「ごめん、遅くなった」
とりあえず、と一人で酒盛りを始めていた僕は「ううん」と首を振った。勘ちゃんが座ろうとした瞬間、しと、っと冷たい土の香りがしたような気がして「あれ、もしかして、外って雨?」と尋ねる。と、店の中にいるのだから見えるはずもないのに勘ちゃんは背後を振り返った。
「あー、さっき降ってきた」
そっか、と相槌を返した自分の胸に安堵が広がった。雨が降ってきたのなら、今夜は月を見なくて済む、と。月が雲に隠れているのだ。帰り道に空を見上げても大丈夫だろう、そう思って、すぐに気づいた。傘があるから見上げても、そもそも月どころか空すら見れないのだ、と。その流れでもう一つのことに、ふ、と気づいて思わず「あ」と声を漏らしていた。
「どうしたんだ、雷蔵?」
「や、傘、持ってきてないや、と思って」
帰る頃には曇りだといいのだけど、と、敢えて『曇り』という言葉を二重の意味で使った。----------月が、見たくないから。いや、見たくないというよりも、怖かったのだ。一度、完全に闇に呑み込まれたはずの月が、日に日に丸みを帯びていくのが。
そんな僕の思惑など知らない勘ちゃんは、その言から「小雨だったし、すぐ止むと思うけど。でも、もし降ってたら俺のビニ傘に一緒に入っていけば」と表の意味だけ拾ってくれた。ありがとう、と礼を告げると、僕は「とりあえずビールでいい?」とテーブルの端にあった呼び出しボタンに手を伸ばした。
「何か不思議だね」
唐突な言葉に思わず「え?」と疑問を漏らせば「ほら、こうやって三郎以外の店で会うのって初めてだから」と勘ちゃんは小さく笑った。その通りなのだから、そうだね、と返せばいいのだろう。けれど、僕は言葉を詰まらせた。その裏にある意味を変に考えてしまったのは、気持ちに疚しさがあるからだ。
三郎と、喧嘩した。
勘ちゃんの言及を待つべきなのか、それとも自分から口にすべきなのか。迷っていると「お待たせしました。ご注文をお伺いいたしますね」と店員が来てしまって。僕は口の中で安堵を噛みしめた。
***
「もう止めたら」
おかわり、とジョッキをテーブルに叩きつければ、寄せられた眉がますます潜まった。いつもは盛り上がっているような感じの柔らかそうなほっぺたも、今は下がっている。心配げに僕を見てる勘ちゃんを無視してコールボタンを叩いた。
「そんなにビールばっかり飲んで」
「じゃぁ、日本酒にするよ」
「そういう問題じゃなくてさぁ」
ぴんぽーん、と妙に抜けた音に、はーい、と返事があったわりに、なかなか、店員は来ない。まぁ混んでいるから仕方ないか、とアルコールに浮かれて飛んでしまった笑い声だけが聞こえる店内に思う。どうせ時間が掛かるのだったら飲み物の注文と同時にもうちょっと食べ物を追加しよう、と思って、僕は左隣の座椅子に置いてあったをメニューを引き寄せた。
「まだ怒ってるの?」
最初の『ま』の瞬間、妙に力が入っているのが分かって。それで、ずっと聞きたかったんだろうな、と思う。そのために、今日、呼び出してきたのだろう、と連絡をもらった時に思ったけれど、最初のタイミングを逃してしまって。その後、まぁ居酒屋って言えばこのメニューだよね、といった部分を全制覇する勢いで注文し、飲んでは食べている勘ちゃんに、すっかりそのことを忘れていた。
(このタイミングでくるか)
三郎経由で勘ちゃんともすっかり仲良くなったけれど、未だに読めないところがあって。三郎なんかがよく「何考えてるか、本当に分からねぇよな」とぼやいていて、いつもは「そうだねー」なんて流して聞いているけれど、今日ばかりは妙に身にしみて感じた。
「怒ってないよ」
「そうは見えないけど」
逃した視線の先は、すっかりと油が紙を越えて皿にまで染み出していそうな串カツがあった。衣はぐしゃぐしゃになって、べっとりと下に敷いてある紙にひっついていて。どう見てもおいしそうに見えない。けれど、間を持たすために僕は串カツに食らいついた。やっぱりおいしくない。
「鉢屋のやつも言い過ぎたって一応反省してるみたいだしさ、許してあげたらいいんじゃない?」
べしゃ、っとした衣が歯にくっついて気持ち悪い。すっかり冷めた肉は固くて。咀嚼を繰り返してもなかなか噛みきれないそれに、なんだかゴムを食べてるような気になる。半ば意地になりつつ、串カツを食べ続ける。
「……だから、怒ってないって。……三郎に対しては」
「え……じゃぁ、誰に対して怒ってるの?」
勘ちゃんが一瞬、戸惑ったのも無理はないだろう。怒っている相手として三郎しか考えてなかったのだろうから。何せ二週間以上も、僕は三郎と口を利いてないのだ。二週間以上。そう、喧嘩したのが前回の満月の夜なのだから、二週間以上も僕は三郎の声を聞いてないのだ。
まぁ、元々住んでいる町が違うのだから偶然会うことは、まずない。きちんと会うことができるのは月に一回、満月の夜だけだ。(なぜ満月の夜だけかというと、満月の夜だけ三郎の住まいは店になるからだ。『まんげつしょくどう』と呼ばれるそこで去年の夏にそこで出逢って恋に落ちて--------僕は、彼のことが好きになった)
だから、二週間も三郎と顔を合わせないことは、当たり前だった。今までと何ら変わりない。いつもだったら、まだ月の半分だ、あと半分だ。半月経てば三郎に会える、そう思っている時期だ。なのに、
(こうやって馬鹿みたいに淋しいのは、きっと毎日電話をしていたからだろう)
受話器越しの、機械を通した声ではあったけれど、そこに三郎がいるという確かさが変わることはなかったから。
「誰にって……別に誰も……」
勘ちゃんはちょっと目を大きくさせた。そう、怒っているわけではないのだ。いや、確かに三郎には腹を立てていた。けど、それは最初の内だけだった。今は違う。謝るタイミングを逃していつまでもズルズルと引き伸ばしている自分が嫌だった。
けど、それは怒っているのとは少し違う訳で。勘ちゃんには「どういうこと?」と尋ねられたけど、うまく説明できない気がして、僕は削ぎ損ねた肉がくっついている串を串入れの中に突っ込んだ。勘ちゃんは小さくため息を零すと、残りわずかになった枝豆に手を伸ばした。
「結局さぁ、喧嘩の原因って何だったの?」
鉢屋も教えてくれなくて、とぼやく勘ちゃんは「これだけ巻き込んでいるんだから、それくらい教えてくれたっていいでしょ」と主張してきた。隠し立てをすることじゃない、けど、隠した三郎の気持ちも分かるような気がした。
「カレー」
「カレー?」
「甘口にするか辛口にするか」
今日はカレーな、と三郎が振る舞ってくれたカレーがあまりに辛くて文句をつけてしまったのだ。それで機嫌を損ねた三郎が「カレーは辛口だろ」なんて主張したものだから、つい「絶対、辛くない方が美味しい」と、言ってしまったのだ。
今思い返せば、すごくくだらない理由だった。これまで生きてきた道が違うのだ。住んでいた場所も、育ってきた環境も違う。好みが違って当たり前なのだ。僕は僕で、三郎は三郎なのだから。けど、あの時はどうしようもなくイライラしてしまったのだ。-----------今までの、自分が否定された気がして。
(よく考えれば、僕も三郎のそれまでを否定しようとしていたのに、ね……)
まさかそんなことで、と言いたげな呆れた眼差しが勘ちゃんから飛ぶ。分かってる。本当にしょうもない理由だって、と心の中で呟きつつ、身をテーブルから横に乗り出して店内を見回し「店員さん遅いなぁ」とぼやきを逃がす。
「なぁ、雷蔵」
「何?」
「今から会いに行ったら?」
心臓が、ぎゅ、っと軋んだ。背けていた顔を勘ちゃんに戻せば、彼は諭すような目差しを僕に向けていた。うん。分かってる。今すぐにでも会いにいって、ごめん、と言えばすぐに解決する話だって。けど、
「……だって、満月じゃないし」
あれから、馬鹿みたいに詳しくなってしまった暦。宙を見上げて、指折り数える日々。月が欠けだしたのを見ては次の時までの長さにため息を零し、満ちていく月を見ては会えることへの嬉しさと、そうして、その先にある待つ日々を思っては苦しくなる。----------それの、繰り返し。
「満月の夜にしか会いに行っちゃいけないって誰が決めたのさ?」
勘ちゃんの目は、新月の夜のように閑かで凛然としていた。
「っ……でも、理由がない」
いつもは、おいしいご飯とお酒を食べたいから、と理由付けて『まんげつしょくどう』に足を運んでいる。もちろんその理由も0ではないけれど、でもそこには、三郎に会いたい、って気持ちが隠れていて。でも、今日は新月だから、その理由は通じない。三郎に会いに行く理由が見つけられない。
そう言い訳しようとした瞬間、勘ちゃんは小さく笑った。
「雷蔵は三郎のことが好きなんでしょ? 好きだから、会いたい。それだけで十分だと思うけど」
あぁ、そっか。好きだから会いたい。すごくシンプルな理由だった。
「大変、お待たせしました」
納得のあまり頷くのも忘れていた僕を、逆にまだ悩んでいると勘違いしたのだろう。さらにまだ何か言い募ろうとした勘ちゃんに影が重なった。さっき押した呼び鈴のが、今頃来たみたいで。「ご注文、お伺いいたします」とオーダー用の機械を持っていた店員さんに僕は願い出た。
「すみません、お勘定をお願いします」
***
(あ、雨、上がってる……)
溶け出したオイルのせいかアスファルトにじんわりと黒虹が滲んでいた。そんな路面にできた水たまりには、ふんわりと、まだ生まれたばかりの月が潤んだ光を放っていた。
「三郎、ごめんね」
その言葉を伝えるために、僕は一歩踏み出した。
新月の夜に
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