「雷蔵?」

ツン、と右耳のコードが引っ張られて、ふ、と歩みを止めて振り返る。隣をずっと同じテンポで歩いていた雷蔵がその場で立ち尽くしていた。もう一度「雷蔵?」と呼びかけると、は、っと顔を上げて、こちらの方を見ていた。ゆらゆらと揺れている視線は確かに向けられているのに、そこに宿る光はずっと昏くて。

(あぁ、)

おそらくは『あの頃』を思い出したのだろうと、彼の面持ちにそう悟る。
思わず雷蔵の方へ伸ばそうとした手は、けれども、結局、その場で空気を掴んだだけだった。

(----------何て言う?)

何度も自問したけど結局答えの出ないままのそれが、彼へと伸ばす手にブレーキをかけていた。それが伝わったのだろうか。痛みに耐えるような表情はすぐに押し殺されて、あやふやな笑みへと塗り替えられる。せめて、ともう一度その名を呼ぼうとした瞬間、「何でもない」と遠慮がちな声が外気に触れていた左耳から届いた。弱々しく、けれど、頑ななまでに言い切った靭さのある台詞にはどこか迫力があって、こちらの言葉を塞がれてしまう。

「急がないと、三郎。電車がいっちゃう」

変に頑固で融通のきかない所があることは、嫌というほど分かっていた。
自分に残された記憶が正しければ、それは『あの頃』と変わずに。
黙ったまま彼がまた隣に並ぶのを待ってると、雷蔵は先を越して歩き出した。また、右耳が引っ張られる。


***

「あ、もう来てる」

鈍色の車体は小さく揺れていた。エンジンの重低音が人気のないプラットホームに響く。階段のすぐ傍、2両目。前から3番目のドア、いつもの場所から乗り込むと、のんびりとした車内放送がもうすぐ出立することを告げていた。今日も暑くなるのだろう、すでに熱を含んだ外気が肌にまとわりついてくる。なのに、車内冷房は埃っぽい風をまき散らしているだけで、ちっとも涼しくない。

「間に合ってよかったね」

さっきとは違った柔らかな笑みを雷蔵は向けた。ふしゅぅ、と気が抜けそうな空気を締め出す扉の音に、出発の笛が重なった。車輪が大きく軋んで、そのまま進行方向に押し出されそうになる。慌てて手近にあった金属製の棒を掴むと、空気よりは冷たいそこへ、掌の熱が逃げて行く。と、その圧力に体がついていかなかったのだろう、バランスを崩した雷蔵がつんのめってきた。覆いかぶさるように雷蔵のふわふわとした頭が頬を掠り胸へ倒れこんだ。そっと髪に顔を埋める。ひどく泣きたい。

「ごめ、」

胸の痛みを雷蔵に気取られる前に、さっと顔を上げる。少しずつスピード上がってきた車窓の向こうで送電用の電柱がすごい勢いで飛んでく。そのずっと遠くでで夏草がさわさわと風に揺れていた。

---------------そこだけ時の流れが遅くなったみたいに、ゆっくりと、穏やかに。



***

始発に近い電車は、ガランと先の車両まで見渡せるほどに空いている。ぽつり、ぽつりと眠たげな顔が座っていた。何となく顔見知りになっていて、こう会釈をするわけじゃないが、連帯感にも似た空気が漂っている。時々闖入してきて輪を乱す酔っぱらいを腹立たしく思っているのは私や雷蔵だけじゃないだろう。そんな事を考えていると、不意に雷蔵の慌てた声が耳元で弾けた。

「あ、今日って、英語の小テストだったよね?」

揺れる車体に雷蔵は背中をドアに預け、鞄の中を探り出した。「えっと、あ、あった」という呟きと共に取り出されたのは参考書。今時珍しく紙の辞書を使うという彼の参考書は、表面はボロボロで表紙の角が毛羽だち、さらに中は分厚く膨らんでいて、しっかりと使いこまれていた痕があった。

「げ、範囲、どこだっけ?」
「ユニット4だよ」

目的の所を見つけたのだろう、パラパラと頁を繰る指先が止まって「こっからかな」と雷蔵が開けた。蛍光マーカーでラインが引かれ几帳面そうな赤い字に書き込みが添えられたそれが、カタンタタン、とリズムを刻む車体に揺らされる。私に見やすいように、と扉に付けていた背中を少しだけ浮かせて移動してくれた雷蔵に、とりあえず、と覗き込んだけど、半分ぐらい目を通した所で面倒になってきて。

「…兵助のクラス、終わってねぇかなぁ」
「あのねぇ」

テスト問題を教えてもらおう、という含みを感じ取ったのか顔を上げた雷蔵からは呆れた色が溢れていた。

「別クラスのメリットって、それだろ。
 にしても、こっちでもまた別のクラスって結構笑えるよな」

プァァァァ、と甲高い警笛が空気を震わすのが分かった。
川に架けられた鉄橋に差しかかったのだろう、大きな軋みに車体が揺れて。
同時に車輪がレールを刻む音が大きくなり、耳にこすりつけるように反響する。

いつものように叩いた軽口に諫めるような返事がなく、不思議に思って雷蔵の方を窺うと、彼は困ったように私を見ていた。それで気がついた。何気なく口をついた言葉は『あの頃』の記憶を確かめるようなものになってしまった、と。『あの頃』の事を口にしないというルールを破ってしまった、と慌てて取り繕おうとしたけれど、雷蔵は静かに笑った。

「僕と三郎とそれからハチが同じクラスで、兵助だけ、い組だったんだよ、ね?」

ずっと奥深くにしまい込んだはずの記憶は、あっさりと浮かび上がってきて、私は肯定のために頷いた。



***

生まれ落ちた時はどうか分からないが、物心ついた頃から私は渇望していた。『不破雷蔵』という存在を。
自分が半分しかないみたいに、何をしても足りないのだ。何をしていても、『不破雷蔵』が絶対的に。
そうして彼と邂逅した時のことを、そして、その後のことを、私は死んでも忘れないだろう。


「三郎、でしょ?」
「雷蔵っ」


私は『不破雷蔵』を覚えていた。雷蔵は『鉢屋三郎』を覚えていた。けれど、雷蔵からは『不破雷蔵』のことが、私---鉢屋三郎からは『鉢屋三郎』のことが、すぽり、と抜け落ちていた。

記憶にいる『不破雷蔵』は、今と同じように私のことを『三郎』と呼ぶ。『鉢屋三郎』がどんな人物だったのか、雷蔵の口からは知ることができた。変装の名人、学級委員長委員会に所属、成績優秀、普段は『雷蔵』の顔を借りて生きていたことも。

------------けれど、私には『鉢屋三郎』であったという実感が全くないのだ。

雷蔵と再び巡りあって、足りなかった半身をを埋め合うかのように『あの頃』のことを話した。覚えていることを互いに喋り、パズルのピースをはめるみたいに記憶を補完していく中で、「ん?」と思うことが何度かあった。最初は、曖昧な記憶のせいかとも思った。違和感はあったが、些細なことだし、あれから何百年と経ている。妙な感じを覚えながらも私は雷蔵がする『鉢屋三郎』の話に耳を傾け、私が覚えている『不破雷蔵』について語った。けれど、小さな違和は少しずつ膨れ上がって、齟齬とはいえないほど大きなものになっていった。外枠を埋めて内面に踏み込んだ時、私は無視できなかった。


「……私がそんなこと言ったのか?」
「覚えてないの?」


そうして、私たちは『あの頃』について、できるだけ話さないようになった。

(二度と、あんな顔を雷蔵にさせたくない)



***

「…ごめん、雷蔵」
「三郎が謝ることじゃないよ」

規則正しいリズムを伴って走る電車がが、ゆっくり、ゆっくりとスピードを落としていく。『後から参ります急行の方が先に到着します』というアナウンスが聞こえ、雷蔵から視線を逸らすと電車は普段と何ひとつ変わらないホームへとゆるやかに滑りこむ所だった。

(二人で半分こした音楽プレーヤーから聞こえてきるギターの音が優しくて、思わず泣きたくなった)



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