※大正昭和初期の雰囲気ですが、似た感じのパラレルワールドみたいなものと表いただければいいかと。話の設定状、雷蔵が年上です。



「そういや、ここで何してたんだ?」

何って、とそれ以外にあるのだろうか、と思いつつ口を開き掛ける。だが、俺が答える前に「まぁ、何って、ここだと本読む以外にはねぇんだろうけど」と一人で突っ込みを入れて-------------けれども、次の瞬間、ふ、と唇を上げた表情のままで固まった。笑っているはずなのに、急に偽物になってしまった気がする。目は俺の方を向いているけれど、俺を飛び越えた先に焦点が合っていて、心あらずだったな感じがする。

(今、ハチに映っているのは自分じゃないのだろうな……)

 何を見ているのだろうか、という疑問は素直にそのまま言葉となった。

「どうしかした?」
「いや、あの本、懐かしいなと思って」

 ハチはあの本と表したが、丁度、自分の背後には本棚が立て掛けてあるために、大量の本が並んでいて。そのどれのことを指しているのか、振り返ってみても分かるはずもなく、聞く。

「あの本って、どれ?」
「あー、これだよ。これ」

俺を通り越えて本棚に向かったハチは、一冊の本を取り出した。俺が手にしていたのと同じくらい、いや、それ以上に分厚いそれ。飴を煮込んだような柔らかな赤茶をした革の表紙には、優しい黄金色した箔によって模様が散りばめている。ちらりと覗いた題名は俺も知っている。海の向こうの国の童話集だ。---------------たくさんの倖せが詰まった優しくて温かなお話たち。

「昔、母さんに読んでもらったことがあるんだ」

 ハチが泣き出しそうに見えるのは、気のせいじゃないだろう。

(そういえば、不破さんが奥方はずいぶん前に亡くなったって言ってたっけ)

あまり詳しくは知らないが、彼が幼い頃に病気で、と聞いている。そう考えれば、彼がそんな風な面立ちをしているのも無理はないだろう。くしゃり、と歪んだ目はどこまでも昏くて-------------------こっちまで泣きたくなって、そうして、どうしてだか彼を抱きしめたくなった。
それは、不意に俺を見遣ったハチが質問してきて、できなかったけど。

「本、好きなのか?」
「あぁ」

 そう頷くと「すげぇな」と感歎の声が蔵に広がった。さっきまでの昏い目が嘘のように輝いている。すげぇすげぇと連呼するハチに、あまりの大きさに外にまで響いてしまったんじゃないか、と心配が募り、辺りを見回す。
だが、重たそうな扉の向こう側にあるのは影一つ現れることのない地面ばかりだった。ほ、っと胸を撫で下ろした俺は、もう一度「すげぇな」と繰り返したハチに訊ねる。別段、感心されるようなことは何一つない気がするのだが、と思いながら。

「すげぇ、って何が?」
「や、すげぇだろ」

 俺の答えが信じれないとでもいうかのように目を大きく瞠らせたハチは「俺、字を見るだけで頭が痛くなるからさぁ、だから本とか好きってだけで、マジすげぇなって思うし」と続けた。

 それからもう一度「兵助、すげぇな」と噛みしめるように呟く。あまりにすごいすごいと褒められていると、急に気恥ずかしくなってきて。ハチの方を見ていることができなくて、つい、目線を下に逸らしてしまった。
 だが、そんなことなどお構いなしに、ひょい、と改めて俺の手元を覗き込んだハチは「うわっ、細けぇ。よくこんなの読めるな。目、痛くならねぇ?」とわざとらしく目頭を指で押えた。まぁ、確かに文字はちょっと細かいかも知れないが、慣れてしまえばこんなものな気がする。

「細かいって言っても、そんなに頁数は多くないだろ」
「いやいや、十分分厚いから」
「そうか? 今、持っているハチの本の方が厚い本だろ?」

 指先を目から離して「まぁそんなんだけどさ、俺が読んだ訳じゃねぇし」と呟いたハチは唇を曲げると、すい、っと俺から視線を外した。どういうことなのか聞きたくて。けど、とてもじゃないが、それを口にすることはできなかった。あまりにハチが暗澹たる目をしていたから。
ずっと待っていれば、俯きがちに、ぽつん、とようやく漏らした。

「俺、全然、本読まねぇからな」

 す、っと俺の目の前を昏がりが覆った。虚とした冷たさが俺を蝕んでいく。淋しかった。俺が好きなものを否定されたことではなく、好きなものを共有できないことが。一緒に分かり合うことができないことが。

(本を好きになってもらいたい、というのは余計なお世話だろうか?)

ちょっとは読むけど、と繕わなかった所を見ると、本当にハチは本を読まないのだろう。いや、もしかしたら嫌いなのかもしれない。そう考えると、自分の気持ちを押しつけることが正しいとは思えなかった。けど、『そうですか、じゃぁ仕方ないですね』とこのまま流して、乖離していくのは、あまりに淋しいことのような気がして。少しでも、興味を持ってもらいたくて。

「いや、案外、読み出したら面白いって本、いっぱいあると思うけどな」
「例えば?」
「えっと、ほら、これなんかさ……」

 ハチが興味を示してくれたことが嬉しくて、俺は物語の流れだとか(もちろん核心部分は言わなかったけれど)、どういうところが面白いのかだとかから始まって、作者の素性だとか、挙げ句の果てにはその作者の他の本を紹介して--------------そうして、我に返った。すっかり、ハチを放りだして一人で語ってしまっていたことに。つまらない顔してるんじゃないか、と不安になりながら、視線を本から上げる。

「あ、すまない。何か一人で喋って……」
「いや、話の筋を聞くだけでもすげぇ面白かった」
「本当に?」
「おぅ。すげぇ楽しかった」

 そう答えるハチの上がった口角は自然なもので。無理に取り繕っているわけではなさそうで、ほ、っと緊張が解ける。そっかよかった、と漏らせば、ハチは、ふ、っと唇を柔らかく綻ばせた。

「好きなんだな」
「え?」
「本が。本当に好きなんだなって思って」
「あぁ。本は色んな世界を知ることができるからな。だから、昔から本を読むのが好きで……前は上の学校に行って、もっともっとたくさん本を読むのが夢だったんだ」

 何かに導かれるかのように、するすると出てきてしまった。全てを口にしてしまってから、後悔する。今となっては、どうしたって叶わぬ夢だというのに、それをハチに言ってどうするのか、と。こんなこと聞かされてハチも困っただろうな、と詫びを入れようとして、一度、俯けた視線を上げて---------------笑顔とぶつかった。

「じゃぁさ、ここの本、読んだらいいんじゃないか?」
「え?」

 いい案を思いついた、というように目を輝かせたハチは「この蔵、本だけはすげぇあるからさ、ここで読めばいいんじゃねぇ? そりゃ、学校の代わりにはならねぇかもだけど、けど、せめて本を読むっていうことだけでも、できたらさ」と辺りを埋め尽くす本を見遣った。

 心が音を立てる。ここにある本を読めるだなんて。

「いいのか?」

 もちろん、と頷いたハチは、けれど、「あ」と漏らして。笑顔が消えた。やっぱり何か問題があるんじゃないか、と心配になって、躊躇いを浮かべたハチに訊ねようとした瞬間、ぼそり、とハチが呟いた。

「その代わりと言っちゃあれだけど、あのさ、一つだけ頼みがあるんだけど」
「頼み?」

 あぁ、と頷いたハチは、口にしようかしまいか迷っているようだった。

「本、読んでほしいんだけど」
「え?」
「これ、読んでくれねぇか?」

 差し出されたのは、ずっと彼が握りしめていた、彼のあの思い出の本だった。

***

中略

***

(あ、旦那様)

 慌てて廊下の脇に避け、腰から深々と頭を下げる。怖い、という印象はないけれど、やっぱり滅多と会わないだけに緊張が全身を覆う。それは喉にまで至って。萎縮した筋肉が喉輪を締め付けて、息苦しい。眼前に広がるのは板の間ばかりで。早く、そこを白足袋が通り過ぎないだろうか、と願うしかなかった。
だが、するり、と運ばれてきた足は、俺の真正面で止まった。

「この間の、議案書、君がまとめたそうだね」

 いきなり話しかけられ、思わず頭を上げたものの、あまりに突然なことに俺の頭の中は真っ白になってしまった。え、と狼狽えた声しか出てこない。そんな俺を無視して旦那様は続けた。

「不破は正直だからな。君がまとめたと言って出してきた」

 ようやく話を把握できた。この前、手伝ったもののことだろう。意味が俺の中で通じたと同時に、心配になる。そんなこと言ってしまって、不破さんの仕事的に大丈夫なんだろうか、と。

(こうやって書いたらいいんじゃないですか、って意見したけど、もし、それで旦那様の気分を害してしまったら……)

 そうなってしまったら、不破さんに不破さんにまで迷惑を掛けてしまったかもしれない、そう考えると詫びを入れるしかなかった。再び、腹に力を入れてぐっと腰を折り曲げる。

「すみません」
「何故、謝る? よくまとまっていた」
「あ、ありがとうございます」

 これ以上曲がることはない、というくらいまで深々と頭を下げて旦那様が立ち去るのを待つ。だが、留まった影は微動だにしなかった。どうしたのだろうか、と思いつつも面を上げることができずにいると硬い声が降ってきた。

「君は、どうやら学があるようだな」

 褒められているはずなのに、どことなく棘を覚えた旦那様の言。とりあえず「そんなことは……」と謙遜してみたが、相も変わらず淡々とした口調で「海外の本が、そのまま読めるのだろう?」と訊ねられた。

(何で、知ってるんだ?)

 確かに事実だったが、あの日以来、一切の関わりを持ってなかった旦那様がそのことを知っていたことへの驚愕の方が上回って、俺は返事をすることができなかった。いや、頷くことすらできなかった。
おそらくその驚きが表情に出てたのだろう「色々と調べさせてもらった」と旦那様は俺が聞きたかったことを口にした。

「色々と、調べて……」
「あぁ、色々とな……君が故郷の初等学校でも非常に優秀な成績を修めていたことも、学校を辞めるにあたってかなり惜しがられたことも聞いた。本当は、進学を希望していたことも、な。そこで、だ」

 一旦、そこで声を区切った旦那様は俺にじっと視線を注いだ。まるで全てを吸い尽くすかのように。あまりに見られすぎているせいか、緊張感に縛られて気持ち悪い。だが、目を逸らすこともできなかった。乾いた黒眸は蛇を思わせる。そこに映るのは俺ばかりで、旦那様がいったい何を考えているのかは、さっぱり見通すことができない。やがて瞬きが一つされ、俺にその目が爬虫類のものではないのだと知らしめた。

「帝都の上級学校で勉強する気はないか?」
「え?」

 全くもって予想の範疇の中になかった展開。俺は旦那様が口にした音を意味に変換することで手一杯だった。もちろん、こちらの混乱など関係ないといったように旦那様は「学長が私の知り合いでね。話せば入学くらい訳ないだろうし、君の能力については問題がない。すでに書類は送ってあるし、あとは面接に行くだけだ。まぁ、面接に関しても問題ないだろう」と続ける。その淡々とした様子に決まり切った言葉を告げられているような気がした。

(そう、決定事項のようで……え、)

 その事実に気づいて、まだ述べている旦那様の言葉を俺は慌てて遮ろうとして、

「あ、あの、待ってくださ……っ……」

 だが、最後まで言えなかった。鋭い眼光が閃いたから。それまで何一つ感情が顕わになっていなかった双眸が尖っていた。突き刺すような目差しが語る。何か文句があるのか、と。けど、俺も引けなかった。

(もし帝都に行くとなれば、ハチと離ればなれになってしまう)

 確かに旦那様の言うとおり、上級学校に進むのは夢だったし、今だって勉強したい気持ちがないわけじゃない。旦那様が紹介してくれるような学校だ、きっと内容面でも設備面でも充実しているに違いない。そこでの学ぶことができたら、どれだけ楽しいだろうかと思う。-----------けれど、それ以上のものが、今のここにはあるのも、また事実だった。

(だって、ここにはハチがいる)

 ハチとの日々が、あそこで過ごす満月の夜があるからこそ、がんばることができるのだ。かけがえのない、時間なのだ。その場所を手放してまで、帝都で勉強したいかと問われれば、即座に「したくない」と否定するだろう。------------たとえ、想いが叶うことがなかったとしても、どんな形でもいいからハチの傍にいたい。ただ、それだけだった。

「有り難いお言葉ですけど、」

旦那様に気圧されないよう、ぐ、っと腹に力を入れてと押し出した。だが、

「母君は元気かね?」
「……いえ」

もともと病気がちだった母さんは、この一年、ずっと伏せているのだ、と田舎からの手紙にはあった。俺が送金したお金で薬は買ってもらっているみたいだが、なかなかよくはなってないようだ。不幸はそれだけではなくて。兄も仕事で骨を折ってしまって、職を失ったという手紙が来たのは、つい最近のことだ。

(あ、それを理由にするかな……)

実際、母さんの病状も心配だし、何より兄さんが職を失った以上、家族の生活を支えることができるのは実質自分だけだった。そんな自分が進学する訳にはいかない。家庭事情を理由に断ろうと思い口を開いた瞬間、だが、先回りされた。

「君が学校に行っている間、ここで得るはずの給金と同額は家の方に送ることを約束しよう」

それでも、なお、すぐに答えれずにいると旦那様はさらに言葉を重ねた。

「断る選択肢は君にはないはずだ」

 また最後まで言わせてはもらえなかった。苛立ちに旦那様の体が揺れる。だが、このまま黙り込めば旦那様に了承と受け取られてしまう、と焦った俺は、どうにかして断らないと、と必死に言葉を紬だそうとした。だが、

「毎月、君たちがあの蔵で逢っていることを」
「っ……」

何で、という言葉はへしゃげた喉のせいで詰まって出てこなかった。だがこっちの言いたいことを察したようで「さっきも言っただろう。色々と調べさせてもらった、と」と俺に説明を加えた旦那様は、さっきまでの尖ったものではなく、のっぺりとした光のない目で「黙り込んだ、ということは事実のようだな」と俺を覗いた。

(どうしたら……いや、もうバレているからどうしようもないのだけれど、でも……)

 事態をどう打開すればいいのか混乱している頭では何も考えを纏めることができなかった。いや、何もできなかった。ただただ、沈黙に伏す以外には。こちらが何も言えないうちに、まぁいい、と旦那様は一人納得したように頷く。

「終わったことを今更とやかく言う気はない」
「終わったことって……」
「そうだろう? 終わったことだ。……君の能力については買っている。そうじゃなきゃ、叩き出すところだ」

 行かなければつまりはこの屋敷から追い出す、と暗に含まれて、俺は完全に囲い込まれていた。ここから追い出されては元も子もない。逆らうわけにはいかないのだ。

「私の後を任せるつもりであいつを教育してきたが、我が息子ながら、まぁ賢いとは言い難い。だが、それは例えば、君みたいな人間がいてくれたらどうにかなるだろう。問題はそこじゃない」

「そこじゃないって……」
「あいつは優しすぎる。情が厚すぎる。経営にはとことん向いてないだろうな。だが、長男だからな。他に跡継ぎがいない以上、あいつにはこの家を継いで守っていく義務がある。……それがどういう意味か分かるだろう?」

畳みかけるような言葉が襲ってくる。満月の夜に会っているのは知っていたとしても、旦那様が俺の気持ちを知っているのかどうかは分からない。単なる一般論を言ってきたのかもしれないし、もしかしたら察して言ってきたのかもしれない。
どちらにしろ、旦那様に言われなくても嫌というほど分かっていた。俺は男だ。子種を残すことはできないのだ。

(ハチとずっと一緒にいることは、できないのだ)

 最初から分かりきっていたことだというのに、どうして今更、こんなにも昏い淵に突き落とされたような気がするのだろうか。這い上がることすらできない、深い深い淵の底で、痛みに襲われているのだろうか。
必死に痛みを唇で噛み殺しているこっちのことなど、一切構うことなく旦那様は続けた。

「然るべき相手と婚姻を結び、いずれはあいつが家長に立つ日が来るだろう。その時に、君にはあいつの手となり足となり働いて欲しい。……将来、君にはあいつの右腕になってもらいたいと思ってる。そのために、君に、今、帝都に行ってもらうわけだ」

旦那様の言葉に気づかされる。一時的にハチと離れたとしても、また戻ってくることができるのだ、と。そうすれば、ハチと一緒にいることができるんだ。この先、ずっと。-----------どんな形であれ、ハチと未来を生きることができるのだ。

「……賢い君なら、どうすることが最善なのか、分かるだろう?」


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