これ の続き。
なので過去に鉢→←久々要素ありの竹久々。


(寒い)

こほ、っと咳が嗄らした喉を冷たい空気が穿った。それだけで部屋中が冷えきっているのが分かる。自分の体温が刷り込まれた布団から這い出るのに一苦労しそうだ、と、まどろみからは完全に醒めてしまった思考で考える。

(おまけに、雨が降ってるし)

瞼を透けて入ってきた薄暗さから何となくそんな気はしていたが、改めて窓の向こうに広がる曇天を感じるだけで気が滅入る。眺めた先は靄がかっていて、どちらかといえば霧雨に近いのかもしれない。さほど強い雨脚ではないが、どこかに出かける気にはなれない。けれど、ひとりでいるには、あまりに似ていた。あいつが、一度だけ送り付けてきた葉書にあったモノクロの風景に。

『元気か?』

そう始まる一方的なメッセージ。それは、あいつが今棲んでいる街らしき場所の写真の裏に綴られた。彼の暮らしぶりが数行続いた後、続きに俺の近況を尋ねる文面が続いていて。思わず、それを答えようとして、は、っと気づかされたのだ。どれだけ問いかけに答えてもそれを聞く相手はいないのだ、と。-------そうして、俺はあいつに別れの手紙をしたためて、新しい日々を送りだしたのだった。それなのに、今の瞬間、浮かんだのは紛れもなく、遠い過去に「さよなら」の消印を押したはずの彼で。

(……もう、忘れたと思ったのになぁ)

自嘲が喉を転がって---------乾ききった自分が出したのはたった一つの結論だった。ハチに会いに行こう。ただ、それだけだった。途端、ぱ、っと瞼裏に浮かんだハチの笑顔はモノクロの部屋に色を取り戻した。

一度、起きると決めれば早い。ぐしゃり、と歪んだ掛け布団を毛布ごと下に押しやり、その反動で上体を引き上げる。ベッドから床に降りた途端、足裏から忍び込んだ冷たさは寝間着代わりに使っているスエットの隙間を通り抜けて一気に身震いへと変わった。

「やっぱり寒いな」

天気予報も見てないが、これ以上、気温が上がるような気もしない。細々と濡れ続ける雲は途切れることなく広がっていて、止むことはなさそうだ。仮に上がったとしても、夜になればますます冷え込みが厳しくなるだけに違いない。

(さすがにセーターを着てもいいだろうか)

風邪を引く事態は避けたい。真冬の寒さに耐えれるように、と未だ解禁をしていなかったのだが、もう許してしまおうとクローゼットに向かった。確か、奥の衣装ケースにクリーニングしてしまったはず、と春先の記憶を掘り返す。

(春、か……)

ちょうどハチの告白を受けた時期だったっけ、と思い当たって、誰も見てないはずなのに、恥ずかしさに。熱に灼かれた頬が熱い。ぴた、っと掌を当てれば、その落差に鳥肌が立って、ちょっと笑ってしまった。

「あ、しまった」

嫌なものを見つけてしまった、とクローゼットの奥まりにあった紙袋にため息を零す。中を覗けば、想像通り黒のセーター。クリーニングに出そうと思っていたのに、そのまま出しそびれてしまったものだった。きちんと畳んであるから型くずれとかの心配はないが、それでも、

(虫食いとかしてないといいけど……)

クリーニングに出すとしてもチェックはしておかなくてはならないだろう、とそっと取り出して----------ぐ、っと胸が軋んだ。煙草の匂い。

(っ)

ハチは煙草を吸わない。正確に言えば、吸っているところを見たことがない、だ。以前は、いきがって吸っていたらしい。だが俺が店に通うようになった頃、ちょうど止めたらしい。

「コーヒーの味が変わってしまうから」

そう少し照れたように口にしていたのを思い出す。「バイトだけれど、やるからにはきちんとしたいんだ」とも。--------その言葉に、ハチに憧れを抱くと同時に目を逸らしたくもなったのだ。その真っ直ぐさがあまりに眩しくも感じて。

(ハチ……)

俺に灼きついた目映い光---------が作った、昏い昏い影。それと同じ色合いのセーター。それを着ていた彼は、胸を打った煙草の匂いをいつも纏っていて。

「っ」

嗚咽が巻き上がる。郷愁だとか懐かしさとは違う、もっと深い深い慟哭が突き上げてきた。それは、毛糸の繊維が喉に絡んだような、柔らかな息苦しさを俺に与えた。

***

(ん……あぁ、寝てたのか?)

寝たはずなのに、ただただ、行き先も分からぬまま延々と道を歩き続けたような、そんな疲労感が体の中で泥と積まれていた。起きるのも面倒で、
視界の端で、ちか、っと瞬きが合図を告げていた。光の中じゃそのまま埋もれてしまいそうな、そんな弱々しいイルミネーションも、光源がない薄闇の中では標のように明るく感じた。

(今、何時頃なんだろう)

結局、寝てしまったらしい。-------涙で濡らしてしまったセーターは俺の腕の中でくちゃくちゃになっていた。すん、と吸い込んでも、もう煙草の匂いはしない。

(そういうことだ)

何の夢も見なかった。あいつが出てくることはなかった。もしかしたら見たのかもしれないけれど、何も覚えてなかった。---------それが、俺が選んだ答えなのだ。

そういうことだ、と己に刻み込むようにして、丸まったセーターを広げる。顔を押し当てていた部分は水気を含んで毛羽だっていたが、伸ばすようにゆっくりと手で圧を掛ければ、他の部分と変わりなく元通りになった。

(畳んでクリーニングに出して……それでハチに会いに行こう)

***

すん、と胸底を冷たさが忍び足で歩いていく。傘を差すほどではない、けれど、しばらく歩いているとしっとりと髪が濡れてくるような、そんな雨模様。寝ていたから真実のところは分からないが、乾くことのない路面を見る限り、一日中こんな天気だったのだろう。

(もう一ヶ月もすれば雪だっただろうけど)

覆い尽くされた雲に圧されて留まるしかなかった空気は息が触れれば微かな白に変わったけれども、それも部屋を出てすぐの時だけで。歩いている間に胸に冷たい空気が詰まりきってしまったのだろう、雪煙のような淡い白はその内に見えなくなってしまった。

(最初の寝起きの時程、寒くなくってよかったな)

それでも手放せないマフラーで顔の下半分を覆いながら歩けば、いつしかハチの働く店の灯りが優しく暗がりを照らし出していた。
一面がガラス張りになっているからだろう、ただでさえ見通しのよい店内は、人が疎らなために入り口から奥まで動線上には何もなくて。入り口の自動ドアが左右に割れた瞬間、ぱ、っと注文カウンター内にいたハチと目が合った。いらっしゃいませ、と言い掛けた唇が窄まり、「お、」と再び、軽く開いた。
だが、いくら人が少ないとはいえ、さすがに他のお客の前で大声で呼ぶということは自重したらしく、俺がカウンターの前まで行き着くまで俺に向けられたのは眼差しだけだった。

「今日も図書館?」

この店に一人で来るときというのは、たいていカフェに併設されている図書館(いや、きちんと正すならば図書館に併設されているカフェ、だ)に用事がある時だ。そうと知っているからだろう、そうハチが疑問に語尾を上げたのだが、俺は「いや」と首を横に振った。理由を問われるよりも先に話題を変える。

「さすがに人、少ないな」
「あー、まぁ、雨だし夜だしなぁ」

そう視線を流したハチにつられるように、俺も体を半分だけ後ろに向けた。表の通りを走る車のライトが地面で乱反射を起こし、黒虹をアスファルトに作る。ちょうど信号待ちになったんだろう、テールランプの赤が道しるべのごとく連なった。さっきまで歩いていたはずなのに、どこか遠くに感じるのは何故なんだろうか。

「何、飲む?」
「あー、どうしような」

普通であれば迷わずコーヒー系統を頼むところだ。まだ眠気が体の芯に滞ってて、どことなく意識がふわふわとしているのだから。だが、今、すっきりと目覚めてしまうのは都合が悪い。

(正確に言えば、後で眠れなくなったら、だな……)

ただでさえ寝すぎたのだ。カフェインなんか体に入れて目が醒めてしまえば、一晩中、寝返りを打つ羽目になるだろう。それだけは避けたかった。---------起きてたら、余計なことを考えてしまうだろうから。

「兵助? どうした?」
「え? あ、……何でもない」

慌ててカウンターのメニューに目を落とす。だが、その情報量の多さに、目移りするんじゃない。頭に入らないのだ。同じところを何回も読んでいる自分に気が付いて、ちょっと笑ってしまった。あまり長引かせてしまってハチにまた「どうした?」と問われるよりは、と思い俺は顔を上げた。

「おすすめのってある?」

このフレーズを口にするのは久しぶりだな、なんて思いながら告げればハチは「おすすめなー」と俺の言葉を受けてしばし腕を組んだ。考えに上げられた黒目。やがて焦点が再び俺へと重ねられたハチは「あー、あれは?」と曖昧な指示語を投げてきた。

「あれって?」
「今月に入ってから出たやつなんだけどさ、兵助、飲んだっけ?」
「どれ?」
「このメイプルシロップの」

とんとん、とメニューを示したハチの指先はささくれができていた。飲食店だから案外水仕事も多いんだよな、と春先に言っていたような気もする。俺が「や、飲んだことない」と否定すれば働く人の指が、じゃあ決まりと言わんばかりにメニューを軽く弾いた。

「あ、けど、これ紅茶だけどいいか?」
「いい」

むしろその方が有り難い、という私的な思惑を頷きざまに飲み下した。それでも燕下した音が思った以上に大きく響いたような気がして。気づかれただろうか、と視線をそっとハチに忍ばせたが、彼は「じゃぁ、作るから、先に席に座って待ってろよ」といつもと何一つ変わらない柔らかな笑みを浮かべた。

「ありがとな」

彼に例を告げ、視線をカウンターから店舗の方に向ける。いつもの窓際の席が開いていて、俺の足は自然とそこに向いていた。すっぽりと体が収まるような柔らかな一人掛けのソファ。そこに身を投じて。

(まだ季節は一つも巡ってないのだ……)

あいつがいなくなって、そうして、ハチと出会って。


***

「お待たせ」

ことん、とテーブルに置かれたカップの中で、ミルクの柔らかな泡が揺れた。もともとは格子模様だったのだろう。数日前に路地を舞っていた落ち葉のような色合いのメイプルは、重力に耐えかねたのだろう、泡に沈みだしていた。かつては雪原のごとく白だったのだろうが、メイプルが滲み出して懐古に少しずつ染まっていきそうな気配だった。

「ありがとうな」

普通の店だったらこうやって出来ても、すぐに飲むことはまずない。猫舌だからだ。だけど、ハチが出してくれるホットの飲み物は、美味しく飲める、けれど、俺が火傷しないような温度だということを知っているから、安心して口を付けることができるのだ。だから、指先をカップに伸ばそうとした瞬間、

「ん?」

彼の眉間にあった皺が深く沈んだ。萎まった瞳の光はどことなく怪訝そうで。あからさまに表情をしかめたハチ「どうした?」と尋ねれば彼は「いや」とはっきりと言を発し、首を振った。それから、「気のせいだな」と、ぽつ、と言葉を置いた。どちらかといえば、独り言に近いそれを聞きただしてもいいのだおるか、と一瞬迷う。だが、まだ縮こまっている額の溝に俺は疑問を言葉にした。

「気のせいって?」
「いや、煙草の匂いが一瞬したんだけどさ」

煙草の匂い。ざわ、っと肺から空気が逆流した。頭の底が痺れる。さっきまで全く感じてなかったはずなのに、急に、全身が煙草の匂いに包まれたような、いや、俺自身が発しているんじゃないか、ってそんな気になる。

(セーターを抱きしめていたから吸い込んでしまったとか? そんな馬鹿な)

頭では自分が生み出した可能性についてさっさと否定しているはずなのに、呼吸ができない。息をしてしまったら俺の内に隠る煙草の匂いを吐き出してしまいそうで。-------俺は少しでも空気が漏れ出さないよう口を堅く結ぶと、それから、立ち昇らないように下を向き身じろぎ一つしないよう体を固めた。

「気のせいだな、ここ禁煙席だし」

俺に聞かせるというよりも自己解決を果たしたような呟きをしたハチ。ふ、っと動かされた空気。見ることはできないけど、きっと、店舗を仕切るガラス隔てた先にある喫煙席を見ているのだろう。しばらくの空隙の後「っと、冷めすぎちまうな」という声が戻ってきて、俺も顔を上げようとして、

「え? 兵助?」

ぱたり、ぱたり。泡だったミルクに沈んでいく涙。焦ったようなハチの「どうした? 兵助?」という声は、やがて途切れて。代わりにそっと背をさする掌に変わった。あまりにそれが温かくて。温かすぎて--------俺は哭いた。



永遠と嘘吐き


title by カカリア

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