「すいか」
「え?」
「西瓜が食べたい」

唐突な雷蔵の要求がいきなりすぎて、思わず流しっぱなしにしていたテレビに目を向けた。バラエティ番組で西瓜でも食べているのかと思ったが、どうもそういう訳じゃなさそうだ。白んだ画面は、どこにでも溢れかえった芸人がたいして面白くもない芸を披露している。

「じゃあ、今から買いに行くか?」

テーブルに転がっていたテレビのリモコンを手にそう答えれば「え、いいの?」と驚きの声が上がった。びっくりされてしまって「え、だって、食べたいんだろ?」と戸惑いを言葉にすれば、雷蔵はちょっと申し訳なさそうに目線を落とした。

「や、こんな時間だから断られると思ってた」
「断る訳ないだろ、雷蔵の頼みを」
「えー、じゃぁ、この前の海と花火大会は?」

数週間前のことを持ち出され「それは……」と言葉を詰まらせれば、雷蔵は「冗談だよ」と笑うと私の手からリモコンを奪った。繰り広げられている馬鹿げた映像が、ぶつ、っと途中で途切れる。中断された芸人の笑いが耳に残される。クーラーがかき混ぜる機械音もまた雷蔵の手によって消され、ようやく笑い声は潜まったような気がした。

***

時間が時間なせいか、私たち以外の人影を踏むことはなかった。ずずっ、ず、っ。サンダルを引ずる音を時々、車のエンジン音が切り抜けていく以外は静かなものだった。ぽつぽつと、残された明かり。だが、ふ、と視線を別に向けて戻せば、いつしか消えているものもある。二十四時間スーパーに向かう私たちが歩む道はよく知るものだ。けれども、まるで別の場所に迷い込んでしまったみたいだった。

(現実の世界じゃねぇみたいだな)

ふわふわとした生温かい空気は、まるで夢の中に浮かばされているかのようだった。現実味がない。これで、もし目が覚めてしまったとしても、何も不思議に思うことはないだろう。声を出してしまえば夢から追い出されてしまうんじゃないか、と妙な心配に私は押し黙っていたが、そう感じていたのは自分だけなのかもしれない。いつものように雷蔵が話し出した。

「この時間でも売ってるかな?」
「あー。丸ごとなら大丈夫だろ」
「え、丸ごと?」

どんな顔をしているのかは分からないが、素っ頓狂な雷蔵の声からするに、相当に驚いたようだ。どうやら雷蔵には、そんなつもりは全くなかったようで「丸ごとって、1個だよね?」と変なことを尋ねてきた。

「あぁ。こんな時間だから丸ごとの方が新鮮だろ? それにお得だし」

そっかぁ、と相づちを打った雷蔵は「冷蔵庫に入るかな?」と悩みを零した。急に現実に引き寄せられたような気がして「半分切って、食べたら、どうにかなるだろ」と笑う。雷蔵もつられて「半分かー、結構きそうだね」と冗談を口にした。それから、ず、っと息を噤んだ。その理由が分からず彼を見遣り、次の瞬間、理解した。

「……丸ごとのすいかっていつぶりだろう?」

答えは簡単だった。四年前、だ。大学に入って二人暮らしを始める前の、高校最後の夏。私と雷蔵が、まだ単なる従兄弟だった頃。夏になれば食卓にあがったのは、大きな大きなすいかだった。一家族では食べきれないから、と近所で仲がよかった私の母と雷蔵のおばさんは買ったすいかを、雷蔵の家で半分にして分けていたのだ。

(帰ろう、と言わないのは、罪悪感だろうか)

至極当然のごとく大学入学と同時に従兄弟として一緒に暮らしだた私と雷蔵は、梅雨が明けた夜に寝た。それから夏の間中、すいかの果汁のように青臭く甘ったるいセックスに明け暮れて、なんとなく実家には戻らなかった。それから幾度となく季節を共にし、双方の親から散々帰省を促されても、帰ることをせずに、とうとう最後の夏になってしまった。-------次の夏、私は雷蔵と一緒にいない。それぞれの道を進むために、別々の場所で過ごすことになる。

(もしかしたら、一緒にすいかを食べるのも、これで最後になるかもしれねぇな……いや、もしかしたらじゃなく、きっとだな)

これで最後。離れたら、もう二度と、雷蔵に会うつもりはないのだから。そのための準備を夏の間、ずっとしてたのだから。--------思い出を作らないように、と。
けど、そんなこと雷蔵に言えるはずもなくて。気持ちを切り替えようと、私は雷蔵の問いに答えず「暑いな」と呟いた。うん、と相づちを打つ雷蔵の顔を見ることはできなかった。

(気持ち悪いな……)

外を歩いているうちに、体に閉じこめられていた水分が噴き出していた。エアコンの室外機が生温かな風をかき乱す。昼間のように思考までも焼き尽くす勢いがある暑さとは少し違う。内側からゆっくりと融解していき息を潰すような気色悪い暑さだった。
時々、思い出したように吹き抜ける風に妙に涼を覚える分、余計にそれ以外に暑さを感じるのだろうか。昼みたいに暑い以外何も考えられなくなった方がずっとマシだと思うのは、沈黙が許す熱に余計な憶測を覚えてしまうからだろう。この熱を消してしまいたかった。

「早く、スーパーにいって涼もう」
「うん」

***

「やっぱり買えばよかったかな、けどなぁ、あんなにはできないだろうし」
「まだ後悔してるのか?」
「後悔はしてないよ。ただ、買えばよかったかな、って思ってるだけで」

負け惜しみを言う子どもみたいで、ちょっと面白かった。それを後悔というんじゃないだろうか、と笑いをかみ殺そうとしたけれど、我慢しきれなくて。つい、笑いに喉をひくつかせていると、それに気が付いたのだろう雷蔵が唇を尖らせながら私の方を見やった。

「だって、今年はあんまり、夏らしいことできなかったからさ。せめて花火だけでも、って思ったんだよ」

スーパーの陳列棚に並んでいたのは、特売品と銘打たれ値下げされていた手持ち花火のパックだった。その横には『夏の最後の思い出づくりに』と店員の手書きの文字が踊っていて。それを見つけた雷蔵は、しばらく、うんうんと悩み続けたのだ。買うべきか、買わないべきか。かごに入れた西瓜の重みがなければ、もうあと30分は迷っていたんじゃないだろうか。

「あー、そうかもな」
「今年は海にも花火大会にも行けなかったし、祭りは雨で中止になっちゃったし。旅行も何だかんだで先延ばしだもんね」

雷蔵が、ちらり、とこちらに意味ありげな視線を投げてきたのは、その行事ごとの多くが潰れたのは私がバイトを入れたせいなので、既に何度も口にしたけれど、もう一度「悪かった」と謝っておく。ついでに「祭りは不可抗力だぞ」と付け足すことも忘れなかったけれども。

「分かってるって。けど、だからせめて花火だけでも、って思ったんだよね。夏の思い出に、って」

それでも「スーパーに戻ろうか」と言わないのは、おそらく指の隙間に軋む重みのせいだろう。重なることのない私と雷蔵の影の間で、ぶらり、揺れている丸。最後の一個だった西瓜は、しっかりと身が詰まっているものだった。さすがに一人で抱え持つのは大変だ、と、二人で買い物袋の両端から吊り下げて歩いてきたのだが、中々に腕も指も痛い。下手したら筋肉痛になりそうだ。

「それで、夏の思い出作りに西瓜?」
「ううん。西瓜はそういうんじゃなくって急に食べたくなっただけなんだけどね」
「……まぁ、とりあえず西瓜で手を打ってくれねぇか」

海や花火大会のことについて許しを乞う意味合いで、雷蔵にそう伺えば、こっちの気持ちを分かっているのだろう「えーどうしよっかな?」と雷蔵は悪戯めかして笑った。

「本当に悪かった。今度から、ちゃんと雷蔵のお願いは最優先に聞くから」
「どうだか。前もそんなこと言ってなかったっけ?」
「今度は本当に本当だから」
「本当に?」

言葉では疑っているくせに、雷蔵の目は笑っていた。本気で怒っているわけではなくて、あくまでもやり取りを楽しんでいるのだろう。そうと分かっているから私が「本当に」と言い切れば、雷蔵も「もういいよ、怒ってないし」とあっさりと引いてしまった。

(本当は責められるべきなんだろうけど、な……)

毎年の決まり事のようなものだったのだ。海も花火大会も祭りも。けれど、今年は、わざとバイトを引き受けた。雷蔵には「どうしても断れなくて」と嘘を吐いて。------------思い出を作るのが、怖かったから。一つ一つイベントを重ねる度に思い知らされる気がしたのだ。これで最後だ、って。今を思い出に変えれるほど、私は靱くなかったから。だから、思い出になりそうなものは、この夏、全部避けたのだ。

(それにしても、雷蔵が怒らなかったのは意外だったな)

すごく楽しみにしていたのを知っていたからこそ、バイトで潰してしまったことを伝える時に、絶対に喧嘩になるだろうな、と思っていた。しばらく口をきいてきれないだろうな、とも。けれど、雷蔵は「それじゃぁ、仕方ないね」と怒ることもしなかった。

(何で、怒らなかったんだろうな?)

ぼんやりと考えに捕らわれていた私は、一瞬、雷蔵の言葉を聞き逃した。

「え?」
「え、って……だから、やっぱり丸々1個って結構大きいねって話」
「あ、あぁ。そうだな」
「本当に冷蔵庫に入るかちょっと心配になってきた……やっぱり半分は食べないと入らなさそうだよね」
「まぁ、2人いるのだから、どうにかなるだろ」
「……そっか、そうだね。2人いるもんね」

納得するように頷いた雷蔵は、ふと、「西瓜って本当は秋の季語なんだよね」と漏らした。初めて知った。夏と言えば西瓜にビールなんて言葉をどこかで聞いたことがあるくらいだ。夏の風物詩という印象しかない。

「そうなのか?」
「うん。西瓜の旬が立秋以降だからね、暦上は秋なんだって」
「へぇ」
「まぁ、全然、秋って感じはしないけどね。……でも、やっぱり夜になって風が吹くとちょっと感じが違うね。夏の終わりって感じ」

確かに、耳を澄ませば、沁み込んでくるのは虫の音色。西瓜一つ分の距離がある私と雷蔵との間を吹き抜ける風は生温かいはずなのに、どことなく土冷えているように思えた。雷蔵と一緒に過ごすことのできる季節が、また一つ終わろうとしている。

「小さい頃はさ、夏が終わるのが嫌だったんだよな」

意外って顔してるな、と私が告げると雷蔵は「だって」と、未だに疑るような眼差しをこちらに向けながら「三郎、夏嫌いだろ? 毎年夏バテしてるし、昔から『暑い、死ぬ』が口癖のようなものだったし」と続けた。確かに雷蔵の言うとおりで「そうかもな」と相づちを打てば、ほら、と呆れた目が私を見ていた。

「けど、夏休みが終わるのは嫌いだったんだ」
「何で?」
「だって、夏休み中は一日中雷蔵と一緒に遊べただろ」
「別に夏じゃなくたって、毎日、一緒にいたじゃないか」

小さな田舎町だ。学年にクラスは一つしかなくて家も近所だったから、それこそ朝から晩までずっと一緒にいたのだ。それこそ、夏も秋も冬も春も。一日たりとも、私の生活から雷蔵が欠けることはなかった。彼が不思議そうに首を傾げるのも無理はない。

「そうだな……けど、思い出はやっぱり夏に凝縮されてる気がするんだよな」
「海や花火大会に行ったとか?」
「そういうのとかもだし、ラジオ体操で毎日雷蔵に代わりに判子を押して貰ってたこととか」
「あぁ。そういえば、そんなこともあったね」

ちょっと呆れたように笑った雷蔵は「懐かしいなぁ」と呟いた。彼の瞳に煌めいた光は、どこか懐古の色合いを帯びていた。懐かしい。そう称することができるほど、時の澱は降り積もっているのだ。

「まぁ、けど、今はあんまり夏が終わるのを嫌だって思わなくなったな」
「夏が嫌いだから?」

私の言に雷蔵がそう冗談めかして笑った。私も「そこから離れてくれ」とか「違うって」と軽口を叩ければよかったのかもしれない。けれど、己の唇から漏れ出たのは、ひどく昏い響きだった。

「淋しい、って思うようになった」
「三郎……」

ビールが美味しいと感じれるようになったら、と、夏の終わりを淋しいと思うようになったら大人の証拠だ、とビール片手に赤ら顔のじいさんに言われたのは、いつだっただろう。あの頃は、ちっとも分からなかったその言葉が、ちょっとだけ理解できるようになった。
けれど、大人になりたくない、と思ってしまう自分は、やっぱり子どもなのかもしれない。現に、未だにビールを美味しいとは思えないのだから。

(子どもの方がよかったのかも、な……)

何も知らず、ただただ、夏を楽しむことができたのかもしれない。来年の夏も、その次の夏も、ずっとずっと雷蔵と別れることなく、一緒に夏を楽しむことができたのかもしれない。そう思って、つい、訊いていた。

「なぁ、雷蔵。君は還りたい、って思うかい?」
「え?」
「子どもの頃に……何もなかった頃に」

ただの兄弟みたいに夏を楽しんでいた頃に。

「三郎……」

瞠らいた目の向こうで雷蔵が酷く傷ついた面立ちをしているのに気づいた私は「すまない、君にそんな顔をさせるつもりはなかったんだ」と謝って-------不意に手に掛かっていた重みが倍増し、肩が落下した。宙ぶらりんだった西瓜がもまた。

「三郎は馬鹿だ」

地面に擦るのを寸前の所で引き上げた瞬間、きっぱりとした雷蔵の声が響いた。

「あのね、僕は迷い癖があるし悩み出すと、ぐるぐるしちゃうことだっていっぱいある。お前とのことだって、悩んだことがないって言ったら嘘になる」
「っ……」
「けど、一度だってお前とのことで後悔したことはないよ」

ふ、と手の重みが軽くなった。いつの間にか、私の前に回っていた雷蔵が、下から西瓜を支えるようにして持ち上げてくれていた。真っ直ぐな眼差しが閑かに私を見つめていた。

「もしこの先後悔することがあるなら、それは」
「それは?」
「この夏で終わりにしよう、って思ってるお前を殴らなかったことだろうね」

知っていたのだ。来年の春に離れたら、もう二度と会わないつもりでいることを。

「……でも、それはないと思う」

再び、がく、っと肩が落ちた次の瞬間、頬に熱が走った。僅かに掠めた拳。殴られた、というにはあまりに弱々しいものだった。その握りしめられた指はすぐに解かれて。そ、っと私の頬を撫でた---------その方が、ずっとずっと痛かった。

「さっき、僕の願い事聞いてくれる、って言ったよね」

話が突然巻き戻ったことに戸惑いつつ、あぁ、と頷けば雷蔵はふわっと笑うと眼差しを私の手の中に移した。

「じゃぁ、馬鹿なこと考えてないで、僕の家まで、三郎一人で西瓜運んで」
「え、この重いの?」
「当然でしょ。高いんだからね。この夏に三郎がわざとバイトを入れてたツケは」

全部知ってたんだ、という言葉は声にはならなかった。けれど、雷蔵には伝わったのだろう「当たり前だろ。僕を誰だと思ってるの?」と、ちょっとだけ口を尖らせて、すぐに笑った。

「今夜だけじゃないからね。来年も再来年も、その先もずっと三郎一人で僕の家まで運んでね。僕はその隣で歩くから」
「雷蔵……」
「よぼよぼのおじいちゃんになっても、やってよね」
「……さすがに、それは手伝ってほしいかも」
「うーん、考えておくよ」

雷蔵は私の隣に並び直した。重なった影に、私たちは少しだけ泣いて。それから、笑い合った。



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