→ 毒と砂 前編





 5限目の授業が終わる合図のベルが鳴ると、帰りだす生徒もいる。決して学生の本業をさぼっているわけではなく、6限目は曜日替わりでそれぞれの科が枠を持っていた。
 今日は5限目が終わってすぐ、ミズキはロッカー置き場の廊下が生徒でごったがえす前に、教科書を片付けて廊下の向かいにある美術倉庫室に滑り込んだ。
 人を避けることに気力を使うミズキは、この美術倉庫室を頼りにしていた。過去の生徒が残していった作品や、デッサンのモデルとなる教材物品、先生が気まぐれに製作したものまである。
 この薄暗く物が節操なしに積まれている倉庫は、ミズキの胸の奥にのしかかる重いものをいつでも軽くしてくれる。ここで30分ほど時間をつぶすのが習慣だったが、耳が聞こえるようになってからは生徒の声や物音が聞こえなくなるのを待っているようになった。そうすると、誰とも出会わずに帰宅できることを学んだ。
 今日もそうやって人知れず帰宅しようとした矢先だった。美術倉庫室を出ると、足元で何か蹴ってしまった。カラリと静かな音が廊下に響いた。白くて細い棒。おそらく1メートル無いくらいだろう。拾ってみても名前が書いてあるわけでもなかった。
拾ってしまったからにはポイ捨てなんてできない。少し悩んでから、ミズキは正門の守衛に預ける事にした。渡り廊下で1号館に移り階段を降りればすぐたどり着ける。
 そこでミズキは自分の考えが甘かった事を思い知った。渡り廊下で4人組の生徒に出くわし、こちらを揃って見ている。その中にはヒムと呼ばれていた盲目の彼がいた。
「あれさ、ヒムの白杖だよな」
 ヒム以外の男の子が顔を見合わせている。不運な事に、ミズキが今まさに守衛に託そうとしたこの杖を探していたようだ。
「それ、僕らが探してたんだよねー…って、耳が聞こえないんだっけ?ファラ、なんとかしてよ」
「えー、そう言うドールがなんとかしなよー」
 耳が聞こえるようになったのは学校の人間に誰も教えていない。元より報告する人なんてのもいない。言葉の通じない人とわざわざ意志疎通しようと思うチャレンジャーなんていないのは、ミズキも重々承知だったが、それでも胸の奥が重苦しくなった。彼らの顔を見ることもできず、ミズキは視線をグランドへ落とす。
「じゃあおれが言うよ」
 視界の端で誰かが手をあげたのが見えた。周りの友人達がえっ!?と声を上げる。顔をそちらに向けると、なんとヒムが手をあげていた。
 すぐそばにいた友人の手を借りて、ヒムがこちらに近付いて来た。ミズキはどうしてよいかわからずうろたえながらも、白杖をぎゅっと握りしめる。
「お、おいヒム…いけんのか?」
「大丈夫だって」
 何が大丈夫なんだろう、盲目の彼が自分とコミュニケーションを取ろうなんて。ミズキには何のつもりなのか到底理解できなかった。楽観的にさえ見える。
「あのね」
 口を大きく開けて、手を使って動かす。
「その杖は、おれのものなんだ」
 白杖を指差し、ヒムは自分を指差した。
そしてアイバンドに隠れている目を指差す。
「おれの、目の替わりするものなんだ。とても必要なもの」
 手を地面に向かって振った。なるほど、耳が聞こえなかったとしても、なんとなくわかるかもしれない。
「拾ってくれてありがとう。おれの白杖、渡してくれないかな」
 両手の平を上に向けて、ミズキに差し出した。その手に視線を落とす。
「…駄目だったのか?」
「すっごくわかりやすかったけどねぇ」
 ヒムの友達の声が聞こえる。しっかり聞こえていることを伝えたくてやきもきしたが、伝える勇気などはなかった。このモヤモヤをどうこうする事ができなくて戸惑う。
 何も見えないというのは不便じゃないのだろうか。もし自分が盲目だったら、と考えると、ミズキは自殺したい気分さえ湧いてくるほどだった。それでも彼は明るく、友人に囲まれ、耳が聞こえないと思っている相手とコミュニケーションを取ろうとしている。
 自分に不自由はないと思っているのか。その自信はどこから来るのか。ミズキには、ヒムの何もかもが理解できなかった。急にくやしくてむかついて、憤りに胸の奥が冷たくなった。彼が苦手だ。ヒムが嫌いなんだ。それを強く実感した。
 半ばやけくそに、ヒムの胸へ白杖を押し付ける。彼は少しだけよろめいて、あわてて杖を手探りで抱えた。手を離そうとすると、彼の右手がそっとミズキの左手に触れた。そして初めて遭った時のように、雛鳥を包むような底無しの優しさできゅっと握ってきた。
「拾ってくれたのが、君で本当によかった。おれは、これがないとひとりで道を歩けないんだ…ありがとう」
 握られた手から、彼の感情が一気に流れ込んでくる感じがした。涙が出そうなほどの優しい気持ちが伝わり、ミズキは自分の顔が赤くなるのを感じて、とっさに手を引っこ抜いた。
「よかったら友達に、あっ」
 ヒムの声が背後に聞こえる。彼らの間を走り抜け、1号館の階段を降りて正門を飛び出した。ちょうどバス停に帰りのバスが停まっているのを見て、そこに転がり込む。
 バスは程なくして走りだし、ミズキは窓際の座席に座って強く鼓動を打つ心臓の音を聞きながら外の景色を必死に眺めた。
 ヒムは、自分に不自由がある事をまっすぐに受け入れていた。白杖が無いと外を歩けないこと、聾唖に対しても会話できるように工夫しなければいけないこと、優しく手を握って感情を伝えること、全て自分が盲目であることを受け入れられる強さがあるからできる事だった。
 嫌いだ。自分とは、あまりに違いすぎる。同じようにハンディキャップを持っているのに、何もかもが違っている。ヒムと友達に?自分が?想像もつかない。何を考えているのだろう。嫌い、嫌いなんだ。
 しかし、ミズキにはわかっていた。
 自分が一番嫌いなのは、自分自身だという事を。今すぐ戻ってヒムに謝りたいくらいの罪悪感が、今も自分の胸の中を冷やしている正体だという事も。
 しかしそれを受け入れられる強さを、ミズキは持ち合わせていなかった。
 車窓からの景色が、じんわりと歪む。
 声にならない彼女の思いは、誰にも届かずゆっくりと渦巻いた。



 家に帰ると、先日雇われたばかりの使用人が門を開けてくれた。ずっと庭掃除を担当していたモカおばさんが今まで門を開けてくれいたが、今では彼女が出迎えてくれる。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
 モカおばさんの下で庭仕事を教わっているらしい。楽な仕事ではないだろうが、笑顔は眩しく楽しそうだった。
 「今日も学校は楽しく過ごせましたか?」
 両親と使用人達はミズキの耳が聞こえるようになっている事は知っている。玄関まで付き添う間、彼女は話しかけてくれたがミズキはいつものようにうつむきがちに小さく首を縦に振るだけだった。
 庭の真ん中には小さな噴水があり、それを囲むようにして花壇が2列になって円を描いている。そこでミズキは植えられている花が目に入った。歩みが自然と遅くなる。
「あ、今日お花の配置換えをしたんですよ。お気づきになりました?」
 それで目に止まったわけだった。色とりどりのチューリップが1列目を占めていたが、数は減り列の真ん中へ寄せられている。2列目全体と、1列目の両端に向かってピンクや紫、赤の花が新しく植えられていた。
「チューリップは元気な子だけ残して、カランコエやクンシラン達は裏庭へ移動しました。もう5月ですから、バラやダリア、マリーゴールドなど初夏の花を植えましたよ」
 噴水を通り過ぎ、ランタナの鮮やかな色を視界の両端にとらえながら玄関へまっすぐ歩いた。花の話もほどほどに、彼女はミズキの前にまわり観音開きのドアの右側を押した。
「それでは、ごゆっくりお休みください」
 ミズキが玄関へ入る時、彼女はそう声をかけた。はつらつとしたその声はミズキの頭を突くように入ってきたため少し戸惑い、彼女の顔を見れずさっと玄関へ入った。

 ホールでミズキの帰りを待っていたのだろうクロエが「おかえりなさいませ」と一礼し、ミズキのレザーリュックとベレー帽を預かった。ミズキはクロエの美しい黒髪と細くしなやかな体を美しいと思い、十歳の頃に彼女の仕事姿を盗み見ながらデッサンをした事があった。後にそのデッサンは屋敷の美術室に飾られ、それをきっかけにミズキの自室と身辺の世話は彼女の担当となった。
 クロエはミズキの後ろについて、一緒に階段をのぼりミズキの自室へ向かう。
 部屋に入り、ドアのそばにある丸テーブルの上に用意されていたルームウェアに着替える。クロエはウォークインクローゼットの扉を開けてベレー帽をしまい、レザーリュックはデスクの横にひっかけた。
 グローブを脱いで、手を握ってみる。先ほどヒムに手を握られた感覚がよみがえった。

――拾ってくれたのが、君で本当に良かった――

 手に持てる全てを込めて握ってきた彼の手が伝えてきたものは、ミズキの短く乏しい人生で経験のしたこと無いものだった。

――よかったら、友達に――

 友達に。想像もつかないし方法も浮かばない。何かの悪い冗談じゃないだろうか。そう思うものの、ヒムの手や言葉から建前の様な都合の良さを感じられなかった。久しく向けられてこなかったこの感情に、ミズキはずっと戸惑っていた。
「コンクールの日が近づいてきましたね」
 ミズキの背中に、クロエの声がかけられた。振り返ってクロエを見れば、彼女は隣のアトリエに目をやった。
「今月末が締切でしたよね。テーマは初夏だとお母様よりお聞きしましたよ」
 ミズキは初夏の絵画コンクールの存在を思い出してそそくさと着替え、隣のアトリエに移動した。絵具があちこちに飛んでいるエプロンを着けて、イーゼルに立てられているキャンバスを見た。
 たしか、近所にある田園風景を描こうとしてまだ下地を塗っているところだった。
「カーテンは閉めてライトを点けておきますね」
 クロエの気遣いに頷いて返し、丸椅子に座ってキャンバスに向かい合う。ドアの閉まる音が遠くに聞こえた。何枚も撮った写真をサイドテーブルの上に広げて眺める。
 その中から1枚手に取ってじっくりと眺めた。写真を撮りに行った日曜日の昼の事が思い出される。
 爽やかな青い空に対し白い雲は、真夏のどっしりとした積乱雲になる前のまだ未熟な雲だった。その下に広がる緑に艶めく葉は稲の葉で、そよ風に揺らいでいた。田と水路の間に立てられた柵の傍には荷車が置かれ、活躍の時期を待ってじっとしていた。
 ミズキは初夏に色づく風景を見てふと気づいた。
 目が見えないという事は、白や黒がどんな色かもわからなければ、明るい暗いの意味もわからないんじゃないだろうか。
しかしミズキはそっと握られた彼の手から確かに見たのだ。
 あの手から、色が見えた。命の燃える暖かい色が。
 全盲の彼がどうやって色を表現するというのだろう。そんなばかな話はない、と思い至ったミズキは、絵の続きをするためペインティングナイフとパレットを手に取った。
 夕食までの90分はあっという間に過ぎてしまった。クロエがミズキを呼びながらドアをノックしている。しかし呆然としてキャンバスの前から動けないでいた。
 無理やり描いたような、味気のない乾燥した田園風景の下地。初夏の爽やかさなど忘れてしまったさびれた風景だった。いつもなら一度集中すると泉のように色があふれ鮮やかな絵が描けるというのに、この絵は自分が描いたものとは思えないお粗末な絵だ。
 まったくもって信じられない。理解できない。
 ミズキは、こんな絵は自分の絵じゃないと否定したい気持ちでいっぱいだった。



 空は曇天。そしてミズキの機嫌は雨模様。家を出た時に見送っていた新人の使用人は、昨日と同じように満面の笑みで元気いっぱいに「いってらっしゃいませ!」なんて言っていたような気がする。きっと反応は何もしていない。
 今回もちゃんと入賞できるように絵を描かなくてはいけないのに…自分があんなお粗末な絵を描いてしまうとは…
 ぐるぐる考えているうちにバスに乗って学校に着いてロッカーから教材を取って教室に着いた。そこでミズキはやっとのことで我に返る。左右に延びる横に長い第二美術室の廊下側、右から4番目の席がミズキの定位置。それとなく出来上がっているグループが周りに散らばり、眠そうな会話がちらほらと聞こえてくる。ミズキは、必死に聞こえないふりを授業が始まるまで続けた。
 1限目は造形の授業だった。
「みんな、おはよう」
 くたびれた白衣と、自称チャームポイントのしなびる黒髪が相変わらずのフェンデーロ先生が陽気に挨拶をしながら教室に入ってきた。彼はミズキたちのホームクラスの担任だ。
 ぽつぽつと適当に挨拶をする生徒を一瞥し満足したのか、先生は心底楽しそうに教壇に手持ちの雑誌を置いた。
「造形は楽しいね!今月の課題も楽しいね!」
今月の課題は、確か…
「さぁ、カニを作ろう!」
 …そうだ。カニだった。
 フェンデーロ先生は博物画を得意としており、動物も植物も得意として描いている。その昔、美術作品はもちろんのことながら図鑑のイラストをいくつも手掛けたという。教壇の後ろにある個室には、先生が描いた動物や植物の絵が飾られている。
 そして今月は、「カニ」を画用紙で形を作り図鑑を見ながら色を塗るという課題に取り組んでいる。
 教壇の向かい、奥にある物置には棚があり、そこには在校生の完成途中の作品が置かれている。生徒はそれに群がり各々のカニを取り出した。ミズキは一歩遅れつつ、やっと順番が近づいたところで、生徒達の頭の隙間から棚を覗き自分のスペースを見てみる。そこでミズキはふと気づいた。自分のスペースはどこだっただろう?
 左上の辺りだった気がするが、自分の名前のラベルが見つからない。この辺りではなかっただろうか?おかしい。周りの生徒が次々と自分のカニを取って机に戻っていく。このままではひとり棚の前に取り残されてしまう。ミズキは上から下まで必死に見回すが、自分の名前を見つける事ができなかった。
「ミズキくん、自分のスペースが見つからないかい?」
 いつの間にか先生が隣に立っていた。先生の方を見たついでに背後を見てみると、すでに着席した生徒のほとんどがミズキを見ていた。自分のスペースを見つけられない自分を、みんながまだかと見つめている。窓際でお喋りしている生徒はきっと自分の事を話しているに違いない。
 さっさと自分のカニとにらめっこしていればいいのに。みんな暇をしているのに、先生もそれを顧みずに自分にかまうからみんながこっちを見てしまう。ミズキは苛立たしさと恥ずかしさがごちゃまぜになって、棚に向き直ってうつむいた。先生がミズキの肩にぽんと手を置く。
「僕は移動した記憶はないんだけどね…ほら、いつものところにあったよ」
 右下の方向、先生が指差すところにミズキの名前が書かれたラベルはあった。中からカニを取り出してみると、脚だけ色が塗られていない。たしかに自分のカニのようだ。
 どうして自分のスペースが左上だなんて思ったのだろう?先生の言う通り、入学してからスペースの場所はずっと変わっていない。ただの思い違いだろうか?
 考え事が進まなければ作業も進まない。パレットに青色や茶色の絵具を少量取り、平筆でいじくりまわすだけで時間は過ぎて行った。
 黙々と進める人もお喋りしながら進める人もみんな順調に進んでいるというのに、ミズキは何もできずにただそこにいた。
 自分のスペースの場所だけじゃない。色の塗り方も忘れてしまったようだった。描くものを思い浮かべれば、いつもなら乗せる色の種類も順番も泉のように湧いてくるというのに、泉は枯渇したまま一滴も湧いてくる気配はない。
 不完全なままカニを提出するわけにもいかない。期限も完成度も守るためには今日、少しでも進めなければ。おもちゃのようなカニしかできませんでした、とみっともなく提出してAよりも低い評価を点けられるなんて考えられない。
 ミズキにとって自分の作品が高い評価を受けるという事は、至極当然にして自分の存在証明となる事だった。
 自分の作品が見られ、周りから認められ、親は喜びミズキは期待に応えられる。言葉を話せず外向的でもないミズキの限られた自己主張の手段が美術だった。この評価を維持しなければ。手放してしまえば、誰もミズキに期待はしないし認めてもくれない。
 このままではいけない。ミズキは不意に焦りを覚えて、パレットの上の平筆をカニの脚に滑らせてみた。
「・・・・・」
 授業終了のベルが鳴る中、棚の前に呆然と立ち尽くしたミズキの左右を、生徒達が次々と通り過ぎていく。みんながカニを収めた棚の中。右下にあるミズキのスペースには、おもちゃの義足をつけられたカニが無残にも倒れ込んでいた。



 家に帰れば干ばつしたような田園風景のキャンバスが待っている。あんな絵を描いてしまうなんて…ミズキはひとり、ロッカールームを歩きながら恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。あんな絵をミズキ・ダリアスの名前で出す事は許されない。
 ロッカーを開けてみると、やはり薄暗く味気のない風景があった。とりあえず早く家に帰って、絵の続きを描かないと。早く自分の調子を取り戻さなければ。もっと、
「もっと、うまく、描かなきゃ…」
 突然背後から自分の台詞を言われてミズキは飛び上がった。後ろを振り返ってみたが誰もいない。物音一つしないロッカールームには、ミズキ以外誰もいなかった。
 自分のすぐ後ろ、耳元で囁くように女の子の声が聞こえたのに誰もいない薄気味悪さが体全体を走った。教科書をロッカーに詰め込んで、それが崩れる前に扉を素早く閉めた。早足でロッカールームを出て、校門へ向かう。声は追いかけてこなかった。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
 家に着けば新入りの使用人が満面の笑みでミズキを迎えた。雨に降られないか心配でした、だの学校は楽しかったですか?だの玄関に着くまでの短い時間に一生懸命に話しかけられたが、適当に首を縦に振ってやりすごす。玄関に着くと彼女はすんなりと身を引き、クロエがホールでミズキを出迎えた。
 部屋に戻り絵の続きをする準備にとりかかる。クロエは今日もまたカーテンを閉め切ってライト点けた後に一礼をして出て行った。
 ミズキの脳裏に浮かぶ田園風景はいつだって爽やかな色彩とノスタルジックな風景のままだ。自分が見た風景は変わらないのに、自分が描いた絵はどうしてこんなにも変わってしまったのだろう。気を取り直してペインティングナイフを取ってパレットの上で絵具を拭った。

「ミズキはかわいそうな子ね」
お母さんはミズキに向かってそう呟き、ハンカチの端で目頭を押さえた。10歳の頃に聾唖となってしまったミズキを両親は心から憐れんでいた。それまでは耳が聞こえていたし、言葉も話せていた。それが5歳の頃に聞こえなくなった。その時なぜだか、ミズキは言葉を話さなくなっていた。声が出なかったわけではないが、話すことをやめてしまっていた。両親はショックを受けて色んな検査を受けさせたようだが、ついに原因はわからなかったという。しかしそれは9歳の頃にまた急になおってしまった。両親は喜んでいたが、1年と経たないうちに聾唖に戻ってしまった。このきっかけをミズキははっきりと覚えているが、その記憶にはずっと蓋をしたままでいる。
 お母さんは聾唖に戻ったミズキを哀れに思って涙を見せていたが、ミズキは困惑するだけだった。
「聾唖になろうが、ミズキが心配することはなにもない」
 お父さんはきれいな背広を着てずっと笑顔のまま。困ったお父さんをミズキは今でも見たことがない。この時も、お父さんは泣いているお母さんの肩を抱いて笑顔でミズキの頭に手を置いた。
「ミズキは絵を描いてくれるだけでいいよ。お前の素晴らしい絵をたくさん描いて、家をその絵でいっぱいにしておくれ」

 キャンバスの表面をすべるペインティングナイフが少し震えた。へたくそな絵を描いている場合ではない。両親の期待を裏切るような事はしたくない。世界から自分が切り離されてしまっては、それをなんとか繋ぎ止めてくれている絵は、せめてもっとうまく描かなければ…
 ミズキの背後、壁際のデスクの辺りから、カランと何かが床に落ちる音がした。もちろん、部屋にはミズキ以外誰もいないし、窓はクロエが閉め切っている。ミズキはここから一歩も動いていないので物が落ちる事なんかないはずだ。振り向けないでいると、学校で聞いたあの声がすすり泣いているのが聞こえた。
「どうして…うまく描けないの…こんなにへたくそじゃ、だめなのに…」
 この声に、聞き覚えがあった。誰の声だっただろう。いや、違う。うそだ。こんなの幻聴でしかない。ロッカールームでも、誰もいなかったんだ。ミズキは聞こえていないふりをして一生懸命キャンバスに向かった。
「期待に応えなくちゃ…こんなの、恥ずかしくて誰にも見せられない…」
 そんなの、言われなくたってわかっている。こんな絵を描いていては、きっと…
「ここにいる意味がなくなっちゃう…」
 ミズキはたまらなくなって、後ろを振り向いて声のした方へ自分が持っているペインティングナイフを投げつけた。その方向にはもちろん誰もいない。声はもう聞こえなくなっていた。ペインティングナイフはデスクの下にあるチェストに当たって、カランと音を立て床に落ちた。
 悔しい気持ちいでっぱいのミズキは、その場で崩れるようにうずくまって肩を震わせた。



「失礼します」
 朝の支度のため、部屋に入ってきたクロエと着替えを済ませると、クロエはベレー帽とレザーリュックを持ってダイニングに降りるミズキの後ろを歩き、玄関の前で立ち止まった。ダイニングの扉の前では、あの新入りの使用人とモカおばさんが両脇に立ってミズキに一礼した。
「お嬢様、おはようございます」
 ダイニングに入る手前で、新入りがミズキに深々と頭を垂れてあいさつをした。それを聞いてミズキは心臓が小さく跳ねるのを感じた。ダイニングではお父さんとお母さんがすでに席についている。
 あの声は、間違いない。学校でも、家でも聞こえていた姿の見えないあの声だった。 









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