「これで、ちょっとは信じただろ。てめぇが死んだってこと」

 死んだ。俺が--------死んだ。

「まぁ、ショックだと思うが、これが現実だからな」

文次郎の、ぽつん、とした呟きに「よかったな竹谷。自分の死にざまを見れる奴なんてそうそういないぞ」と揶揄が被せられる。すぐさま「仙蔵」と飛んだ咎めの声。だが、当の本人は「こいつに自覚してもらわないと、話が進まないんでな」と悪びれた様子もなかった。全くもって気にしてないからだろう「まぁ、そんな死にざまを見ることのできたラッキーなお前に、もう一つラッキーなことがある」と飄々とした態度の仙蔵は、けれども、その真っ直ぐな目差しを貫き通していた。

「今日は何の日か知ってるか?」
「……何ってクリスマスだろ?」

光の輝き。イルミネーション。赤と緑と白のクリスマスカラー。街を歩けば、子ども達を筆頭に笑顔の家族連れやカップル達と出会い、その誰も頬を緩ませていた、そんな浮かれた温かな日。-----------まぁ、俺には全くもって関係ねぇけども。

「そう。といっても、あと数分でおわっちまうがな」
「まぁ、クリスマスと言うことには変わりないだろう……というわけで、我々からプレゼントをやろう」
「プレゼント?」

にっこり、と形容するしかないそいつの綺麗すぎる笑みに、嫌な予感しかしなかった。だが、こちらが話を聞かない、という選択肢はとっくの前に彼の中で消え失せているようで。彼はその意味深な笑顔をずいと寄せてきた。圧倒的なそれから目を反らすことができねぇ。

「クリスマスキャロルという話を知っているか?」

 歌うような口調のそれは、ひどくまた唐突なものだった。それがいったいどう繋がっているのか、全く見えないまま、とりあえず「クリスマスキャロルって意地悪で強欲なじいさんが出てくるやつ?」と心当たりを答える。小さい頃に、教師か何かの読み聞かせで聞いたことがあったが、覚えてるのは、幽霊だか妖精だかがそのじいさんに幻を見せて改心させる、というような件だけだ。
 だから、相手が「あぁ、それだ」と肯いても、どんな関係があるのか分からず「それがどうか?」と首を傾げるしかなかった。だが、仙蔵の中ではきちんと繋がっているのだろう、「だから、つまり、そういうことだ」と結論づけた。一人、納得してしまいそうな雰囲気に、急いで疑問を呈す。

「どういうこと、だ?」
「分からないのか? ……これだから馬鹿は嫌なんだ」
「うるせぇ、悪かったな、馬鹿で」
「そういうとこが馬鹿だ、と言ってるんだ」
「はぁ?」

けなされて、ぱ、っと弾けた苛立ち。そのまま詰め寄り掛けた俺に冷たい目差しが浴びせられて。その鋭さに、一瞬、怯んだ。同時に、背後から「竹谷、抑えろ。チャンスを棒に振る気か」と宥められ、俺は踏み込んだ足を引き下げた。殴りかかっても、踏み込まなければ腕が届かない位置まで俺が下がったのが分かると、目の前のやつは「まぁいい」と目差しを少しだけ落として、肩を大きく竦めた。それから、ふ、と目を上げた。

「お前を生き返らせてやる」

生き返らせてやる。凛然とした声が嵐を呼んだ。
え、と驚きは喉に貼り付いたままで声にはならなかったが、そいつはそれを見取ったのだろう、瞳がきゅっと細まった。浮かんだ笑みが深いものに変わった唇から「と言っても、過去にだがな。過去に、お前を生き返らせてやる」と再びその台詞を聞く。
 だが、俺は全然話に付いていけなくて。ぽか、っと口が開いていた気づいて、急いで閉じることくれぇしかできなかった。何を言えばいいのか分からず必然とできた沈黙に、首を軽く傾げた仙蔵には呆れがありありと浮かんでいた。

「お前を生き返らせてやると言ってるのだが」
「あぁ」
「そうだな。十二月二十一日」
「二十一日……四日前に?」
「まぁ、もうすぐ二十六日になるから、五日前だが、まぁいい。とにかく、お前を二十一日に送ってやろう」

そう言われたのだが、それがどういうことになるのか、さっぱり分からねぇ。だから「何だ、嬉しくないのか?」と首を傾げられても、嬉しいも何も、答えようがなかった。俺が理解してねぇことを読み取ったのだろう、文次郎が口を挟んできた。

「過去に戻れるということは、その先の未来を変えれるってことだ……クリスマスキャロルのようにな」

 未来を変えられる---------それって、つまり、

「じゃぁ、死ななくてもいいってことか?」
「いや、二十五日にはお前は死ななくてはならない」

 急き込んで縋り付こうとした俺を、あっさりと仙蔵の方が断ち切った。一瞬だけでも灯った希望は嵐に吹き荒れる突風に巻き込まれるよりも早く消え去って。ついつい「だったら、意味ねぇじゃねぇか」とぼやきが出てしまった。そんな俺に「話は最後まで聞かないか」と咎めが半分、呆れが半分の目差しが向けられる。

「そのまま、前と同じように二十五日までを過ごしたら、結局のところは一緒だ。お前は事故に巻き込まれて死ぬ」
「……だったら、その時にその場所にいなければいいんだろ」

必死に頭を働かせたたアイディアも「そういうわけにはいかない。その日に死ななければいけない人数は決まってるんだ」とあっさり拒否されて。思わず「じゃぁ、どうしたらいいんだよ」と吠え立てれば「お前は短絡過ぎる。だから最後まで聞かないか」と子ども叱るかのような言と溜息を与えられた。それから「方法がないわけじゃない」という言葉も。

「下、見てみろ」

 同時に、ぱ、っと落とされた眼差しに引きずられ、俺も足下に視線を遣った。咲いた赤。血の海。その中で微塵も動くことのない自分。再び見えた光景は、実感も何もねぇのに俺が死んでしまったという事実を突きつけてきて。咄嗟に目を逸らしそうになった。そんな俺に気づいたのだろう「ちゃんと見ろ」と文次郎に命じられる。まるで頭を押さえつけられたかのような強い響き。俺は軋む首を再び赤に向けた。

「今、お前に駆け寄ってきた人物がいるだろ……そいつの名は、久々知兵助」

 仙蔵の言うとおり、俺と同じくれぇの年齢の男が、横たわっている俺の傍らで座り込んでいた。教えられた名を「くくち、へいすけ?」と口にしてみるものの、知り合いにはそんな名前のやつはいねぇ。俯いているせいか髪が影になってしまって、表情までははっきりと見えねぇが、さっき駆け寄っていった時の顔を思い出しても、やっぱり、記憶にはいなかった。

「そいつがどうしたんだ?」

俺の問いかけに、ふ、っと仙蔵の唇は楽しそうに弧を描いた。そのまま、不意に近づいてきて。空恐ろしいまでの笑顔に、いったい何なんだ、と慌てふためいていた俺の耳元で囁かれた呪つ言。---------------俺が生き返るための条件。

「え?」

告げられた言葉をきちんと理解できないままにいると、仙蔵が囁いた。「そうすれば、お前は死ななくてもよくなる」と。続けられた言葉は耳を食むだけでは留まらず、じわじわと蝕んで俺の内に入り込んでいって---------すっ、っと目の奥が眩んで--------次の瞬間、昏みの中に俺は落ちて入っていた。どこか遠くで、そいつの言葉を聞いたような、そんな気がした。

「幸運を祈る」


(中略)


「俺、未来から来たんだ」
「未来」

ぽつ、と言葉を落とした彼に「あぁ」と頷く。再びの空隙。じ、っと注がれる視線だけに間が持たなくなった俺は「信じてもらえねぇかもしれねぇけど、でも、本当なんだ」と言葉を付け足した。だが、それ以上、こっちもこの沈黙を切り抜ける手札を持ってなくて、三度の静寂が俺たちの間に根を下ろす。

「……信じろって方が無理だろ」

どれくらいそうしていただろうか、やがて口を開いた兵助の眉はきゅっと下がっていた。小馬鹿にする、というよりは、ただただ、困惑している面立ちに「まぁ、そうだよな」と理解があるかのように答える。けど、内心はそれどころじゃなかった。

(けど、ここで引き下がるわけにはいかねぇ)

引き下がることは----------------つまりは、死ぬということだから。

「なぁ信じてくれねぇか?」

とにかく、久々知に信用してもらわねぇと、そっから先、どうしようもできねぇ。まずはそこからだ。必死に「急にそんなこと言われても、ってのも分かってる。もし俺がお前の立場だったら、信じられねぇと思うし。けど、頼む、信じてくれねぇか」と食い下がる。

「信じろって言われても急に……しかも、そんな漫画みたいな話……未来から来たって証拠があるならともか「未来から来た証拠!」

つい、飛びついていた。言葉を途中で遮られた久々知が「証拠、あるのか?」と疑問をあげた。ぱ、っと浮かんだ景色。これがあるじゃねぇか、と俺は「ある!あるある!」とすごい勢いで久々知に食らいついていた。

「明日さ、雪が降るんだ。ちなみにクリスマスイブからクリスマスにかけても雪。五年ぶりのホワイトクリスマスなんだってさ」

真っ白に包まれた街。独り身の俺としては、何の恩恵も感じれなかった(いや、むしろ滑って転けそうになったり、バイト先のコンビニでは雪のせいで入り口がべちゃべちゃになって余計な仕事が増えたって感じだった)。けど、周りはずいぶんと騒いでいたから、印象に残ってる。

「……それが事実だとして、この場でどうやってそれを確かめるんだ」

どうだ、と久々知の顔を覗き込んだのだが、返ってきたのは冷ややかな声音だった。我ながらナイスアイディア、と思ったのだが、あっさりと一蹴されてしまった。あぁ、そうだ。久々知の言う通りだ。朝起きたら雪景色、ってやつだったから、あと数時間もすれば降り出すのかもしれねぇ。だが、今すぐに確かめることはできねぇ。

「他にないのか? 今すぐ証拠になるってやつ」
「今すぐなぁ」

そうは言われても、他に何も思い浮かばなかった。ここまで、とんとん拍子に話が進んできたが、そう簡単にはいかないらしい。ふ、とあの悪人面の天使に脳裏に浮かんだ。残念だったな、と嘲笑われたような、そんな気がして、心の中で「うるせぇ」と叫んでおく。 
だが、やつらに文句を言ってる場合じゃねぇことも重々分かっていた。

(くそっ)

他に何のアイディアも浮かばねぇ。終わりだ。おしまいだ。---------俺は死んでしまうんだ。冗談みてぇに、軽くその言葉が浮かんだ。死んでしまう、って。けど、実際は、冗談でも何でもねぇのだ。どうにかして信じてもらわねぇと、と俺は死ななくてはならねぇのだ。今度こそ、本当に。

(それだけは、嫌だ……死にたくねぇ)

 そりゃ、どうせ俺一人が死んだところで、別に何かが変わるわけでもねぇだろ。もちろん、親父は嘆くだろうし母ちゃんやばあちゃんは泣くだろうし、ダチも哀しんでくれるだろう。けど、それだけだ。俺が死んだところで戦争が始まるわけでも経済が回り出すわけでもない。普通に朝日は昇るし、一日は始まる。-------------それくらいの存在なのだ。俺が死んだって世界は何も変わりやしねぇだろう。

(けど、死にたくねぇ)

その感情だけが俺を真っ直ぐに貫いていた。
このまま死んだら、と考えたら、未練なんてありまくりだ。大学リーグの制覇だってしたかったし、公で酒が飲みたかったし、女の子にももてまくりたかったし、来月発売のゲームの新作だってしてない、そういえば来週はお笑いライブが当選してたし……とにかく数え出したらきりがねぇ。あの二人組からしたら、ちっぽけなことばっかりだな、と鼻で笑われるかもしんねぇ。けど、未練は未練だ。このままやり残して死ぬわけにはいかねぇし、死にたくもねぇ。

(それに……怖い)

このまま死んでいくのが、怖くて怖くて堪らなかった。
だから、どうにかして目の前にいる久々知に信じてもらおう、と、必死に他に未来から来たという証拠がねぇだろうかと考えを巡らしてみるものの、いいアイディアは思い浮かばくて。自分の馬鹿さ加減に嫌になってくる。今までちゃんと生きてきたなら、そうしたら、もっといいアイディアが閃いたかもしれない。

(何だって、こんな風にだらだら適当に生きてきたんだろな、俺……)

 そう後悔したって、もう遅いんだろうけど。

「おい、大丈夫か?」
「え」
「顔色、悪い」

 鏡なんて見れねぇけど、きっと、ひでぇ顔をしてるだろう。心配そうに覗き込むそいつに、何でもねぇ、なんて言えるわけもなく、かといって、俺が置かれている状況を正直に話すこともできねぇ。ただただ口を結んでいると、ふ、と彼が首を傾げた。

「……未来から何をしに来たんだ?」

 それは一筋の光だった。え、と唇だけが形を紡ぐ。だが、伝わったんだろう、久々知は「何か用があったから、来たんじゃないのか?」と続けた。飛びつくように「あ、あぁ……というか、信じてくれるのか?」と言ったが、この機会を逃したら、と思うと焦りでどもってしまう。けれど、そんなことあまり関係なかったようで「信じるというか……何か事情がありそうだから……」と告げる彼はどこか曖昧に目を伏せたものだから、そいつの目を見なかったから、言えたのかも知れない。

「……お前を、守りにきたんだ」



(中略)


「ごめんなさいね、色々、手伝ってもらっちゃって」
「や、全然。楽しかったっすよ」

 あの後、結局、クリスマス会まで一緒に参加させてもらって、気が付けば昼もご馳走になっていた。もう少ししたら出ねぇとバイトに間に合わない、って時間になって兵助は『学園長』と呼ばれる人に捕まって。特にすることない俺は、厨房に入って片付けをしているおばちゃんを手伝うことにした。

「竹谷くんはいい子ね」

ずし、っときたのは指先に感じた皿の重みだけじゃない。

「……全然、いい子じゃないっすよ」
「そうなの?」
「両親からは出来の悪い息子って思われてるんじゃないっすかね」
「そんなことはないわよ」
「いやいやいや。勉強も碌にできねぇし、ケンカもするわ先生に呼び出されるわって感じなんで……家にも、あんまり寄りついてねぇし」
「あらまぁ。そうは見えないけどねぇ」

こうやって片づけの手際もいいしねぇ、と皿を拭く俺の手に視線を遣ったおばちゃんは「家でもお手伝いとかしてるんでしょう?」と眼差しを上げた。「手つきを見れば分かるわよ」と付け足したおばちゃんに「今は全然」と首を横に振って否定し、拭き終えた皿を水切りに上げた。

「昔取った、何て言うんでしたっけ?」
「杵柄? けど、そんな歳じゃないでしょ」

おかしそうに肩を揺らしたおばちゃんは、これで最後、と俺に大きな皿を渡してきた。シンクに残された泡を洗い流しているおばちゃんの傍らで、大皿に残っていただぼっとした水気を布巾で吸い取る。が、すでにしっとりと濡れていたせいか、拭いても拭いても、その痕跡が水滴となって残ってしまう。---------何度拭っても消えないそれ。

「あ、それくらいでいいわよ。あとは自然乾燥させるから」

意地になって拭いていた俺に気づいたのだろう、おばちゃんの声に意識をすくい上げられた俺は、その手を止めた。水切り上げれば、つ、っと拭いきれなかった水滴が一つ伝った。

「俺、思い立ったら、即、体が動いちゃうっていうか、ちゃんと周りが見れてねぇっていうか……ほら、さっきだってそれが原因で危うくきり丸に怪我させちまいそうだったし」

 もしあの場に、兵助がいなかったら、きり丸を落としてしまったかもしれない。それだけじゃねぇ。きり丸に怖い思いをさせるだけで終わってしまっていただろう。あの時、兵助が支えてくれなかったら、きっと、そのまま降ろしていただろうから。こっちの勝手な想いだけで、きり丸の心に傷を残すところだった。

「俺、考えなしにすぐ動いちまって……で、相手のこと、何も考えてなくて、傷つけて」
「そう?」
「ここに兵助を連れてきたけど、本当は余計なお節介だったんじゃねぇか、って」

 お節介。いや、もっと酷いものかもしれねぇ。これが単に自己満足なんじゃねぇか、自分が赦されたいから、罪滅ぼしのために連れてきたんじゃねぇか、って周りから言われても仕方のねぇ状況なのだから。けど、そんなこと知らないおばちゃんは柔らかく笑ったままだった。

「余計なお節介って、そんなことないと思うけどねぇ……あの子がどう思ってるかは分からないけれど、でも私は竹谷くんが久々知くんをここに連れてきてくれてよかった、って思ってるわよ……そうでもしないと、あの子の性格からして、きっと、ここには来なかっただろうから」

きゅ、っと閉められた蛇口に閉ざされた水。排水口に吸い込まれていく白い泡。ずいずいと引き込まれていくその水音が、閑けさの中に妙に響いた。

「……兵助はここの出身なんですか?」
「そうよ」
「あいつの両親は?」

俺の問いかけにおばちゃんは、表情をひどく曇らせていた。眉頭にぐっと力が入っているのだろう、額にうっすらとあった皺が深々と落ち込んだ。それだけで、何となく察するものはあったけれど、兵助のことが知りたい、という欲の方が強くて。

「亡くなったとかですか?」

つい、もう一歩、踏み入れたことを聞いてしまった。だが、おばちゃんは哀しそうな眼差しを一つ俺に投げるだけで、肯定も否定もしなかった。排水口を覆っていた泡が流れ落ち、ぽか、っとした穴が黒々としたゴム製の多いの下に覗いていた。

「その辺りのことは、聞いてない?」
「はい」
「そう……じゃぁ、言えないわ……ごめんなさいね。それ以上は私から言うべきことじゃないと思うのよ」

流しきれなかった泡が弾けて溶けて、徐々に薄れていく。それでも、黒いゴムの周りにへばりついて、中々、離れようとはしないそれに、おばちゃんは、もう一度、蛇口を捻った。ざぁぁ、とすごい勢いで叩きつけられ、一瞬のうちに消え去る。

「いつか、久々知くんの方から言ってくれると思うわ」

きっと俺は泣きそうな顔をしていたんだと思う。それは、その『いつか』が来ないだろうってことに対してなのか、それとも、その後におばちゃんが「竹谷くんが兵助くんのこと、すごく想ってくれているのは伝わってると思うから」っていう言葉が突き刺さったからなのか。

「あの子をよろしく」

とにかく、最初に会った時と同じようにおばちゃんは頭を下げたけれど、さっきみたいに俺は簡単に受けることはできなかった。--------------------だって、俺のせいで兵助は……。

***

「ハチ。悪い、待たせたな」
「いや。もういいのか?」
「あぁ」

 ひんやりとした廊下を二人で歩く。さっきまで、あれだけ賑やかだったのが嘘みたいに静まりかえっていた。学園長と何を話したのだろう、とか、ここでどんな風に生きてきたのだろう、とか色々と聞きたいことはたくさんあったけれど、どれも言葉にならなくて。きゅ、っと引きずった足音すら妙に耳に突いた。

「……ありがとな」

 ぽつん、と零れた言葉は、閑けさを保っていた水面に落ちた水滴のようだった。とてもとても小さな声だったというのに、俺の心を波立たせた。何が、って聞きたかったけれど、上手く息が紡げなくて、へしゃげた言葉になってしまった。それが伝わったのかどうかは分からない。ただ、兵助にそっと浮かんだのは、柔らかな笑みだった。

「ここに来ることができて、よかった」

 偽りとは思えない、まっさらな笑みに俺が「そっか……なら、よかった」とほっと息をつけば、彼は「あぁ。来ることができてよかった」と、再び、その言葉を繰り返した。

「前に未練がないって言ったけどさ……やっぱり、ここのことは気がかりだったし」
「兵助……」
「あ、ごめん。でも、だから、来ることができてよかった。先生とか、色々とお世話になった人にちゃんと改めてお礼も言えたしね」

そう小さく笑った彼は、終わり逝く人のようだった。その目は昏がりの一つもない明るく透いたものだった。何もかも受け入れ------------そうして、諦め悟りきった人のような、そんな目をしていて。それが、どうしようもなく哀しかった。その原因を造ったのは俺だというのに。

(俺が兵助に近づかなかったら)

 もし、俺が兵助と出逢わなければ、おばちゃんの言うとおり、もしかしたら兵助はここに来ることはなかったのかもしれねぇ。けど、その代わり、こんな哀しい目を彼がしなくてもすんだのかもしれない。その方が兵助にとってよかったんじゃねぇか、って言われたら、俺は「そんなことねぇ」と首を横に振ることができなかっただろう。
昏い後悔に沈んでいきそうな俺の傍らで、ふ、と彼は足を止めた。俺ではなく別の所を眺めているその目差しを追えば、一枚の絵の前があった。画用紙にクレヨンか何かで描かれているのは柔らかみの帯びたサンタクロース。真っ赤な衣装に身を包んだ彼の隣には、大きなクリスマスツリーが描かれていた。てっぺんには黄色の星。ここの子が書いたのだろうか。お世辞にも上手いとは言えないけれど、のびのびとした線に夢が詰め込まれているような、そんな気がした。
 それをずっと見つめていた兵助が、小さく俺の名を呼んだ。

「なぁ、ハチ」
「ん?」
「もし、の話な」

 躊躇うように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す兵助に、どうしたのだろう、と思っていると、

「もし俺が死んだらさ、俺の貯金でさ、クリスマスツリーを買って、あいつらに贈ってやってくれないか?」

 そう続けた兵助は、笑っていた。けど、今にも泣き出しそうだった。くちゃ、っと表情を崩したまま、彼はその言葉を繰り返した。「俺が死んだら、あの子たちにクリスマスツリーをプレゼントしてやってくれないか」と。彼の言いたいことは痛いほど分かって。だからこそ、俺は何も言えなくなってしまった。黙り込んでいると、焦ったように兵助が言葉を付け足してきた。

「あ、もちろん信じてないわけじゃないんだ……ハチはきっと助けてくれる、ってそう信じてる。けど、万が一、な。そうなったら、クリスマスツリーを贈ってやってほしい。こんなこと頼めるの、ハチだけだからさ……お願い、な」

 それが万が一じゃねぇことを、俺は知っていた。-----けれど、どうしたって頷けれなかった。




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