※鉢雷ですが、他のキャラが出てきます。話の展開上、直接的な描写はありませんが、他のキャラの死を想起させるような描写があります。また実際の歴史上の出来事を参考にはさせてもらっているので想起する部分はあるかと思いますが、あくまでも参考であり歴史と異なるフィクションであることをご理解の上、お読み下さい。


(あ、梅)

紅。色褪せた原野の中で、ただただ鮮やかなそれに、さっきから漂っていた、胸の内側をくすぐるような優しく上品な匂いの正体を知る。ちょうど咲き始めたばかりの紅梅が、道の角を曲がった所で現れて、私は足を止めた。

(もうそんな季節か)

家の庭から道辻にはみ出るように咲いているのが梅なのだと気づいた途端、日差しまで穏やかで春めいて感じてしまうのだから人間げんきんなものだ。柔らかな陽気が心地よい。深々と息を吸い込めば、胸に満ちる梅の香り。

(あ、そうだ。雷蔵に持っていってやろう)

手折って雷蔵への土産にでもしようかと、手を伸ばす。だが、
「色も香りも昔のこさににほえども うゑけん人のかげぞ恋しき、か……」
この梅は形見なんだ、と。梅花は色も香りも昔のままなのに、植えた人にはもう会えないという意の和歌がふ、と口を突いて出た。途端、まだ生を謳歌しているこの枝を手折るのは憚られて、私は指先を戻した。

(形見、な……)

途端、肩から掛けていた鞄が異様に重たく感じた。

「はぁ」

自然と漏れ零れる溜息が、梅の花びらを揺らした。色濃くなる芳香が胸を突く。先延ばしにしたところで何も変わるわけではない。この鞄の中に入っている手紙に書かれている事実がひっくり返ることはないのだ。そうと分かっていても足取りが重たくなるのは仕方ないことだろう。

(でも、行かないとな……)

この場から逃げ出してしまいたい気持ちを必死に押さえ込み歩を進める。
---------この鞄に入っている一枚の紙を届けるために。
気の重さに今にも止まってしまいそうなぜんまい仕掛けの人形の如くのろのろと歩みを進める。だが、そのうちに目的の家にたどり着いてしまった。表札を前に、もう何度目か分からない溜息を零す。
鬱積していく感情を無理に蓋して、黒い鞄の中に手を突っ込んだ。鉄錆が詰まったかのように上手く動かないが、探っていればやがてそれにぶち当たる。かさり、と乾いた音が響いた指先をそのまま持ち上げる。

(ここの佐藤さんって、旦那さんはもう一つ前の戦争で亡くして、息子さんばかりだったよな……確か今は、一人暮らしだったっか……)

確認のために、と開いたその紙に書かれていた名字と名前。そして、その上に記載された言葉。何度見返しても、その言葉や名前が変わることはない。---------私には、何もできない。

「ごめんください」

今にも押しつぶされそうな心を必死に奮い立たせ、閉まっているに向かって大きな声を張り上げる。出てこなければいい、という願いも空しく「はいはーい」と扉の向こうからパタパタと足音が近づいてきた。その軽さに、今から自分が伝える事実が彼女をどれだけ傷つけるか、と胸が軋む。

「はい、どちらさまで?」

ちょうど夕餉の支度だったのだろう、頭に巻いた手ぬぐいをするり、と外しながら出てきたのは、白髪の老婆だった。
きょとん、とした彼女の表情がすぐに強ばったのは、私が直接訪ねる理由は二つしかないからだろう。そして、すでに一人暮らしをしている彼女の場合、選択肢はただ一つだった。ぎゅ、っと噛みしめられた彼女の唇が痛々しい。

「あの、」

それだけしか言えず、私は持っていた紙を老婆の方に差し出した。途端、おそらくこちらの用件を確信したのだろう、老婆の顔がくしゃりと歪んだ。木目の如くいくつも刻み込まれた皺が深まる。

「あぁ」

歎息に、喉が引き裂かれそうな痛みを覚える。いや、いっそのこと、喉を掻き切られて喋ることができない方がましなのかもしれない。だが、生憎、私の口は規則として定められていたその言葉を吐き出していた。

「おめでとうございます」

震える彼女の指先が『戦死報告書』そう無機質な表題が刻まれた一枚の紙に触れた。

***

その後、手続きをお願いする旨以外に掛ける言葉が見つからず、私は黙礼だけ捧げるとその場から踵を返した。
玄関の扉を後ろ手で閉めた途端、背後から泣き叫ぶ声が聞こえてきた。悲痛なそれに、胸が軋む。ついさっき「最後まであの子はお国のために勇敢に戦ったのですね。この町の誇りですね」と、気丈にも笑顔で私から手紙を受け取った彼女とはかけ離れた吠吼。

(っ)

思わず足を止めそうになるのを、必死に堪えて前へ前へと踏み出す。私がどれだけ慰めの言葉を掛けたところで、彼女の息子が生き返るわけではないのだ。------むしろ、私が口にすることで、逆に彼女を傷つけてしまう可能性の方が高い。

(私にできることは、何もない)

そう己に言い聞かせ、顔を上げる。見上げた空は抜けるような青。目に痛いくらいの、青。---------今も、この空の向こうで、誰かが銃弾に倒れ、火の雨に晒されているのだ。
だが、どこか実感がない。この国の命運を掛けた戦争を行っているなどと。まるで遠い世界の出来事のように感じるのは、自分がその状況にないからだろう。銃に狙われることも、空襲に怯えることも。
少し離れた大きな町は敵兵の襲来により焼かれたというが、さすがに軍事工場も何もない田舎町は今のところ標的にされたことがなかった。もちろん、以前と比べれば生活は厳しい。けれど、都会からこちらに疎開してくる人々や農作物を買い出しに来ている人々の言を聞けば、ずいぶんとましな方なのだろう。

(まぁ、それは、単に自分の家だけなのかも知れないがな……)

自分が飢えに喘ぐことは一生ない。---------------そう言い切れるのは、そういう家に生まれたからだ。かなり追い込まれた戦況にも関わらず、生活に不自由することがないのだから。
飢えや渇きに苦しむこともない。貧しさに困窮することもない。爆弾に怯えることもない。火に巻かれ逃げまどうこともない。銃に狙われることもない。誰かに殺されることも、誰かを殺すこともない。
--------ただ、こうやって手元に来る一枚の紙だけが、私の中で現実だった。
この国が戦争をしているのだ、という。

(っ……雷蔵に会いに行こう)

雷蔵の柔らかな笑顔に出会えたら、このもやもやとした気持ちが少しはましになるかもしれない、と私は地面を蹴った。咲き零れの梅の匂いが、またどこからか漂っていた。

***

町の外れにある小さな一軒家に雷蔵は一人で住んでいた。
元々、街中で写真館を営んでいた雷蔵の父親は、彼が国民学校にいる間に戦死した。それで雷蔵は母親と共に祖父母方の家に身を寄せた。けど、祖父も祖母も数年後に無くなって。その後はずっと親一人子一人で暮らしていた。
だが、雷蔵は士官学校入学を機にこの町を出て。戻ることなく、そのまま南方に出征してしまった。雷蔵が戦場で戦っている間に、小母さんが亡くなってしまって。結局、今、この家に棲むのは彼一人だった。
何度も「何かあったら助けれるから、私の家に来ないか?」とか「一人は淋しいだろうし」と誘ったのだが、雷蔵は頑なに首を縦に振ろうとはしてくれなかった。
------------------今はここにいてあげたいんだ、と。
小母さんが、雷蔵が帰ってくることを最後まで密やかに願っていたのを知っているだけに、それ以上、私は何も言えなくて。代わりに、こうやって毎日、雷蔵の様子を見に来ている。

いつものように断ることなく家の敷地内に入った私は、そのまま玄関の方に向かおうとして、ふと思い立った。今日は晴れているから縁側で日向ぼこをしているのかもしれない、と。

(やっぱり)

そう思って家の軒下を通り外から縁側が面している庭の方に足を進めれば、予想通りだった。角を曲がった途端、雷蔵が目に飛び込んできた。縁側の座布団の上で、雷蔵はぼんやりと空を眺めていた。
今日こそは、と思い、そっと足音を殺して息を潜めて近づくものの、それでもやはり雷蔵が私に気づく方が早いようで。ぱ、っと声が弾けた。

「あ、三郎」

見つかってしまえばわざわざ気配を消さなくてもいいだろうと、私はわざと地面を擦るようにして足音を立てながら彼に近づく。すると、恐る恐る、指先を縁側に這わせて端まで寄ってこようとした雷蔵が目に入って、慌てて駆け寄った。

「あ、ごめん。ありがとう」
「いや」

彼の手を縁側の際を確かめるようにさせれば、雷蔵はそこから足を外に投げ出して腰掛けた。その隣に私も座る。南向きにあるからだろう、日光を吸い込んだ縁の板はとても温かく、心地よかった。

「やぁ、雷蔵。調子はどうだい?」
「うん、いつもと変わらないよ」
「そうか」

雷蔵の隣に腰を下ろせば、ふふ、と柔らかな笑い声が私を包み込む。

「どうしたんだ?」
「ううん。何でもない」
そう言う割に彼の小さな笑いが途絶えることはなくて「気になるじゃないか」と告げれば彼は「ごめんごめん」と謝罪してきた。だが、そう告げる雷蔵の唇は綻んでいて。----------ふ、っとさっきまで沈みきっていた心が、軽くなる。雷蔵に会いに来てよかったな、と。

「今日はとても温かいなぁと思って……もう梅も咲きだしたし、ちょっとずつ春に近づいてきてるんだなぁ」
「え? 梅って? 梅が、見えたのか?」

驚きに思わず辺りを見回したが、この家の庭には梅は生えてなかったことを思い出す。視線を彷徨わせた範囲にも、梅の花らしきものは見あたらない。そもそも、そんなことあり得ないのだ、と冷静さを取り戻した瞬間、雷蔵に笑われた。

「まさか、見えないよ」
「そうだよ、な……」

こちらを向いて笑う彼の目に私が映ることは、もう、ない。


(中略)


「平気だよ。まだ見えた頃の景色はちゃんと覚えているし、ちゃんと三郎が教えてくれるもの。空の青さも梅の紅の色合いも……それに、こうやって三郎が本を読んでくれたり、物語を話してくれたりするからね」
「っ……」

 胸が軋む。その痛みに思わず頭を垂れていると、

「だから、そんな泣きそうな顔、しないで」
 ふわり、と頬を温もりが包み込んだ。雷蔵の、手だった。

-------------どうして、分かってしまうのだろうか。
見えていないはずなのに。私が泣きそうになっているだなんて、何で雷蔵には気づかれてしまうのだろうか。いつだってそうだ。視力は失われているはずなのに、その綺麗な目に、何もかも見透かされているような、そんな気がする。

(雷蔵には、嘘を吐けない、な……)

 私の頬にある彼の温もりに、そっと手を重ねた。

「三郎?」
「あ、すまない」

 思わず彼の手をそのまま引き下ろして握っていたことに気づいて、慌てて手を離す。雷蔵から触れてきたとはいえ、何だか気恥ずかしさが一気に募って。頬どころか、全身が熱い。雷蔵もどことなく顔を赤らめ俯くと「そ、そういえばさ」と急に言葉をどもらせながら話題を変えてきた。

「あの、えっと、あ、そうそう、皆から手紙は来てた?」
「あ……」

 すとんと落胆が胸を抉る。さっきまでの熱が嘘のように、高潮していた気持ちが一気に冷えるのを感じた。

「いや、今日は来てなかった」
「そっか……みんな、元気かな?」

分かり易すぎるくらい肩を落として落胆するのには、訳があった。彼が心待ちにしている手紙の差出人は、南方で未だ抗戦している彼の先輩や後輩だったから。
一人、先にこちらに戻ってきたことに気を咎めているのであろう、毎日のように先輩や後輩のことを案じていた。口には出さなかったが、雷蔵の母親が彼の帰還を密かに願ったように、彼もまたの先輩や後輩たちの無事を祈っているのだろう。

「まぁ、便りがないのは元気な証拠って言うし、大丈夫だろ」

今の戦局では、気休めにもならないのは重々承知で口にした。
所々、黒く塗りつぶされてしまっているその文面の多くを占めるのは『元気でやっている』ということだけだった。
---------あとは、死を恐れることなく国の為に命を賭す、ということぐらいだろうか。

(それが本心なのか虚偽なのか)

会ったこともない人物なだけに推し量ることは難しい。ただ、ほんの数行、故郷の様子を尋ねる文面が入っていることを思うと、たとえ『死を恐れてはない』という言葉が本心からだとしても、それは一つの側面でしかないのだと思う。

「そうだね」

小さく笑って雷蔵が空へと視線を転じた。

「っ……」

苦しかった。辛かった。雷蔵が見つめる先にあるのは、何なのか分からなくて。雷蔵のその小さな笑みが無理矢理造っているのが分かって。

「三郎?」

痛みに耐えていると、怪訝そうな声音が向けられた。また気づかれる前に慌てて「何でもない」と話題を変えることにする。

「雷蔵、今日はどれにする?」
「えっと、じゃぁね」

彼らから届いた手紙を目が見えない雷蔵にその手紙を読んであげるのが、私の日課だった。もちろん、毎日、手紙が届く訳じゃない。むしろ、届かない日の方が圧倒的に多い。そんな時は、机の傍らにある文箱の中に大切に仕舞われている以前の手紙や葉書の中から、どれかを選んで雷蔵に読んであげていた。------------手紙を読んでいる間は、雷蔵が心から笑ってくれているような、そんな気がしていたから。

(どんな手を使ってでもいい、雷蔵が笑ってくれるなら……)

雷蔵の心からの笑顔が見たい。それが、私のただ一つの願いだった。


(中略)


「前略……っ……」

昏倒するかと思った。

(え……嘘、だよな……)

そこに綴られた豪傑な文字を何度も何度も見直す。夢なんじゃないか、幻なんじゃないか、冗談が書いてあるんじゃないか、悪戯なんじゃないかって、嘘を吐かれているんじゃないかって。けれど、何度見返した所で、書かれている内容が変わることはなかった。そして、手紙で告げられている事は真実だ、というのを心のどこかで悟っていた。

「どうしたの、三郎?」

途中で言葉を呑まざるを得なかった私に、当然雷蔵は怪訝そうな表情を見せた。
本当ならば伝えるべきなんだろう。伝えなければならない。そう分かっている。分かっているはずなのに、

「いや……間違えて手紙を持ってきたみたいだ」

嘘を、吐いていた。

「え?」

くしゃり、と手紙を握りつぶす。言えなかった。この前の、雷蔵が取り乱した姿を思い出したら、とてもじゃないが伝えることはできなかった。手紙に記された真実を。

「三郎?」

明らかにおかしな事を言っていると分かっていたが、それ以上に誤魔化す言葉が見つからなくて、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。雷蔵に嘘について言及される前に。

「悪いが、この手紙を元の持ち主に届けてくるよ」
「え、あ、うん」

いったい何が起こっているのだろうか、というように、ぽかりと口を開けている雷蔵に「すまない」と謝罪だけを残し、私はその場から逃げ出した。このまま雷蔵の前で平然でいられる自信がなかった。

--------先輩が南の海に沈んだ、そう手紙に記されていたから。

***

(……どうしたら、いい?)

雷蔵に伝えるべきか、否か。頭では分かっている。伝えるべきだ、と。
けれど、あの時の雷蔵の取り乱しようが脳裏を過ぎって、決断できない。少し口にしただけで、あんな状態になってしまったのだ。この事実を知ったら、どうなってしまうのか……。

(いっそのこと、手紙をなかったことにしてしまおうか……)

そんな考えが浮かび上がる。先輩は私たちとは違う出身地だ。このまま、この手紙を私が握りつぶしてしまえば、雷蔵が訃報を知り得ることはない。

(今回の手紙さえ葬れば……あ、でも駄目だ)

先輩から届く手紙がなくなったら雷蔵は不審に思うだろう。何かあったんじゃないか、とこの前に心配するのが目に見えていた。
戦況が厳しくて手紙が届かないのだ、と嘘を吐くとなると、他の仲間や後輩から手紙までも握りつぶさなければならない。いつまでも届かないふりをするのには限界がある。かといって、先輩からだけ手紙が届かない理由が思いつかなかった。

(じゃぁ真実を告げるのか……いや、無理だな)

 あの取り乱した雷蔵のことを思うと、とてもじゃないが真実を告げることはできなかった。-------------------怖かった。雷蔵の心からの笑顔が、永遠に失われてしまうのかもしれない、そう思ったら。

(だったら……)

雷蔵の笑顔を護るには、この方法しかない。

***

平常心、平常心。その言葉をただただ繰り返し、私は雷蔵の家の敷地を跨いだ。

「あ、三郎」

 今日も今日とて先に見つかってしまった。途端、色々と考えていた言葉が全部吹っ飛びそうになって、落ち着け、大丈夫だ、と自分に暗示を掛ける。-----------------今日だけは、絶対に雷蔵に嘘を吐き通すのだ、と。いつも、雷蔵には嘘が吐けないけれど。この嘘だけは、絶対に貫かなければならないのだ、と。

「急に昨日帰っちゃったから、心配してたんだよ」
「すまない」

 予想通りの流れに、私は用意していた嘘を吐いた。

「あ、先輩から手紙、届いてるぞ」
「え、本当に」
「本当に!? 嬉しい」

 ぱ、っと笑顔を輝かせた雷蔵に、これでよかったんだ、そう己に言い聞かせる。

「読んでくれる?」
「あぁ」

 私は用意してきた手紙を封筒から用意した。何度となく見た先輩のとは全く似つかない文字。よく見知ったそれは、私の筆跡だった。さすがに何もない状態で最後まで嘘を吐き通す自信がなくて、昨日の夜、この偽りの手紙をしたためた。

「『前略 不破雷蔵殿』」

 先輩がいつも使っていた挨拶文から始める嘘の手紙。
 -------読み終わった時に、どうか雷蔵が笑ってくれますように。
 ただただ、それだけを祈った。






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