ひっそりと手元だけを照らすような薄暗い地下の店は、なだらかな起伏のない音楽がゆったりとかかっていた。外とは隔離された店内は天気のせいだろうか、いつもよりも空いていて、数席おいて離れて座っているカップルから談笑の響きが伝わってくる。普段は騒々しいのが苦手だったが、何を喋っているのか分からない程度のざわめきが、今はなんとなくありがたい。余計な事を考えずに済む。

---------------- 仙蔵と文次郎のこと、を。


「お前は過去に恋仲だったから、今も文次郎に固執してるのか?」


我ながら酷い言葉だった、というのは自覚があった。
息をのむ仙蔵の凍りついたような眼がありありと浮かんで、鈍い痛みが胸を叩いた。
それを追いやるようにジョッキを掴むと、そのまま呷った。
たいしてアルコールのない、空気のように軽いそれはあっという間に喉を滑り落ちて行く。
かすかな熱が腹の底から湧きたってくるのを感じながら、店員に「……もう一杯、同じものを」と告げた。

(どっちにしろ、仙蔵が望む答えを言えるのは文次郎だけだから、な)

そう思っても、軋むように胸が痛むのは、『あの頃』を誰かと共有したいと痛烈な願いを自身が一番感じているからだろう。



***

「ちょーじ」

不意に肩を叩かれ振り返ると、雨の匂いを染みつかせた小平太がそこに立っていた。
隣の席に座りながら目の前にいた店員に「生大」と告げ、それから、くっ、と指を襟元にひっかけて、ネクタイを緩めた。毎日しているのだろう、その慣れた手つきに見とれながらも、小平太がサラリーマンをするなんて夢にも思ってなかった、と胸中で呟く。

「いつぶりだっけ?」

店員から手渡された手拭で軽く顔を拭くと、自分達の間に置かれていた黒い小皿に手を伸ばし、引きよせた。待っている間にビールと共に自分が頼んだ落花生を彼は摘まみ上げ、力に任せて窪んだ部分をねじ切った。その勢いで、黄土色の乾いた破片が飛び散り、小皿に収まらなかったそれがテーブルを汚す。

「去年の年末以来か?」

確かめるようにそう問い返すと、小平太は「ふーん、そんなになるのか」と手元を見ながら呟いた。
赤茶色の薄皮に悪戦苦闘する、ごつりとした太く短い指をぼんやりと眺める。
乾いた指先は、酷く綺麗だった。

(『あの頃』は、いつも土にまみれた手をしていたか)

委員会だと称して塹壕堀に精を出していた面影が頭を過ぎる。

「あー、もー、ちょーじぃ」

細かい作業が面倒になってきたのだろう、投げ出すように机の上に落花生をぶちまけた。

「嫌なら食べるな」
「えー」

文句を言う小平太を横目に、小皿に残されていた最後の一つを手にする。両端に力を入れると綺麗に裂け目ができ、そこに爪先を割り入れて、中にある豆を取り出した。それから、ぺりぺりと乾いた皮膜のような赤茶色をはがすと、それらが指に貼りつけたまま口の中に入れる。

「ちょーじって、昔から、落花生が好きだな」

昔、という言葉に、思わず二つ目の薄皮を剥く手を止めて、小平太の方を見遣った。
小平太の指す『昔』は『あの頃』ではないことなど百も承知だ。
だが、一瞬だけ、期待してしまった自分がいる。

-----------『あの頃』を思い出したのではないか、と。

「そうか?」
「なんか、いつも食べてるイメージがある」

収縮していく鼓動を感じ取りながら、掌に握りしめた落花生の豆を薄皮のまま口の中に放り込んだ。



***

ぶつりぶつりとした記憶が一筋に繋がったのは、中学の頃だった。
「七松小平太」が私に飛びついてきた瞬間、自身に刻まれたモノが捏造でもなんでもなく、事実だと確信した。だが記憶のを持つのは自分だけで、「懐かしさを感じて飛びついてきた」と知ったのは、色々と話すようになってからだった。



***

「お待たせしました」

沈黙を途切れらすかのように割って入った店員からジョッキを受け取ると、小平太は軽くかかげた。

「んじゃ、まぁ、」

しゅわしゅわと勢いよく沈んでいく泡の横に自分のジョッキを持ち上げ、カチリ、と端だけを合わせる。
幸せそうな面持ちで喉をのけぞらせた小平太を横目に、半分ぐらい残っていたそれに口をつけた。
温くなったビールは喉を絡め取るような余韻を残して、腹の底に収まっていく。

「最近、何か面白いことあった?」

一気に飲み干した小平太は、ぷは、と美味そうな吐息を零しながら訊ねてきた。
面白いことと限定されて話題に困り、近況を色々と頭の中で巡らせてみたが、行きつく先はそこしかなかった。言うべきか、言わない方がいいのか、と、せめぎ合う気持ちは、仙蔵にした仕打ちへの後悔が勝った。
ジョッキの上部に残された泡の輪が、つぅぅ、と重力に任せて垂れこめて行くのを見ながら答える。

「学校に仙蔵と文次郎が入学してきた」

こちらの言葉に、小平太は少し困ったように視線を飛ばしてきているのが分かった。
彼の寸胴な指が、テーブルに散らばった落花生の殻の破片をつまみ上げた。
所在なさげに、少し落ち着かなさそうに、それをもていじる。

「……それ、『あの頃』に関係のある人?」
「あぁ」
「そっかぁ、じゃぁ、会ってみたら分かるかもしれないなぁ」

小平太の手から、いじり倒していた落花生の残骸が、ぱらぱらとテーブルに零れた。



***

「ラッキー。雨、上がってる」

その言葉につられて顔を上げると、雨に洗い流されたせいか、ビルの隙間から見える夜空はいつもよりも清んで見えた。あちらこちらにできた黒い水たまりの中で、けばけばしいネオンの光がゆらゆらと揺らめいている。傘を振りまわしながら先を歩いていた小平太が、不意に、立ち止まった。

「そうだ、わたし、まだ言ってなかったよな」
「何を?」
「子どもが生まれたこと」

小平太がその当時付き合っていた彼女と結婚したのは、一昨々年だったろうか。
例の後輩を探しているとばかり思い込んでいた自分にはかなりの衝撃だった。
が、それも小平太の人生なのだろう、と割り切って祝福をした。

(小平太が、父親か)

『あの頃』に自分の委員会の後輩のアルバイトで子守をした時の彼の様子を思い出して心配な気持ちがもたげた。

「そうか、おめでとう」

それでも祝福の寿ぎを口にし、出産祝いは何がいいだろうかと思案しかけた自分に対し、小平太が名を呼んだ。「長次」と。

「タキ、って名付けたんだ」

思わず顔を小平太に向けると、こちらの反応を窺うような彼は、少しだけ淋しそうに笑っていた。

「腕にわが子を抱いた瞬間、思ったんだよ。あぁ、この子はタキだって」
「……記憶が戻ったのか?」

辛うじて絞り出した言葉は喉に引っ掛かって、へしゃげるような音になってしまっていた。
だが、小平太にニュアンスは伝わったのだろう、考え込むように遠くに視線を投げて。
それから息を吐き出すように、ゆっくりと喋り出した。

「うーん、思い出したのとは違うと思う。けど、泣いた。
 この子に、タキに出会うために、わたしはもう一度生まれてきたのだと」
「小平太……」
「なぁ、長次。わたしは時々思うよ。
 『あの頃』を覚えていることが幸せなのか、覚えてないことが幸せなのか」
「……お前は、どう思う?」

もわり、と生ぬるい風に混じるアスファルトの、タイヤが焦げた臭いがアルコールと共に胸を燻らせる。

「正直、分からない。けど、ここでタキや長次にもう一度巡り合えたのは、確かに幸せなことだと思う」


(おそらくは、その想いだけが、己と小平太が共有できるものなのだろう)



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