今年を追いやる、鈍い鐘の音。俺は窓を開けて、闇の彼方に目を凝らした。宙に浮き立った曖昧な形の白い息はすぐに瓦解される。煮立った頭の中がちょっとはすっきりするんじゃねぇだろうか、と冷えていく思考にぼんやり突っ立っていると、背後からぶすりとした声を投げられた。

「ハチ、寒ぃ」
「悪ぃ」

窓を閉め、その足で俺はコタツにすっぽり潜り込んだ。冷えきった足先が暖かさの反動だろうか、じんじんする。血の巡りがよくなれば、そのうちにまた眠りが落ちてきそうだ。そうなるまえに、さっさと今日のノルマをこなしてしまおう、と、机に転がっていたシャーペンを手に取ろうとして、ふっ、と彼の近くにミカンが大量に入った箱が置いてあるのが目に入った。

「兵助、そこにあるミカンとって」
「自分で取れよ」

さっきから、本を読んでいた兵助は、ちらり、と視線を上げると、はぁ、と溜息を吐いてきた。

「えー、届かねぇし」
「立って取りに行けばいいだろうが」
「コタツの中から出るの、メンドイもん」
「俺だって、そうだから。ってか、もんとか言うなもんとか」
「えー。頼む、みかん食べたら、勉強頑張るから」

いいだろ、と、ちょっとごねてみれば、「さっき立ってた時に取れよな」と、文句を言いつつも、気が付けば、兵助は立ち上がってくれて、箱の中からミカンを持ってきてくれていて。嬉しさのあまり「兵助、好きだー」なんて叫んだら、「馬鹿」と叩かれて。けど、「ん」と俺の手の中には照れくさそうなミカンが転がっていた。いつも、そう。素直じゃない、口とは裏腹の兵助の行動に、思わず笑いが零れて止まらない。

「何、笑ってんだよ」
「別にぃ」

その手が、俺を倖せにしてくれる。兵助だけが掛けれる、特別な魔法。

***

ブラウン管の向こうでは、ど派手な衣装を纏った人が演歌を歌っている。哀愁漂う曲は、どこか懐かしいのに聞き覚えのないものばかりで。こぶしの効いた声が時折耳に飛び込んでくる。トントン。と、兵助が問題集の端を指で叩いた。顔を上げれば、「ハチ、ここ違う」と指摘を受ける。

「嘘。だって……あれ?」
「xとyが逆」
「あーホントだ」
「あーって、大丈夫かよ」

俺は、問題集を閉じた。『これでばっちり、高校受験 数学編』と、微妙な黄緑色の表紙の端は、折れてあとが付いていた。結構、やりこんできてるけど、一向に、正答率が上がった気はしない。何か、いっつも、こうやってケアレスミスをしてしまう。何か言いたそうな目差しに、「大丈夫だって」と、その視線を回避するようにして、爪に入り込んだミカン色をほじって棄てた。

「そろそろ時間だな」

紅白歌合戦が終わって、画面の映像は、どこぞの古刹に変わった。山寺だろうか、階段が厳しそうだ。新しい年を祝うための人々の列が、麓までずっと伸びている。瞬間、ぷすん、とマヌケな音を立ててテレビが切れる。と同時に、兵助は立ち上がった。どこへ、とは聞かない。彼も、言わない。ずっと変わらない、俺たちの習慣。

「ったく、無責任だよな」
「だよな。子どもほっぽりだして、沖縄だなんて」

毎年の、セリフ。うちの親と兵助の親は親友で、当然のことながら、俺たちは幼馴染なわけで。年末年始を大人が沖縄旅行に行くようになったのが、数年前。それ以来、毎年、年越しは俺と兵助の二人で過ごしている。よく考えれば、結構、問題なことなのかもしれねぇけど、まぁ、俺の家にはじいちゃんとばあちゃんがいるし、もう慣れてしまって、むしろここに両親がそろっていたら変な感じがするに違いない。

(これからも、一緒にいたい)

***

「うぅ、寒ぃ」

耳を切りつけるような凍てつく風に俺は、マフラーをもう一重多く巻きなおした。一年の中で、たぶん一番ざわめく夜。あちこちに人の気配がする。近くの神社は、ものすごく混雑していた。毎年のことながら、この人の多さには、いい加減嫌になる。ようやく帰路の途にたどり着いても、あちらこちらで出店の屋台が出ていて、そこで人だかりができてて、今から参りに行く人と帰ろうとしている人とごちゃごちゃしていて、そこから身動きが取れない。

「何、そんな祈ることがあったんだよ?」

ぎゅうぎゅう、と会話の合間にも押しつぶされそうになって。それでも、兵助が人ごみに呑み込まれないよう、ぎゅ、っとその手を引っ張り手繰り寄せた。はぐれないよう、兵助の手をきつく握りしめれば、突然、兵助がそんなことを聞いてきた。さっきの初詣の話だろう、と見当を付け「え、そんな祈ってたか、俺?」と聞けば「中々動かねぇから、待ちくたびれた」と、あんまり迷信とか信じない兵助らしい答えが返ってきた。

「まぁ、受験とか、色々と。兵助は?」
「俺? 内緒」
「うわ、人に聞いといて」
「ハチが勝手に答えたんだろう。まぁ、けど、10円じゃなぁ」
「100円入れたし。困った時の神頼み」
「そう言う問題じゃない気がするんだけど。というか、ハチ、楽勝だったんじゃなかったっけ?」

城東高校、と続けた。バスケの強い高校として有名なそこが、ずっと俺の志望校だった。中学で俺はずっと三年間バスケに明け暮れた毎日を送っていて。スポーツ推薦枠は逃したけれど、俺はどうしてもバスケがしたかったから。『城東高校でバスケをする』それが、俺の夢だった。けど、

「兵助、俺さぁ南高校受験することにした」

は? って顔を兵助がした。内緒にしていたんだから、当然か。怪訝そうな表情が、ありありと浮かんでいる。そんな「兵助と同じガッコに行きてぇなって。……兵助の傍にいたい」

だから、兵助と同じ高校に志望校を変えた。夢よりも、兵助の傍を選んだ。もちろん、それは、かなり高望みで、担任からもかなり高望みだ、って言われているのは分かってるけど、

「そんな理由で?」

繋がれた温もりが、消えた。見下ろすと、兵助の手が俺から離れていた。凍りついた星の破片を吸い込んだかのように、ツキツキ、胸が痛い。「兵助にとっては“そんな理由”かもしれないけど、俺は」

俺の言葉を、兵助の鋭い視線が遮った。

「そうじゃなくて。ハチにとって、バスケはそんなものだったのか?」

逃げ出すことができなかった。身動き、いや、呼吸すらできなかった。凍りついたように、その場で立ち尽くしていた。人込みだからってわけじゃなくて、兵助の眼差しが、あまりに鋭かったから。キツク噛み締めた唇。鉄に似た酸っぱい味が広がった。俺は俯いたまま、瞼奥のモノを堪える。
わかってた。こんなの甘えだって。淋しいなんて、俺の我侭だって。でも、不安でしょうがない。離れていることが、怖い。俺は、兵助の生活を知らない。兵助の喜びも哀しみも共有できない。兵助が苦しんでいても、俺は支えられない。

(だから、いつか、兵助が近くで支えてくれる人を選ぶんじゃないかって、怖くて……)

ふっ、と一瞬、兵助の温もりが手の中に入り込んだ。何かが、俺の手に握りしめられた。手を、そっと開く。

「これ……」

御守り。手の中に、赤い御守りが転がっていた。「祈願成就」と文字が金糸で縫い取られている。兵助が今まで握りしめていたのだろうか、ほんのり温かい。

「さっき、何願ったか教えてやろうか?」
「ん?」

兵助と、目が合った。

「ハチの夢が叶うように」

まるで、時が止まったかのように、静かだった。さっきまであった周囲の喧騒が、消えて。その言葉だけが、響いていた。

「逢えないけど、けど、ちゃんとハチのこと想ってるから。だから、」

手の中に、温もり。兵助が、御守りごと俺の手を握っていた。繋がりから、兵助の体温がどんどん伝わってくる。

「自分の夢、棄てるなよ」

俺はそれに応えるように、ぎゅっ、と兵助の手を握り返した。いつだって、俺に魔法をかけてくれる。温かく優しい手から。その手から、俺に。

「兵助、ありがとな」

倖せという、魔法を。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -