※若干、タカ→綾


パカパカと点滅しだした歩行者信号が目に留まる。ここの信号は一回一回が長いし、待ち合わせをしてるから、と気がはやったけど走る気にはなれなかった。すでに赤のランプが灯ってるのに、わずかに小走りになった周囲の歩みに流され、横断歩道へと押し出されそうになる。車道とぎりぎりの境で踏みとどまったら、後ろから来たおっさんがぶつかってきた。嫌な顔を僕に向け、小脇に上着を抱え直すとそのまま走り抜けていく。ちらり、と視線を上げると向かいのビルの窓にはくっきりとした青空が映っていた。燦々と降り注ぐ太陽に反射して眩しい。異常気象だ異常気象だ、とテレビが叫ぶようになって、何年、経ったのだろう。

(たしかに、『あの頃』よりは暑いもんねぇ)

滲む汗をズボンで軽く掌を拭って、折りたたみの携帯を開ける。右端のメールボタンを押すと新規作成画面が現れた。そのままグループ名検索を選ぶと、画面に宛先が出た。たった一つだけ。『綾ちゃん』という文字を選び、確定ボタンを押す。ここから待ち合わせまでの時間を考え、謝罪と言い訳と誤魔化しの絵文字を織り交ぜて遅刻することを知らせる文面を、さっと作り上げる。
と、隣から嬌声と共に熱のある視線が放たれているのを感じた。ちらり、と意識を向けると、女の人達が僕のことを話題にしているのが分かった。僕と綾ちゃんの間くらいの年だろうか、キレイに着飾った二人組がくすくす話をしてる。「話しかけてみてよ」「えーなんて?」「ファンですって。でさ、髪とかのこと教えてもらったら、ラッキーじゃん」と興奮を隠しきれない声に僕は困った。話しかけられたらますます到着が遅れちゃうなぁ、と、どうやって振り払おうか考えていると、手の中の携帯が震えた。

(あ、メール。綾ちゃんからかな)

受信ボックスには予想通り、綾ちゃんからのメールが来てた。画面には『待っています』という6文字しかなかったけど、ボタンをあちらこちら叩いて、返信に集中するふりをする。のんびりとした鳩の鳴き声のようなものが耳に入ってきて、顔を上げると目の前の信号は青をさしていた。いつの間にか溢れかえっていた背後の人波に飲まれ、僕も横断歩道を渡り出す。









***



美容師という職を選んだのは、自分自身だった。『あの頃』に髪結いをしていたから、今も髪をいじるのが好きなのか、それとも髪をいじるのが好きだから『あの頃』も髪結いをしていたのかは分からない。ただ、指で梳く瞬間や、懐かしく、そして愛おしいと思うのだ。それとは別に、この仕事に就いた理由があった。

(へーすけ君に、もう一度、逢いたい)

自分がこうやって生まれかわってきたんだから、他にも同じような人がいるんじゃないかって。けれど、その期待とは裏腹に誰とも出会えなかった。探すにはあまりに広すぎて、今の自分はあまりに無力だと思った。なら、ここでもカリスマ美容師になればいい、と。そしたら、誰かに見つけてもらえるんじゃないかって。『あの頃』と繋がりのある人を探そうというよりも、見つけてくれればいいや、と半ば投げやりの気持ちが占めていた。

カリスマ、には、まだ程遠いけど、そこそこ名が知られてきたある日、アシスタントの女の子が休憩中の僕の所にやってきた。


「タカ丸さん、お客さん」
「だれー?」
「すっごい美少女ですよ」
「美少女?」
「えぇ。あ、『綾部って言えば分かるかもしれません』って」

彼女が告げたその名前に、ことり、と心が音を立てた。「お久しぶりです……で、いいのでしょうか」と軽く黙礼したその子は、あの頃と変わらぬ柔らかい髪をしていた。


(最初に出会ったのが綾ちゃんだなんて、やっぱり、神様はいるのかもしれない)



***


込み入った話になるだろうと近くの喫茶店に誘った。『あの頃』と同じように並んで歩くけど、何を話せばいいのか分からなかった。聴きたいことはいっぱいあるのに。沈黙を引き連れて、店のベルを奏でた。
お好きな席に、と言われて一番奥を選ぶ。ガンガンに暖房が炊かれた店内に、羽織っていたダウンジャケットを脱ぎ、空いていたイスに書ける。綾ちゃんも、雪のような白いマフラーを外した。寒さのせいか頬や鼻の頭が少し赤くなっていた。笑顔で近寄ってきた店員に、僕はミルクティーを綾ちゃんはブラックを頼んだ。また、沈黙が落ち込む。所在なさそうに綾ちゃんは指をすりあわせていた。



「おまたせしました」

どれくらい時間が経ったんだろう。にこやかな声を響かせて、綾ちゃんの前にコーヒーが置かれそうになり、「あ、こっちね」と軽く手を挙げた。「あ、」と頭を軽く下げる店員さんに、「いいえー」と答えてカップを引き寄せると、暖かな湯気が揺れ、鮮やかな茶葉の匂いが上り立った。伝票を置いて「ごゆっくりどうぞ」と下がっていくのを横目に、朽ち葉色の紅茶にミルクを落とす。ぐるり、と白く巻く渦が少しずつ崩れて滲んでいく。一度だけスプーンで円を描くと紅茶は一気にミルクに浸食され、むらのあったそれは均されて、ヴァニラのような優しい色あいに収まっていた。カップを持ち上げると、さっきよりもほわりと心を満たすような匂いに包まれる。
綾ちゃんは店員が運んできたカップの縁を撫でていた。僕の視線に気付いた綾ちゃんは「相変わらず、猫舌なんですよ」と伺うように言った。そうだったっけ、と『あの頃』の綾ちゃんについての記憶を呼び覚まそうとするけど、そうだった気もするし違った気もする。どうやら僕の記憶は、思ったよりも曖昧なのかも知れない。このミルクティーみたいに、一度混ざってしまうと、分離するのは難しいのだろうか。ただ、綾ちゃんとのことでよく覚えているのは『彼』を巡ってのことだ、ということははっきりしていた。呷るように、紅茶に口を付ける。喉の奥を茶葉の苦みがかすっていく。覚悟を決めた。

「綾ちゃんは、どこまで?」
「わりと。学園にいた頃のこととか卒業後のこととか、……それから最期のことも」

それだけ言うと、綾ちゃんは目だけで「タカ丸さんは?」と問うてきた。

「僕も、そこそこ覚えてるのかな。……だから、今でもこんなことしてるんだけどね」
「おかげで、見付けることができました」

柔らかな笑みを零すと、綾ちゃんはようやくカップに指をかけた。『あの頃』は土で汚れていた白い指先は、僕たちが出会った時の制服みたいな、ラズベリーのようなおいしそうな色をしたスカルプチャーで飾られていた。黒彩に沈みこんだコーヒーの水面は揺れて映りこんだ景色が歪んで見える。でも、その中にる綾ちゃんが泣き出しそうに見えるのは、そのせいじゃないだろう。

「他に、誰かと出会った?」

一口飲み終わるのを見計らって問いかけた僕に、綾ちゃんは目を伏せてそっと首を振った。ソーサーに触れたカップが、かちゃり、と音を立てる。探しても探しても見つからない日々。鮮やかに残る記憶。誰にも分かってもらえない痛み。それらが一気に甦る。

「いいえ。誰とも。滝とか三木とかとも」
「そっか……辛かったね」
「仕方ないですけどね。確率的な問題で言ったら、タカ丸さんと会えたのも奇跡に近いですし」

諦めにも近い声は、覚えがあった。誰にも出会えなくて、分かち合うことができなくて。ただただ苦しみだけが募っていく日々に、僕は『あの頃』に出会った人達を見つけることを諦めた。その代わり、美容師としての仕事に打ち込んだ。

(有名になって、そしたら、誰かに見つけてもらえるんじゃないかって)



そのまま感傷に落ちていきそうな流れを止めたくて、話題を探す。ふ、と綾ちゃんの白い手首に巻かれた腕時計が目に入った。柔らかい光沢を放つそれのベルトは細く、そして、美しいラインをしていた。男物ではこうはいかないよなぁ、とその繊細さに目が惹かれる。

「でも、びっくりしたなぁ。綾ちゃんが女の子になってたなんて」

『あの頃』こそ女装の授業があったとはいえ、会いに来るのにスカートで来る必要はないだろうと軽口を叩くと、頬がぷくりと膨れた。

「それは言わないでください。全てが鬱陶しいんですから。
 スカートとかブーツとか歩きにくいし、座るときも気をつけなきゃいけないし」
「髪だけでも、切ってあげようか?」

そういえば、さっきから綺麗に磨かれた爪で落ちてきた髪を何度も耳にかけていたことを思い出した。いらいらとした様子にそう提案すると、興奮のあまり上がっていたトーンが、ふ、と小さくなった。長いまつげが伏せられ、瞳が一気に翳る。

「いえ。願掛けしてるんです。会えるようにって」

綾ちゃんは『誰に』とは言わなかった。僕も『誰に』とは言わなかった。綾ちゃんの淋しさに共鳴する。



「……馬鹿だと思いますか?」
「思わないよ」

自嘲的な笑みを浮かべた綾ちゃんに、そう答える。自分もそうだから、という言葉は言わなくても伝わるような気がして、そのまま押えたけど。まるで海の水を飲んじゃったみたいに、ひりひりと喉が痛い。目を閉じたってまるでそこにいるみたいに、ずっと記憶に住み続ける彼に心の中で呼びかける。

(兵助くん、どこにいるの?)

よかった、と安堵の息のような小さな声を漏らし、コーヒーに口を付けようとした綾ちゃんは、何かを思い出したように、ふと小さく笑った。

「待ってるだけじゃ、と思って、色々と見つける努力をしたんですよ」
「見つける努力?」
「例えば、豆腐会社に就職してないか、とか、豆腐屋に生まれてないかとか、色々電話もしたんですよ」
「そ、それは、すごいね」
「見事に空振りでしたけど。よぼよぼのおじーちゃんでも、生まれたての赤ちゃんでもいい」

僕を見遣る綾ちゃんの視線が真っ直ぐで、あまりに真っ直ぐで、あぁ、と僕は思わず目を反らした。



「それでも、先輩に、久々知先輩に、もう一度逢いたい」




***

「じゃぁ、ここで」

地下のコンコースは風が通り抜けないせいか、ひどく熱が籠っていた。電車の往来を告げるアナウンスがひっきりなしに頭上を飛んで行く。電光掲示板を見上げると、ちょうど綾ちゃんの家の方向の電車が来る所だった。ひらひらとしたシフォンのスカートには不似合いなぺたんこサンダルが歩みを止める。いつもと変わらないはずなのに、頼りなく感じてしまうのは、あんなことを言われたからだろうか。


「じゃぁ、髪、切ってください」


まだ、耳がざわざわしてる。こっちで再会してから半年。そんな事を言われたのは初めてだった。あの日ホットを頼んでいた綾ちゃんは、今日はアイスコーヒーを飲んでいた。どうしようもない喪失感をぬぐえないまま、季節だけが巡っている。

「家まで送ってくよ」
「大丈夫ですよ。こっから遠いですし」
「でもさ、仮にも女の子なわけだし」

また気を悪くするかな、と思いながらもそう言うと、まるで憑き物が落ちたみたいに、すっきりとした顔で「駅には親が迎えに来るので」と丁重に断られた。「それじゃぁ、」と階段を使って地上のホームへと上がっていく背中を僕は見送ることしかできなかった。サンダルから覗く白い足が僕の目の高さぐらいの所で、思わず「綾ちゃん、」と呼びとめていた。くるりと綾ちゃんが振り返ると、柔らかなスカートが揺らめいた。何でそんなことしちゃったんだろう、と思いながら佇んでいると、綾ちゃんが笑った。

「タカ丸さん」
「ん?」
「今日は、愚痴に付き合って下さって、ありがとうございました」

泣き出しそうな眼差しは、けれど、強い光を宿していた。再会を果たしたあの日、「もう一度逢いたい」と僕に告げた時と変わらない、真っ直ぐな眼。探しても探しても見つからない、その苦しみから逃げてしまった僕とは違い、立ち向かっていくその姿は僕の記憶に棲む『綾部喜八郎』だった。とても気高く、とても綺麗だと思った。

「あ、電車が来た。それじゃぁ、さようなら」
「うん。ばいばい」

前だけを見据えて歩いて行く背中が遠ざかっていく。到着した人たちが波打って降りてくるのをかき分け、プラットホーム階段の向こうの光に呑まれて、見えなくなった。どうしてだか分からないけど、一瞬だけ、浮かんだ想い。

「もしさ、へーすけ君が見つからなかったら、僕にしとかない?」

そっと胸の中だけで呟くと、瞼裏の兵助が静かに笑った。

(ごめん、ね。兵助君。一瞬だけでも、そんなことを思っちゃって)




うまく言葉になりませんように

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