「ねぇ、兵助。これさ、何を飼ってるの?」
「うわっ。きったねぇ。ちゃんと、掃除しろよ」
「兵助にしては、珍しいな。ハチならともかく」
「何だよ、それ」

緑色に飲み込まれた、金魚鉢を見た途端、胸が騒ぎ出した。ふと、「先輩」と、俺を呼ぶ声が聞こえた。目を瞑れば、今も、瞼裏に鮮やかに映るヴィジョン。ずっと消し去ることのできなかった、過去。忘れようとすればするほど、記憶に棲みついている彼がよみがえる。

(まだ覚えている、やわらかな痛みと共に)

「兵助?」
「どうかしたのか?」

何か聞きたそうな友人たちに「…いや、何でもない」と、あえて、意識の向こうに追いやる。目を瞑っても、違う方向を目指したとしても、必ず還っていくのはそこで。何をしても、何を考えても、まだセピア色にすることのできない、そいつの笑顔に辿り着くのだ。

「綾部」

三人に聞こえないように、そっと、その名を呟いてみる。久しぶりに口にしたその言葉が、静かに空気を震わせた。まるで、言霊が息づくように。あの夏から、どれくらいの季節を生きたのだろう。



***

綾部との出会いは、もう、思い出せない。いつの間にか、綾部は一人暮らしの俺のマンションにいたからだ。空気よりも自然に、前からそうだったかのように、俺の生活に溶け込んできたのだろう。ただ、覚えているのは、綾部は何も持っていなかったということだけだった。たったひとつ、オルゴールボールを除いて。

綾部は、とても気ままだった。夜中に突然「散歩に行きませんか?」と誘ってきたり、朝からずっと床に転がって眠りこけてみたり。たくさんの食材を買い込んで、無国籍なのか多国籍なのかわからない料理を大量に作ったりした。

正直、面倒な部分もあったのかもしれないけど、でも、それに付き合うのに嫌な感じはしなかった。

ぐっと、息をひそめているかのような闇にちりばめられた星の美しさだとか。ふ、と今が何時なのかもわからない、妙な不安感と高揚感が入り混じる眠りから浮上することとか。机の上にずらりと並ぶ料理に圧倒されつつ、なんだか、あったかい気持ちが、「しあわせ」という言葉が思い浮かぶこととか。

そんな気ままさのある綾部は、とても似ていた。ある日突然俺の前から消えてしまった、あの野良猫に。闇よりも深い毛色の、あの温かな野良猫に。けれど、綾部のその細い首にかけられた銀色のネックレスは、飼い猫の鈴を思わせた。逃げれようのないものに束縛されているんじゃないか、とも思ったけど、改めて聞かなかった。綾部がどこの誰なのかなんて。そんなこと必要ないと思った。綾部が綾部でいる限り、出自も素性も関係なかった。

「これ、オルゴールボールって言うんです」

綾部は、肌身離さずにそのネックレスを持っていた。銀色のチェーンは体の一部のように、綾部の白い肌に馴染んでいた。チェーンの先にある球体が、どことなく重そうに揺れていた。

「オルゴールボール?」
「えぇ。……綺麗な音がするんですよ」

俺の問に小さく微笑みながら頷くと、綾部はネックレスを首から外し、そっと、空中でかき揺らした。この街の喧騒にかき消されてしまいそうなくらい。空気の震えほどの、幽かな音。

-----綾部の瞳に似た、透いた音。

「いい音だな」
「宙の音って言われてるんですよ」
「……ソラの音?」
「はい。宙が震える音。宇宙には見えないものがたくさんあって。それらが、ぶつかり合っててて。その振動が音として聞こえるそうなんです。……衝突の音なのに、すごくすごく綺麗で倖せそうな音を奏でることができるって、すごいですよね」

それが本当だったのかどうかは、わからない。下手をすれば、頭が少しおかしな人か、変な宗教かもしれなかった。けれど、あの頃、そんなことは全然問題じゃなった。それを信じさせられるくらい、澄んだ音色には変わりなかったから。綾部の瞳は、まっすぐで、覗き込むのが怖いくらい清んでいていて。たとえ綾部に騙されたとしても、そんな自分を赦してしまうであろう、そんな何かがあった。

「人間もそうであればいいのに」

そう言った綾部の、どことなく祈りに縋りつくような眼差しは、俺の中に、くっきりと刻みこまれている。



***

深く沈めたはずの記憶の断片は、時々、浅いところに浮かんできて。あの頃答えられなかった問いを、俺に突きつける。「いつか答えを見つけれるだろう」と思い聞かせてきた俺は答えることができず。その事実は、俺を深く深く抉る。「何も変わってない」と。そして、また、やわらかな痛みが増えていく。それは、息をすればするほどに失われていく酸素を求める鉢の中の金魚のようだった。息をしなければ死んでしまうのに、息をするたびに死期が近づいてくる。朦朧とした意識の中で、痛みを享受していく。

祈りよりもずっと遠いところで、綾部は何に縋っていたのだろう?

綾部、とその名を口にする瞬間、俺はいつも綾部の、厳しい横顔を思い出す。ソファにその身を沈めて。その身に、孤独を抱かかえて。そして、窓の向こうを眺めていた。気ままな生活の楽しかった思い出よりも先に、その何かに縋りつくような、死を見つめるような横顔が、いつだって脳裏に過るのだ。

沈んでいく沈黙は、まるで蟻地獄のように、一度落ちたら抜け出せないような気がして、俺は名前を呼んだ。「綾部」と。ふりかえると、宙の音。さっきまで湛えていた厳しい表情はもうどこにもなく、柔らかな微笑みを浮かべ、ただただ穏やかな空気を綾部は纏っていた。

「何考えてた?」
「なにも、」

その風景を見ているかのように、愛しむ眼。凛としたまっすぐな背筋は、綾部の「意志」を着ているようだった。ごぉごぉと、外は真っ黒にとぐろを巻くような嵐の中で、そこだけが静かだった。気付いていた。いつか、綾部はこの部屋からいなくなる。ここに来たのと同じくらい唐突に、そして、空気に消えてしまうように。確信にも似た思いに気づいていながら、俺はその現実を見ないように見ないように、先延ばしにしていた。そうすれば、そんな未来は来ないんじゃないか、って心のどこかで思っていた。



そして、それは夏の終わりに訪れた。



***

偶然通りがかった縁日は、どこからこんなに人が集まってくるのか、黒山の人だかりだった。肌に纏わりつく生ぬるい熱は、それでも、初秋の風に浚われる。喧騒の中、俺たちは手を繋ぎ、黙ったまま歩いていた。

「綾部?」

握りしめた手が、不意に引っ張られた。唐突に止まった俺達を周囲は迷惑そうに、それでもゆるやかに避けていく。足を止めた綾部の視線を辿ると、煌々と電灯でオレンジ色に照らされた大きなタライがあった。エアポンプからは白い泡が吐き出されているのに、泳いでいる金魚は口を大きく開け、息苦しそうだった。

(まるで、綾部みたいに)

「欲しいの、金魚?」

こくり、と頷いた綾部を見て、俺はお金を払うために繋いでいた手を離した。

結局、100円のモナカで綾部がすくったのは、黒色の金魚、ただ1匹だけだった。金魚よりも水の重みが、腕に食いこむ。透明のビニール袋の中で、赤色と黒色が帯のように、ひらひら、揺れた。全然取れなかった綾部に、屋台の人が赤いの一匹をおまけして入れてくれたのだ。綾部は、それを嫌がっていたけど。

「何で、赤いやつ貰おうとしなかったの?」
「だって、変じゃないですか。赤いのに金魚って」
「それ、おかしくないか? 黒はいいのか?」

縁日から離れ、喧騒が剥がれおちていくと、小さな虫の声だけが取り残された。黙り込んでしまった綾部を、ちらり、と覗き込んむと、その横顔は何故か厳しい面持ちだった。諦観と希望の狭間で、危ういバランスを取っているような、そんな表情。

---------それからすぐ、宙の音が、消えた。

黒い金魚が死んだ次の朝、綾部は散歩に出掛けたまま、帰ってこなかった。水面に浮かんだ黒い金魚のお腹の下で、赤い尾びれが揺れていた。俺は何するでもなく、ただ、その光景を眺めていた。
しばらくして、赤い金魚も死んでしまって、金魚鉢は藻に呑まれてしまった。

「綾部……」

そうして、気がつけば、もう綾部のことは思い出す存在になってしまった。まるで、遠い過去に棲んでいる人みたいに。死人とか逢えない人みたいに。あれは、綾部と過ごした日々は夢だったのだろうか、と、ただ、現実感のない痛みだけが残ってる。



***

「なぁ、三郎、窓開けて」
「雷蔵、冷房かけてるんだぞ?」

水槽で目を開け眠っている魚のように、ガラスに隔たれているみたいに、目の前にいる友人たちが遠い。

「あんまクーラーの中いると、体、変になっちゃうよ」
「それもそっか……あ、お祭り」
「マジ!? 行きてぇ」

窓を開けると、遠く、お囃子の音が飛び込んできた。縁日の綿菓子のような、気持ち悪いほどに甘ったるい感情が生まれる。眩しい屋台の照明、必死に生きていた金魚、綾部の手の温もり。過ぎる過去は、ライナスの毛布のように温かく、そして、ちくりと、やわらかな痛みに包まれる。

--------あの夏から、独り、取り残されたまま。

「あ、そうだ。兵助、これ、届いてた」
「おぃ、三郎。何、勝手にやってんだよ」
「兵助が溜め込んでるからさぁ。親切だろ」
「親しき仲にも礼儀ありだよ」

騒いでいる三人を横目に、俺の意識は三郎の持っていたポストカードに吸い寄せられていた。

「兵助?」
「どうかしたのか?」

差し出し人の署名すらないポストカード。貼られた切手に刻まれていた消印は、聞いたこともない街の名前だった。でも、見た瞬間、わかった。宙の、写真。聞こえた。 「先輩」と。綾部の声と、宙の音が。懐かしいその音色は、まっすぐ、俺の中に確かに響いた。

「どうしたんだ?」
「兵助?」
「……何でもない…それより、早く行こう」

きょとんとした面持ちで、「へ?」と問い返してきたハチに、「お祭り、行くんだろ?」と問いなおす。途端に三郎が、「射的で勝負な、ハチ」と嬉しそうに膝を叩いた。それをなんとも言えない表情で見ていた雷蔵が、不意に、俺の方に向き直った。

「兵助は?」
「俺? 俺は、金魚すくい」
「金魚すくい?」

三人の視線が、藻だらけの鉢に注がれるのを見て、俺は小さく笑った。「そう。金魚鉢を掃除して、飼うつもり。赤いのと黒いのをな」と。一瞬、聞こえた、宙の音。その向こうに見えた、綾部の笑顔。やわらかな痛みは、もう、しないだろう。

もう、しないだろう。

I know you never gonna stay.
I am lost to you from these days.
I fettered by memories of the past.

-----I will be able to say "Good bye" at last.





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