※乙一さんのKIDZパロです。竹久々ですが、他に五年と七松先輩と虎若と三治郎が出てきます。


「お前、馬鹿だろ」
「ってぇ」

ベチリ、と叩かれた所から脳天へと衝撃が走った。痛い。痛いってもんじゃねぇ。背筋の裏側を撫でられたかのような気持ち悪さと寒気に襲われて、どこか浮遊するような胃の感覚に思わず前のめりになった体をさらに丸めた。

「大げさだな、たかが骨折だろ」

押さえ込むような格好の俺に呆れた声が降ってきたけど、大げさじゃねぇ。相当、痛い。だが、それを声にする余裕すらなかった。自然と目の前が膨張し、濡れた。あまりの衝撃に生理的な涙が濡らしていた。悶絶する痛みにのたうち回っていると、優しい重み。雷蔵が背中を撫でてくれていた。

「大丈夫? ハチ?」
「……何とか」

衝撃波の一陣が過ぎ去れば、残されたのは痺れのような感覚ばかりで。折り畳んでいた体をどうにか引き起こせば、潰れた肺にまっさらな空気が入ってくる。ぼや、っと滲んでいた視界を手で拭えば、三郎がはやしたててきた。

「何、泣いちゃってるわけ?」
「お前、ふざけんなよ。まだ、こちとら、石膏で固定してもらってねぇだよ。すげぇ痛かったんだけど」
「んなの、骨折したお前が悪い」

あまりの痛みに、思わず言い返したが、すぐに正論で正され、ぐうの音も出なかった。へしゃげた呼吸だけを繰り返し、喉を詰まらせた俺を見て追い打ちを掛けるように三郎が言を次ぐ。

「だいたい、チャリで走ってて、猫が飛び出してきたのを避けたら溝に落ちて骨折とかダサすぎだろ」

呆れて物も言えねぇ、といったような様子で軽く肩を竦めて見せた三郎は座っていた丸椅子から腰を上げた。それに気づいた雷蔵が「え、三郎、もう帰るの?」と引き留めるように手を伸ばした。だが、それが三郎に届く前にやつは足下に放り出してあった鞄を拾い上げた。

「ま、とりあえずハチのアホ面も拝めたことだしな」

俺を一瞥した三郎は「これ以上、バカと付き合ってられるかよ」とわざとらしくため息を吐いて。じゃーな、と俺に背を向け、手を軽くひらひらさせると、そのまま病室を出ていった。思わず「あのやろ」と声を上げれば雷蔵に「ハチ」と諫められる。

「三郎はああは言ってるけど、本当はすごく心配してたんだからね。もちろん僕も」

声音は優しかったけど、きっぱりとした言い回しに「……分かってる……ごめん」と頭を下げれば、雷蔵は軽く肩を竦めた。それから、ふ、と息を吐き出すといつものような柔らかな笑みを浮かべてくれた。

「で、結局、直るのにどれくらい掛かるの?」
「とりあえず、今のところは全治三ヶ月くらいって」

骨折部位の周りの腫れが引いたら石膏で固定するという説明と同時に医者から受けたのは、そんな言葉だった。全治三ヶ月。それが長いのか短いのか、初めて骨折した俺には分からねぇ。ただ、

「三ヶ月かぁ……」

ちらり、と雷蔵が投げた視線の先には、ぼんやりとした淡い青空が広がっていた。春めいた陽射しはずいぶんと暖かい。顔を俺の方に戻した雷蔵は、唇を小さく曲げていて。何となく雷蔵の言いたいことが分かって、俺は先回りして答えた。

「夏の予選には、絶対ぇ、間に合わせるし」

ほ、っと唇を緩めた雷蔵は「そっか、ならよかった」と笑顔を咲かせ心からの安堵を露わにした。その表情に、彼が気にしてくれていたことが、予想通りだったことを知る。
野球児なら誰しもが憧れる甲子園出場。それは、今のチームなら決して夢物語でじゃねぇって思っている。

(いや、夢じゃねぇ。絶対ぇに、甲子園に出場する)

俺が通っている高校の野球部は県下ではかなり強く、去年の夏は県大会ベスト4と、惜しくも出場を逃した。今年のチームはそんな去年よりも力があると言われている。強力な打線、堅実な守備、そして期待の二年生エース。死角がねぇって周りからは優勝候補ナンバーワンとしてマークされていた。
俺はその期待のエースってやつだった。
自分で言うのもあれだが、正ピッチャーとして春先の練習試合は全勝し、夏の予選についても、監督から「竹谷、お前でいくから」と既にお墨付きだった。去年はベンチ入りしただけで一年生って理由で当番の機会がねぇまま夏が終わっちまったが(まぁ、それだけでもすげぇって騒がれたが)今年は登板を待つだけだった。

(なのに、な……)

 いつもだったら、今頃、放課後のグランドで汗と土まみれになっている時間だというのに、実際はこうやってベッドに縛られている。ちらり、と視界に入った包帯でぐるぐる巻きにされた足に、もはや嗤いしか出てこなかった。

(実際、三郎の言うとおりだよな……本当に馬鹿だな、俺……)

猫が飛び出してきたのを避けたら溝に落ちて骨折だなんて、本当に自分でも馬鹿としか言い様がねぇ。けど、たぶん、何度あの場面に戻ったって俺は自転車を横に切っただろう。-----------どうしたって、あのまま突っ切って猫を轢くだなんてできねぇ。

(……とにかく、こうなっちまったんだ、もう後悔したって仕方ねぇよな)

終わったことを後悔したって何も始まらねぇ。今はとにかく「まぁ、若いし体力があるから、それより早くなるわよ」なんて豪快に笑った看護士さんの言葉を信じるしかないだろう。ぐ、っと握りしめる拳の代わりに白球を頭の中に描く。

(大丈夫、絶対ぇ間に合わす)

誰に宣言するでもなく心に誓いを刻み込んでいると、ふ、と雷蔵が思い出したように言葉を発した。

「そういえば、この病院、どんな怪我でも回復するのがすごく早いって噂があるし、きっと大丈夫だよ」
「どんな怪我でも?」
「うん。何か、ある時に、す、っと治っちゃうみたい」

初めて聞く話に、雷蔵が俺を慰める為に言ってくれたんじゃないだろうか、と疑ってしまう。ついつい「そうなのか?」と首を傾げていると「何だ、お前、知らないのか?」と、呆れた声音がドアの方からした。

「三郎!」
「あれ、どうしたの?」
「雷蔵が全然来ないから迎えに来た」

ごめんごめん、と謝る雷蔵に「いいけどさ」と言いつつも、ふてくされた面もちをしている三郎につい笑いを噛み殺していると無言のまま頭をどつかれた。患部じゃねぇのは三郎なりの優しさだろうか。

「本当に知らないのか? この病院の噂。有名だろ」
「だって、俺、病院とかと全然掛かったことねぇし」

たまたま突っ込んだ溝の近くにあったのが(というか、壁を挟んで向こう側だった)この病院だった、ってだけで。そのまま、病院の評判とか噂とか、んなもの考える暇もなくそのまま運び込まれ、入院が決定したのだ。

「あ、そうだな。お前に聞いたのが間違いだった。病院に縁があるわけねぇよな」
「お前、それ、褒めてるの、貶してんの?」

暗に体力馬鹿って言われたような気がして尋ねれば「貶してるに決まってるだろ」とあっさりと断たれた。それから、ふいに腰を屈め俺の方に顔を寄せてきた。周りに誰もいねぇのに、と思いつつ、三郎のおどろおどろしい様子に自然と俺も辺りに目線を配ってしまう。

「普通じゃあり得ないスピードで回復するんだと」
「それはさっきも聞いた。ってか、何で、そんな声を低めてるんだよ」
「それだけじゃないからな」

 潜められた声が、じとりと俺に絡みつく。「え?」と返そうとした声は、そのまま唾と共に嚥下するしかなかった。周囲に目配せをした後、俺を真っ直ぐ捕らえた三郎からは冗談の気配が全く感じなかったから。

「あり得ないスピードってか、一瞬で治るらしい」
「……一瞬?」
「あぁ、一瞬」

 そう、三郎は酷く真剣だった。だが、内容が内容なだけに、担がれている気がしてならねぇ。眉唾だなと思いながら「一瞬って、どうやって治すんだよ」と問いかければ、よくぞ聞いてくれた、とでも言いたげに三郎は目に宿る光を輝かせた。

「それがどうも、怪我の部分を切り落として、死体から切り取ったその部分と交換するんだと」
「はぁ? 死体とか、冗談だろ?」

ますます信憑性のない話の展開に、そう感想を漏らすと三郎は「いや、けど、あながち冗談でもないらしい」とさらに声を潜めた。ちらり、と視線を外側に散らした三郎は誰もいないのを確認すると喉を絞るようにして言った。

「夜な夜な断末魔のような悲鳴が聞こえてくるんだと」

断末魔。何をするでもなく生まれてきた唾を飲み込む。昨日は手術後の麻酔の関係か何かで、うつらうつらしていて、はっきりとは記憶にねぇが、夜中に吠吼のような音を聞いたような気がする。

(風が強いんだな、なんて勝手に思っていたが、もしかして……)

ぞわり、と背筋を寒気が襲った。

「噂っちゃぁ噂だけどな、火のないところに煙は立たねぇっていうしな」

さっきまでの深刻な表情から一転、からからと三郎は笑っていたが、俺はそれどころじゃなかった。頭の中で映像化されていく。白衣を着た医者。掛けた眼鏡は冷たく光り、その中の目は見えない。よく研がれたメス。それが不利降ろされて-------

「ハチ? 大丈夫? 顔色悪いけど」

耳元で弾けた声。は、っと焦点が心配げにこちらを見ている雷蔵と合う。それまでずっと黙っていた雷蔵の意見が聞きたかった。その傍らで三郎が、俺をからかいたそうな面もちでこっちを見てきたから、それよりも先んじて訊ねる。

「昨日、」
「え?」
「昨日って風強かったか?」

二人が顔を見合わせた。視線が交わされたのは、本当にほんの一瞬のことだっただろう。だが、俺には永遠にも感じられた。指先まで心臓に成り代わったんじゃないか、ってくらい、打ちつけられる拍動。喉が干上がっていき、肺の底まで空気が薄くなっていく。もしこれで「いや」と返事がされたら、叫び出しそうだ。いや、叫ぶ。情けねぇと指さされてもいい。怖いものは怖いんだ。

(頼む。そうだ、って言ってくれ)

軋むような祈りを抱えながら、俺は二人の、いや、そのどちらかが、答えを紡ぎ出すのを待った。三郎と雷蔵との間で結ばれた視線がほどかれ、今度は俺の方へと沿わされる視線に、心臓が緊張で軋む。その間は、おそらくほんの数秒のことだっただろう。だが、俺にとっては永遠みたいな時間に思えた。

「あぁ」

そう肯かれた瞬間、確かに俺の中で張りつめていたものが一気に崩れ落ちた。ほぉ、と三郎が「何、お前、びびってたわけ?」と嬉しそうに面もち全体を緩めたが、二人の口元に全神経を使っていた俺は、ようやく解放された緊張に脱力ばかりが生じて、正直、言い返す気力もなかった。

「……お前、俺がここにしばらく入院するって知ってるだろ」

別に信じてるわけじゃねぇが、苦手なものは苦手だ。そうと知ってるからだろう、三郎が唇をわざとらしく緩めた。意地の悪い口からは、ふふん、と鼻で笑うような声が漏れるだけだった。

「あ、そっか、しばらくは入院だっけ?」
「あぁ。とりあえず、頭も打ってるし、折ったところも固定してないから一週間くらいは入院予定」

その後は様子を見てだが、通院とリハビリという形になりそうだ、と告げれば、完全に話題が変わってしまって「じゃぁ、またお見舞いに来るね。他に何かいるものとかあったらいつでも連絡して」と、雷蔵が立ち上がった。



(中略)


 ふわっと陽差しが当ったかのような温もりが足元を包み込み、俺は埋めていた顔を上げた。

「何だ、お前か……」
「みゃぁ」

 俺の足元に擦り寄って来る温もりは、あの白い猫だった。
あの竹谷って男はこの猫が俺のペットだと勘違いしたようだが、実際は違う。数日前からうろうろしているのを見かけて、たまたま、ご飯の残りを分け与えたら懐かれたというのが正しい。
昨日はあの場から早く離れたくて、面倒になってあいつが言ったことを否定はしなかったが、この猫は別に俺の飼い猫でもなんでもなかった。名前も、とりあえず白で連想したときに浮かんだのが豆腐だったから、そう口にしたまでで、単なる野良猫だった。

「まぁ、俺も帰る家がないってのは一緒だけどな」

 けれど、俺はこいつと違って飼い殺されている。この白い猫からしたらあれな話かもしれないが、野良として自由に生きているこいつを羨ましいと思う。それくらい、今の自分に居場所がなかった。

(っ)

 軋む胸を堪え、俺は足元の温もりを掬い上げた。にゃぁ、とひと鳴きされたけれど、特に抵抗されることもなく、俺の腕の中で大人しくしている猫に、「お前は、俺がこわくないのか?」と問いかけるも、そいつから返事はなく。ただただ無垢な目を向けられる。ぎゅっと胸に広がる痛みに思わず目を瞑っていると、

「あ、へいすけ」

 胸元から温もりが消えるのと、その声とは同時だった。俺の腕からすり抜けたその猫が、みゃぁ、と甘えた鳴き声を上げたその先にいたのは--------------

「竹谷……」

 夢かと思った。------------そこにいるのは竹谷だった。

「っ」

 溢れ出そうになる嗚咽をぎりぎりの所で呑み込む。それでも自然と漏れ出た「何で」という疑問。へしゃげた音だったが、誤魔化すにははっきりとした響きだったからだろう。竹谷が「え?」と俺の方に顔を近づけた。

「っ……何で……俺の名前……」

 適当に何か誤魔化そうと探した結果、出てきたのはそれだった。あぁ、と納得したような相槌を打った竹谷は「佐藤さん、あ、昨日の看護士さんから聞いた」と笑って。合点がいくと同時に、昨日の事が蘇った。それは俺だけじゃなさそうで。不意に竹谷の表情が曇った。

(何か吹き込まれたのかもな……)

 あれだけ怖れていたのだ。竹谷がおかしいと感じて彼女に問い質したのかもしれないし、逆に彼女の方から牽制をしたのかもしれない。いや、後者の方が可能性は高かった。さすがに力のことは箝口令が敷かれているから、あの看護士もそこまでは竹谷に言ってないと思うが、けれど「近づくな」くらいは言いそうな雰囲気が、彼女の怯え具合から感じ取られた。

(それなのに、何で……)

 そう思ったら、衝動を堪えることができなかった。

「「あのさ」」

 言葉がぶつかってしまった。は、っと顔を上げれば、竹谷は面白そうに笑っていた。さっきまでの翳りなど微塵も感じさせない笑顔。光のようなそれが眩しくて思わず目を逸らして俯くと、頭上から「あ、へいすけからで」と優しい声が降ってきた。
 だが、いざ口を開こうとしても、言葉にならなかった。つい、さっきまで喉元に迫り上がっていたはずなのに。お見合い状態になってしまったせいで、勢いが削がれてしまったこともあり「お前からでいい」と振れば「そうか? じゃぁ」と竹谷は俺を見遣った。

「漢字、教えてくれないか?」
「漢字?」

 予想外の言葉に戸惑っていると、竹谷が「あ、漢字ってあれな、へいすけって名前、どういう風に書くのかってことな」と焦ったように付け足した。その慌てっぷりに、つい吹き出してしまって。心が緩んでしまったらしく「兵士の兵に、助太刀の助」と普通に答えてしまっていた。

(あ……まぁ、別にいいか)

 ここまできて隠し立てして下手にこいつの興味を引くよりもましだったはずだ、と自分に言い聞かせながら竹谷の方を見遣ると「助太刀?」と首を傾げていた。どうやら、兵士の兵はともかく助太刀の方が字が出てこなかったらしい。仕方なく「助けるって字だ」と空書きをすれば、ようやく理解できたようで、「あぁ、その字なっ」と、ぱっと表情を明るくさせた。それから笑みを柔らかくさせる。

「いい名前だな」
「……そうか?」
「あぁ。兵って字は何か強そうだし、助けるって字とか入ってるし。何て言うか、ヒーローみたいだ」
「っ……」

 心から竹谷がそう思ってくれていると分かる分だけ辛かった。
-------------俺は強くもなければ、人を助けるようなこともできないから。
 確かにこの掌にある力は、ある種の人助けなのかもしれない。けれど、俺の中では業務のようなものだった。助けたいから助けているわけじゃなく、ただただ、機械のように、この力を行使しているだけだ。
 俺が黙り込んでいると竹谷は足元にいた猫に「いい名前だよなっ」と話しかけた。にゃぁ、と鳴いた猫に「ほら、トウフもそう言ってるし」と嬉しそうな面持ちを向けて。それから「あ、それで兵助は? 何を言いかけたんだ?」と訊ねてきた。
 中々言葉にできないでいると、まるで、俺を励ますかのように猫が再び、俺の足元に寄り添ってきた。そっとそいつを膝に抱えて頭を撫でる。無垢な温もりは竹谷の笑顔によく似ていた。

「……何で来たんだ?」

まるで猫に話しかけるかのような形になってしまったが、すぐに分かったのだろう。

「何でって、会いたかったから」

 頭上で、晴れ渡ったかのようなからりとした声音がした。猫へと伏せ入っていた視線を、ぱっと上げれば「それに約束したし」と柔らかで、けれども真っ直ぐな笑顔とぶつかる。

「……約束なんてしてないだろ」
「まぁ、そうなんだけど……自分と約束したから」
「自分と?」
「あぁ。お前に会いにいくって」
「……意味が分からない」
「いいよ、意味が分からなくても。自分の中の約束だし」

 そういうことじゃなくて、と言いかけた瞬間、

「また明日も会いにくるから」

 光のような笑顔に、俺の中で感情が弾けた。

「っ……何でそんなに俺に構うんだよ」

 俺の語気が強まったことなど気に留めることもなく「何でって言われてもなぁ……」と考えを巡らせるかのように、視線をぐるりと上部で動かした竹谷は、思いついたかのように、不意に俺と目を合わせてきた。

「兵助のことが知りてぇからかな?」
「っ……知ってどうするんだよ」
「どうって、友だちになりたい」

 友だち。迷いなく言い切った竹谷は、やっぱり笑顔で。

(そんな事言ったって、どうせ、ひとりにするくせに)

簡単にそう言ってのけた竹谷に苛立ちが募った。今までも竹谷みたいに最初は普通に接してくれた奴もいた。ずっと幼い頃は、もしかしたら友だちになれるんじゃないかって思ったこともあった。けど、みんな俺の力を知れば離れていく。もう傷つくのは御免だ。
----------だって、その傷は俺にはどうすることもできないものだから。

「これでも、まだそんな事、言えるのかよ」
「え?」
「もう会いたくないって、思わせてやるよ」

 ふ、と見つけたのは、左手のかすり傷。おそらく昨日できたであろう傷痕は、既に瘡蓋が覆っていた。数日もすれば、その赤紫の皮も気づかない間に取れて、元通りになっていることだろう。

(っ……)

そんな傷痕を右手で掴めば、ぴり、っと俺の左手の皮膚が裂けたのが分かった。そこから滑り込むように痛みが来ると同時に、血が滲み出る感覚が伝う。彼の左手を覆うようにしていた右手を離す。

「へ?」

彼の唇から空気が抜け落ちた。視線が揺らぎ、そして、再び戻された後は釘付けになっていた。小さく動いた彼の口。声にはならなかった。けど、俺の目には彼の唇がそう刻んだのを見逃しはしなかった。嘘だろ、と。----------彼の左手にあったかすり傷は、今、俺の左手にあった。






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