すっかり廃れてしまって、きっとこの時にも砂絵をする生徒なんていなかっただろう。評価の難しい絵だったんじゃないかな」
 先生の説明を聞いて、もう一度キャンバスに視線を落とす。なるほど、確かに油絵などと比べるとこの絵を描くのに合っていないように思えた。声さえ聞こえなければ手に取ることはないような絵だ。
「砂絵が気になるのかい?」
 そう言われて、ミズキはキャンバスから目を離した。ものすごく真剣な眼差しで見つめていたに違いない。恥ずかしくて俯いた。耳が熱を持っている。今自分の顔は、真っ赤になっている事だろう。
「勉強してみると、いい気分転換になるかもしれないね」
 先生は、優しい眼差しでミズキを見下ろしていた。



「お嬢様、お帰りなさいませ」
 砂絵のキャンバスを抱えて門の前に立っていたミズキを迎えたのは、マルカではなくモカおばさんだった。
 そういえば、昨日マルカに話しかけられ泣いてしまってから、一度も見かけていない。疑問に思いながらもそれをモカおばさんに訊いてみる事もなく、門をくぐった。
 モカおばさんと玄関に入り、クロエに荷物を渡して部屋にあがる。いつものように部屋の明かりを点けてもらって彼女が出て行ったあと、ミズキはキャンバスをイーゼルに立てかけて指で絵をなぞる。
 うまく描けなかったのに、もっと描きたかったと言っていた。砂絵の何が、そこまで強く絵を描かせたのか。ミズキはそれを知りたかった。砂のざらざらとした感触は指を伝ってミズキの心に刺激を与えた。
 砂絵をやってみたい。そんな思いがミズキの中にそっと芽生えた。
「お嬢様。今朝ご注文頂いたものが届きましたよ」
 次の日、ミズキは砂絵を始めようと朝一番からモカおばさんにメモ用紙を手渡していた。砂絵の画材と資料を急ぎで買ってきてもらうよう書かれていたそのメモを読むなり、モカおばさんは了解の意を示して頭を下げた。
 ミズキが学校から帰ってくると、門を開けてくれたモカおばさんから画材と資料の伝票を見せてもらった。
 部屋に戻ると、部屋の真ん中にダンボール箱が置かれていた。丁寧に蓋は開かれており、耳は内側に織り込まれてミズキが取り出しやすいように工夫されている。
 さっそく箱の中を覗いてみると、色砂の12色セットに水のり、ジョウゴなど十分すぎるくらいの種類の画材が入っていた。資料は厳選されたのか、単に種類が少なかったのかは不明だが少し分厚い教科書くらいの資料が2冊入っていた。
 ミズキは箱を引きずってアトリエへ運び、砂絵に取り掛かろうとイーゼルの前に座った。その隣にはローテーブルを置き、そこに練習用の画用紙を置く。資料を開いて、キャンバスを眺めて、砂絵に取り組んだ。
「私のおじいちゃんがね、砂絵の画家だったの」
 マルカの声がキャンバスから聞こえてきた。昨日まではこの声を聞くたびに気分が落ち込んでいたが、今日は不思議と嫌ではなかった。
「うん。それで私も、砂絵を中心にして描いていきたいの。うん、そうだよ」
 話をしているのか、話していた時の事なのか、誰かと会話しているような様子だ。おだやかなマルカの声を聞きながら、ミズキはひたすら砂絵の勉強に取り組んだ。
「砂絵を描いてるおじいちゃんが好きで、その絵に憧れてるの。砂絵の魅力はみんなに伝わるって、信じているもの」
 マルカにとって砂絵は強い思い入れのあるものだからこそ頑張れるのだろう。声を聞きながら、ミズキは静かに納得した。ミズキにとっては砂絵に思い入れがあるわけではないが、砂絵の勉強は驚くほどはかどった。描きたい気持ちが先走りしないようにぐっとこらえている状態だ。砂絵が持つ魅力が、ミズキにはしっかりと伝わったという事だろうか。筆やペインティングナイフを持っても絵が描けなかったというのに、砂絵は不思議とミズキをなぐさめるように、絵を描きたいという気持ちの種を乾いた土に植えつけた。その種が芽吹くぬくもりを抱えて、思い通りに絵を描けなかったブランクを埋めるような気持ちで砂絵に向かった。
 黒く塗りつぶしてしまった田園風景は、きっと砂に姿を変えてまた現れるだろう。その時を迎えられるように、ミズキはひたすら資料と砂に向かった。

 翌朝も、ミズキを門まで見送ったのはモカおばさんだった。マルカはかれこれ2日と姿を見ていない。それを疑問に思いながらも、学校へ向かうバスの中で砂絵の資料を見ているうちに忘れてしまった。
 授業では、やはり自分の思うような絵は描けなかった。それをなんとかやりすごし、休み時間は全て資料を読む時間にあてた。
「学校の課題、提出する前におじいちゃんに見せよう。おじいちゃんは…家族はみんな、きっと私の絵を見て褒めてくれる。喜んでくれるの」
 マルカの家族に対する想いが声に出ると、ミズキの胸をくすぐった。
 バスが何度か停まった後にバスを降りた。さあ家に帰ろうと顔をあげると、そこはミズキの全く知らない田舎町だった。
 木造の平屋と、小さな畑がいくつか集まっている。ずっと向こうに見える山へ沈もうと傾いた陽は町を照らし、オレンジ色に光っていた。
 どこを見ても、一度だって訪れた覚えはない町の風景だった。どうしてこんな町を自分の家だと思ったのだろう?
 バスはミズキの背後で、排気ガスを吐いて次の停留所へと向かった。










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